今週の礼拝メッセージ
2001.3.25(SUN)
新・平安を持つ秘訣
新城教会牧師 滝元明牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ヨハネの福音書14章1節〜3節
『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

 ハレルヤ!今朝、皆さんと共に礼拝できることを感謝します。先週は沖縄のザイオンクリスチャンフェローシップという教会で奉仕しました。特に米軍の方々のための集会でした。恵まれて帰ることができ感謝します。私たちが今日礼拝を守ることができることは素晴らしい特権です。礼拝を守ると私たちの信仰が支えられ、力づけられます。今日は設楽町の町会議員選挙があり、平松姉が立候補されています。今朝は投票日ながら礼拝に来られています。神を第一にすることは素晴らしいことです。覚えて祈ってあげてください。アメリカの大統領はブッシュ氏です。彼は親子で大統領をしています。今のブッシュ大統領はある時、信仰から離れ堕落しました。その時、父親がビリー・グラハム師に伝道してくれるように頼みました。そして彼は悔い改めてイエス様を受け入れ、酒から離れて素晴らしいクリスチャン生活を送っているようです。大統領のために私たちが祈ることは大切なことですので祈って下さい。今日はヨハネの福音書から学びます。
 私が書いた本はたくさんあります。ベストセラーとなり一番売れた本は、『平安を持つ秘訣』という本です。あまり大きな本ではありませんが、二十万部ほど売れています。新城教会にプレイズ出版ができたので、何とかプレイズから本を出したいということで「いのちのことば社」から出した本の版権を返却してもらい、プレイズ出版から出されています。しかし、『平安を持つ秘訣』はよく売れるので出版社側が返してくれいないところがあり、私も残念に思って考え、今度はプレイズ出版から出すことを考えました。そこで『新・平安を持つ秘訣』という本を書いています。原稿用紙に今、百五十枚ほど書いています。良い本が書けてそれが人々に読まれるよう祈ってください。はじめそれを書いたのは一九七〇年代ですが、当時と比べると今はとても問題が複雑化しています。多くの方が悩み、問題がたくさんあります。今度はもう少し掘り下げて人々が平安を持つことができるようにと祈りながら書いています。今日の御言葉は私が大好きな御言葉の一つです。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

と書かれています。今の時代は不安があります。昨日は中国・四国地方で大きな地震がありました。最近は日本のあちらこちらで地震があります。この地方も東海地震の可能性がありますのでそのような地震がないように祈らなければなりません。今世界に多くの問題がありますが、聖書から見るとイエス様が来られる前兆として地震があります。たくさんの問題があります。このような時代の中で生きる中で、目の前の問題を見ると平安を失います。これからどうしようか、どうなるだろうかと心配があります。しかしイエス様はその中で『あなたがたは、心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』と言われました。ですから私たちはこれから何があるかわかりませんが、私たちは本気で神を信じていけ ば、心を騒がせずに心配せずに生きられます。
 私は一つの趣味を持っています。ネクタイが好きでよく買います。最近私の為にアメリカから桑島姉がたくさんネクタイを送ってくださいました。今日のネクタイはイエス様がガリラヤ湖を渡っているところが描かれています。イエス様が五千人を五つのパンと二匹の魚で人々を満たされたとき、皆がイエス様を王様にしようとされました。その時イエス様は山に登って祈られました。私たちも成功したときには祈らなければなりません。その後、弟子たちを舟に乗せ、向こう岸に渡らせました。彼らは夕方出港しましたが、向かい風が強くてなかなか漕いでいくことができませんでした。するとイエス様が夜中の三時頃湖を歩いてこられたと聖書に書かれています。すると弟子たちがそれを見て驚き、幽霊だと言いました。その時イエス様は、『恐れることはない。』と言われ、彼らの舟の中に乗り込まれたときに風が静まったと書かれています。私たちの人生の中に時々問題があります。しかし、イエス様が入って下さったら問題が解決します。ですから、いつでも私たちの心にイエス様を向かい入れることは大切なことです。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

と書かれています。人生の中で不安がある人は行き先がわからない人です。船に乗って羅針盤がなく、どこに行くのですか?いや行くべきところに行きますというのでは不安です。どこに行くのですか?目的がはっきりしているべきです。私たちの人生の中で、もしあなたの人生の中に死が訪れたら、あなたはどこに行くのかという行き先がわかっていない人は不安です。クリスチャンは行き先がわかっています。死んだら天国に行けます。確信があります。イエス様が十字架にかかられる前に弟子たちは不安になりました。指導者がいなくなってしまったらどうなるのだろうかという不安がありました。その時イエス様が、

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

と言われました。これは素晴らしい言葉です。人生の中で時々悲しい思い出があります。子どもが亡くなったり、愛する人が亡くなったという悲しみがあります。しかし、彼らが天国に行っていると思うときに希望があります。私の人生の中にもあります。
 一九五〇年三月十五日。私はイエス様を信じて郷里に開拓伝道に行きました。私は郷里に行く時家もなく、職もない状況でした。私は家内と婚約していました。そこで約束をしました。私が先に行って家、職を探してまた迎えに来ると言いました。それよりも私は、せっかちなところがあるので、婚約中の妻と別れる前に、六月十七日には結婚する、それまでに職を探して帰ってくると言って東京駅で別れました。その時に私の恩師の穐近先生や大原先生や大橋先生が送りに来てくれました。今の時代とは違い、当時はもうこれで会えないかも知れないというくらいで、「今日送りに来た者は泣いてはいけない」と約束をしてましたが、皆、賛美歌を歌いながら泣いて送り出してくれました。その時にやがて結婚するけれど愛する人と別れるという悲しみがありました。その三ヶ月間は切ない思いがあり、何度も手紙を出していたのがそれが、『若き日の伝道者の恋』という本になっています。これは、私の場合にはたった三ヶ月の間でしたが、また迎えに来る、場所を備えたら来る、結婚する、結婚したらいつまでも一緒にいることができるという希望がありました。
 イエス様が下さった御言葉は、『あなたがたを迎え入れるのです』という御言葉です。これは、「これから天に帰りますが、準備ができたらあなたがたを迎えに来ます」ということです。
 ということは、聖書から見ると、教会はイエス様の花嫁だと書かれています。イエス様は花婿だと書かれています。まもなく、花婿イエス様が花嫁である私たちを迎えに来て下さる、と聖書に書かれています。
 今年はミレニアム二〇〇一と言いますが、ミレニアムと言うことばを辞書で調べました。「至福千年。祝福に至る。幸いになる千年。キリストが再臨してこの世を統治するという神聖な千年間」と書かれていました。『あなたがたは、心を騒がせてはなりません。』ということは、イエス様が場所を備えたら花嫁である教会を迎えに来るから、それまで心配しないで待っていなさいということです。最初の人間アダムは神が塵で造り、鼻から息を入れて生きる者にされました。そして彼を眠らせておき、彼の肋骨を取って助け人エバを造りました。女性は男性からできました。その時アダムがエバに言ったことは「これは骨の骨。肉の肉。」と言いました。そしてふたりは一心同体となるという奥義が書かれています。私たちの教会は神の子イエス様が十字架にかけられた時に、イエス様が槍で脇腹を刺されました。手は釘付けされ、足に釘打たれ、水と血が流れ出たと書かれています。イエス様ご自身が身代わりに十字架について下さったことにより教会は花嫁です。イエス様の十字架を信じる者は罪赦されて主の花嫁となることができると書かれています。イエス様は天に帰られる時に、「場所を備えに行き場所を備えることができたら、あなたがたを迎えに来る」と言われました。何時イエス様が来られてもおかしくない時ですから、いつイエス様が帰って来られても再臨の時に残される人ではなく、迎えられるクリスチャンでありたいと思います。今日私たちは心からイエス様を迎える人になりたいと思います。そこで場所を備えると書かれていますが、私たちがやがて行く場所天国はどのようなところであるかを学びたいと思います。黙示録二十一章三節から四節に、

『そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』

と書かれています。準備された天国は神と共に生活する場所です。この地上の人生は旅です。人間的に考えると私たちはなるべく長く生きたいと思います。しかしわかりません。ここに来られている外山兄のお兄さんは三十九才で最近召されました。また、豊橋の家庭集会に来られていた、床屋さんをされていた姉妹も最近亡くなられました。この地上は本当は七十才まで生きても、百才まで生きても大したことはありません。しかし、人生は神様から見ると永遠をどこで過ごすかを決める時です。天国に行くか地獄に行くかを決める時です。イエス様を信じて天国に行くか地獄に行くかです。イエス様を受け入れるか拒否するかで永遠が決まります。イエス様を信じている者は天国に行くことができます。その天国に行くと四節に、

『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。』

と書かれています。私たちのために準備されているところは、涙も悲しみも、苦しみもない所です。世界中で涙のない国はあるでしょうか。
 時々テレビで最もパラダイスに近い島と宣伝がありますが、どんなに素晴らしく見える国でもそこに住む人には涙があります。悲しみがあります。しかし、私たちが行く天国は涙もしも悲しみも叫びもない苦しみもない所です。神と共に会って素晴らしい祝福の人生を神が準備されているとしたら何と素晴らしいことでしょうか。ですから、私たちはそこに行けるという確信を持っていきましょう。さて、イエス様が準備されている家はどんな家でしょうか。自分の家です。黙示録二十一章十節から十六節に、

『そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。』

 以前、鈴木留蔵さんが私に話されました。彼はガンになり手術され、二週間昏睡状態中天国に行ったそうです。そこに門があり真珠でできており、その中の道は純金だったそうです。「入れてください」と言うと、天使が「まだあなたを入れることはできない」と言われ、帰されたと言われました。あの夢は神様が見せられた夢だと思います。天国は立方体だと書かれています。この地上は、平たんです。昔バビロンという町がありました。この町は正方形でした。考古学者によると、縦横二十四キロ、幅二十七メートル、高さ九十九メートルだと言われています。しかし、私たちの行く天国は一万二千スタディオンと書かれています。以前、順牧師がメッセージされていましたが、一スタディオンは百八十五メートルと書かれているので一万スタディオンは二千二百二十キロメートルということです。札幌から沖縄までの距離が二千キロなので天国の幅は沖縄から札幌くらいのものだというのです。それが準備されており、やがて新しいエルサレムがこの地に下りてくるとヨハネが幻で見ています。十八節に、

『その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。』

と書かれています。私はこれを読みながら感動し、興奮しました。私の天の父は大金持ちだと思いました。この都を純金で造るほどの大金持ちだと思いました。神様は札幌から沖縄くらいまでの二千キロの正方形の都を純金で造るほどの素晴らしい大金持ち、私はその子ども。この地上で少しくらい金がなくても心配はいらないと思いました。十九節に、

『都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。』

ブラジルに行くと紫水晶があります。大きな石を割ると中から紫水晶がでてきます。日本にも時々宝石屋に飾ってあります。門が真珠でできているとは信じがたいことです。私も真珠を持っています。これは真珠を造っておられる方がプレゼントしてくれました。天国の土台、門は宝石でできています。聖書には神様がやがて来る天国のために色々準備をされています。
 昔、旧約聖書のモーセの時代にアロンが大祭司になりました。その時の大祭司はエポデをまとっていました。エポデは、宝石で覆われた着物です。金と十二の宝石が付いています。黙示録で見た宝石がその中に描かれています。神様の前に出て祈るときには、ピカピカしたものを付けています。今の牧師はそうではありませんが、大祭司はすごいです。胸当てについている宝石には、赤メノウ、トパーズ、エメラルド、トルコ玉、サファイア、ダイヤモンド、ヒヤシンス、メノウ、紫水晶、緑柱石、シマメノウ、碧玉というものが含まれています。ということは大祭司が神の前に出て祈るときには、やがていつの日にかは素晴らしい宝石で造られた、天の都が私たちのために準備されていることを考えることができます。この地上にあるものは雛形です。先週は夫婦について話されましたが、イエス様が花婿で私たちは花嫁で、やがて新しいエルサレムは花嫁のために準備されているというのです。素晴らしいと思います。
 私は家内を迎えるために準備に帰りました。帰って一生懸命家と職を探し、結論をいうと結局家も職もなく結婚することになりました。私の家内はとてもさみしかったと思います。仕方なく、自分の家の前の椎茸の乾燥小屋の前で六畳二間の所が私の新婚家庭になりました。貧しい所です。しかし、イエス様は違います。素晴らしい家を備えて下さり、準備しています。準備ができたらあなたがたをわたしの所に迎えてあげます。貧乏の人もさみしい顔をしなくても良いのです。私の母親が、「明。金のないときにはさみしい顔をしているからなあ。」と言いました。私の顔がさみしい顔をしていたと思います。しかし、さみしい顔をしていても、さみしくない顔の時が来るのです。時々問題があって泣く人がいます。今のうちに泣いておきなさい。天国に行ったら泣けれません。涙がないからです。今泣きたい時は泣き、叫びたい時には叫び、苦しむ時には苦しんでもやがて神の子としてイエス様がまもなく私たちを迎えに来る時が来る、ということを考えると素晴らしい祝福です。素晴らしいことです。私の子どもたちが小さな頃、質問しました。「天国に川がある?」「あるよ。」「魚おる?魚釣りできる?」と言うのです。聖書の中には書いていませんが、川があっても魚がいなかったらさみしいのでたくさんの魚がいると思います。花があって素晴らしいところだと思います。黙示録二十二章一節から七節に、

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」』

と書かれています。やがて私たちが天国に入ることができることは素晴らしいです。天国について歌った賛美歌があります。

 間もなくかなたの 流れの側で
 楽しく会いましょう また友だちと
 イエス様の側の きれいなきれいな川で
 みんなで集まる日の ああなつかしや

いつの日かそこで私たちは住みます。イエス様を信じている人はそのような素晴らしい天国に入ることができます。間もなく準備が終わり、イエス様が迎えに来ます。世界を千年間王として治めます。やがて新しいエルサレムが天からこの地上に下って来る時が来ます。その時に私たちは復活の体になることができると教えています。黙示録二十一章八節に、

『しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」』

と書かれています。私たちクリスチャンはイエス様を信じるだけで罪が赦されます。赦されない罪は一つもありません。心で信じて義とされ、口にてイエスを主と告白して救われると書かれていますので、救われて天国に行けるのです。しかし、信じなければ神の国に入ることはできません。ですから、皆が神の国に入ることができるように一生懸命福音を伝えなければなりません。黙示録二十二章十四節に、

『自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。』

と書かれています。私たちはこの地上で有名にならなくても良い、また金持ちになっても、ならなくても良い。一番大切なことは最期に準備されている天国に入ることです。入ることはできますか。アーメン!信じるだけで天国に行くことができます。こんな素晴らしいところを造られ、愛して、待ってるからいらっしゃいと言われます。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

素晴らしいイエス様を心から信じましょう。今日心配な方はイエス様にお委ねし、信仰持っていきましょう。お祈りします。



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