今週の礼拝メッセージ
2001.4.8(SUN)
新しい契約
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 コリント人への手紙第一 11章23節〜25節
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 ハレルヤ!今日皆さんと共に礼拝することができ感謝します。先週はリバイバル聖書神学校も新学期を迎え、素晴らしいスタートを切ることができ感謝します。今週はイエス様が十字架にかかられた受難州ですが今週は私たちのためにイエス様が十字架にかかったことを感謝する一週間になることを願います。今日は「新しい契約」というタイトルで学びます。「契約」という言葉を広辞苑で調べると、「約束。またキリスト教で神が救いのわざを成し遂げるために人間と結ぶ愛の関係」と書かれていました。私たちと神様と結ぶ愛の関係が契約です。聖書を神様と人間との約束事として読んでいくと新しい事がたくさん見えていきます。アダムとエバが造られて初めに声をかけられたのは、約束事でした。初めにアダムという男が造られました。その時に神様がアダムに、「わたしと一緒に過ごしていきたいのならば、この約束を守って下さい」と言われました。神様が人間とする約束事は、一緒に住んでくれるためにはどのようにするべきかという約束事です。天地宇宙を造られた神様が私たちと一緒に過ごしてくれるなんて素晴らしいではありませんか。創世記二章十六節から十七節に、

『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

と書かれています。神様は園の中の木から実を食べて良いけど善悪の知識の木からは取って食べないで下さい。これさえ食べなければわたしはあなたと一緒にいることができるから。」と言いました。しかし神様はアダムを信用していなかったようです。時々私たちも誰かと約束してもこの人信用できるかなあという時があると思います。それで神様は一人だと食べてしまうかも知れないと思ったためか、助け手を造ることにしました。そしてエバが造られました。アダムがそれを食べないように、約束を守るように造られましたが女性は助け手になりませんでした。悪魔も真剣になって助け手を攻撃します。女性は男性の助け手だから何しろ攻撃してしまえば勝利できるではないですか。女性を攻撃し、誘惑しました。「神様は本当に園の木から食べてはいけないと言ったのですか。」するとエバは、「食べても良いけど善悪を知る木からは取ってはいけないと神様が言いました。」しかし悪魔は「食べても死ぬことはありません。あれを食べたらすごいことが起こり、神様のようになり善悪を知ることができるようになるのです。」と言いました。その時エバは取って食べ、夫にも食べさせてしまいました。ここから人類の悲しい歴史が始まりました。善悪を知るようになってから人類の悲しい歴史は始まりました。初め人間は善悪を知らなかったと思います。善とは哲学的な問題ですが、突き詰めると神様ご自身です。また、悪とは全都反対の概念ですから、善が神であったら悪も人格を持っています。悪魔です。初めの人間は神を意識していなかったと思います。なぜならば、人間は神様によって造られたので自然のことであったと思います。アヒルが卵から孵ったときに初めに見かけたのに親としてついていきます。アダムが造られたときに神が目の前に立っていたことは普通のことでした。しかしその実を取ったときに善悪を築いてしまいました。これが人間の堕落の初めでした。この事を通して悪魔は人間と神様の契約をつかみました。悪魔の一番の目的は人間と神様との間に結ばれた良い約束を取り去ることでした。それによって死が入りました。すぐに事件が起こりました。アダムの息子カインとアベルが喧嘩してカインがアベルを殺してしまいました。カインは七倍の殺人の力を持ち、その六代目のレメクは七十七倍の力を持ちました。そして悲しいことにノアの家族以外は全部滅ぼされてしまいました。あの時に神様と一緒に過ごすという約束を守っていれば神様がずっと人類と一緒にいたからそんなことは起こらなかったはずですがその約束を守ることができなかったゆえに人類が滅びてしまうような結果が生まれました。神様が人間といることができなくなりました。アダムとエバはその園から追放されました。しかし神様は愛の方なのでそんな人類にもまた約束をされました。ノアが箱船から出て礼拝したときにもう「わたしは人類を洪水で滅ぼすことはしない。わたしはあなた方と一緒に住まう。」と約束をくださいました。神様は素晴らしい方です。そしてアブラハムを選び、カナンという地で住まうことを約束されました。神様は人間と共に住むという絶大なる計画を持っていました。しかし悪魔は黙って見てはいません。神と人と住むなどとは一番腹立たしいことだから何とかそれを留めてやろうということで今度は違った方法を持って人類の中に入り込みました。初めはエバを誘惑しました。二回目もありました。アブラハムの孫のヤコブは妻をめとりラケルとレアがいました。ラケルとレアが自分の父の家から離れヤコブの家に帰るときに悪魔は一つの計画をしました。創世記三十一章十七節から十九節に、

『そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ出かけた。そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した。』

と書かれています。テラフィムは偶像です。三十一章を見るとテラフィムは小さな偶像でした。それはアブラハムの父から続いていました。それを盗んで隠しました。そしてそれがカナンの地に入りました。それをヤコブは築きませんでした。テラフィムという言葉で聖書を学んでみてください。それ以降カナンの地・神様と人間と一緒に住んであげるという約束された地でテラフィムがたくさん出てきます。初めは小さな偶像であったのがダビデの時代には頭身台になっています。何と悪魔は神様と人間と一緒に住むという約束を逆手に取り違った神を持ち込むという計画で神の民を脅かしました。その最後には神が共に住むと言われた民はエジプトの奴隷にされました。四三〇年間も苦しい奴隷の生活をしました。日本人は他国民から支配されたことがないのでその痛みがわかりませんが、とても辛いことです。日本には民族を支配したという悲しい歴史があります。悪いことをしたと思います。何れにしてもイスラエルほど他民族から支配された人もいないと思います。彼らはエジプトで四三〇年間の苦しみを受けました。彼らは神様助けて下さいと祈りました。苦しみのあった時こそ神様は私たちの祈りに答えて下さる時です。イスラエルも神様助けてくれとなりふり構わずに叫びました。その時神様は祈りを聞いてくれました。今日皆さんの中に色々な苦しみがある方がいますが、それは神様と出会うチャンスです。神様は祈りに聞き答えて下さいます。四三〇年間も奴隷になっていましたが解放され、連れ出されました。連れ出してイスラエルの人に言いました。また「あなたと一緒にいるから、わたしがいなかったら大変なことになります。体験したからわかるでしょう。」そして約束しました。その契約が十戒です。その中心は偶像礼拝禁止令です。「偶像さえ拝まなかったら、わたしはあなたがたといっしょにいるから」と言われました。神様はすごい奇蹟をイスラエルに見せて約束をされました。私たちが信じている神様は本物の神様だと体験しました。しかし、イスラエル人は舌が乾かないうちにモーセのいないときに金の講師を造り、また偶像礼拝をしました。神様もショックだと思います。あれ程までしてあなたがたと一緒にいようと思ったのに・・と思ったと思います。それからイスラエルの偶像礼拝は止まりませんでした。偶像礼拝をすると必ず良くないことがあります。イスラエルの歴史を見るとよくわかります。エジプトに捕囚されその後バビロンという国にまたも奴隷になりました。歴史の中で二回も当時の大国の奴隷になりました。悲しいことです。そして彼らは散らされました。彼らはまたも苦しみに会い神様を求め始めました。神様赦して下さい。私たちはあなたとの約束を守らないからこんなことなりました。赦して下さいと祈りました。神様は本当に愛なる方です。そんな中で「かわいそうに、助けてあげよう。もう一度わたしが共にいるように約束をあげよう。」と言われました。イスラエルの人をバビロンから国に返してくれました。そこで神様は考えました。「今までのように約束をしてもこの人たちは守ることができない。何度も約束してもすぐに破ったから。このままではいけない。そうだ。わたしの一人子をイエスを地上に遣わし、彼らと一緒に住まわせたら良い」と考えました。バビロンから返ってきたイスラエルの民に神の子イエス様が来て下さいました。神が人となられたのがイエス様です。神様が人間となり人間の間に住まわれるのです。こんなすごいことはありません。これは神様だと皆わかり、神様の言われることを聞かなくてはいけないとわかるはずです。そしてイエス様が来られたときに今までの人類の歴史の中で一度も起こらなかったことが起こりました。善なる方は神様です。悪は悪い事という意味でしか考えていませんでした。神様が言われることに聞き従わないのが悪だと思っていました。だから神に聞き従わなければならないと思っていました。しかし悪はただしてはいけないという事だけには終わらないことがわかりました。その背後で働いている人格的な悪魔・悪霊が本当にいることをイエス様が証明されました。イエス様はこの地上で悪霊を追い出しました。今まで悪だと思っていたその背後に人間を不幸にする人格的なものがあることがわかりました。イエス様が行くところ所で悪霊が顔を出し、悪霊が追い出されました。今までに一度も起こらなかったような奇蹟がイエス様に伴いました。それは神の国到来でした。イエス様はそのことをこう言いました。マタイ十二章二十八節で、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

言われました。イスラエルは今までの歴史の中で大チャンスでした。なぜならば、国から悪霊が追い出されるという神の国が来ていました。ということはそれが拡大していけばまた神の支配に戻ることができる大チャンスでした。しかし彼らは神が人に成られたのに受け入れることはできませんでした。あのイエス様は悪霊を追い出しているようだが本当に神の力でやっているのだろうかと律法学者が言いました。それは違うのではないか。あれはベルゼベルという悪霊の親玉で追い出しているのではないか。あれは危ない言いました。イエス様が聖霊によって悪霊を追い出していたにも関わらず、そして神の国が来ていて大チャンスが訪れていたにも関わらず、イスラエルの人たちはあれは悪霊の親分によって悪霊を追い出しているに過ぎないと言いました。その時イエス様は怒られ厳しい言葉を語られました。どんな罪も赦されますが、一つだけ、聖霊を汚す罪は赦されないと言われました。私たちは時々、何か罪を犯しこれは聖霊を汚す罪ではないか。赦されないではないかと思うことがあります。その箇所をよく読むと、イエス様が聖霊によって悪霊を追い出しているのを悪霊によってやっていると言ったこと、それが赦されない罪です。甲子園ミッションの時に私たちに聖霊が注がれ、霊的戦いが起こされました。しかし、甲子園の時に色々な批判が起こりました。そしてファックスで色々な教会にそのことが伝えられました。ある時に、「先生、こんなファックスが来たけどちょっと見て下さい。」と言われました。それには、「一九九二年二月十三日、夜中十一時。愛知県民の森において滝元順牧師とスタッフたちが悪霊?を受けた」と書かれていました。これは言い切っても良いかという心配があったと思います。悪霊?を受けたと書かれていました。この発言は危ないです。その人は?マークを付けたら助かったと思います。付けなかったら危ないと思いましたが。イスラエルの人も同じようでした。イエス様が悪霊を追い出したらあれはベルゼベルの力ではないかと言うのです。そしてイエス様が言われました、「悪霊が一度追い出されてもまたも取ってくるところがある」と言いました。時々心配になりませんか。悪霊が追い出されてもまた戻ってくると聖書に書かれています。悪霊が来て「きれいになっているではないか。こんなにきれいになっていたら七倍の霊を連れてきて一緒に住もうではないか」と言って一度悪霊が追い出された後で七倍の霊を連れてきてそこに住み込んだと書かれています。一度悪霊を追い出しても七倍の悪霊が来るのだったらあまり悪霊を追い出してもらわない方が良いではないか。多少汚くしておいた方が安全ではないかと思うかも知れません。これは個人的なこととは違います。国のことを言っています。イスラエルは大チャンスを迎えました。なぜならば、イスラエルにイエス様が来られ、悪霊を追い出していました。神の国が来たのに、このまま行けばもう一度神が人と住むという神の国が現れる大チャンスでした。しかし、それを受け入れずにイエス様を追い出しました。イエス様が始められた霊の戦いもむなしく、きれいに掃除されたけど何とイエス様が去られたのでそこが空き家になってしまったということです。だからイスラエルの歴史はその後イエス様が霊の戦いを初めて下さったにも関わらず七倍の霊が住んだようにまたも荒れ果ててしまい二千年の歴史の中でも何度も苦しみに会ってます。霊的戦いは責任を伴うものです。今神様がこの新城教会にも日本にも霊的戦いを起こして下さっていますが、これは責任の伴うものです。これは霊的戦いをしたら元気になるとか、教会が成長するというものではありません。これは国が関わることです。私たちが本当に戦っていかないと、今神様がこの国をきれいにしてくださるという時に途中であきらめて、疲れたもう霊の戦いはやめだ。あんなの神様ではなくて悪霊がやっているではないかというと国に七倍の悪霊が入ってくる。だからあなたがたは気を付けなさいと言われます。だから霊的戦いが私たちに与えられているのはこの国のために二度と悪魔がこの国に侵入することがないように、七倍の悪霊が来ることがないように、この国のために飽くまでもリバイバルのために働かせていただくことを祈らなくてはなりません。そんなチャンスを迎えていたイスラエルはチャンスをものにすることができませんでした。イエス様を十字架にかけて殺してしまいました。父なる神様はそれを見て、「何ということだ。またもや人間は約束を守ることができなかった。わたしの子どもを地上に送ったのに。それを神様として認めることができなかった。どうしたら良いのだろうか。もう駄目だ。あきらめようかなあ。」しかし、神様はあきらめませんでした。そこで神様は再び考えました。これは駄目だ。もっと違う事をしなくてはならない。もっと新しい契約を結ばなくてはならない。これが今日のメッセージです。イエス様が地上で語った言葉で一番人々を離れさせた言葉は、ヨハネの六章五十六節です。

『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。』

と書かれています。この言葉で弟子たちがいっぱい逃げていきました。もしイエス様が来てここでこう言ったらどうしますか。変わりにもし、私がそう言ったらどうしますか?冗談じゃないと思うと思います。私もこの場にいたら絶対に逃げていくと思います。逃げなかった十二弟子は強者だと思います。当時イスラエルの人は血を飲むことや食べることはモーセの教えに反することだったので行いませんでした。それを皆の前で、わたしの血を飲みなさい。肉を食べなさい。そうすればあなたがたと共にいますと言ったのです。彼らにとってショックだと思います。イエス様の血を飲み肉を食べたらイエス様が一緒にいてくれるというのです。そうかも知れませんが、これはちょっと受け入れがたいことだと言われるかも知れません。しかし、これこそが新しい契約でした。なぜならばこのことの本質は今日の御言葉にあります。

『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」』

と書かれています。イエス様が十字架にかかられて私たちに与えてくださった契約は当たらし契約です。イエス様の血を飲み肉を食べることは普通では受けられませんがその約束事を簡単にして下さいました。それが聖餐式です。今日聖餐式がありますがここにあるパンがイエス様の肉です。また、このジュースはイエス様の血です。第一コリント十章を見ると御霊の食べ物飲み物として私たちが聖霊様によって御言葉によってこれを行うときにイエス様の血となり肉となるというのです。そして食べるだけでイエス様があなたがたと一緒にいてあげるというのです。エデンの園から上手くいかなかった約束事が、イエス様を信じてこれを行うだけで良いのです。今日皆さんはイエス様を信じていますか。そして御霊によってこの聖餐式をイエス様の血と肉と信じたらわたしも彼のうちに留まりますという御言葉が伴います。神様が私たちの所に留まってくれると素晴らしいことがあります。イエス様が残された儀式は、二つあります。それは聖餐式とバプテスマです。しかし、これは儀式に留まりません。これは重要なことです。イエス様がよみがえられたときにすべての権威をもらったと言われました。そして人々に言われたことは、マタイ二十八章十九節から二十節に、

『28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

と書かれています。よみがえりのイエス様が弟子たちに言われたことはバプテスマを授けるようにということでした。イエス様がすべての権威を受け取ったのは十字架にかかってよみがえられた時でした。私たちもイエス様と同じ権威を取るには、十字架にかかってよみがえることです。今週は受難週ですのでイエス様と同じように十字架につけば良いのです。しかし、三日目によみがえらなければなりません。それは難しいです。墓の中に入ることまではイエス様と同じようにできます。しかし三日目によみがえらなければイエス様と同じ権威をもらうことができません。それと同じ家庭をたどらなければ同じ権威をもらうことができません。しかし、その同じ契約をイエス様が簡単にされました。それがバプテスマです。コロサイ二章十二節から、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

と書かれています。バプテスマを受けるだけでイエス様が十字架にかかって死に三日目によみがえられたというプロセスを瞬間的にたどることができるというのです。これはすごいことです。旧約聖書にこのことを一つの型として示しています。アラムの王の将軍ナアマンはらい病で苦しんでいました。当時イスラエルに行きエリシャに祈ってもらうとらい病が治るという噂がありました。もしも世界の国々でそこに行って祈ってもらったらどんな病気も解決すると言われたらどんなことがあっても行きます。当時もそんな噂があったと思います。らい病は昔は不治の病でした。死ぬしかありませんでした。しかしエルシャに祈ってもらったら治ると聞きました。そこでナアマンは紹介状を持ち遠い旅を続けて贈り物を持って来ました。しかしエリシャは会いませんでした。そしてエリシャは伝言を送りました。ヨルダン川に行って七回身を沈めて下さい。すると治りますからと言われました。それを聞いたナアマンは頭にきました。「遠いところから来たのに、祈ってくれない。汚いヨルダン川に行って七回身を沈めよとは。冗談ではない。私はもう帰る。」と言って帰ろうとしました。するとナアマンの家来は頭が良かったので、「ナアマン将軍。怒って帰るのは良いですが、エリシャは難しいことは言っていません。ただ川に行って七回沈んで来るようにと言っているだけです。やってみたらどうですか。」と言うのです。そこでナアマンは気を取り直してそこでヨルダン川に行き七回身を沈めました。すると七回目に直りました。単純なことでした。これはバプテスマを現しています。イエス様と同じ十字架にかかって葬られて三日目によみがえることはできませんが、バプテスマを受けるだけでその事が起こされるということです。人間と約束してもなかなか守ることができないので神様はここまで簡単にされました。聖餐式でイエス様を信じて肉と血として食べるだけでイエス様が一緒にいる。また、バプテスマを受けるだけです。神は今まで人類が絶対に勝つことができなかった悪魔に打ち勝つという素晴らしい権威をそこで保証されました。それがコロサイ二章十三節からに書かれています。
 バプテスマを受けることにより、まず、第一に、罪が赦され、第二に、債務証書が無効にされます。偶像礼拝によってできた債務証書が無効にされます。第三に、すべての権威と支配の武装解除。今まで皆さんを苦しめていた悪魔が持っていた武器が武装解除されます。ある人は病で苦しめられ、家庭の問題、経済的な問題など色々な武器を持っています。悪魔の武装が解除される。第四に、そして彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられるということです。悪魔が捕まえられて凱旋の行列となり引き出されるというのです。素晴らしいことです。バプテスマを受けたときにあなたに与える権威です。今日まだバプテスマを受けていない方は受けなくては損です。簡単ですが素晴らしいことが保証されています。しかし、ここにたどるまでに何千年もかかっています。今私たちは何と簡単な素晴らしい契約の中にあるのです。これがイエス様を通して一つの十字架という手段を通して神が現されたことです。この契約の中に入っていることを感謝しましょう。イエス様の十字架の血、裂かれた肉は素晴らしいことです。イエス様が共にいるという簡単なですが素晴らしい契約、また、バプテスマも水に入って出るというだけに感じますが、聖霊によって新しい契約として行うときに素晴らしいことが起こされます。これが私たちに用意された特権です。このことを教えられて心から感謝しています。子どもでも大人でも誰でもそれを得ることができます。イエス様が十字架で備えてくださった新しい契約、約束がどんなに素晴らしいかについて感謝したいと思います。一言お祈りします。バックナンバー

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