今週の礼拝メッセージ
2001.4.29(SUN)
わたしを呼べ
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 エレミヤ書33章3節
わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。今日は「わたしを呼べ」という主題でお話しします。私たちには、呼べば答えて下さる素晴らしい神がおられ、その方に人生を委ねることができることを感謝します。
 皆さんのお祈りに支えられて、先週私は、奈良県で礼拝の奉仕をしました。教会のメンバーが五名という、小さな教会でした。奈良での伝道は、偶像が多くて難しいと思いました。しかし私は、何とかその教会の祝福となるようにと、真剣に奉仕しました。主が働いて下さり、とても良い集会となりました。集会が終わると、教会員全員で私を見送って下さいました。主を呼び求める者には、どんな暗闇の淵にあっても答えて下さるのです。
 小学校一年生になる女の子が二階からなかなか降りて来なかったそうです。お母さんは心配して、「○○ちゃん、どうしたの?」と声をかけました。すると、二階から元気のない声が聞こえました。「お母さん、私、生きる力、なくしちゃったの・・・。」
 お母さんはとても驚いて二階に行き、「何があったの。何でも話してちょうだい!」すると、女の子はお母さんに言いました。「お母さん、生きる力、という教科書なくしちゃったの。」
 今日、皆さんの中で、本当に生きる力をなくしている方がいるかも知れません。また、教科書をなくしたくらいで済んでいる方もいるかも知れません。しかし、主が語っておられます。「わたしを呼びなさい。そうすれば、あなたに答えてあげます。」
 私たちは現在、数年前には考えることができなかった時代に生きています。いつでも、どこからでも、世界の誰にでも、すぐにつながる時代です。この教会でも、約三分の二の方々が携帯電話を持っておられるようです。私も持っています。マルイチさんが私に電話をくれるので、私は良い電話を持っています。今は便利な時代です。どこからでも誰にでも話しかけることができる時代です。今日の機械文明は、見えない世界に対応していると私は思います。
 旧約の時代、それは、神になかなか到達できなかった時代でした。しかし、聖霊の時代は、いつでも、どんな時でも、私たちの神に到達できるのです。あたかも、携帯電話を持っていて、どんな所からでも、誰にでも連絡が取れるのと同じように、今の時代はいつでも、主の名を呼んだら答えて下さる時代にあるのです。神と人との間にもIT化が進んでいると思います。
 聖書の世界は、何もない荒野で人が神を叫び求め、その叫びが神に届いた記録です。元々、人は神ととともに住んでいましたが、罪によって離れ断絶状態でした。しかし、そんな中で、人が神を叫び求めたときに、神が答えて下さった記録が旧約聖書です。
 何もなくなったときに、本当の神への叫びがわき上がってくるのかも知れません。今の時代は、すべてが整えられている時代ですので、なかなか神を求めにくい時代です。しかし旧約時代は、何もないところで人は神を求めたのです。その時に、「ことば」があったのです。ヨハネの福音書一章に、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。』

 人が神を求めたときに、初めにあったのは「ことば」でした。そのことばの記録が、聖書です。旧約時代の人は大変だったと思います。何もないところで、どのように叫んだら良いかわからないけど、ひたすら神を求めました。その時、神がことばを与えて下さいました。そして、真の神とつながる条件が人に与えられました。その第一の条件は、

『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。』

偶像を造ったり、拝まない限り、「わたしはあなたに近づいてあげます」というのが条件でした。
 人間は何か形がないと、不安なものです。土地を買ったとき、権利書がなくては不安です。だから神に対しても、同様であったと思います。神様の声が聞こえても、何か形がないと不安で偶像を造り始めたと思います。しかし、神は、「偶像を造っては駄目だ」と言われました。「偶像を造ったら、あなたがたと話はしない」と言われました。しかし、人々は偶像を造り、祈りをささげていました。それゆえに、神に祈りは到達しませんでした。
 手で造った神々に願いをささげてみても、決して神には到達できません。神は唯一であり、姿の見えないお方です。天地を創造された神を神として祈るべきです。
 日本人は手で作った神々をたくさん拝んでいます。どこに行っても偶像があります。村の真ん中には神社が陣取っています。神社の神は何でしょうか。あれは決して天地宇宙を創った神ではありません。人間が作った神です。ある人は、「神社には、神らしい神はないから、あれは偶像礼拝ではない」と言う人がいます。しかしこれは大きな間違いです。神社崇拝は偶像礼拝に他ならないです。偶像の神に拝んでも、本物の神に到達することはありません。神社の神体は人であったりします。神社の背景には神話があります。神話は、古事記や日本書紀がベースになっています。それを見ると、繰り返し繰り返し、天照が天皇家の祖神だと言っています。そして、この天照は、「太陽神」だというのです。なぜ、このようになったかというと、昔は稲作が人々にとって最も重要でした。稲のできが悪いと、人は生きることができませんでした。昔の人は、今の人の四倍から五倍米を食べていたそうです。今の人は、米を一日平均、百九十グラム位食べるそうです。しかし、昔の人は、米を一日に七百五十グラム位食べたそうです。おかずがなかったのでご飯をたくさん食べたと思います。ですから、稲ができなかったら死活問題で、また稲作に一番関係するのが太陽なので、人々は太陽を神として拝み出しました。しかし太陽は神様ではありません。太陽を造られた方が神様です。日本人の宗教はほとんど自然崇拝であり、自然そのものの中に神が住んでいると思っています。しかし、そうではありません。天地宇宙を造られ、大自然、大宇宙を創られた神様を求めなければなりません。
 人は手で作った偶像を、神として拝み、何とかして神を呼び出そうとしたのが、人間の歴史でもあります。神道は降霊術と関係があります。降霊術はオカルトとも言いますが、これは全世界で大きな問題になっています。オカルトは、神様を呼び出そうとする人間的手法です。自分の利益のために、呼び出せるものなら何でも呼び出そうというものです。しかし、聖書はそのようなオカルト・降霊術について次のように語っています。申命記十八章十節から十二節に、

『あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。』

人が、自分の都合で神を呼び出そうとするまじないは、罪だというのです。しかし、人の根底には、何とか神に到達したい、神様を呼び出したいという願いがあったことは確かです。
 だから、神様も困ってしまいました。「人々に声をかけてあげたいけど、偶像を作り、自分の都合で神を呼び出そうとする。どうしたら良いのか・・」
それで神様は旧約時代、一つのことを決めました。「あなた方は偶像を作ってはいけない。しかし、特定の場所に行って礼拝をささげたら、わたしはあなたがたに声をかけてあげる」と、特定の「場所」を定められました。
 旧約聖書を見ると、ソロモンという王が豪華な神の宮をエルサレムに建てた事が記録されています。それで人々は、神と出会うために神の宮に詣で、祈りをささげました。それは大変だったと思います。現代もしも、エルサレムまで行かなかったら神と出会えないとしたら、こんな不幸なことはないと思います。日本から見ると、エルサレムは地の果てです。そして、最近、イスラエルでは戦乱が続いています。そんな中に入らなければ、神と出会えないとしたら大へんです。かつて、神の宮が建てられていたところは、現在、最も危険なところです。あそこに行かなかったら、神と出会えないとしたらどうますか。しかし旧約聖書の時代はそうでした。
 イエス様がサマリヤのスカルの町に行ったとき、五人も夫を変えた女と問答したことが書かれています。その女がイエス様にまず聞いたことは、「どこで礼拝をささげるのが本物の礼拝ですか。」でした。サマリヤの人は、ゲルジム山を聖地だと言い、ユダヤ人たちはエルサレムが聖地だと言っていました。どっちに本当の神がいるのか、彼らにとっては真剣なことでした。もしかしたら、自分たちの礼拝の場所は間違っているかも知れない、と考えました。
 そこでイエス様が言われたのは、「場所ではない、霊とまことによって礼拝しなければならない」と言われました。そして、「今がその時です」と語られました。
 イエス様が来られる前には、神と出会うために場所が設定されました。しかし、イエス様が来られたときに、「もう場所は関係ない。霊とまことによって、どこででも礼拝できる」と語られました。旧約聖書における神礼拝は、イエス様によって形式が変わっていることを知らなくてはなりません。
 ユダヤ教の人たちは、今でも唯一の神を礼拝しています。私たちクリスチャンも、同様に、唯一の神を礼拝しています。してみると、ユダヤ教とキリスト教は同じ神を求めているのです。「同じ神様を求めているから、どちらでも良いではないか」という人がいます。しかし、彼らの礼拝の対象と、私たちの礼拝の対象が同じであったとしても、「礼拝は同じではない」ということを知る必要があるのです。
 イエス様は言われました。ヨハネの福音書十四章六節で、

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

いくら同じ対象を求めていても、「イエス様を通さなければ、祈りは決して神のもとに届いていない」のです。
 今、キリスト教界で変なことを言う人がいます。神社で人々が知らずして拝んでいるのは唯一の神である、なぜならば、神道のルーツとユダヤ教のルーツは同じだからと言うのです。しかしそれは、詭弁であり大きな間違いです。
 神道の起源は、ユダヤ教ではありません。アニミズムであり、降霊術です。日本神話は奈良時代に政治的意図によってつくられた物なのです。人々が知らずして拝んでいるのは、ヤーウェの神様ではありません。仮にそうだとしても、「イエス様を通さない限り、決して父のもとに行くことはできない」のです。イエス様がなかったら、誰一人として、父の元に行くことはできないのです。
 「イエス」という名前は神の国につながる「キーワード」です。国際電話は、頭に国番号を付けなくてはなりません。アメリカから日本にかける場合は、日本の国番号が必要です。日本の国番号は八一です。アメリカは一です。ペルーは五一、ブラジルは五五です。それを付けないと日本に電話が通じません。私たちも、神の国に電話をするときには、「イエス様」という名前を通さなければ、決して父なる神の元には通じないのです。いくら、ユダヤ教がヤーウェの神、唯一の神と言って礼拝し祈っても、残念ながらその礼拝と祈りは父の元に届いていないのです。
 祈りを届けるために働いて下さるのが聖霊様です。ローマ書八章十五節に、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。』

と書かれています。また、ガラテヤ四章六節に、

『 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』

と書かれています。私たちはイエス様という名前を通して、神の国に通じるのですが、聖霊様を通して、「アバ父」と呼ぶことができるのです。「アバ」とは何でしょう。
 イスラエルに行くと、子どもたちもヘブル語で話しています。「アバ、アバ」と言っています。それは、「お父さん」という意味です。それも、アバというのは「おとうちゃん!」という親しみのある呼び方です。
 昔の父親には権威があり、横座に座っていて、何か話があっても話しにくい存在でした。「お父様にどうやってこの話をお伝えしようか」と正座し襖を開けて、「お父様、お話がございます」というような時代もありました。しかし、今はどんどん父と子の関係が変わっています。「おやじ」と呼ばれ、「お父ちゃん」と呼ばれ、最近では、「もう少し、父親を敬ってくれても良いのではないか」とムッとする時もあります。「もう少し敬えよ。もう少し尊敬して近づいて来い。」と言いたい時があります。金がないときや、困ったとき、どこかに連れて行って欲しいときには近づいてきます。それ以外にはあまり近づいて来ないような感じです。しかし、そのような間柄になっていることは素晴らしいことです。私たちはイエス様の十字架によって、御霊によって「アバ父」と呼ぶことができるのです。
 旧約聖書には、なかなか近づき難い、父なる神様の姿があります。しかし、今は、御霊によって神の子とされ、「アバ父、お父さん」と呼ぶことができるのです。
 「わたしを呼べ、そうすればわたしはあなたに答えてあげます」とありますが、どうやって父なる神様を呼ぶのでしょうか。それは、イエス様の名前を通してです。
 イエス様の名前を通さなければ、父のみ元に行くことはできないのです。さらに、聖霊によって私たちは、「アバ父」と言って父なる神様に近づくことができるのです。
 「わたしを呼びなさい。そうすればわたしはあなたに答えてあげる」と言われます。エレミヤ書三十三章三節の言葉を英語で見ると、『Call to Me』と書かれています。「コール」とは、「電話せよ」という意味もあります。ということは、現代では、「わたしに電話しなさい」とも訳せます。

『Call to Me, and I will answer you,・・・』

「わたしに電話をしなさい。わたしは、あなたのかけた電話に出てあげますよ!」今週も、父なる神は、『Call to Me』と言われます。イエス様の名前で、はばからず聖霊によって「アバ父!」と父なる神様に祈りをささげなければなりません。祈りはイエス様の名によって聖霊によって、「父なる神様」が受けて下さるのです。ここに三位一体なる神を見ることができます。
 私はよく、親しみを込めて、「イエス様!」と祈ります。しかしこれは、厳密に言うと正しい祈りではありません。そのように祈っても、しっかりとした祈りの概念が必要です。祈りとは、「イエス様の名を通して、聖霊によって、父なる神様に届く」のです。しかし、父なる神については、聖霊様なしに知ることはできないのです。聖霊様が働かれないと、父なる神さまと、「アバ父」という親しい関係に入ることができません。
 私たちは聖霊の時代に住んでいます。私たちは聖霊によって「アバ父」と心から祈ることができる恵みを心から感謝したいです。
 十二年間長血を患っていた女が、イエス様に触れたときに癒されました。その時にイエス様が女にかけた言葉は、マルコの福音書五章三十四節に、

『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』

これを口語訳で見ると、

『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。』

私は口語訳が好きです。現在、イエス様は父なる神の前でとりなして下さっています。そして私たちに下さる祈りの答えは、「病気にかからず達者でいなさい。安心して帰りなさい」です。原語の意味は、戦いや迫害がすんだときの、平穏と共に帰れという意味です。それは霊的戦いの勝利を物語っています。イエス様が病気を癒されるときには、いつも悪霊を追い出して病を追い出されました。それは、「戦いの勝利と共に帰りなさい」です。今日、皆さんで戦いの中で苦しんでいる方がおられるかも知れません。また、色々な迫害や、病で苦しんでおられるかも知れません。しかし、父なる神様は、「病気にかからず、達者でいなさい。」そして、「あなたの祈りを聞いて答えてあげたい」と語っておられるのです。
 五月一日から、「マイ・ライン」という電話サービスが始まります。それを申し込むと、頭の桁を押さなくても、同じ電話会社を通して通じるのです。私たちがイエス様という方を信じるときに、私たちはイエス・キリストのゆえに、常に私たちの祈りは、父なる神様の元に届いているのです。
 「わたしを呼べ。わたしはあなたに答える」と言われます。そしてその答えは、
『あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

ということです。時々、私たちの人生には、理解のできないことが起こります。しかし神様は、理解できない解決を行って下さいます。英語では、

『Call to Me, and I will answer you, and show you great and mighty things, which you do not know.』

となっており、後半を訳すと、「あなたに偉大な、並外れたものを見せてあげる」「それも、あなたが今まで知らなかったことです」という意味です。「偉大な並外れたこと」をあなたに「見せて」あげる、というのです。
 神様を見ることができません。しかし、私たちは「神のわざ」を「見る」ことができます。今日も、私たちは心から、神を求め、神のわざを見たいと願います。それは、イエス様の名により、聖霊様によって、「アバ父!」と呼びかけるときに起こるのです。
 今週、私たちは聖霊に満たされなければなりません。聖霊に満たされていないと、「アバ父」と呼ぶことはできません。「アバ父よ!」と何でも要求する子どものように、父のみ前に出て、祈りを聞いてもらえます。そして、「偉大な、並外れた」答えをあなたに見せてあげると約束されています。こんな素晴らしい神様に仕えることができる恵みを感謝したいと思います。イエス様の名によって、聖霊様によって、「アバ父よ!」と呼んで祈りましょう!!バックナンバー

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