今週の礼拝メッセージ
2001.6.3(SUN)
聖霊が臨まれる時
新城教会牧師 滝元 順牧師

新約聖書 使徒の働き1章8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 ハレルヤ!ペンテコステの日に、三名の方々が副牧師として就任できる事を感謝します。私たちの教会は資格や名前はあまり関係ありません。ただ神様のために力一杯働くのが中心です。彼らはすでに霊的な意味においても重要な働きをしていますから、神様からの新しい権威を受けるという意味において、皆さんと共にお祈りの時を持ちたいと思います。 使徒の働き六章一節から七節に、

『そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。』

 聖霊が注がれた後、初代教会は爆発的成長を遂げました。しかしその中で調整しなければならない問題が起こってきました。そこで七名が選ばれ、問題解決にあたることになりました。しかし、その選択の基準が震っています。なぜならば、食料を配給するのは誰でも良いと思うけれど、主は「聖霊と知恵とに満ちた人を選ぶように」と語られました。
 神様の働きはそもそも全て聖霊と知恵に満たされなければできない働きです。どのような奉仕でも聖霊と知恵が必要なのです。七名が選ばれ、使徒たちによって手を置かれた後、『こうして神の言葉はますます広まっていった。』と書かれています。弟子の数が増えて行ったと書かれています。
 今日、三名の兄弟達が副牧師の任命を受けるときに、神の言葉がますます広がり、六章の御言葉が現実になるようお祈りしたいと思います。
 食卓のために選ばれたはずのステパノやピリポは、リバイバリストとして素晴らしく用いられました。これは神の働きは一人ひとりに聖霊を注ぎ、任されている領域を越えて素晴らしい神の業に用いられることがわかります。そういう意味で、私たちは今から三名の任命を祈ります。上からの聖霊による権威が与えられ、主の働きのために用いられるように祈ります。(ここまでは、滝元開、四元雅也、公畑フェルナンドの副牧師就任式)

 神がこの教会に聖霊を注ぎ、今まで導いてくださったことを感謝します。今日はペンテコステの日ですので、「聖霊が臨まれる時」というタイトルで聖霊様の働きについて学びます。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

 まず第一に、聖霊が下るとき宣教が拡大すると教えています。エルサレムは彼らが聖霊を受けた町の名前でした。そこで教会が始まりました。しかし、教会はエルサレムからユダヤに拡大していきました。ユダヤとは同族人が住んでいる地域であり国でした。続いて拡大したサマリヤは、昔はユダヤ人でしたがアッシリアと混血した混血民族が住んでいた地域でした。おなじ国内に住んでいても対立関係にある人々でした。そこにも福音が宣べ伝えられるとイエス様は語られました。そして、それだけでなく、「地の果てにまでわたしの証人となります」と語られました。これは世界の国々です。
 ある意味で私たちの教会に聖霊を注いで、この御言葉を実現してくださっていることを感謝します。新城市で宣教が始まりましたが、今では新城市だけではなく、周辺の町々村々からも集われています。現在、活教会員として三七五名おられますが、半分が新城市内の方々です。そして、他の方々は周りの町の方々です。
 また、リバイバルミッションの働きなどを通して、宣教が日本全国へと展開されています。しかしやがて、この働きが日本だけに止まらず、サマリヤにも前進しなければなりません。
 日本にとってサマリヤとはどこでしょうか。日本にとってサマリヤは、アジアの諸国だと思います。おなじ顔色をしていながら、文化や言葉が違います。そしてある意味で、日本人と壁があるような気がします。韓国人や中国人は同じ顔をしています。元々は日本人は中国や韓国から渡ってきた渡来民族です。しかし、日本人だけが特別であると考えたときに、日本は失敗しました。聖霊が注がれるとき、そのような壁が崩されます。
 私たちの教会の中に、韓国の国籍をお持ちの方がおられます。そして一つになっています。それはある意味でサマリヤ宣教です。私が今祈っていることは、これから霊的戦いがアジアの諸国に向いていくことです。「これからは韓国、中国、そしてアジアの諸国にまで、戦いの火を持っていくことができますように」と祈っています。ぜひ、新城教会としても、その働きができるように祈っていただきたいと思います。
 そして、「地の果てまで」とは地球の裏側までです。地球の裏まで福音が宣べ伝えられるということです。この教会に十年ほど前から南米の方々が集われるようになりました。日本に来て救いの恵みに預かっている方々が多くなりました。今日も、南米の兄弟姉妹が一緒に礼拝しています。日本から見て地の果てからの人たちです。
 南米に行くと時差が約十二時間あります。この時差は大変です。今日本は朝十一時ですが、向こうは夜中の十一時です。全く逆でカルチャーショックがあります。北半球と南半球なので朝顔という花の巻き方も逆で驚くことが多くあります。
 今年私は七月にペルーに行きます。二年前にアルゼンチンとブラジルに行きました。その時ペルーにも行きたかったのですが、行けませんでした。ペルーの兄弟姉妹が「いつ来てくれる?」と聞かれましたが、「そのうち行くから」と答えていました。いつ行こうか迷っていましたが、今年の七月に行くことに決めました。ぜひ祈って下さい。たった八日間の旅です。新城教会で救われ帰国された方々のために、現地で祈って励ましてあげるだけですが大切な働きであると信じています。
 二年前にブラジルに行くと、八百キロほど離れたところから新城教会でバプテスマを受けた一家がオンボロ車でやってきました。自分の通っている教会の牧師まで連れてやってきました。「この車で帰りは大丈夫だろうか」と思いましたが、案の定、帰りには壊れたようでした。皆さん母国に帰っても、新城で救われたことを喜んでいます。母国に帰っても、新城教会のような教会はないかと捜しています。
 地の果てまで宣教が成されるべきです。これが聖霊様の働きです。世界規模でも、エルサレムで起こった聖霊様の働きが日本まで伝わってきました。
 さて、聖霊様の働きはそれだけでしょうか。他にも重要な働きが多くあります。続いていくつかを学びます。聖霊が注がれる前に、イエス様の十字架という尊い犠牲があったことを忘れてはなりません。イエス様がこの地上に来て下さったのは、十字架で自分をささげるためでした。そんな中、時が近づいたときイエス様は緊張しました。イエスさまはすごい気迫でエルサレムに上って行かれました。マルコは十章三十二節ではこのようにレポートされています。

『さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。』

「イエス様はどうしたのだろう」と周りは恐れを覚えました。そこで「イエス様、なぜそんなにすごい気迫で上って行かれるのですか。」と聞くと、

『イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。』

と書かれています。それはやがてエルサレムに上って、十字架にかかられ死んで三日目によみがえられるということを語られたのです。それは重大なことでした。
 しかしそれを聞いた弟子たちは理解できませんでした。そして一つのことが起こりました。聖書は色々な福音書を補完しあっていますが、マタイの福音書二十章二十節から二十一節を読むと、

『イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」』

と書かれています。ゼベダイの母とは、ヤコブとヨハネの母でした。お母さんが息子を連れて来て、一つの願いをしたのです。なぜならば、「イエス様はエルサレムに行き、ダビデのように王様になるに違いない」と思っていたからです。それを見ていた他の弟子たちは、『このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。』と記されています。
 「何だ。お母さんを連れてきて頼み込んだりして。」と腹を立てたのです。弟子たちすべてが、「イエス様はエルサレムで王様になるのに違いない」と思っていました。しかし、イエス様は、「あなたがたの中で偉くなりたいと思ったら、皆に仕える者になりなさい」と語られました。「あなたたちは偉くなりたいと思っている・・・」と弟子たちの心は見抜かれていました。
 これがエルサレムに上っていく道の一コマでした。またもう一つのことが起こりました。ルカの福音書九章に書かれています。

『さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。』

 イエス様一行がエルサレムに上っていく途中、サマリヤ人の町に入りました。その時、サマリヤの人達はイエス様を受け入れませんでした。「この町に入らないで下さい。この町から出て行って下さい」と言いました。それを見た弟子たちは憤慨しました。「私たちの先生はやがて王様になる人だぞ。その方を受け入れないとはどういうことだ。」と思ったのでしょうか。それで、先ほどイエス様の側近になろうとしたヤコブとヨハネが、「主よ。私たちが天から火を下して彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言いました。しかし、イエス様は振り向かれて彼らを戒められました。
 彼らにはすごい力がありました。天から火を呼び下してサマリヤの町を焼き滅ぼすほどの権威があったのです。そうこうしている間に一行はエルサレムに着きました。
 そこで何が起こったのでしょうか。エルサレムでイエス様は、彼らが考えているように王様にはなりませんでした。それどころか、ご自身で語られていたとおりに、十字架にかかって死んでしまいました。
 イエス様が十字架で死んだとき、弟子たちは大ショックでした。社長が死に、会社が倒産するよりもはるかに大きなショックであったと思います。彼らは人生のすべてをイエス様にかけていましたが、その夢が消え去ったのです。私も同じ立場にいたら大ショックだと思います。三日目によみがえると聞いていたとしても、そんなこと今までの歴史の中に起こったことがないのですから、誰も信じることはありませんでした。
 しかし、イエス様は本当に三日目によみがえられたのです。よみがえったら、前よりもパワフルになっておられました。この時、失ったすべての望みを瞬間的に回復しました。「やったぞ!とイエス様はよみがえった。これで恐いものはない。」という風に思ったことでしょう。そして弟子たちはイエス様と共に四十日間を過ごしました。
 よみがえられて四十日間イエス様が人々と共に過ごされたということは、イエス様のよみがえりの信憑性が一般的に考えても高いといえます。よみがえって一日か二日で消えたのではなく、地上に四十日間もおられたのですから。
 しかし、四十日後、「聖霊が下るまで、あなたがたは都にとどまって祈っていなさい。やがてあなたがたは全世界においてわたしの証人となります」と言い残し、イエス様は天に帰って行かれました。彼らはその光景を呆然として見ています。しかしながら、使徒の働き一章、二章を読むと、イエス様が天に帰っていった時の彼らの様子は、十字架の時のようなショックは受けていません。イエス様が十字架にかかられたときは相当なショックでしたが、天に帰られた光景はあまりショックを受けてなさそうです。なぜならば、イエス様は「やがて帰ってくる」と言われましたし、天にあげられていく様を見ながら天使が、「あなたがたが見ているのと同じようにイエス様はまた帰って来られます」と言われたからです。それと共に、「あなたがたは祈っていなさい」と言われました。弟子たちはすぐに集まって祈りはじめました。祈り始めて十日後に聖霊が注がれました。それがペンテコステです。
 「弟子たちは祈り続けました。十日もの長い間真剣に祈り、やっと聖霊が下りました」という話を聞きますが、私はそうは思いません。十日は実に短かったと思います。イエス様が天に帰ったのは十日前のことです。そして、聖霊が注がれるという約束が十日間祈って訪れたのですから。彼らにとっては、本当に、昨日の今日くらいの感覚だったと思います。決して長い時間ではありませんでした。イエス様が言われたことはすぐに実現したのです。そして、聖霊が注がれた後、彼らが持った期待感は、つづいて「イエス様はすぐに帰ってくる」と言うことだと思います。
 聖霊が注がれたとき、力強い働きが始まり三千人が救われ、五千人が救われるという奇跡が起こりました。彼らは大胆に福音を伝えています。その背景には聖霊の力が勿論ありますが、それ以上に彼らにはイエス様はよみがえられ、天に帰ったけど十日後に聖霊が注がれたのですから、「後、一週間もしたら、イエス様は再臨されるのに違いない」と信じたはずです。それが証拠に、使徒三章を見るとペテロのメッセージの中心は「回復」であり、それはイエス様がすぐに帰って来られるという視点です。だから新約聖書を読むと、「イエス様はすぐに帰って来れられる」という臨場感があります。それはそのような背景があったからです。
 彼らは鬼の首を取ったかのようでした。エルサレムはイエス様を主として信じる者で溢れていました。それも祭司たちが次々と信仰に入ったと書かれています。イエス様を十字架につけるために働いた人たちが、今度はイエス様をメシヤとして信じてクリスチャンになったということです。これは彼らにとってすでに回復そのものでした。「やった!」という感じでした。そして、次のスケジュールは、イエス様の再臨と神の国の実現です。そこにあるのは、自分たちがイエス様の右と左に座れるという栄光のストーリーでした。
 しかし、ストーリーは、彼らが考えていたようには運びませんでした。イエス様は帰って来られませんでした。その代わりに、なんと、ステパノが殺されたり、エルサレムで大迫害が起こり、弟子たちは散らされてしまいました。エルサレムには止まることができない環境になってしまいました。それらは彼らにとって意外な転回であったと思います。
 「聖霊が激しく注がれ、立て続けにすごいことが起こったのに・・・」しかし、彼らは散らされたところで伝道しました。どのような人たちに伝道したでしょうか。それは、今まで「伝道したくない」と考えていたサマリヤ人たちに伝道したのです。やがて、「顔も見たくない」と思っていた異邦人にまでも伝道しました。
 聖霊様の働きは、「力」という働きがあります。しかしながら、聖霊様の根元的働きは、人が持っている「視点を変えるという力」です。初め弟子たちが持っていた世界観は、「偉くなりたい、強くなりたい」という世的なものでした。何とか人よりも一歩先に出たいという思いでした。しかし、聖霊様の働きはそのような心を変えていきました。
 実は彼らは、聖霊を受ける前から力を持っていました。なぜならば彼らがサマリヤの町に入った時、「イエス様。この町を火によって焼き尽くしましょうか」と語ったところからも分かります。イエス様は「お前たち。そんなことできないくせにえらそう言うな」とは言われませんでした。弟子たちにはそのような権威があったのです。弟子たちは病人も癒し、悪霊をも追い出す力がすでにありました。しかし、その彼らが持っていた「偉くなりたい。強くなりたい。」という視点と共に力を使ったらどのようなことになったでしょうか。
 もしもサマリヤの町を火で滅ぼしていたら、どのようになっていたでしょうか。その後、聖霊が注がれて、「エルサレム、ユダヤ、サマリヤに伝道せよ」と言う指示に従ってサマリヤに行ったらどのようなことが起こっていたでしょうか。サマリヤ人が福音を受け入れるところから、「お前らよくも俺たちの町を火で焼き尽くしたな!!」と、民族紛争が起こった事でしょう。絶対にサマリヤには福音は伝わりませんでした。
 サマリヤに火が下っていたら、今の私たちも救われていません。ということは、聖霊のそそぎの重要なポイントは、「力」というよりも「内的視点が変えられた」ことです。聖霊様は私たちの持っている「この世的な視点」を「神の国の視点」に変えていくという重要な働きをされるのです。
 聖霊の力を求めるとき、神は聖霊の力は与えて下さいます。しかし、力は与えられますが、それと共に聖霊様は視点を変える働きをなされます。
 ある意味で私たちに対してもそうでした。九二年二月十三日にこの教会に聖霊が注がれました。あの時は鬼の首を取ったような感じでした。しかし、その後起こったことは、私たちの内側の視点を変える事件でした。「お前たち。このままの視点では駄目だ。世の中と同じように、会社を大きくするような感覚で教会を考えていてはいけない。神の国の視点が必要です。」と教えられました。
 弟子たちも同様でした。強い者に価値があるということではなく、弱いところに働かれるか神様。また、からだとしての各器官としての価値ということについて教えられました。この世の中では、受けるために努力しますが、そうではなく、「受けるよりも与える方が大切だ」と変えられました。
 偉くなり威張ったり支配するというのがこの世の働きですが、聖霊様は「そうではない、イエス様が言われた通り、偉くなりたいと思ったら仕える者になりなさい」と言われるのです。
 今日、三名が副牧師になりましたが、これから彼らがへりくだって仕えるしもべになれるかどうかです。しもべです。仕えなくてはなりません。
 現実の拡大ではありません。目に見えない、神の国の拡大であることを弟子たちに教えられました。始め弟子たちは神の国の拡大についても、現実の国の拡大としか捕らえませんでした。これが転換されたところに聖霊の大きな働きがあります。
 私たちも内的視点が変えられてから聖霊の力をいただかなくては、弟子たちのように後で苦しい目に遭います。先に聖霊様に霊的視点を変えていただいてから聖霊の力をもらった方が良いと思います。弟子たちは先に力をもらい、後から取り扱いを受けています。イエス様に言われた事を先に理解していたら、ペンテコステ後の出来事もかなり変わたと思います。内的視点の転換が大切なことです。
 教会に来ると、この世の中の価値観から、神の国の価値観に変えられるのは素晴らしいことです。もしも、それが変えられたとすれば聖霊様の重要な取り扱いを受けていることです。
 さて、最後にもう一つ学びますが、聖霊様の働きは、閉ざされた領域に剣のように切り込む働きです。先週読んで恵まれた御言葉ですが、申命記三十三章二十九節に、

『しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」』

 この箇所の中から学べるのは、神の働きには二つの側面があるということです。その一つは「盾としての働き」です。盾は敵の弾を防ぐものです。しかし、それと同時に「勝利の剣」としての働きがあります。私たちはいつも神様に「盾となって下さい、助けて下さい」と祈ります。何の問題も起こらずに、神様がついたてになって下さり、全ての弾を受けて下さったなら、どんなに素晴らしいでしょうか。しかし、神様の働きは盾だけではありません。特に、聖霊様の働きは「剣としての働き」です。
 今までユダヤ人とサマリヤ人は対立していました。しかしその中に剣が割って入りました。また、異邦人の中にも剣が入っていました。剣が投げ込まれるときには、必ず何らかの問題が起こります。しかし、そのことによって私たちはやがて敵の背を踏みつけるのです。
 近頃、新城市のある地域でクリスチャンが増えてきました。ある一つの場所に十世帯近くのクリスチャンが住み、その周りにも多くのクリスチャンが住むようになりました。日本は行政と偶像礼拝が一体になっており、神社の祭りの時期になると行政組織を通して、寄付が集められたりします。しかし、クリスチャンは「私はクリスチャンだから寄付はしません。」とはっきり言います。もしまだ断っていない方がいたら、はっきり断って下さい。そうしたら神様はあなたを祝福して下さいます。少しくらい迫害があっても「寄付はしません。私はイエス様を信じていますので。」とはっきりと言えば良いのです。その地域のクリスチャンは、勿論はっきりと「私はクリスチャンですので、祭りのための寄付はしません」と言いました。しかし、彼らはそれだけで止まりませんでした。その地区が、公費である区費の十五パーセント程を祭礼費に当てており、行政組織の中でなされているのは間違いだ、切り離さなければならないと主張しました。すると、蜂の巣をつつくように色々な問題が起こってきました。「お前たちは、今までの伝統を壊す気か。そんなことを言ったらこの場所に住むことはできない」「命を狙われるぞ」などと言って脅されました。しかし、彼らは祈って戦いました。切り離さなければならないところは切り離すべきです。市を巻き込み、町内会を巻き込み、区も巻き込み、戦いました。それはただ盾だけではなく、剣の働きです。地域に剣が投げ込まれました。私もそのことを知ったときに、「どうか彼らを守って下さい。これが決して敗北に終わることがないように。」と真剣に祈りました。
 何度も話し合いが持たれました。先週も話し合いが行われました。すると、区長さんが「あなたがたの主張はよくわかりました。宗教と行政は分けなければならないと思います。これから祭りをやりたい人だけで組織を作ってやっていきたいから時間を下さい。」と言われたそうです。うやむやにせず、剣を投げ込んだときに問題が起こりましたが、勝利につながりました。
 聖霊の働きは剣としての働きがあります。今まで触れたくないところに剣が投げ込まれるのです。家族の救いも同様だと思います。一人がクリスチャンになり剣が投げ込まれ、家族がゴチャゴチャし始めるのです。聖霊様の働きはそのようなものです。二千年の間、聖霊様の働きにより、暗闇が引き裂さかれてきたのです。初めは色々な問題が起こるかも知れません。しかし、やがて敵の背を踏みつけるという、勝利につながるのです。
 今日ペンテコステの日に、私たちはこの聖霊様の働きを感謝して受け入れていきたいと思います。そして弟子たちと同じように、満たされて進んでいきたいと願います。内側の視点がはっきりと転換されることを求め、聖霊の力を求めていきたいと願います。そして、ただ盾の後ろに隠れるのではなく、剣として暗闇を引き裂くために用られるよう、祈っていきましょう。一言お祈りします。
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