今週の礼拝メッセージ
2001.6.10(SUN)
祝福をもらうためには
新城教会牧師 上條 実牧師

旧約聖書 ハガイ書1章7節〜9節
万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

 ハレルヤ!明牧師たちが今北欧の方に行っています。二十六日までフィンランドとノルウェイとスウェーデン、私は行ったことがありませんが、何の通達もないので元気だとは思いますが、ぜひ、お祈り下さい。また、今日は順牧師は豊川で集会をしています。不思議なもので豊川から来られている方もいれば、そちらに行っての集会をしています。お祈りしつつ、御言葉を学びたいと思います。ハガイ書から「祝福をもらうためには」というタイトルで学びます。だれでも祝福をいらないと拒む人はいません。絶対に神様から祝福をいただきたいと私たちは願っています。そして一番の祝福をいただいたことはまず、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられ、葬られて三日目によみがえって下さったことにより救われたということは何ものにも帰ることができない素晴らしい祝福です。しかし、私たちは色々なことを一生懸命祈っています。しかし、現実私たちは御言葉では求めなさいそうすれば与えられますと言われますので、必ず心の中では確かに神様に祈ったら答えていただける、素晴らしいいのちまでもささげて下さった神様だから私たちに祝福を下さることはわかってはいます。私は祝福が欲しい、この事のためにと言って祈っていますがなかなかいただけずいるときに自分の足りなさいがあるのか、色々なことでまだまだ祝福をいただけていない現実があります。聖書の御言葉は必ず祝福して下さるという約束ですし、私たちは聖書が一転一角変わらないと信じています。私たちは素晴らしい神様からの祝福をいただいていますが、早くこれも答えて欲しい、こういうふうになって欲しい、ああいうふうになって欲しいと願いますがなかなか答えられないという現実があります。

万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

と書かれています。信仰生活の中で素晴らしい祝福と恵みをいただいていますが、何かまだ祝福をいただくことができる状況が作れるのではないかと考えていました。その中でハガイ書の御言葉が与えられました。
九節には、

1:9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。

と書かれています。礼拝でとても心が安らぎ、神様の祝福、油注ぎ解放をいただき頑張ろうと思います。実際はこの御言葉にあるように、『多くを期待したが、身よわずかだった』と書かれ邸升。先週はペンテコステの礼拝を持つことができ、聖霊の働きは人間的な支配を転換し、神の正しい価値観を与えるものということで、神の価値観ということを御言葉で学び、神様が私たちに素晴らしい聖霊の力によってわざを成して下さると学び、力をいただきましたが、実際に先週一週間、恵まれて感謝だったという時がありましたが、どうしたのだろうか。どうして祈りが答えられないのだろうかという気持ちがありました。自分の中でどうして生きている神様なのに、すぐに答えがいただけないのだろうか、なぜ、祝福があるとわかっているのに現実はうまく行かないのだろうか、また、自分は罪があるのかと反省していたときに、ハガイ書の御言葉で教えて下さいました。

それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

どうしてと神様につぶやきながら、どうして癒されないのですか、なぜ家族の救い人々の救いのために祈っていながら答えられないのですかとつぶやきながら聖書を読んでいるときに、この御言葉を神様が私に語って下さいました。

それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

これを読んだときに私はふと考えました。先週恵まれた礼拝の中で地震がありました。その前も何回か地震があり、地震があるということはこの地域は地震強化地域なので、もしかして、東海沖地震の前触れかも知れないと恐れたかも知れません。私もそんな思いが過ぎりました。そして、富士山が揺れており、爆発されるのではないかと言われ、今までは観光目的ばかりで避難訓練はしませんでしたが、山梨県が避難訓練が行われこれはただ事ではない、世の終わりが近づいていると思います。また、金曜日には大阪で小学生が殺されるという悲しい事件が起こりました。今まで安全だと思っていた子どもたちが知恵を学び人間関係を学んでいた学校であのような事件が起こったこと見たとき、これは普通ではない間もなく神様が来られると思います。しかし、私はその事件を見たり地震を感じる時にどうか、この日を救って下さい、滅びゆく日本の魂を救って下さいと祈りました。しかし今週私が閉めている祈りは新城教会、リバイバルの祈りというよりも、やはり自分のことを祈ってました。この礼拝のことや御言葉がうまく語れるようにと一生懸命祈りましたが、自分のことが結構多いです。間もなく神様が帰ってくるから日本のリバイバルのために愛する魂のために祈るべきだとわかっていても九節にあるように、

それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

と書かれています。神様が一日二十四時間という時間を下さいました。その中で誰もが仕事をし、食べ、寝る・・・とたくさんするべき事がありますが、その中で神様中心で生きていたでしょうか。神様を愛し、自分から出るものはすべて神様のもので全部神様のために生きたかというと、神様は二の次で全部おいてしまい、自分のために走り回っていたところがあると思います。祝福をいただきたいと求めていくことは必要なことですが、私たちが祝福をいただけない原因の中に自分の家のために走っていたいうことを神様が私に語って下さいました。ハガイ書一章八節に、

山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。

と書かれています。今日覚えて下さい。一生懸命自分のことだけで精一杯になり、祈ることも自分のことばかりで祝福をいただけない、しかし、自分は可愛いし自分のために祈ることは大切なことですが今日祝福をいただくための方法・秘訣が八節の中に隠されています。神様が私に語って下さったことの一つは、山に登りなさいということ、もう一つは、木を運んできなさいということでした。山に登りなさいというのは登山をすることではなく、私たちは神様により色々なことを読み取ることができますが、山に登り木を運んできて宮を建てなさいという御言葉を全ての私のメッセージを忘れても良いですが、このことを握って帰って下さい。宮とは、第一コリント六章十九節に、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

と書かれています。宮をとは私たちのからだです。神様から受けた聖霊の宮だということですが私たちはイエス様の十字架によって買い取られた者です。そして私たちのからだは自分のものではなく、今週はぜひとも自分のために生きるのではなく神様のために生きるという姿勢をもっていただきたいと思います。そしてその祝福をいただくために山に登ると言うことです。出エジプト記の十九章二十節に、

主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。

マルコ三章十三節に、

さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。

と書かれています。山に登るとは第一に、『神様が呼び寄せられた』と書かれています。そしてお望みになった人を呼び寄せて、あなたがたはこちらに来なさい。わたしのみもとに来なさいと神様は宣べ伝えています。ですから今日私たちが祝福をいただくためにはまず、私たちが常に神の前に出るという毎日の生活をしたいと思います。食事をする、仕事をする、人に会う、個人で静まる時も神様の前に呼ばれていることを覚えて下さい。あなたが神の前にいて神様があなたの目の前にいて、私たちの生活を見て下さっている、私たちは神の前に奴隷です。十字架によって買い取られていますので神様の前にいていつでもそこに行けと言われたら出陣できるように、いつでもこうしなさいと言われたらすぐにできるようにいつも私たちは神の前に出ていることが必要です。これはもっとわかりやすく言うと、いつも神の前に出ることは、何をするにも関連づけて学びも神様のため、今神様がどのように思っているか、神様が私たちに何を行っているのだろうか、この仕事を通し、この会話を通して神様は私たちにどのようにするべきだと言っているだろうか、神様の全てを私たちが感じとるために目の前に行くべきであることを覚えて下さい。私は野球が好きです。野球を見ているときに選手たちは好きで自分勝手にやっているのではありません。監督がいてサインをコーチに送り、コーチが選手たちにサインを送り、監督がダックアウトの中でサインを出していますが、やっている人は選手であり、指示しているのは監督です。監督の思う通りに選手たちが動いています。それと同じように私たちは動いていますが、指示をされるのは神様です。今私は何をすればいいですかといつも神の前に出て下さい。ヤコブ四章八節に、

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

と書かれています。私はいつも心に言い聞かせています。「神様、祝福を下さいよ。なぜ下さらないのですか」と私たちはいつも不平を言ってしまいますが、そうではありません。私たちが神様に近づいたら私たちが神様に近づいて行けば神様が私たちに近づいて下さると言うことです。ですから、私たちは近づいて神の山に登っていかなくてはなりません。今までと同じように神が距離をとられると思います。しかし、今日、毎日の生活の中で神様に近づいて行くならば、それを神様が見られ、神様も大きく近づいて下さいます。私たちは何もできないので意識的に仕事をしている中で神様が共にいて下さる、神様何をしたら良いですかととっさにしか祈ることはできませんが、私たちは小さな一歩かわかりませんが、神の前に私たちが一歩踏み出したときに神様が近づいて下さる一歩は大きな一歩だということを覚えて下さい。だから、今日神の前に近づくことが第一で、素晴らしい祝福であることを覚えて下さい。そして、マタイ五章一節から二節に

この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

と書かれています。イエス様が山に登られたときによく御言葉を語られました。五章を読み進んでいくと「山上の垂訓」が書かれており、有名な御言葉が書かれています。祝福をいただくためのもう一つの方法は常に神様の御言葉をいただくことです。それが山に登るということです。私たちの人生のマニュアルは聖書です。それを行うことがクリスチャンです。この御言葉を更に読み続けていくときに神様が必要なことを語って下さり、足りなかなったことを教えて下さり、こうやったら祝福がいただけると神様がこの御言葉を通して教えて下さることを覚えて下さい。私は小学生の子どもたちに「御言葉の剣」というのを書かせています。読んだ聖書箇所、教えられたこと、家の人のサインがあります。一生懸命幼子たちが一週間に一度しか読めなかった人もいれば、毎日読んでいる子もいます。そんな中で勘当しています。いつも提出してもらい、一週間の間に目を通し、鈍なことを教えられたかを見ます。子どもたちが色々なことを教えられています。ある人は、十字架でペテロが裏切ったところを読み、ペテロど悪い!と書かれていたり、超すごい!!」とか子どもたちの言葉で書いています。一人の女の子の御言葉の剣を許可を得て紹介します。これは五月二十一日からの一週間中で第一歴代誌を読んだことが書かれています。第一歴代誌の一章から四章はあまり読みたくないところです。カタカナの名前ばかりです。こんなところは嫌だ。早く飛ばしたい、斜めに読みたくなるところです。しかしその女の子は毎日その名前を一生懸命読みました。そんな中で一番おもしろかったのが、四章三十節で、「ベトエル」という人が出てきました。そこに彼女が書いたことは、「三十節でベトエルを最初はベトナムと間違えた」と書かれていました。また、次の日は二章で「コラという同じ名前があった」と書かれていました。色々なことが書かれていますが、六章でやっと三節でモーセが出てきたと書かれていました。これは、自分の知っているモーセがやっと書かれていたということです。そして最後の七章では、「イッサカルという名前を始めた見た。」と書かれいました。私は子どもたちが読んだ御言葉をチェックしていますが、こんな御言葉ばかり、私はどうやって教えられたかを書けるかと思うと、書けません。子どもたちは新鮮に読んでいます。名前ばかりの中でも新しい発見をして神様から色々なことを教えられています。子どもたちは子どもたちなりに御言葉を読み糧にしています。霊的戦いと言われていますが、私たちは剣で戦って勝利することができますが、その剣は御言葉です。御言葉の剣で立ち向かって暗闇の力に打ち勝つことができます。この御言葉を読むために毎日時間をかけて読んで下さい。ある意味で朝昼夜と食事をしますが、それはなくてはならないものですが、時間がなかったらその食事を省いてでも御言葉を読むべ価値があると思います。それは私たちの人生にとって、私にとってあなたにとって絶対に必要な言葉が聖書に書かれていますので今日祝福をいただくために更に御言葉を読んでいきたいと思います。そして御言葉を読むだけではなく、マタイ五章一節から所では座って人々は御言葉を聞きました。私たちは忙しいかも知れませんが、忙しい中で集会をもっと大切に考えて下さい。私たちの教会では色々な集会がありますがその御言葉を聞く時間が素晴らしい祝福であるにも関わらず私は自分の家で走り回っており集会は行けれないというのでは神様は祝福は下さらないと思います。時間でその仕事で都合のつかない方がいるかも知れませんが、今週その御言葉を聞くためにあなたは最後の最後でも良いので、家庭集会の交わりだけで何かお菓子を食べに行くだけではないかと思われるかも知れないと考えるますが、とにかくその御言葉の場所に座ることが大切であることを覚えて下さい。ルカの福音九章二十八節に、

これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。

と書かれています。山に登る三つ目は祈ることです。皆さんはどのくらい祈っておられますか。自分のために苦しみ解決するために祈っていると言われるかも知れません。私も祈っていましたが、私の息子は今調子が良いです。調子が悪いときは心配なので一生懸命祈ります。しかし調子が良くなってしまうと大丈夫だと思って祈らなくなっていまいます。暑さも喉元過ぎれば忘れてしまい、大変なことがあると祈りますが、それを過ぎると祈らなくなってしまいます。しかし今日覚えて下さい。山に登ることは祈ることです。あなたも今週ひざをかがめて祈る週として下さい。祈るときにあなたに祝福を下さるという約束です。また、その次には木を運べということです。気を運ぶと言うことは、創世記三章に蛇とアダムとエバのやりとりが書かれています。神様はエデンの園の中の木の実を何でも取って良いと言いました。そして一つの善悪を知る木の実だけは食べてはいけないと言われました。良い木ばかりですが、この悪い木の実だけは絶対に食べてはいけないと言いました。しかし、蛇がエバに寄ってきて、六節に、

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

と書かれています。エデンの園の中でたくさんの木がある中でエデンの園の木だけは食べてはいけないと言われたにも関わらず、なぜか、蛇=悪魔に誘われその木の前に立ってしまい、結局これは美味しそうだ、自分を賢くすると悪魔から誘惑を受けました。そしてとってついに食べてしまいました。そのことのゆえに人間に死が入り、祝福から転落してしまいました。木を運ぶということは、悪い気ではなく、良い木を選び取りなさいと言うことです。今携帯電話などで色々な状況を引き出すことができます。今まではテレビでどんなニュースがあるかわからなかったにも関わらず、携帯で毎時間ニュースをキャッチできるような時代になりました。しかし、情報が多いことは誘惑も多いことを覚えて下さい。テレビを見たときに、雑誌を見るとき、会話を聞くときにあまりにも汚れていて目を覆わなくてはいけないという現場に立っているにも関わらず、知らないうちに私たちが寄って行ってしまうことがあります。この木だけは絶対に駄目だ、他の木は何でも良いという、たくさんの素晴らしい木があるにも関わらず、知らない間に悪魔の誘惑罠にかかり、一本のいけない木の所に立ち、食べて滅びてしまっています。今日全てのところに霊的な戦いがあることを覚えて下さい。そしていつも祈って聖書を読むと言いましたが、これは、私たちの守りになります。聖書を読み、祈り、神の前にいつも自分がどのようにいるか立ちなさいと言いましたが、それが神の前に守りになります。そして私たちは良い木の所に良ききよさを求めてきよい生活をするようにと教えています。ですから毎日木を運び出すためにきよい生活を徹底的にこれでもかと思うほど行っていなくてはいけません。神の前にしっかりときよく正しく前に出ていきたいと思います。悪い木を選んでいないでしょうか。目の前に、まだ手を出してはいませんが、好ましい、素晴らしい、やってみたいと目の前に立って色々な悪魔の誘惑を聞いてこのくらいは良いではないかと思い聖餐の時に悔い改めたら良いではないかと思っているかも知れません。若い方も聞いて下さい。たばこや男女関係など色々な誘惑がありますが、しっかりときよさを全うして下さい。絶対に足を踏み出たときに神の祝福を失います。だからきよさを持っていつもきよい木を切り出していきたいと思います。毎日寝る前に祈っているかも知れません。そんな中で自分はどんなことをしただろうかと考えて下さい。たくさんの木を運んでいる中で悪い木を運んでしまっているそれがあったら、今日十字架の血潮を仰いで悔い改めたいと思います。神が喜ばれないことは悔い改めて神様の聖餐、十字架と血潮を仰いでいきましょう。神様私はこのように負けて悪い木を持ってきてしまっていますので赦して下さい。これからは毎日正しい良い生活をするように祈って、良い木を運ぶ器になっていきたいと思います。そして最後に、今度は『宮を建てなさい』と書かれています。宮を建ててもらいなさいではありません。教会はイエス様がかしらで私たちは各器官だと書かれています。ですから、建てなさいというのは神の前に出て御言葉をいただき祈り、きよい生活をしていく中で兄弟姉妹が互いのために愛を持って祈っていくことです。マタイ二十二章三十九節に、

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

と書かれています。
自分のことばかり祈るという次元だったかも知れません。今までのように精一杯祈って下さい。しかし、それと同じように、それ以上に隣人のために宮を建てるために兄弟姉妹のために祈って下さい。自分と同じからだの人が病気で苦しんでいるにも関わらず、私たちは何も思わずに生活していたら神の宮はふさわしく動いていないのです。傷みを知らないのです。ですから、今日お互いに痛みを知ることが必要です。いつも教会に来ていますが、これはだれだろうというので終わってしまわず、あなたから挨拶して友だちになって下さい。またこの週報の中に色々な病の方がいます。祈っていますがどうですかと聞いてぜひ、その方々のために祈り合って下さい。あなたが積極的に宮を建て始めたときに兄弟姉妹を愛し、互いのために祈ることです。また宮を立てることは日本のリバイバル、また地域・新城のリバイバルのために祈ることも宮を立てることです。兄弟姉妹、全ての人のために自分自身のように愛を持って祈り始めたときに神様があなたに祝福を与えて下さるという約束です。ハガイ書一章九節に、

この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。

と書かれています。祈っていますと言っていながら自分のことばかりだったことを今日悔い改めていきましょう。そして、自分だけではなく隣人のために、苦しんでいる人のために一生懸命愛のもてなしをしてあげたり、一生懸命その人のために祈ってあげる、色々な愛の交わりがこの教会に動き始めていくときに神様は受けるより与える方が幸いですと書かれています。そして、ハガイ書二章九節に、

『この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。・・万軍の主の御告げ。・・」』

と書かれています。私が一番初めに御言葉をいただいたのは、一九八〇年にこの会堂を建てたときに献堂式の前に韓国のチョン・ウン先生がこの御言葉を語って下さいました。これからの祝福は今までの宮の祝福よりも勝るという御言葉でした。今日あなたが山に登り、木を運び出し、あなたが献身的に宮を建て始めたときに今までとは違う、先のものより勝ろうと神様が素晴らしい祝福を与えて下さるという約束をハガイ書から見ることができます。一つでも今日足りないところがあったら神の前に悔い改めていきましょう。今日兄弟姉妹が祝福され、私たちも一生懸命祈っていけば、祈りが忍耐なくなり途中で祈り終わってしまう、祝福をもらわないで途中で終わってしまうのではなく、更にきよさをいただき祈り続けていきましょう。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。必ず時が来たとき私たちは神様の前に山に登り木を運び出すときに祝福があることを覚えて下さい。お祈りします。
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