今週の礼拝メッセージ
2001.5.27(SUN)
主に役立つ者
新城教会牧師 岡本信弘牧師

新約聖書 ピレモンへの手紙11節〜12節
彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。

 ハレルヤ!主の恵みを感謝します。
昨年の十一月に礼拝メッセージをして以来、半年ぶりに礼拝で奉仕させていただきます。いつも皆さんにお祈りいただき、支えられていることを感謝します。
 先週は日本リバイバル同盟の集会がありました。ミッション以外の集会では、いつもはお客さんの状態なのですが、今回は滝元明先生が大会委員長ということで、プレイズ出版が受付を含む事務処理関係を担当させていただきました。いろいろ大変なこともありましたが、そこに関わらせていただき祝福されたこと、また大会の経済も、すべてが満たされ祝福されたことを感謝します。
 昨日は、ざわめきワーシップシャウトが初めて名古屋において行われました。それほど大きな会場ではありませんでしたが、入りきれないほどの方が来られ、恵まれた賛美集会を持つことができました。二〇〇三年の名古屋での集会に向けて、希望の持てる良い一歩となったことを感謝します。引き続き祈っていきたいと思います。それでは御言葉を学びます。
 皆さんは今、楽しく充実し、健康で喜んでクリスチャン生活を送られているでしょうか。病や事故に苦しみ、問題で悩んでおられる方もあるかも知れません。勿論私たちは、楽しく喜びに満ちたクリスチャン生活を送りたいと望んでいます。私たちの信じている神様は、この世にある御利益宗教の神とは違いますが、イエス様を信じたクリスチャンは、病が癒されたり、悩みから解放されたりと、様々な素晴らしい恵み、奇跡をいただいています。 私たちはまことの神様に救われる前、サタンの支配下に置かれていました。しかし、神様の一方的な愛によって変えられ、サタンの支配下から神の支配下に移されました。聖書には、サタンの奴隷になっていた者が移されて、神の奴隷にされたと書かれています。
表面的に、また肉体的には何も変わってはいないかも知れません。しかし、私たちの魂が救われたことによって、心に平安が与えられ、喜びに満たされ、永遠のいのちに至る道を歩ませていただいています。
 私たちは神様の恵みの中にありますが、神様を信じていない人からは、私たちの生活が窮屈だと見えることもあるかも知れません。
 例えば、小さな子どもを危険から守るためにお母さんは子どもの手を引きます。また、私は子どもをあやすのが好きですが、時々、子どもを寝かしつけてあげたりもします。眠たくても寝ることができず、ぐずっている子どもを押さえつけるように抱っこします。そのうちに落ち着いて、眠りにつきます。その時、なぜこんな窮屈に抱いているのに、この子は気持ち良さそうに眠ることができるのだろうか。そんな束縛を受けるより椅子に座って寝ている方が、また横になって寝ている方がよっぽど楽ではないか思います。しかしそこには安心感があります。子どもは親にしっかりと守られているという安心感の中で、安らかに眠ることができるのです。そのように、私たちも今神様の手の中に握られ、それが端から見ると窮屈そうに見えても、それは神からの平安であり、恵みなのです。神様は私たちを『神の友』『神の子』と呼んでくださり、その特権のゆえに私たちは平安をいただいているのです。
 また私たちは主によって選ばれた者です。
聖書には、

『あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、また任命したのです。』

と書かれています。
 主に贖われた私たちは、主にどれだけお返ししてもお返しできないほどの恵みをいただいています。ですから皆さん一人一人が何か主のために役に立ちたいと思っておられると思います。神様に感謝している、恵みをいただいて永遠の命をいただいた、しかし「私のようなものは何もできません」と言われる多くの方がいらっしゃいます。それは一見、謙遜しているようですが、そうではありません。何もできないと思わされるのは、悪魔の策略にはまってしまっているのです。私たちは神の栄光を現すために選ばれているのに、悪魔が攻撃を仕掛けて役に立たないと思わせているのです。クリスチャンが何もできないと思いこみ、何もしないでくれたなら悪魔にとってはしめたものです。そのように思っているクリスチャンには、そのあと何もしなくて良いのですから。
 私たちが神様から選ばれたからには、選ばれた目的があります。それは私たちが主に役立つ者になるためです。一般社会ではお金がある人、能力がある人、権力がある人が認められ、役に立つ者とされています。私もお金があれば色々なものが手に入るので良いと思います。十年前には想像できなかったようなことが頭の良い人によって生み出されてきました。現代のデジタル化されたコンピューター社会では、そのような人が認められます。しかし、聖書の御言葉は「主にとって役立つ者」とはどのような条件が必要であるかを教えています。
 ピレモンへの手紙に、ピレモン、パウロ、オネシモという三人の人物が登場します。この箇所は一章だけの短いところで、聖書学者の中でも一個人に宛てられた手紙がなぜ聖書の中に残されたのかと疑問視されている書簡でもあります。しかし読んでいくと、パウロが友人であるピレモン個人に宛てた手紙ではありますが、私たちにとっても重要なことが書かれていることがわかります。
 ピレモンは敬虔なクリスチャンで、教会においては長老として伝道をサポートする素晴らしい働きを担い、良きクリスチャンホームを築いていたと思われます。そこで働いていたのがオネシモです。オネシモはピレモンに対し悪事を働き、色々なことを企て結果的にピレモンの所から出されます。一方パウロは新約時代にたくさんの書を書いた人であり、偉大なる伝道者でした。しかしその働きの故に何度も投獄されました。そして獄中でも熱心に伝道し、多くの奇蹟が現され、多くの人が回心しました。オネシモも獄中でパウロに出会い、回心した一人でした。そのオネシモをパウロがピレモンに推薦しているのです。
 文章の前後を読むと、オネシモがピレモンの所で働いていたときは悪いしもべであり、ピレモンから見たら箸にも棒にも掛からない男のようです。しかし、彼がそこから出て逃亡している中で彼が得たものは、へりくだりでした。自分自身の自我が砕かれ、もう一度ゼロから建て上げていくというところへと変えられていきました。私たちが主に役立つ者となるための条件の一つは、「へりくだり」です。それは、オネシモがへりくだって主の前に出て罪の精算をし、きよめられた者としてもう一度ピレモンのところにパウロを通して返されたことから、学ぶことができます。私たちも、神様の前にへりくだり、きよめられた者とされるなら、役に立つ者となっていくのです。
 聖書中には、罪を犯したけれども、主の前に本気で悔い改めて素晴らしい祝福を受けた人たちのことが書かれています。
 ダビデもその一人でした。彼は若いときにイスラエルの王になり、多くの功績を残した神に愛された人でした。そんな彼にも苦い過去がありました。彼は自分の権力を使い、部下の妻を横取りし、汚れた関係を持って罪を犯しました。しかし、彼はその罪を指摘された時、自分の罪を認め、主の前に悔い改めてへりくだりました。そのことによって彼は生涯祝福を受けたのです。
 第一コリント十章十七節から十八節には、

『誇る者は、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。』と書かれています。

ある人は、私には誇るところはないし、何もできないし・・・と思われるかも知れません。しかし、皆さんはすでに主によって選ばれ、それぞれの賜物が与えられ、神様によって用いられるために造られています。ダビデは罪を指摘されたとき、すぐに受け入れ、悔い改めました。しかし、指摘されたにもかかわらず、悔い改めずにそのまま滅びていった王様やしもべも聖書中には多く書かれています。私たちも時々に高ぶり、罪を犯し、主に用いていただきたいと思いながら、主が用いることができないところにいる自分を覚えることがあります。神様が私たちを用いようとされるとき、汚れていては、また高ぶってしまったら、用いていただくことができません。ですからこの御言葉に心を留め、私たちが自分で自分を推薦する者ではなく、主に推薦される者になりたいと思います。そして、神様から色々な働きに呼ばれる者になっていきたいと思います。

 また、オネシモが悔い改めてへりくだったときに、彼がピレモンにとって役立つ者、重要な人になるとパウロはその手紙で書いています。それほどパウロはオネシモを信頼し、推薦しています。パウロはお世辞を言っているのではなく、心から彼がピレモンに役立つ者になったと思うからこそ推薦しています。
オネシモに何があったのでしょうか。彼が悔い改め、へりくだり、きよめられた者となるために、大きな訓練があったことと思います。私たちクリスチャンは、一年、五年、十年と、段々と成長していっていると思います。クリスチャンになってすぐに役立つかというと、それはなかなか難しいです。成長の早い人もいれば、時間のかかる人もいます。しかし、だれもが必ず成長します。
 私は主の奉仕をさせていただいていますが、話すのがあまりうまくありません。色々な人のメッセージを聞きます。私のメッセージを聞いて、あなたのメッセージは早くて、余分なことが多いと時々忠告されます。順先生や平岡先生のメッセージを聞くと、上手いなぁと思います。あんなに上手く私も語れたらと思いますが、私は私にできることしかできません。人それぞれ成長の度合いも、また賜物も違います。
 私はクリスチャンホームに生まれました。主に使っていただく者となるために、主は長い年月をかけて少しずつ成長させてくださいました。私は、四十数年経って、やっと使っていただける者に成長させていただいたと思います。
 私はよく家族に、「お前は頭も良くないし、わがままに育ってきた」と言われてきました。これは自慢話になりますが、保育園の頃私は天才児と言われていて、お遊技会の時には必ず主役を演じていました。たくさんの台詞をすぐに覚え、「この子は将来大物になる」と当時の園長先生が言ったくらいだったそうです。保育園、小学校と恵みによって健康が支えられ、ほとんど休むことなく通っていて、保育園は休みの日にも行ったというくらい好きでした。小学校に入ってからの成績表には、上から下まで同じ数字が並んでいました。勉強はあまりできませんでしたが、その頃から、将来は主のために働きたいと純粋に思っていました。そして、その思いはずっと変わらずに今に至っています。
 中学時代はそこそこの成績でしたが、高校の時は大学に行く気もなかったので後ろから数えて何番目という成績でした。しかし、数学だけは好きでした。他の宿題はやりませんでしたが、数学だけは問題集も進んでやっていました。数学だけはみんなに教えてあげていたのですが、テストの時には私よりも、教えてあげた人の方が点数が良いということがよくあって、何故?と思いました。
 高校を卒業して、三年間一般の会社に勤めました。その時は営業、機械の修理、電気工事や図面書き等、色々なことをしました。主のために、これが何の役に立つのだろうかと思いながら働いていました。その後、マルイチの働きを手伝いました。今はなくなりましたが、茶臼山駅前の小さな店をスーパーににするため、魚と肉を売ることになり、そのために切り方を習いに行くことになりました。今は刺身も切れますが、その頃は、鯖の二枚おろしもできず、切った魚がバラバラになってしまうような状態でした。そんな中でたったの二週間習いに行き、実践で慣れていったのです。続けて肉を切るのを習いました。その時にも、将来何の役にもたちそうもない、主のためにならないと思っていました。そのような仕事を経て、今から十九年ほど前に教会に献身しました。
 振り返ってみると、主が今まで私を支えてくださり、会社で学んだこと、マルイチで働いたすべてのことが自分にとって訓練の時であり、益となっていることを覚えるとき、本当に感謝です。今でもわがままで、できの悪い者ですが、少しずつ時々に訓練されています。高校時代に何の考えもなくソロバンや簿記を勉強し、とりあえず一級をとってきましたが、そのようなことも今、生かされて奉仕ができる恵みを感謝します。皆さんも振り返ってみると、訓練されたと思われる時があると思います。少しずつ私たちは訓練されて神の前に役立つものになっていくと思います。

 毎日の生活の中で、ある人は大きな問題にぶつかります。家庭間の問題、親族の問題。またある人は重い病気にかかったり、家族が病気になったり、事故にあったりして苦しんでいる人がいるかも知れません。しかし、そんな中でも神様は私たちを見捨てることはありません。そしてその問題は、私たちが役立つ者とされるための訓練の時であると受け止め、そのハードルを乗り越えていただきたいと思います。
そうしたとき、後に振り返ってみると、すべてのことが益となるという御言葉の通りに、感謝に変えられるのです。
あの時はまずかった、あの時は主に従えなかったという反省も勿論あるでしょう。皆さんの中で、以前罪を犯してしまったことや、神に従わなかったことで悩み、苦しんでいる方がいるのなら、そのことをも神様は訓練としてくださり、益としてくださことを知っていただきたいと思います。主に不忠実であったとしても、罪を犯したことによって問題が起こったとしても、へりくだって悔い改め、主の御顔を仰ぐなら、そのことさえも神様は益とし、糧とし、力としてくださるのです。私たちが苦労したこと、問題にぶつかったことすべてのことが、益となるのです。
ピレモンへの手紙十五節〜十七節に、

『彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。』

 と書かれています。
 以前は役に立たなかった者が、今は肉においても主にあっても役に立つ者に変えられていきました。前のオネシモは、ピレモンにとって邪魔者以外何者でもなかったかも知れませんが、家を離されたことは、ピレモンにとって役立つ者と変えられ、永久に取り戻されるためであったということを言っています。

また、パウロは、『もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。』と、オネシモを自分と同じ位置に置いて推薦しています。
 私たち自身は本当に弱い者、足りない者、能力のない者であるかも知れません。しかし、私たちは主の選びによって主に役立つ者とされるために贖われています。ある時にはどうしてこんなことが、という問題や困難があったかも知れませんが、信仰もってその困難に立ち向かうなら、イエス様が私たちをとりなしてくださり、私たちを使われやすいものとして訓練し、それによって問題を乗り越えた私たちを役立つ者として、主ご自身が推薦してくださるのです。
 パウロはオネシモを、肉で役立つものになったから推薦したというのではありません。箸にも棒にもかからないような男が、推薦されるまでになったのは、聖霊の働きです。
ローマ人への手紙十五章十三節には、次のように書かれています。

『どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。』

世の中の人たちは自分の力で、自分の努力によって道を開こうとします。そして自分で何でもできると考えます。あなたには能力がある、あなたが努力したら、あなたにできないことは何もないと教えます。しかし、私たちの力、努力には限界があります。それではどうしたら、希望のある道を切り開くことができるのでしょうか。それは、聖霊によって力を受け、聖霊様に助けていただくなら、私たちは何でもできるのです。
 パウロがなぜオネシモを推薦するようになったかは、神の介入なくしにしてそれを述べることできません。
 私たちには戦いがあります。今、三百名近くの方が礼拝に来られていますが、悲しいことに信仰から離れてしまった人もいます。反対に、恵みによって教会から離れたけれどまた帰ってきている人もいます。なぜ信仰から離れていってしまうのでしょうか。私たちは神様の一方的な恵みによって救われて、祝福を得ていますが、サタンもいつも働いていることを覚えてください。人々が信仰から離れる場合、一つの要因だけで信仰から離れてしまうことは少ないのです。つまり家族からの迫害や異性問題、人間関係等、様々なことが重なって思い悩み、その苦しさ、問題の中に悪魔は入り込み、私たちを惑わします。いくら熱心なクリスチャンであっても牧師であっても、油断して隙を与えたら悪魔がそこに入ってきます。ですから私たちがいつも聖霊に満たされ、主のみこころを行っていくことが私たちにとって大変重要なことです。
 オネシモはピレモンのところに返されました。オネシモは以前は奴隷であり、主人に従う立場にありながら反逆し、逃亡した、役に立たないような者でありましたが、パウロを通して聖霊の力により変えられ、役に立つ者になり、パウロからの手紙通り、奴隷としてではなく、愛する兄弟としてピレモンに受け入れられました。彼が戻されてからどのように主に役立つものになっていったか、ここには書かれていませんが、注解書などを読むと、彼はエペソの教会の監督になり、後に主のために殉教したということ、また、主人であるピレモンに忠実に仕え、主に用いられ、主人に似た者になったことが書かれています。
 オネシモは、永久に取り戻されるためにこのことがあったと言われたほどに訓練されました。私たちも弱く足りない者であり、何もできない者ですが、主は私たちを選んでくださっているのです。イエス様の弟子たちが無学のただ人であったにもかかわらず、聖霊の力に動かされ主に用いられたように、私たちも聖霊に満たされていくことが主に役立つ者となるためのもう一つの条件です。

 皆が同じ働きではなく、それぞれの器官があり、それぞれに賜物が与えられています。ある人は牧師、宣教師として働きを担う人、奉仕する人、祈る人など色々な奉仕があります。今私はプレイズ出版で働かせていただいていますが、この働きに加わってくださっている兄姉は、色々な所から集められています。不思議なことです。まだ、与えられている賜物や能力を百パーセント出し切ってはいないと思いますが、それぞれがポジションを持ち、用いられていることを見るとき、神様が導いてくださっていることを思います。皆さんも今与えられている環境や働きの中で、主が用いようとしてくださっています。
 パウロがオネシモを推薦したように、私たちもきよめられ、強めれて、主に推薦される者として聖霊に満たされ、リバイバルのために、主に役立つ者として用いていただきたいと願います。
お祈りします。
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