今週の礼拝メッセージ
2001.4.22(SUN)
世の終わりまで
新城教会牧師 滝元明牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイ28章18節〜20節
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 ハレルヤ!久しぶりにここで話すことができ感謝します。これから御言葉を学びます。この箇所は、イエス様が天に帰られる前に弟子たちに言われた言葉です。

『「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

と書かれています。この地上におけるイエス様の権威は限定されていました。しかし、イエス様が十字架にかかられ、天に帰られてからはイエス様は一切の権威を持っておられます。ですから、私たちがよみがえりのイエス様を信じてバプテスマを受けたら救われ、バプテスマによって負債証書が消され、よみがえりの力に預かることができるという約束がされています。また、バプテスマを受けることによって、イエス様と共にいつもいることができると書かれています。イエス様が共におられることは素晴らしいことです。イエス様を信じたら、クリスチャンには絶対に敗北はなく、勝利を見ることができます。世界の歴史を見ると、時々、神の国は負けたと思うときがあります。しかし、そのような時にも必ず勝ちます。クリスチャン生活は時々負けたと思うときがありますが、最後には勝利があります。色々な苦しいことがありますが、最後には必ず勝利します。
 イエス様が弟子たちに質問をされました。「世の中ではわたしのことを何と言っているか。」すると、「エリヤと言っています。」「昔の預言者だと言っています。」など色々なことを答えました。再びイエス様は弟子たちに質問されました。「あなたがたはわたしを誰だと言うか。」その時、シモン・ペテロは、「あなたは生ける神の子キリストです。」と言いました。このようにペテロがイエス様に信仰告白しました。イエス様は喜ばれ、「そのことを教えたのは天の父です。あなたはペテロ、岩です。わたしはこの岩の上に教会を建てます。それは、ハデスの門も決して勝つことはできません。」と言われました。イエスを神の子と信じたら絶対にハデス、サタンも勝てない、地獄も勝てないと言われました。ですから、私たちがイエス様を信じたら絶対的に世の中においても勝利の生活をすることができます。
 一九〇〇年代は世界が奇蹟を見た年です。一つは2000年近く世界に散らされていたユダヤ人たちが一九四八年に建国しました。ある意味でユダヤ人は抹殺されようとしました。しかし、神様はそんな国民に国を与えられました。これは奇蹟です。一九一七年にはレーニンが共産革命しました。神はいないという思想が続きました。しかし、一九九一年にソビエト連邦は崩壊しました。世界は全共産化と言われ、クリスチャンが虐殺されたり、粛正され、負けたかと思う中にも神は素晴らしいことをされ、七十四年後にソビエト連邦が崩壊しました。神様は生きておられます。ベルリンの壁が破れたのです。
 これらを見ると、イエス様の主権には必ず勝利があります。日本でもそうです。鎖国時代はクリスチャンを根絶やしにする迫害がひどかったですが、明治維新で鎖国が解除され、日本にキリスト教が段々入ってきましたが、太平洋戦争で再び弾圧され、天皇崇拝しない人、神社礼拝しない人は投獄される反キリスト政策をとりました。しかし、太平洋戦争が終わり、素晴らしい礼拝ができることは神様の勝利です。この新城市でもそうです。太平洋戦争以前、新城にも教会がありました。クリスチャンがいました。しかし、戦争中の弾圧でクリスチャンが負け、仏教に帰るとし、新城ではキリスト教が駄目になったと見られましたが、今教会があることは神様の勝利です。ですから、どんなに世の中の力・サタンの力が強く見えても、最後には神の勝利が現されると信仰を持ちましょう。私はこの町がいつかクリスチャンの町になると信じています。日本がそうなる時が来ると信じます。
 今総裁選挙をしています。誰が勝つかわかりませんが、問題が起こると思います。靖国神社の公式参拝などで問題があります。昔に返すようにと進んで行くほど力あるものです。「天皇中心の神の国」という発言がありますが、昔に返そうといってどんなに世の中に暗闇の力が働いても、最後はイエス様の勝利です。これからを見ると何が起こるかと不安がありますが信仰を持ってください。

『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』

この御言葉を信じましょう。私の一つの確信は絶対にイエス様を信じていたら見捨てられず、見放されないということを信じています。ヘブル人への手紙十三章の御言葉にあります。

『「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』

この御言葉を私は信じています。私は信仰の若い頃、この御言葉を信じ、親が捨てようと誰が私を捨てようとイエス様は私を捨てられないから大丈夫だと、今日まで五十年間この信仰を持って今日まで勝利してきました。世の終わりまで共にいると書かれていますが、最終的な世の終わりは新しい時代が到来するイエス様の再臨だと思います。いつ再臨があるかわかりませんが、イエス様を信じたらその時まで共におられるので心配することはないのです。また世の中の終わりについて考えるとき、段々、人間も年をとります。私の終わりもそんなに長くはなく、後三十年くらいだと思っていますが、いつか終わりが来ます。しかし感謝な事は世の終わりまで主がいつも共にいるということです。これを信じましょう。イザヤ四十三章一節からに、

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』

と書かれています。「贖った」ということは買い戻したということです。クリスチャンたちはイエス様が十字架にかかられて、血を流してくださり、その血潮でサタンの手からあなたを買い戻されたということです。イエス様を信じれば、あなたの名が天に記されていることを喜びなさいと書かれていますので、イエス様が皆さんの名前を知っています。信じますか。あなたの名を呼んだと書かれています。神様があなたはわたしのもの。また私たちもイエス様に、「あなたはわたしのものです。」と告白することができることは感謝です。

あなただけが我らの神
あなただけが救い主

主よ 私はあなたのもの
主は 私のすべて
主よ 私はあなたのもの
主は私のすべて

イエス様は私のすべてです。私はイエス様のものですと信仰を持ちましょう。イザヤ書四十三章二節に、

『あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』

と書かれています。人生の中に、時々水の中、恐ろしい問題が起こります。テレビを見ていて恐いと思うことがあります。世界には色々なことがあります。イギリスで狂牛病があります。牛の脳がだめになり倒れていきます。たくさんの牛が殺されています。また羊や豚が口締疫という病気になり、何万頭もの家畜が葬られています。また、ガンやエイズなどたくさんの病気があります。経済的不況もあります。大水が襲っているような問題もあります。しかし、イエス様が言われた世の終わりまでいつも共にいるということは、どんな大洪水の時にも一緒にいるということです。どんな不況で問題があっても、あなたと一緒にいるということです。だからどんな問題が来ても、心を騒がせずに主が私と一緒にいて下さると信じて行きましょう。
 『火の中を歩いてもあなたは焼かれず』と書かれていますが、迫害もあるかも知れません。「火の中」とは試練です。どんな火の中を通らなくてはならないときがあっても、その中でも神様が守って下さるということです。 
 土曜日に八つ橋に行きました。私は約二年間八橋マンガンで働きました。たくさんの思い出があります。私の借りていた家は、正木さんという方の家を貸していただいていました。「伝道のために、いくらでも良いので家を貸して下さい」と言うと、「はい」と言ってただで家を貸して下さいました。時々畑で取れたものをお礼に持っていくと、「申し訳ない。」と言って米をくれたりと、とても良い人でした。そこのおばあさんが八十数歳でした。会いに行きました。今から五十年前に会ったきりだったので、私の顔を見て驚きました。「滝元さんに会えて嬉しい。」と言って握手されて喜んで下さいました。「お世話になったからお礼に来ました」と言いました。そこでは神社との戦いがあり、祭りの時に寄付を出さないから迫害されるだろうかと心配して祈りました。「イエス様。道を示して下さい。台風でも来て神社がつぶれますように」と祈ったりもしましたが、神社がつぶれたら私の家もつぶれてしまいます。ある時にイエス様がテモテ人への手紙第二の三章十二節の御言葉を下さいました。

『キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。』

と書かれています。妥協してはいけない。真に堅く立とう。火の中でもイエス様にしっかりついていたら守られます。ヘブルの青年たちが、ネブカデレザルの時代に偶像を拝まずに火の中に投げ込まれた時、彼らは火の中に投げ込まれても殺されても「信じます」と言い、どんなことがあっても偶像礼拝しませんでした。三人は火の中に投げ込まれた時、別の人が一人歩いていたと聖書に書かれています。それはイエス様です。彼らは火の中で守られました。どんな迫害があるかわかりませんが信仰を持っていきましょう。そうしたらイエス様が私たちを助けて下さいます。イザヤ書四十三章三節に、

『わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

と書かれています。御言葉を信じることは素晴らしいことです。私はこの御言葉を準備している時に、とても興奮しました。愛されていることが嬉しくなり、気が狂ったように感謝しました。神様に愛されていることを信じますか。アーメン!イエス様が愛して下さったらこれから恐ろしいことはありません。五節に、

『恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。』

と書かれています。イエス様が共にいたら恐れることがありませんのでイエス様を信じていきましょう。イザヤ四十六章三節から四節には、

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』

と書かれています。子ども以外の方は白髪があるかも知れません。私もたくさんあります。聖書には、

『正しく歩むことにより白髪を得ることができる。』

と書かれています。天国が近くなると段々、白髪が増えると言いますが聖書には白髪について『年寄りの冠』とも書かれているので白髪は悲しいものではありません。しかし、現実面から見ると段々白髪が生えてくるとこの地上から去るときが近づいたという感じも持ちます。しかし、イザヤ書四十六章四節には、

『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』

と書かれています。年をとってもイエス様は共にいて下さる。背負って助けて下さるというのです。白髪がある方も安心して下さい。この世の中では年を取ると使いものにならないというのです。昔「オバ捨て山」という話があり、年を取ったら捨ててしまえということが言われました。しかしイエス様はおじいさんもおばあさんも邪魔者扱いはしない、終わりまで一緒にいてあげると言われます。だから私も勇気づけられています。これから何年あるかわかりませんが、ずっとイエス様が私を背負って運んであげると言われたこの言葉を信じています。「若い」と言うことは年齢では決められません。本当の若さは幻のある人です。幻のない人は年寄りです。聖書に『幻のない民は滅びる』と書かれているからです。
 最近、生駒聖書学院の院長が私に一つの詩を送って下さいました。

「青春」

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ち方を言う。
バラの面差し、紅の唇、しなやかな
手足ではなく
たくましい意思
豊かな創造力
燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の
清新さを言う

青春とは臆病さをさける勇気
安きにつく気持ちを振り捨てる
冒険心を意味する。
ときには、二〇才の青年よりも
六〇才の人に青春がある。
年をかさねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増やすが
感情を失えば心はしぼむ
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い清新は芥になる。

六〇才であろうと一六才で
あろうと人の胸には
驚異に魅かれる心、幼子のような未知への探究心
人生への興味の歓喜がある
君にも吾にも見えざる
駅逓が心にある
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の霊感を受ける限り皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷に閉ざされるとき
二〇才であろうと人は老いる。
頭を高くあげて希望の波をとらえる限り八〇才であろうと人は青春にして已む
<サムエル・ウルマン「青春の詩」より>

青春についての定義が書かれています。私たちクリスチャンは世の終わりまで共にいると言われた神が共にいるので、弱くても強いです。愛されています。年を取ると誰も愛してくれないと言われますが、主は愛して下さっています。愛されていることを信じましょう。そうすれば私たちは素晴らしい人生を送ることができます。年をとってもう駄目だと思うのではなく、希望を持つことです。何年生きるかわかりませんが今私には希望があります。私はイエス様に、リバイバルを求めながら、「リバイバルが起きるまで生かして下さい」と希望を持っています。死ぬまで日本のために働かせて下さい。この体はあなたにささげたものです。イエス様に自分自身をささげています。ビジョンがあります。喜びがあります。私たちが希望を持っている限り、青春であり続けることができると青春の詩では言っています。創世記二十八章十節から十五節に、

『ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」』

と書かれています。これはヤコブに神様が言われた言葉です。あなたとともにありという言葉は、隣の人のことではありません。自分自身のことです。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」』

神様が、世の終わりまでいつもいっしょにいます、という信仰を持ちましょう。まだ神が共にいて下さることを信じられない方は信じて下さい。そして、年を取って心配な方は、白髪が生えても大丈夫です。白髪の人にも神様は配慮しています。また若い子どもたちも大丈夫です。これから主が共にいて下さいます。不況でも大丈夫です。主が共にいて下されば乗り越えることができます。病気でも大丈夫。必ず主が回復して下さいます。心から神が共にいることを信じていきましょう。一言お祈りします。バックナンバー

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