今週の礼拝メッセージ
2001.4.15(SUN)
善と悪
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ヘブル人への手紙 12章1節
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 誰も打ち破ることができなかった死を、イエス様は打ち破って下さいました。今も生きておられるイエス様を礼拝できることを心から感謝します。目には見えませんが、よみがえられたイエス様がここにおられます。
 今朝は十時から召天者記念会を行いました。一緒に礼拝を守っていた兄弟姉妹で、既に天に帰られた方々がいます。召天者記念会は、その方々を偲び、私たちに与えられた永遠のいのちと、よみがえりを心から感謝する集りです。遺族の方々にとっては寂しさもありましたが、もう一度永遠に対する希望を持つ集会となりました。そこで読んだ御言葉が、

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』

 私たちの人生は、時にレースのように例えられます。百メートルの短距離レース、四百メートルリレー、マラソンなど色々な種類のレースがありますが、人生もある人は短距離、ある人は長距など色々あります。しかし新城教会の兄弟姉妹は皆、長生きで素晴らしいです。ここで一番長生きの方は、今日も来られていますが九十六才です。九十七年目に入ります。
 いくら長生きしても、やがて私たちは天に帰らなければなりません。しかし人間は死で終わりではありません。シャボン玉は切なさを感じるものです。大きく膨らんだ後、突然消えてなくなってしまいます。人生も同じように消えてしまうと思うと、むなしく感じます。桜の花もしばらくすると、散ってなくなってしまいます。人生もそんなものかと思います。しかし、人生はそんなものではありません。やがて、私たちは永遠に神とともに生きることができます。先に天に帰った兄弟姉妹は、すでに神とともに生きています。彼らは丁度レースを観戦しているがごとく、私たちを見ています。新城教会の納骨堂には三十二の遺骨がありました。案外少ないです。神様の祝福です。今日は三十二名がこの礼拝を見ていると思います。野球でも観客がいなかったら面白くありません。皆、テレビで見ていてスタジアムには誰も来なかったら、選手もあまり力が出ません。イチロー選手がマリナースで活躍しています。あれも日本からツアーで行って応援しているので、彼も真剣になっています。頑張っている人を見ることはとても嬉しいです。私たちの人生も、見ている人達がいます。既に天に帰った人々が見ています。良いことも悪いことも見ていて、「あの人はあんな罪を犯している。悲しい」と言っているかも知れません。何よりも天地宇宙を造られたイエス様が、私たちの人生を見ています。永遠のいのちが与えられていることは素晴らしいです。それを証明する為にも、イエス様は十字架にかかって死なれ、よみがえられました。世界で宗教家と呼ばれる人が多くいますが、イエス様は宗教家ではなく、神様です。宗教はそもそも人間が神を求めたものです。しかし、真理は、神が人を求めに来て下さったのです。イエス様は神様でしたが、滅び行く人々を求めてこの地上に来て下さいました。
 神は人間を造られました。そして元々、神は人間と共に住むように造られました。しかし人間は神様から離れてしまいました。しかし人は神との約束を守れませんでした。今日初めて教会に来られた方も、聖書をぜひ読んで下さい。聖書には真理が隠されています。神が人に与えた唯一の言葉が聖書です。先々週、アメリカの偵察機が中国の海南島に緊急着陸し、捕らえられました。ブッシュ大統領がすぐに乗員を気遣い、「彼らは聖書を持っているか」と聞きました。聖書を持っていたら、私たちはどのような環境の中でも神の言葉を聞くことができるからです。神の言葉には力があります。
 神は人間とともに住むために、エデンの園という素晴らしい場所を造り、そこに色々な木の実を造り、「これを食べても良いけれど、一つだけ約束して欲しい。善悪を知る木の実だけは食べてはいけない」と言われました。これを食べると死んでしまうからと言われました。なぜ神様はわざわざそんな木を造ったのか、と言われるかも知れません。人間の世界にも必要だけど食べてはいけないものはたくさんあります。今日も美味しいブランチを食べました。イチゴは美味しいですが、毒イチゴとか蛇イチゴを食べると良くありません。毒になります。神様も善悪を知る木から取って食べてはいけないと言われました。しかし、人間は浅はかで、それを取って食べたことにより、人間の世界に死が入ってしまったと聖書は記しています。善悪を知ってしまったことが不幸の始まりでした。
 善と悪を知ってしまったというのです。善とは、良いことです。悪とは悪いことです。善と悪について論じ始めると難しいことです。これはある意味で哲学的な領域であり、宗教的な領域です。それぞれの人が持っている価値観にも関わるので、善と悪を定義することは難しいです。特に最近は、善と悪の基準が難しいです。私たちの周りにある善と悪は相対的なものです。何かと比べて、良いか悪いかが決まります。善も悪もころころと変わります。昨日の善は今日の悪、昨日の悪は今日の善であったりします。医学の世界もそうだと思います。昔は良いとされていた治療が、今は悪になっています。昔、病気になったら病人の体から血を抜いたそうです。悪い血が入っているからと言って血を抜いたそうです。それで多くの人が死んでしまいました。最近はそんなことは絶対しません。血が足らなかったら輸血もします。昔の善は今の悪です。
 最近も少し前は悪いことではなかったけど、四月一日から悪になった事もあります。リサイクル法ができました。今まで、壊れた洗濯機をそこら辺に放って置いても捕まりませんでしたが、今は不法投棄すると捕まってしまいます。先日、一人が捕まりました。リサイクル法のための見せしめのようで、気の毒だと思います。最近は善と悪が何であるかわからないのです。しかし、絶対的な善がなかったならば、人間の将来は危ういのです。絶対的な善とは何でしょうか。突き詰めると、創造主なる神様が動くことのない善です。善と呼ぶことができる根本は、神ご自身であり、人格が伴ったものです。創造主が「こうだ」と決めたことは、動かすことができない善であり、何の文句も言えません。創造主が決めたことだからです。
 したがって、善の根本は神の中にあるのです。しかし、善と悪を知ったことにより、人間が不幸になったとは訳が分からないことです。聖書を読んでいくと、「何を意味しているのだろうか。善悪を知る木の実を取って食べ、善悪がわかったら不幸になったとは、どういうことだろうか?」と思います。人間は神様によって造られ、特別に神様を意識することもなく生活していました。神によって人間が造られたときに、神対人間の関係は歴然としているものでした。特に仕切直して、「あっ神様だ。」と意識をする必要はありませんでした。神が人間を創り、造られた人間が神に仕えていくことは当然で、自然なことでした。アヒルは卵から孵ると、初めに見たものを親だと思ってついていきます。人間が立っていたら、アヒルは親だと思いついていきます。自分の視界に初めに入ったものが親になるそうです。同じように、人間も神様によって造られたときに、目の前に神様が立っておられました。だから神に従っていくことは何の疑いもなく、当然のことでした。しかし、「あっ。これは神様だ」と意識したときに、私たちの中に不幸が始まりました。
 信仰生活も同じだと思います。神対人はそもそも自然の関係です。だから、これは宗教ではなく、私たちの生活そのものです。私たちにとってイエス様が神であることは間違いありませんが、神と人との関係は動かないものですから、関係が生活そのものにならなくてはなりません。私たちの人生の中に、神が生活そのものになるならば素晴らしいと思います。同時に悪とは何でしょうか。
 先日、私は貴重な体験をしました。私は昔、一度裁判を受けたことがあります。スピード違反で簡易裁判を受けましたが、今回は本物の裁判でした。私が悪いことをしたのではありませんが、裁判を傍聴に行きました。それはオウム真理教の裁判でした。昨年、麻原の子どもが誘拐され、実行犯が捕らえられましたが、その判決が出るということでした。犯人のお母さんが、リバイバル聖書神学校の卒業生です。その方は、皆に祈りの要請されています。息子が裁判にかけられ姿を見る母親も辛いと思いました。裁判はなかなか物々しかったです。傍聴券をもらい、報道陣がたくさんおり、オウムの関係者もおり、私はどこに身を置いたら良いのかという感じでした。裁判が始まると三人の被告が紐でつながれて連れてこられ始まりました。最後には判決が出て、一年二ヶ月という刑を受けましたが、執行猶予でその場で釈放されました。その時に何とか彼らに話をしたかったので、裁判所にお願いして、一つの部屋を用意してもらい、そこに連れてきてもらうように言いましたが、彼らが拒否したのできませんでした。
 裁判が終わるとすぐに、彼らはすぐに車に乗り込んでいってしまいました。しかし、私は最初に祈っておき、彼に少しでも触れることができたら良いと思っていました。「神様この手が彼に触れるときに聖霊様が触れて下さい。」と祈りました。もう話せないかと思いましたが、それから彼らは拘置所に荷物を取りに行きました。私はそこまでついていきました。そこには報道陣はいませんでした。ご両親とオウムの人がいました。私はそこに勇気を出して行きました。「こんにちは。」と話しかけました。三人の人は荷物を取りに行っていませんでした。迎えに来た信者がいました。私が話しかけると、「誰?刑事は嫌いだ。」と言われました。だから「私は刑事ではないよ。」と言いました。「誰?」と言うので、「私は修行者だよ。」と言いました。彼らは「修行者」という言葉が好きなようです。私はイエス様にいつも仕えていますから、そう言いました。「修行者」というと彼らは心を開きます。色々な話をしました。すると「私はこれからどうしたら良いかわからないのですよ。家からも勘当されているし、外に出てもみんな受け入れてくれないし、やっぱりここかなあ?」と言っているのです。もう一人の男が立っていたのでそこに行き、「こんにちは。」と言って握手を求めました。すると握手はできないというのです。「どうして握手できないの?」と聞くと、「いや、握手はちょっと・・・」というのです。「修行のレベルが下がるわけ?」というと、「いやそうではない。」と言うところから少しずつ話が始まりました。「君はなぜオウムに入ったのですか?」と聞きました。すると、「僕はお父さんが死んだときに、死という問題に解決を与えてくれる人が一人もいなかった。だから真理を求めてここにきました。」というのです。オウムの人たちは自分で何とか神様に到達したいと願っていました。サリンを撒いてでも、自分は神様と出会えればそれで良いというのです。人のことは考えないのです。「それで君は神様と出会ったの?」と聞くと、「いや、まだです。」と言いました。「教会に来てごらん。教会に来たらその日にでも神様に会う人がたくさんいるから。」と言うと、「本当ですか?」と目を輝かせていました。彼らも本気で神様を知りたいと願っているのだ、祈ってあげなくてはと思いました。私たちの神学生は勇気があり、次の日にオウムの施設を訪問したそうです。お母さんと、もう一人の神学生が行ったのです。そこは「オウムよ出て行け!」というような立て看板や、監視所があるような所です。彼女らは、花束を持って行きました。なぜならば、裁判に一緒にいたオームの女の子が足を怪我していて、ギブスしていたので、見舞いに行ったそうです。「ここにいたら傷つきますよね。」と話しかけると、「そうですよ。私は勘当されているし、今後どうして良いかわからない。でも、出て行っても受け入れてくれる人は誰もいないし・・・」と言うのです。「いや、教会は、元やくざの人も活躍するところですから、ぜひ、あなたも教会に来てくださいよ。」と話したそうです。「最後に、あなたのために一言お祈りしても良いですか。」と聞いたそうです。すると、「お祈りって何ですか?」「お祈りとは本物の神様に願うことです。」彼らはマンドラを唱えたり修行しか知りません。「神様に直接お話しすることです。」と言いました。「では、私のために祈ってください。」と言われ、神学生たちがその方の為に祈ってあげたそうです。「神様。この方を祝福してあげてください。これからの人生を助けてあげてください。」と祈りました。すると、彼女は涙を流して、「ありがとうございました。」と答えたそうです。
 神学生達から「順先生。何かあったら先生の所に連れていきますから、よろしくお願いします。」と言われました。私は彼らが教会に来るように祈っています。皆が神様を求めています。しかし、全く、善の基準が違うのです。だから社会的に罪を犯しても、「これが正しい」と思っているのです。冗談ではないと思います。
 本当の善なる方は、天地宇宙を造られた神に他なりません。人が手で造ったようなものは神ではありません。天地宇宙を造られた方が神様です。それがイエス・キリストです。私たちは動かない善なる方に仕えているのです。私は修行者と言いましたが、本当はそうではありません。神様に自然体で仕えているだけのことです。それは、何か気張って、「私は修行する」というのではないのです。
 今日、始めて教会に来られた方、また、真の神を求めておられる方は安心してください。キリスト教は何かの宗教に入ることではありません。気づいたら神とともに生きていることがキリスト教の真理です。私は宗教は好きでありません。本当に神がおられるならば、自然についていくのが人間にとって一番素晴らしいことです。
 そもそも神とは、過去・現在・未来を現在形で把握していなければ神と言うことはできません。私たちは過去を取り戻すことはできず、未来もどうすることもできません。過去を取り返すことができないなら神ではありません。未来をどうすることもできないなら、神ではありません。未来も現在形として持っていなければ神ではありません。私たちの神様は時間を越えている方です。あなたの過去・現在・未来もすべて現在形として握っておられるのが神様です。絶対善の中に生きておられる方が神様です。
 悪は辞書で調べると、善の反対概念というのです。善を人格的なものと定義つけるとき、悪も人格的なものとともにあるはずです。
 旧約聖書を読むと、神様がどのような方かについて人類は知りました。そして、悪は神の言いつけに背くことであることもわかりました。その中心がモーセの律法です。何しろ、律法を守らないことが悪であり、律法を守ることが善であると彼らは考えていました。彼らは律法を一生懸命守り、善を行おうとしましたができませんでした。結局、失敗した歴史でした。
 イエス様が来られたときに人類を隠れて苦しめていた悪霊の姿がありました。人間を苦しめる悪魔・悪霊が暴かれたのです。
 日本人は霊的に敏感な国民だと思います。日本人の一つの特徴は、石や木で造った神々を拝んでいます。それを見ると、ばかばかしく見えます。石や木で造った物のを神様などと言うのは馬鹿らしいことです。そこら辺に転がっているのがなぜ神様になるの?と思います。海外から来られた人はそう思うと思います。なぜ石を拝むのかと言っても、彼らは石や木とは思っていません。その背後に何らかの、目に見えない力を感じるのです。科学的には説明できないけれど感じるのです。仏壇も仏壇屋が造ったものです。木の中になぜ、先祖が入るの?というけど、捨てる事は出来ません。紙の札一枚でも捨てるのが恐いと言います。人々は秋葉の札も古くなって新しいのが来たけど、勝手に焼いてしまってはまずいと思います。なぜならば、後ろに何らかの霊的なものがうごめいているのがわかっているからです。それは言葉で説明できませんが感覚的につかんでいます。ということは、日本人は霊的にとても敏感であるのです。案外聞くと、色々な霊体験をしているものです。誰もいない家に一人でいると、何か仏壇の部屋で音が聞こえたり、誰かがいる気配を感じたとか、幽霊を見たとか、火の玉を見たとか、おばあちゃんが亡くなり、しばらくしたら夢枕におばあちゃんが立って、「私を供養してくれ」と泣いて頼まれたとか、案外そういう体験があるのではないでしょうか。
 案外そういう経験をしている人が多くありませんか。これだけ科学が発達した時代ですが、やっぱり霊は存在すると信じているのです。それは当たっています。本当に霊は存在します。しかし、それは先祖の霊ではありません。先祖のふりをした悪霊です。何をするのでしょうか。人間を苦しめるのです。人間に不幸を与えるために働く霊があるのです。しかし、日本人はそれが本物の神か、偽物の悪霊かわからなくなってしまい、何しろ人間よりも崇高なものがあったら関わろうとするのです。オウムの人と話して、なぜあなたがたはそんなにオウムに執着しているのですかと聞きました。すると、周りの人が色々な霊体験をしているから、霊体験をすると言うことは、その体験の向こうにもしかしたら神様がいるのではないかという期待があるというのです。「それであなたは体験があったの?」というと、「いや、まだないです」というのです。しかし、本物の神ではなく、悪魔・悪霊という暗闇の力の存在を知らなくてはなりません。
 悪の根本には、そのような人格が共にあるのです。人間がよくなりたいと願ってもどんどん崩れていく背景には、そのように意志を持って働いている存在があるのです。悪は、人格を持って人を苦しめるために働いている存在です。その存在に対して、人間はどうすることもできませんでした。しかし、イエス様がこの地上に来られた目的は、ヘブル人への手紙二章十四節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

と書かれています。人間の一番大きな問題は死という問題です。死の恐怖に皆つながれています。悪魔が一番働くのは死という領域です。人間に死の恐怖を与えています。しかし、勘違いしないでください。根本的に死は、神のコントロール下にあります。私のおばあちゃんが死んでしまったのは、悪魔のせいと思わないで下さい。いのちを「取る」のは神様しかできません。しかし、死の恐怖を与えるのは悪魔の力です。死んだらどうなるかと不安に思う方はいませんか。死の恐怖とともに働くのは悪魔です。しかし、イエス様は悪魔の力を滅ぼすために来てくださったと聖書は教えています。イースターは死の力が滅ぼされた記念日です。死は何も恐ろしくありません、と教えるためにイエス様はよみがえられました。イエス様を信じたら決して死は恐ろしくありません。神様と共に永遠に住むことができるのです。永遠への門出の一ページです。素晴らしいことです。でもこれを知らなかったら死は常に恐怖の中心にあります。
 イエス様は死の力である悪魔を滅ぼすためにこの地上に来てくださったのです。素晴らしいことです。今日、よみがえりのイエス様がこの中におられます。私たちを死から命に、永遠の命を与えてるために来てくださいました。
 聖書はの教えは「唯一の神」です。というのは、二元論ではありません。悪魔対神様とか、暗闇と光とか、生と死というように二元論的に考えますが、そうではないのです。ということは、死が滅ぼされなければなりません。聖書はそのような二元論的な命と死、暗闇と光、神と悪魔というテーマを、最終的には全部消し去り、神様によって一つにする働きです。今まで私たちはそのような二元論の中で苦しめられていたかも知れません。死といのち、暗闇と光、向こうに渡ることができない恐れを持っていたかも知れません。イエス様はそのような恐れをあなたから取り去り、あなたに命を与えるためにこの地上に来てくださいました。イエス・キリストを信じて歩んで行くならば、決して死は恐いものではありません。共に神と歩むことができる弟一ページになっていきます。そして絶対善なる方、イエス様と共に自然体で一緒に歩んで行くならば、恐いことはありません。素晴らしいイエス様が私たちと共にいてくださることを心から感謝しましょう。
 最後にお祈りします。バックナンバー

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