今週の礼拝メッセージ
2001.5.13(SUN)
神に近づこう
新城教会牧師 滝元順牧師

新約聖書 ヘブル人への手紙4章14節〜16節
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 ハレルヤ!今日皆さんと共に礼拝できる事を感謝します。今日は、前回の「直訴の祈り」の延長線で「神に近づこう」というタイトルで学びます。

十六節には、『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』と書かれています。私たちは神に「近づく」必要があります。礼拝は、私たちが神に近づく一時です。いくらクリスチャンと名乗っていても、神に近づかなければ何もなりません。そのための道をイエス様が造って下さったのです。『「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』イエス様の名前を通さなければ、父なる神の御座に近づくことはできません。これが唯一の天国への道です。ヨハネ十六章二十六節に、

『その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。』

とあります。「その日」とは、イエス様の十字架が完成した日です。そして、「あなたがたは、神に直訴することができる」というのです。先週、皆さんは、「アバ父よ」と祈られましたか?「アバ父」と呼ぶように助けて下さるのが聖霊様です。聖霊様によって私たちは、「アバ父よ」と呼ぶことができるのです。ローマ人への手紙八章十五節に、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。』

 旧約の時代、特定の預言者には聖霊が臨まれましたが、一般庶民に聖霊が注がれることはありませんでした。しかし、今はイエス様が十字架にかかって下さった事により、聖霊様が来て下さり、私たちは「アバ父よ」と呼ぶことができるのです。ガラテヤ人への手紙四章六節には、

『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』

 聖霊様、イエス様は、三位一体の中で、とりなしの働きをされている神です。ローマ人への手紙八章二十六節に、

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』

 人間だけが言葉を使うことができます。しかし、時々、深いことを表現したいのですが、なかなか言葉にできないことがあります。
 近頃、私は本を書きました。「悪霊を捕虜とせよ!」という過激なタイトルです。三五〇頁に及ぶ本ですが、一つのことを表現するのはなかなか難しいです。一生懸命頑張ってある事柄を表現して、完璧だと思って色々な人に読ませると、「わからない」と言われます。自分だけが納得しても、人にはわからないことがたくさんあります。外国に行くと、日本語なら表現できても、その国の言葉で表現するのはさらに難しいものです。
 二年前に私は、フェルナンド兄、雅也兄と共にアルゼンチンとブラジルに行きました。雅也兄はスペイン語が少しできますが、話すときにいつも「ウー・・・」という言葉が頭についていました。「ウー」というのはどういう意味かと思ったら、それはうめき声でした。
 私たちも何か表現したい、祈りたい・・、しかし表現できない時があります。その「ウー」という、うめきを誰が表現して下さるのでしょうか。それが聖霊様です。
 御霊の賜物の中に、「異言の賜物」があります。それは賜物の一つなので、有っても無くても心配しないで下さい。異言の賜物は、聖霊様のうめきが外部に音となって現わされているものに過ぎません。どのように祈ったら良いかわからないけれど、御霊様がそれを言葉にして、父なる神様にとりなして下さっているのです。
 私は、一つのことをどう表現して祈って良いかわからないとき、「聖霊様。今から異言で祈りますから、表現をよろしくお願いします。」と祈ってから異言で祈ります。また、異言の賜物がないときには、「私はこのことを日本語で祈りますが、どうか聖霊様が内側でとりなして下さい。」と祈って下さい。私たちの言葉にならないようなうめきを、御霊様がとりなして下さると約束されています。
 ローマ書八章三十四節に、

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』

と書かれています。今、イエス様はこの地上にはおられませんが、神の右の座でとりなして下さっています。聖霊様とイエス様が、私たちのためにとりなしの祈りをされているのです。私たちには、素晴らしい取りなし手がついています。
 祈りの領域で、とりなしは大切です。誰かにとりなしてもらうと、動かないものが動く時があります。持つべき友はとりなし手です。祈ってくれる友がいたら、一般生活も信仰生活も祝福されます。誰かと約束して祈りあうことです。
 今日の午後は、「家庭祝福祈祷会」があります。お互いのためにとりなして祈る時です。一つの家庭では動かない問題でも、他の家庭の人に祈ってもらうと動き始めます。
 しかし、さらに強力なとりなし手がおられます。それが、聖霊様とイエス様です。私たちが父の前に、イエス様の名によって入っていくときに、聖霊様とイエス様が一緒について来て下さり、「この人の願いを聞いてあげて下さい」と、とりなして下さるのです。
 今週、皆さんの祈りの中で、「アバ父よ」と叫んで祈って下さい。しかし、その中で、イエス様と、聖霊様が共にとりなしておられることを、しっかり意識して祈って下さい。
 これらは、キリスト教の重要な教理である、三位一体論に関わる事柄です。教理とは、教えの理由です。私たちの神は唯一ですが、「父なる神、子なるイエス様、聖霊様の三つが一つ」で、「それぞれが神格をお持ち」であり、また、「一つ」だというのです。これは難しい理屈です。初代教会から激しく論議されてきた教理の一つですが大切です。
 「エホバの証人」は、必ず、クリスチャンの信ずる、三位一体に対して議論してきます。「あなたがたは三位一体を信じていますが、そのことが本当に聖書に書かれていますか。」というのです。彼らは三位一体を信じていませんし、イエス様を神とは信じていません。信じるのはただ、エホバの神だけで、聖霊様については人格のある神と考えていません。聖霊は神のガソリンのようなものだと言います。それは大きな間違いです。聖霊様は人格・神格をお持ちの神様です。三位一体について正しく理解すべきです。マタイの福音書二十八章十九節に、

『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、』

と書かれています。日本語だとわかり難いのですが、「御名」という言葉は、ギリシャ語では「単数」です。そして、「父・子・聖霊」という言葉には、それぞれに定冠詞がついています。そして、父と子と聖霊との間に、接続詞として、「アンド」が入っています。ということは、この三位は同列です。聖書では名前は実体を持ち、帯名者と一体です。この御言葉は、神が三位一体であることを現しており、父なる神、子なる神、聖霊なる神は同列であることを現しています。英語で見ると、

"Go therefore and make disciples of all the nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit,

となっています。「name」は単数です。「the father=その父」、そして、その子、そして、その聖霊となっています。三位にして一つであるという神のご性質を、私たちは知る必要があります。その中でも、イエス様、聖霊様はとりなし的な存在です。そして、父なる神様に私たちは祈りをささげるのです。祈りを受け取って下さるのは、父なる神様です。
 私たちは時々、「イエス様」と祈り、「聖霊様」と祈りますが、間違いではありません。しかし厳密な意味でいうと、間違っています。祈りは、「父なる神様」が受け取って下さるからです。イエス様も、父なる神様に祈られました。だから私たちは、「アバ父よ」と直訴して祈ることができると今、学んでいるのです。
 三位一体はなかなかわかり難い教理ですが、キリスト教界に多大な影響を与えたアウグスチヌスがこう説明し語っています。彼は、西方教会最大の教父と言われ、神学者でもありました。

「三位一体でなければ、神のうちに交わりも愛もありえない。というのは、神の三一性は、世界と人間の創造を離れても、神の完全性の永遠の行使と表現とが見いだされる相関関係を含んでいるからである」

 この意味は、「神が三位一体でなくては、交わりも愛もない」という事です。神がただ一人だったら、どのようにして愛を現すのでしょうか。愛は誰かがいるから現すことができるのです。「神様は愛ですよ」と言っても、ひとりぼっちで愛をどのように持つのでしょうか。もしも、神が世界や人間を創造されなかったとしても、神は完全でなければならないはずです。「神は愛です」・・・これは三位一体の中に、完全な愛を見いだすのです。神が、イエス様だけ、聖霊様だけ、父なる神だけで、ひとりぼっちならば、愛は芽生えないのです。愛には対象が必要なのです。家族の中でも一人では、誰かを愛したくても愛することはできません。家族にはメンバーがいてお互い愛し合う事が出来るのです。
 私たちは、三位一体である唯一の神をあがめることができます。そして、私たちには子どもとしての特権があり、「アバ父よ」と御前に入ることができるのです。イエス様を信じている方は、すでに神の子どもです。そして、神は、私たちが父なる神のところに近づいて行くのを喜ばれ、待っておられるのです。親ならば、子どもが近づいてくれることは嬉しいものです。子どもが全く父親や母親を無視し、近づいても来なかったら悲しいです。親の方からではなく、子どもの方から近づいてきて欲しいのです。ヘブル人への手紙に、『大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。』と書かれています。
 人生の中には、神に近づく機会が与えられます。神が私たちの近くに来て語られることもありますが、遠くに立っておられて近づくのが困難に見える時もあるのです。エレミヤ書三十一章三節に、

『主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』

と書かれています。神が私たちに、「近づいておいで」と言われるのは、近くで言われるのではなく、遠くから言われることがあります。
 色々な試練や苦しみの時、父なる神様が遠くに立たれ、私たちは近づくのが困難に感じるときがあるかも知れません。しかし、これが「神の愛」であり、また遠くに立っているように見える神に近づくことを、喜んで下さるのです。ヤコブの手紙四章八節に、

『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。』

と書かれています。色々な試練の中で、神が遠くに立っておられるように感じる時があります。しかしそんな中で神に近づくときに、神は私たちに近づいて下さるのです。
 皆さんの中で、「私は今、神に近づく必要がある」という窮地に立たされている方もおられるかも知れません。そして、神が遠くに立っているように感じる方もおられるかも知れません。しかし、心配しないで下さい。神は時には遠くにお立ちでも、私たちが近づくときに、必ず近づいて下さいます。やがて私たちは、神と顔と顔を合わせてまみえるときが来るのです。私たちは今、イエス様を愛していますが見えません。神様と言っても姿は見えません。しかし、やがて私たちが天国に入ったときには、神様と顔を合わせることができます。今がどのような状況であっても、クリスチャンには永遠が決まっています。永遠の国、天国に入ることができるのです。それを感謝しなければなりません。イエス様を信じていなければ、どんなに幸せに生きたとしても滅びてしまいます。しかし、イエス様を信じているならば、どんなに神が今、遠くに見えるような状況だとしても、その道の果ては、神と顔と顔を合わせることができるのです。
 先週の日曜日に私は一つの証をしました。「肺炎の人が癒された」と言いました。しかし、その後、悲しいことを聞きました。その方の容態が急変して、突然、亡くなってしまったということでした。「どうして急変したのだろう。」と思いました。名古屋の病院でなくなり、奥さんから電話が来ました。私は、「一生懸命祈ったのに、どうしてだろうか」と思いました。
 時々、真剣に神を求めて祈っても、駄目になって失望することもあります。しかし、一つ言えるのは、神の計画と私たちの計画とは違うと言うことです。そして、神様をねじ曲げることはできません。だから、常に、神の主権を認めなければなりません。
 私はその方と二回だけ会ってお祈りしました。亡くなったと聞いて、イエス様を信じていたかどうか不安に思いました。しかし、奥さんが、「主人は毎日、枕元に聖書を置いていました。」と言われました。そして、「教会に行かなくては・・」といつも言っていたそうです。そこで奥さんが、「あなた、どっちで葬式するのか決めておいて・・・」と言ったそうです。しかし、彼は答えを出さずに死んでしまったそうです。しかし彼は、イエス様を信じていましたから、顔と顔を合わせてイエス様と出会っています。これも神の御心だと思います。しかし今まで私たちが祈ってきたことは、一度降った雨は吸い込まれて消えてしまいますが、必ず地を潤して作物を実らせるように、無駄はないのです。真剣に祈っても、事がならない時があるかも知れません。しかし、その祈りは無駄ではありません。神の前に近づくために、神はその祈りを用いて下さいます。大変な時こそ、神が出会って下さる瞬間なのです。
 しかし先週は嬉しいこともありました。私にある方からファックスが届きました。それはドイツからでした。私たちは福井で家庭集会を時々持っています。この教会で救われた方や、育った方、福井で救われた方が熱心に集っています。彼女らは、週二回は集まって祈っておられます。ぜひ、その方々のためにとりなし祈ってあげて下さい。
 二年ほど前、家庭集会に一人の女性が導かれてきました。その方は色々な問題を抱えておられました。ご主人はドイツ人で、彼女は日本人でした。そして、「私の人生にとって福井ほど最悪の所はない」と言われました。しかし私は、「イエス様は希望です」と話しました。そして人生を壊す悪魔の力があることを話しました。すると、すぐにイエス様を信じられました。そして偶像を全部棄て、断ち切りの祈りをしました。
 やがて、彼女はご主人と共にドイツに帰られました。何とその方がドイツの教会で、「バプテスマを受けました」という喜びのファックスを送って下さいました。そして新城教会の礼拝のメッセージを、毎週、インターネットで読んでいますと書かれていました。今はグローバルな時代です。世界のどこからでも新城教会のメッセージを読むことができます。そしてその中に、「私にとって、福井は人生の中で最悪の場所でしたが、今は最高の場所となりました。」と書かれていました。
 時々、私たちは人生の中で、「最悪」と思うことがあるかも知れません。しかし、そこが最高の場となるのです。その時こそ、神が、「わたしのところに近づいて下さい。わたしも、あなたのところに近づいてあげるから。」と語っておられるのです。
 もう一つ素晴らしいことがありました。先週一人の方がバプテスマを受けました。この教会に来られている姉妹のお母さんです。その方は病で入院されていて、まだイエス様について知らない方でした。私は先週の月曜日にお母さんが入院されている病院を訪問しまし、「イエス様こそ救い主です」と話しました。そして、「今まで、神社や仏壇を拝んでいたかも知れませんが、それは人に害を与える存在ですよ」とお話ししました。そして、祈って帰ってきました。わずか十五分程でした。
 すると、その後、電話がかかってきました。お母さんが二日後に家族を集めて、「私はこれからイエス様を信じる。今まで仏壇を拝んできたけど、それをやめて仏壇も捨て、寺との縁も切り、イエス様だけを信じる」と言ったそうです。お父さんもびっくりしたそうですが、「手術を受ける前に、バプテスマを受けたいから」ということで、急遽バプテスマを行いました。
 今週は、特に祈って下さい。今、お話したお母さんを含めて、三人が手術を受けます。完全な勝利があるように祈って下さい。ある意味でその家族の方々は、神に近づかなければならない時です。しかしそれは家族のことだけではありません。私たち、教会全体に関わることです。一人ひとりがキリストのからだなので、このような時にこそ、私たちは父なる神様に、「アバ父よ!」と近づくのです。神は家族が癒され、回復することを願っておられます。そのために祈るようにと神は働かれます。素晴らしい御わざで私たちに臨んで下さいます。そのためにも私たちは行動を起こすべきです。それは、私たちが父なる神に、「アバ父よ」と心の底から求めて祈る時です。その中で、神が私たちに近づいて下さいます。
 私たちは、父の前にひとりぼっちで近づくのではありません。聖霊様と、御子イエス様が、あなたの左と右に、とりなし手としてついて下さりアバ父なる神の前に入って下さるのです。はばかることなく神に近づいていきましょう。バックナンバー

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