今週の礼拝メッセージ
2001.4.1(SUN)
ヘンリー・グルーバー師特別講演記録
ヘンリー・グルーバー師

<今週のメッセージの御言葉>

コリント人への手紙 第20章1節〜2節

『さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。』

 今朝ここに来ることができ感謝します。ここは私の家にいるようです。神様の栄光があるところは素晴らしいです。このように天が開かれている場所がある前には、多くの戦い祈りが積まれてきたと思います。私たちの戦いの祈りによって神の栄光がもたらされます。神がご自身について自由に示されます。そして私たちの心は炎で燃えます。私は神の民が炎で燃えているのを見たいです。私は偽りの宗教について心を向けません。むしろ私は主に対して愛を注いでいる人々を見る方が好きです。そしてイエス様はご自身の生きておられる方であることを知っている人、熱心にみ顔を慕い求めている人に報いてくださる方です。
 今日ここに来ることができたことは喜びであり誉れです。このような自由を得られるために皆さんが支払ってきた代価を感じる時に、私はへりくだりを覚えます。そして私が持っているこの自由を軽く扱いたくありません。このように与えられた自由の中でどのような言葉を語るかについて大きな責任を感じます。私の神に対する叫びを通して皆さんに励みになる言葉を提供したいと思います。皆さんにとって祝福となる言葉、イエス様の愛に深く入ることができる言葉です。パウロがコリント教会に宛てた書簡であるコリント人への手紙第二十章一節から二節に、

『さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。』

私たちが肉に従って歩んでいると彼らは誤解していました。主とともに歩むとき、肉に従って歩むことは最も困難です。あなたが霊の領域に入っていく時には、あなたの人生に全く新しい訓練が必要です。自我に死に、自分のするべきことをすべて殺してしまうのです。イエス様が終わりの日に集められる時、三種類の報いが与えられると語っています。ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶと言われています。主の前に収穫を持っていく時に、あなたはどれだけ持って行きたいですか。この御言葉を読む時に私たちはチャレンジを受けます。それは良いものを求めたいと思いチャレンジを受けるのです。そして私たちが望めば、私たちは百倍を受けることができます。しかし、そのためには代価を支払わなくてはなりません。私たちは妻・子どもを神の祭壇にささげなければなりません。そして自分の家族・土地さえも見捨てなければならない時があります。私たちが一言も知らないような人たちの所に遣わされる時もあります。そしてそのような国で私たちは完全に御霊に頼らなければならない時があります。しかしそのような国では聖霊様の力によってコミニュケーションができることを発見します。バベルの塔の時代に神様は言葉を乱されました。それは聖霊の働きでした。しかし、全世界に共通語があることに気付かされました。すべての国々に一つ働く共通の力です。それは愛によって働く信仰です。私はアラム語を一言も話せないのにイスラム教徒の人がイエス様に立ち返るのを見ました。なぜならば、イエス様が私にその魂に対する愛を与えて下さったからです。そのことによってコミュニケーションの障害が打ち砕かれました。彼らの心の中に愛が受け取られました。そして私が父なる神に「彼らを赦して下さい」「彼らを洗いきよめて下さい」と叫んだ時に、私が何をしているか彼らは気付きませんでした。しかし、彼らの心の中にそれを感じました。
 ある中東のホテルの支配人の事です。彼の町を歩いて祈っていました。私は朝早く出て夜遅く帰りました。しかし、いつもそこに彼がいました。私はその支配人に対して愛をいただきました。そして少しずつ確信が与えられました。彼が私の兄弟のように思えるようになりました。そして神様が働かれる時には何も妨げるものはありません。ある夜、私がそこに戻ってきた時に、彼は自分の姉妹を連れてきました。そしてその姉妹は自分の子どもを連れてきました。彼らは英語を二言、三言だけ学んできました。自分の妹・子どもたちに「Happy manに会いなさい。」と。主の喜び、主にある喜びがコミニュケーションです。私たちの表情の光、それは私たちの表情が暗い時には、主に反する証となり、イエス様の光に輝く時には人々はそのような表情を待ち望んでいるのです。皆さんと私はそのメッセージを一言も語ることなく伝えることができます。それは聖霊様の力によって成されます。私がそのような変化を見たときには恐れにひれ伏します。
 次の夜、私がホテルに戻ってくるとその妹と子どもたちではなく、彼の年老いたお母さんがいました。お母さんは腰をかがめて私に握手をされました。私の手を握ってイスラム教徒の女性の目からは涙が流れていました。私は彼女が何を言っているかについて一言もわかりませんでした。しかし、その表情でわかりました。そしてその次の日、神様は私に通訳者を与えて下さいました。もう種は蒔かれていました。そして祈りによって水で潤い、芽が出て実がなる時でした。これらすべては聖霊様の働きでした。肉による働きではありません。私の肉はすぐに駄目になります。いつも私は神様の標準に達しません。しかし、ここでは戦いについて言っています。あなたと私が今直面している戦い、私たちが今生きている人生はその戦いのただ中です。三節に、

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。』

と書かれています。肉に従って戦う時には負けてしまいます。なぜならば、肉は神の御国を受け継ぐことができないからです。神の御国はあなたがたのただ中にあります。イエス様が父なる神に聖霊様を下すようにと祈られた時には、真理の御霊はあなたのうちにおられると言われました。使徒一章八節には、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

と書かれています。この町で、愛知県、また日本全体で、この世界の地の果てに至るまでです。私たちは何の証人になるのでしょうか。肉の働きの証人になるのではありません。肉の働きは何の力もありません。私たちが御霊によって始めるならば、私たちは御霊によって続けなければなりません。そのことを考えると頭の中に戦いが起こります。これは初めから大変な戦いです。五節に、

『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、』

と書かれています。私たちのすべての思いや考えを服従させなければなりません。すべての思いです。聖霊様に従わせるのです。それを私たちは始めなければならないことです。六節には、

『また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

と書かれています。私たちは時々自分の従順が完全になっていないのに非常に厳しい戦いに出て行こうとします。なぜ、戦いが勝利となる前にこんなにたくさん負けてしまうのだろうかと思います。そのような所にある従順とはどのような従順なのでしょうか。イエス様が成されたような従順です。イエス様は、「父が言われる以外のことはしません。」「父が語られること以外に語りません。」と言われました。私たちの人生の中にそれは訓練が必要な領域です。
 私は十七才の時に神様に誓いをしました。それは毎週一度外に出ていき一〇〇枚のトラクトを配るということでした。初めはトラクトを一人一人に手渡すことがどんなに大変なことであるのかわかりませんでした。その時には私は霊の戦いについてわかりませんでした。私は父親に頼らずに私自身で歩むことを神様から教えられて行い始めたときでした。若者がいますが皆さんもそのような時がきます。あなたは突然その戦いの最中に置かれますが両親はそこにはいない。その時にあなたは自分で決心しなくてはなりません。あなたはそのような決心をどのようにされますか。その夜私がした決心は、あきらめて帰ってしまうか、忍耐して行うかのどちらかでした。答えはどちらでしょうか。私は主に対して叫び声を上げました。そして私の人生で初めて、両親・兄弟姉妹から離れて一人でその道に立ち、神が歩くようにとチャレンジを与えられました。このような言葉を神様が語って下さいました。「歩き始めなさい。あなたの心に平和が与えられ、歌が与えられます。あなたに疑いが心に入り、歌が心から去ったときには戻って別の方向に行きなさい。その歌と平和が来なかったら別の方向に行きなさい。」その平和と歌が来る前には私はこんなものが上手くいくのだろうかと思いました。「主よ。本当ですか。」しかし、その歌と平和が私のもとに来た時には私はハミングし、私は平和に浸されているような気持ちに歩むことができました。神様は今あなたがその場所で何が必要かをご存知です。すべての必要を満たして下さると約束されています。『神の栄光とその豊かさに従って・・・』と書かれています。イエス様は平和の君です。私はその夜よくわかりませんでしたが、私のいのちが狙われるような危険な状況に置かれていたことがわかりました。しかし、私がその平和の中に歩むなら私はイエス様と共に歩んでいるということがわかりました。そして聖霊の力が私と共にありました。私はその夜のことを忘れたことがありません。神様が何か新しいことを教えようとしている時には学ぶのが困難になります。私たちの頭、知性は戦いを行います。ローマ書八章七節に、

『肉の思いは神に対して反抗するものだからです。』

と書かれています。肉の思いは神に対して戦争を挑んでいるという意味です。神様と戦いをしているような気持ちです。なぜならば、神の御霊が語られることを知性は、そんなことはないと思います。そして私がその知性を聞くならば勝利を見ることはできません。これは肉だからです。私たちはキリストのからだの部分です。ですから、イエス様の血であり、肉です。しかし、かしらはイエス様です。イエス様は色々な思い、神のみこころを示して下さいます。イエス様はすべての敵に対して勝利を治めました。そして彼らをさらし者とされました。そのような戦いの中で勝利から勝利へと進まれました。戦い終わりようやくそこから出ていくのは一つのことですが、すべての戦いの中に圧倒的な勝利を治めて進んでいくのは別のことです。イエス様だけが私たちの教師です。イエス様によりいつも赦しを得ていればイエス様は私たちと共にいて下さいます。その夜、私は平和の中に歩いていきました。私は四つの通りを歩きました。しかし平和の中を歩いていくときに一人の人にも会わず、そのトラクトを渡すことはできませんでした。私の知性は、こんなの上手くいくわけがないと言います。彼らは手にとっては捨てます。しかし、道の向こう側にいる人の所に行こうとすればすぐに平和を失ってしまう。しかしこれは知性です。私がその夜歩いて行こうとする時に歌がなくなり平和がなくなりました。もう一度戻って人のいるところに行こうとしました。するとまた平和がなくなり、歌がなくなりました。人から離れてばかりではないか、だれにもこの事を証明することができない。私はあなたの知恵が必要です。私はあなたの知恵の中に歩む必要があります。だから私のすべきことは来たところに戻ることでした。そしてまた、三番目の道に行くことでした。そしてそこに来たときにまた同じ戦いがありました。一人にもそのトラクトを配ることはできません。その時には十八才未満の人は十時以降に外に出てはいけないと言われていたのでタイムリミットが迫っていました。私の誓いは一〇〇枚のトラクトを個人的に手渡すということでした。私は仕事もし、夜も働いてたのでその晩しか私は配るチャンスがありませんでした。私はせっぱ詰まる思いでした。あなたが主の御前にせっぱ詰まっても神様に対して従順に行こうとする時にはあなたは強められます。なぜならば、イエス様があなたが望む以上の成功者にしたいと思っているからです。ですから私はまた違う方向に行きました。そこでも同じ事が起こりました。そのように私は進みましたが、一枚もトラクトを配りませんでした。私の時間は迫っていました。反対側に人がいました。私はそこを渡り行こうとしました。また平和がなくなり歌がなくなりました。私の肉なる思いは全く上手くいかない。神からのはずがない。二十分間も無駄にしてしまった。しかし、一枚も配れない。肉なる思いはあなたに嘘を付きます。私はそのコーナーにきました。また平和をなくし、もう一つ別の所に行こうとするとやはり平和を失い、主が私に語られた同じ場所に戻りました。最初に神様が歌と平和を与えられたその場所でした。しかしそこから三歩離れるとすぐに歌がなくなり平和がなくなりました。私はその一画を全て歩き回り、一枚もトラクトを配っていません。そして歌と平和をなくしました。しかしその場所に戻ると再び歌と平和がきました。私はもう一つの道の向こう側を見ました。人々がナイトクラブから出てきました。人がたくさんいる。私はそこを横切ろうとしました。聖霊様が私に罪を示されました。「そこから横断してはいけない。横断歩道を渡りなさい。良い証人になるのだから。」私は歩道のあるところに再び戻り、私は何をすれば良いですか。私は後ろを見るとナイトクラブのドアがありました。私のうちに平和がきました。そして歌が戻ってきました。しかしそこの標識には二十一才未満の人は入ってはいけないと書かれていました。では私は何をすれば良いのでしょうか。そこを渡ることはできない。右にも左にも行けれない。ここに立つには平和がある、私がそこに合法的にいる時間は二十五分。私はそこに立ち、イエス様、あなたは私に何かを教えようとされています。私の心を全て尽くしてあなたに学びたいと思います。あなたに対して従順になることができるよう助けて下さい。あなたは私の心を知っています。私がこれを手渡すことを誓ったことを覚えておられます。私はそのようにしたいと願っています。私の所に人々をもたらして下さい。すると、歌と平和が増し加わってきました。私はハミングをしながらそこに立っていました。その時ナイトクラブのドアが開きました。すると大男が私の顔の前に手をやり、私を大声でののしりました。しかし私には平和がありました。彼がののしればののしるほど私は微笑んでいました。イエス様は彼のために祈りなさいと言われました。彼のために祈り始めると平和が満ちました。しかし、彼は益々怒りました。彼は拳を振り上げ、「お前に思い知らせてやる。俺をからかっているな。」私は一言も話していません。ただ微笑みながらハミングしていただけでした。全力で拳を振り上げてきました。私の耳の所を拳がかすりました。しかし、彼は何度私を打とうとしても、私を打つことができません。彼は益々怒ります。そして、益々大声で叫びます。するとナイトクラブの人が「おーい、喧嘩だ。」と言って出てきました。多くの人々が見に来ました。私は腕組みをしたままで立っていました。彼の顔は真っ赤になっていました。そして彼の顔から汗が滴り落ちました。そして私を打ち叩こうと思い、最善の努力をしていました。皆が「オー、やっつけてしまえ」と言っています。しかし私には喜びがありました。彼を愛する愛がこみ上げてきました。ここまで来たらもう何が起ころうと構いません。私の周りには多くの人々が囲んでいるのがわかりました。「主よ。あなたの知恵がわかりました。」トラクトを配るのも楽になりました。その時私は彼の横を見ました。私は拳を見ていないといけなかったので首を動かすことができませんでした。彼の左耳の側に壁伝いに動いている人がいました。私の目と彼の目が合ったとき、聖霊様が私に語られました。「彼の所に行き私が彼を愛していると伝えなさい。自殺する必要はないと言いなさい。彼がいのちを持つことができるように私がいのちを与えたと言いなさい。」聖霊様がそのことを言われた瞬間、大男は自分の拳を下ろしました。私に対してあなたは誰ですかという顔をしていました。彼の所に望んでいた力が何かということさえも彼は気付いていませんでした。彼はナイトクラブに戻っていきました。彼は再び出てくることはありませんでした。私は壁伝いに歩いて行った人を見ました。「私はイエス様があなたのことを愛しているのをご存知ですか。」と言いました。「あなたは自分で自分の命を取る必要はありません。あなたにいのちを与えたのはイエス様です。」すると彼はそこにひざまずいて涙を流していました。私はそれまで人々をどのように導くべきかと一生懸命訓練し、色々な本を読んでいました。しかし彼が悔い改めたので、今まで学んだ方法は一つも使う必要がありませんでした。だから私は、トラクトのことを考えました。私は立ち上がり、するとそこにいたインディアンの人が自分の涙を手で振り払っているのです。インディアンの男は泣かないと言うのです。涙を流すのは男として恥だと言っています。それは聖霊様が与えた涙だと言いました。それは神様の御霊の働きです。あなたのいのちをイエス様にささげなさい。私は彼を大男の隣に行かせました。そして既に悔い改めている人に言いました。どのように罪を悔い改めるべきかをこの人に教えてあげて下さい。そして彼がその大男に対して、罪の悔い改め方を教えていました。この二人の男の人が涙を流して悔い改めていることが起こりました。その時すべての人が私のトラクトを受け取りました。私のポケットは空っぽでした。ほんの数分のことでした。普通は三時間半かかりますが数分で終わってしまいました。これは、神の御霊によって導かれることが大切だということを語っています。クリスチャンとして歩む時にまず御霊によって導かれるということを学ぶべきです。このような訓練を持って神様は私を世の中で最も危ないところに連れて行かれました。
 湾岸戦争の時にイラクとクウェートが戦いをしていました。そして神様がイラクとトルコの国境付近を歩くようにと言われました。毎晩色々な戦いがそこで繰り広げられていました。その戦いが終わったとニュースで報道されましたが、終わってはいませんでした。朝起きると色々なタンクが煙を上げて残っていました。私の若かった時に学んだ神の平和が私をそこに歩かせました。私はその戦いの最中を歩くことができました。人々が死ぬ最中を歩きました。そして私は生きてそこを出てきました。二つの軍隊が戦っている前線を歩きました。アメリカの国営放送がそれを夜のニュースで放映しました。イギリスのBBCが夜六時のニュースで報道しました。彼らは「あの男は気違いだ。今に全部バラバラになってしまう」と報道していました。BBCの人は「アメリカ人だ」と言っていました。アメリカ人が何をやっているのだ。その真ん中を歩いているのではないか。手は両方とも下がっていて、彼は目が見えないのかと言っていました。私は平和の君と共にその真ん中をずっと歩いていきました。しかし、私は引っかき傷一つもつきませんでした。野生の動物が私を襲ったことがあります。しかし神の平和の内を歩んでいるときには聖なる大胆さがあります。私はダビデやサムソンが獅子の口を防いだというのがどのようなことかがわかりました。その神様からの大胆さが与えられている時には何も妨げるものがないのです。そして動物の世界もそれに敬意を払います。彼らが引き下がっていくのです。そしてそこで固まってしまいます。私は歩き続けます。私は後ろを見る間そこに固まったままでした。神様は何時それを解放されたのかわかりません。しかしそれは神様の力です。イエス様は「悪霊があなたの言うことを聞くからと言って喜んではいけません。あなたの名前が子羊のいのちの書に書かれていることを喜びなさい。」と言われました。もし私たちが偉大なことをしても神の愛がないなら、何の益にもなりません。私は霊的戦いの中でこのことを学びました。戦いの大きさが問題ではありません。戦いの中で神様の愛のバプテスマを受け続けていることが大切です。あなたは神様の偉大な戦い手となることができます。しかし、あなたがその魂に対する愛を失ったら、あなたは焦点を見失ってしまいます。なぜならば、父なる神のみこころは人々を滅ぼすことではありません。彼らを救いに導くことです。この戦いの目的は失われた魂を救うことだということを忘れてはいけません。日本で私たちは戦いの最中にあります。そして私たちは多くの栄光溢れる戦いの勝利を見ています。また日本の諸教会に語っています。クリスチャンワーカーに備えをしなさい。この収穫の時に多くの魂が来ることを準備しなさい。収穫のために準備しなさい。なぜならば、神の御霊の風がすべての島々を覆い尽くす日がそこまで迫っているからです。あなたが疲れているならば、主の喜びをあなたに与え、そして喜びによってきよめられなさい。ですから、戦いの中でその喜びによって力を得るようにしなさい。そして主が戦いなさいと言われるときに戦う準備をしていて下さい。主は私たちは引き下がる者ではありません。この人々の魂が救われると信じる者は、私たちが支配と主権に対して戦いを挑むのはこのようなのろいの基にある捕らわれ人を解放するためです。そして人を縛っている鎖を解き放つのです。圧迫している者を自由に生すためです。お祈りします。バックナンバー

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