今週の礼拝メッセージ
2001.6.24(SUN)
救いの方程式
新城教会牧師 岡本信弘牧師

新約聖書 使徒の働き 4章12節
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

 ハレルヤ!主の恵みを心から感謝します。皆さんと共に神様を礼拝することができ、感謝します。今日は「救いの方程式」というテーマで学びます。
 皆さんも、中学・高校で方程式というものを学んだと思います。しかし、ほとんどの方が実生活に活用されていないのではないでしょうか。特別な職業などで、それを発表できるような場がないと使いません。私もたくさん覚えましたが全部忘れてしまっています。
 方程式という意味を辞書で調べると、「未知数に特定の数値を与えたときだけに成立する式」と書かれていました。私はスポーツが好きです。サッカーは、来年のワールドカップに向けて盛り上がっています。特に今回行われたフェデレーションカップでは準優勝したので、期待が高まってきました。また、野球も好きでラジオ中継を聴きます。大体ナイター中継は六時から始まりますが、私が聴くのは途中の七時か八時頃からです。ラジオをつけてまず知りたいのは、サッカーもそうですが、自分が応援しているチームの勝敗です。しかし、ラジオをつけたときに、すぐ何対何かを言ってくれるとは限りません。勝敗を知るまで待っているのはじれったいと思いますが、そのチームのことをよく知っている人には、勝っているか負けているかがわかる秘訣があります。その日の投手の名前を聴くと、今日は勝っているか負けているかがわかるのです。試合中に、このピッチャーが出れば必ず勝てるという投手に代わるとき、解説者が「これは勝利の方程式です」とよく言います。私はこの言葉を聞きながら、「いい言葉だなぁ」と思い、勝利を予感できるのです。野球にもそんな方程式があります。スポーツにおいては、未知数である勝利を得るために、特定の数値である絶対に勝てるという選手を投入することで、その勝利の方程式は完成するのだと思いました。もちろん、試合が終わるまでその勝敗はわかりませんが・・・。
 では私たちが救われる「救いの方程式」は何だろうと考えてみました。今日、聖書の御言葉からその回答を皆さんと共に考えていきたいと思います。
 日本人の多くは救いを求めて色々なことをしています。一番手っ取り早いのは困ったときの神頼みで、神社に拝みに行きます。私はクリスチャンの家庭に生まれたので、クリスチャンでない多くの人々が、いくつもの神社に行くということが不思議でたまりませんでした。ある人に聞いてみると、一つの神社ではすべての願いが叶わないかも知れないから幾つかの所に拝みに行く、と言いました。買い物でも買いたい物が一つの店で買うことができれば良いのですが、買いたい物がそこになければ他の店へ行きます。同じように、自分の行く神社で願い事が全部叶いそうもなかったら、他の神社に行くらしいのです。商売繁盛はここ、交通安全はここ、と決めているそうです。神社によって効力が違うらしいのです。また、車の後ろに同じ神社の交通安全祈願のシールが何枚か貼っている車をよく見ます。なんと、そのシールには、効力があって、一年経つと効力がなくなるので毎年、買い換えるそうです。また、いくつかの神社のものが貼ってあることがありますが、同じ交通安全の神といっても、一つの神社では安心できないというのです。例えば、自分が交通事故に遭ったとき、自分の拝んでいる神がたまたま昼寝をしていたら、いくらお金をつぎ込んでいても助からないから、保険としてもう一つの神社の神にお金を出して拝んでおけば、どちらかが起きていて助かるのではないかとでも思っているのでしょうか。しかし、絶対にこの神様に拝んだらという唯一性は全くありません。ですから、この日本の八百万(やおおろず)と言われる神の中には、救いの方程式を完成させる数値はないのです。使徒の働き四章十二節には、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです』

と書かれています。この方とは誰でしょう。
使徒の働き四章一節に、

『この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、彼らに手をかけて捕えた』

と書かれています。
 イエス様はこの地上で三十三年間生きられました。三十歳からの三年間に、たくさんの人がイエス様を信じ、弟子たちが加えられて素晴らしい働きをしました。しかし、十字架にかけられ、殺され、そして葬られました。これでイエスに関わる問題が終わったと律法学者や祭司、ローマの人々は一安心していました。しかし、自分たちがはりつけにして殺したはずのイエスが復活しました。そして、よみがえったイエス・キリストを弟子たちが伝えているのを聞き、「これは困ったことだ、どんどん信者が増えていく」と心配した彼らは、弟子たちを捕らえ、投獄し、議会に引き渡したのです。そして、

「彼らは使徒たちを真中に立たせて、『あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか』と尋問しだした」(七節)のです。

それに対してペテロは聖霊に満たされて、反論し始めました。

『私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです』(一〇節)。

 あなたがたが十字架にかけたイエスの御名によって祈ったらいやされた、と言ったのです。また、

『あなたがたが家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石になった』

とも言っています。
 家を建てるときには基礎の石が必要です。この石がなくては家を建て上げるのに困難であり、しっかりとした家を建てることができません。あなたがたが家を建てるために重要な石を、あなたがた自身で捨ててしまったのだ。それがイエスだったのだ、と言っています。使徒たちは、イエス・キリストこそ救うことがおできになる、唯一の方だと言っているのです。これはイエスを十字架にかけた人々にとっては、聞き捨てならない言葉でした。

 人間は救いを追い求めます。イエス様が地上で生きておられた時代、人々は唯一の神様を信じていなかったわけではありません。イエスを十字架につけた人たちもメシヤを追い求め、いつか私たちを救って下さる神が来ると待ち望んでしました。しかし、その待ち望んでいたメシヤがイエスであると、彼らは認めませんでした。実際に自分の目で見たイエスを、ただの人間、ナザレに育った一人の大工として見ただけで、「神であったら疲れることも眠ることもないはずだ」と言って、イエスを神だと認めませんでした。
 日本人は神はいくつもいると言います。色々な神に拝んでいたら、そのうちのどこかの神様が助けてくれると思っています。それは、日本人の神という概念が確かではないからです。私たちが救われ、祝福をいただくために知らなければならないことは、私たちを造り、いのちを与え、生かしてくださっている唯一の神がおられるということです。救いはただ一つだけです。
創世記一章一節に、

『初めに、神が天と地を創造した』と書かれています。

 神様は、皆さんが目で見ている被造物すべてを造られました。と同時に、私たち人間を創造されました。初めにアダムが塵から造られ、アダムの骨から女であるエバが造られました。その生活は、何の苦しみもなく、痛みもなく、神と自由に交わりの持てる楽しいものでした。しかし一つだけ、「エデンの園の中央にある善悪を知る木の実だけは、絶対に食べてはいけない。食べたら死ぬ」という神様との約束がありました。しかし神様から自由意志を与えられていた人間は、その約束を破り、蛇というサタンの誘惑に負けて、その「死ぬ」と言われた木の実を食べたのです。それによって、人類の中に罪が入りました。人間と神様の間に罪(裏切り)という一つの隔たりができてしまったのです。人間の中に罪が入ったために、人間は罪を持って生まれ、罪を持って死に、永遠の滅び、地獄へ行くという人生の方程式が、すべての人間に定められてしまいました。しかし、ここに、救いの方程式であるイエス・キリスト様が誕生するのです。
 今から約二千年前に、イエス様は地上に生まれてくださいました。その誕生は不思議で、処女マリヤから生まれ、人間と同じ痛み、苦しみを経験し、疲れたときには眠りました。しかし一度も罪を犯すことなく、育ったのです。そして、罪を一度も犯したことのない、汚れのない方が、人間のすべての罪をその身に負い、私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んで下さったのです。それは、私たち人間を救うためでした。
 コリント人への手紙第一の十五章三節から五節には、この良き訪れ、福音について書かれています。

『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです』

 イエス・キリストは私たち人間のすべての罪を赦すために死んで下さいましたが、人類の誰もが打ち破ることができなかった死の力を打ち破られてよみがえられ、今も生きておられる方です。イエス様はなぜ、この地上に来られたのでしょう。その目的は、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』(ヨハネの福音書三章十六節)

です。
 私たちが一人も滅びないため、すべての人が永遠のいのちを持つことができるために来られ、救いの方程式を完成して下さるのです。

 使徒の働きを見ると、パウロが何回も投獄されたことが書かれています。十六章では、パウロはシラスとともに投獄されていました。彼らは牢の中で、真夜中、神に祈りつつ賛美していました。その最中に大地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動き、捕まっていたみなの手かせ、足かせが解け、自由に逃げることができるようになった。番をしていた看守は、みな眠りこけていたので、大地震に驚き起き上がって見ると、牢のとびらが開いていて、みなが逃げてしまったと思い、「大変なことになった。もう生きていることはできない」と考え、自殺しようとしました。その時にパウロが

『「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った』(十六章二十八節〜三十一節)。

 自分はクリスチャンでも、家族、親族がまだ救われていない人はたくさんいます。しかし、神様は、主イエスを信じるなら、自分自身が救われるだけでなく、家族も救われる、と約束して下さっています。それでは、救われるために、何をしたらよいのでしょうか。
世の中では、神社仏閣にこれだけのお金を出したら救われるとか、こんな難行苦行したら救われるとか言われますが、ローマ人への手紙十章九節から十節に、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです』

と書かれています。時間もお金もいりません。ただ信じるだけで救われることができると聖書は言っています。
 多くの人が神社に行き、交通安全の神に拝み、病の癒しの神に拝み、商売繁盛の神に拝み、それがかなえられ、その問題が解決されたとしても私たちは救われたということにはなりません。いつかまた病気になったり、さまざまな問題が起こったりするでしょう。そしていつか私たちは死にます。
 本当の救いとは、何でしょう。救われるという意味は、今まで罪の中にいた者・サタンの支配下にいた者が神の支配に移され、また、永遠の滅び、地獄に行く者であったのが、この救いによって永遠のいのち、天国に行く者とされることです。罪ある者から罪のない者とされる。私たちがどんなに誠実に歩んでいても、どんなに裕福に素晴らしい生活をしていたとしても、永遠のいのちを持つことはできません。天国に入る条件は、神ご自身が私の罪、皆さんの罪を全て背負って人間の身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さったことを信じることです。
 私たちが信じている神様は、この願い事に効き目があるという神様ではありません。頭が痛いときに胃腸薬を飲む人はいません。また反対にお腹が痛いときに頭痛薬を飲む人はいないように、薬には用途があって、それだけにしか効果がありません。先程からお話ししているように、ひとつずつだけにしか効力がないような神社仏閣とは違い、私たちの信じている神様はオールマイティーです。私たちのすべてを知っておられ、一生を導いて下さる神様です。

 ある人は、「救われて、永遠のいのちを持ってください」と言っても、そんなことはもっとずっと先のことだと若い方は思われるかも知れませんが、
ペテロの手紙第一の一章八節から九節に、

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです』

と書かれているように、永遠のいのちが与えられるということは、たましいが救われることだと言っています。
 
 今、問題を抱えている人、病気で苦しんでいる人があるかも知れません。もちろん、イエス様を信じて教会に行っているからといっても、病気にならない、事故に遭わないというわけではありません。しかし、たましいの救いを得ている者は、目には見えませんが確かにともにおられる神様を、愛しており、信じており、言葉に尽くすことのできない栄えに満ちた喜びおどることができるのです。人間は、生まれたままでは永遠の滅び、地獄に行く罪の方程式が決まっていましたが、イエス・キリストを信じてすべての罪が赦されたことにより、いのちの方程式の中に入れられ、永遠のいのちへの人生が始まるのです。その永遠のいのちへの人生は、私たちが死んでから始まるのではなく、イエス・キリストを信じたときから始まっているのです。私はクリスチャンになってもう四十年近くになりますが、永遠という期間を考えたらほんの一瞬です。イエス様を信じた私たちのたましいは、これから何十年、何百年それ以上に、永遠に続きます。
 皆さんが神社仏閣に拝みに行ったとき、病気が治ったかも知れません。サタンも病気を治すことがあります。しかし、それはすべてサタンの罠です。サタンは私たちを何とかして、本当の救い主であるイエスに目を向けさせまいとし、さまざまな方法で、人々の心に取り入り、惑わし、偽り、攻撃を仕掛けます。そして、神様を裏切り、永遠の滅び、地獄に連れていこうとするのです。私たちはしっかりと目を開き、サタンの攻撃があることを覚え、罠に陥らないようにしましょう。
 イエス様はあなたを愛しておられ、あなたに素晴らしい救いを与えようとしておられます。全ての人が救われるためにイエス様はこの地上に来られました。そしてご自分のいのちを投げ出して全ての罪を背負って十字架にかかり死んで下さいました。そして今も生きておられる方です。今日、まだ救いの方程式に解決を見いだしておられない方は、是非、イエス・キリストという方を心に迎えてみて下さい。簡単にその方程式が解けます。この唯一の神様、唯一のお方以外に、救いの方程式を完成させる数値はないのです。そのイエス様を心に受け入れ、救いの方程式を完成させ、新しい人生を始めて下さい。
 一言お祈りします。

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