今週の礼拝メッセージ
2001.7.1(SUN)
アニミズムからの解放
新城教会牧師 滝元順牧師

新約聖書 使徒の働き17章26節〜33節
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。

 ハレルヤ!御言葉を取り次ぐことができますことを感謝します。今日は「アニミズムからの解放」というタイトルで学びます。難しいタイトルですが、この事に関してここにいる子どもたちも理解できたら素晴らしいです。
 パウロが福音を宣べ伝えたとき、どこでも素晴らしい御業が現されました。しかし、ギリシャのアテネではある意味でパウロは効果的な働きができませんでした。そこには一つの大きな霊的理由があったように思います。今日お読みした箇所は、その時、パウロがアテネで語ったメッセージの一部です。十五節には、

『パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。』

と記されています。パウロは福音をアテネに伝える前に町を調査しました。今日午後から「アフターヌーン・サンデースクール」がありますのでぜひ出席して下さい。東三河の人々がどのような宗教感覚を持っていて、どんな偶像を拝んでいるかを調査し、どのように福音を宣べ伝えていくかについて学びます。何れにしても町に宣教に出て行く前に、町をよく知る必要があります。
 パウロは、アテネの町に偶像が満ち溢れているのを見ました。これは日本とよく似ています。日本も町を歩けば手で造った神々がいっぱいあります。皆さんはその光景を見てどのように感じますか。その光景を見て何も感じないのではいけません。パウロが聖霊による聖なる憤りを抱いたように、私たちも神の目で町を見たいです。パウロは町を調査した上で、町の人々に一番あった方法で伝道しています。その伝道方法について二十四節から、

『この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。』

アテネの人々は、「神は手で作った宮や像の中に住んでいる」という考え方を持っていました。しかしパウロは、その考えと正反対のことを教えました。神は人が手で作った物の中には住まわれない。神と呼べるのは創造者で、人間が仕えなかったら維持されないような存在ではなく、ご自分で天地宇宙を創造し支配されている方であると語りました。
 ある家が火事になったそうです。その家の人々は大切なものを持ってそれぞれ家から逃げだしました。おばあさんが大きな荷物を背負って家から出て来て、「ああ良かった。神様を助けることができて」と喜んだそうです。荷物の中には、位牌や仏像が入っていたそうです。しかし、後から考えたそうです。「神様とは本来、私を助けてくれる存在のはずなのに・・・なぜ、私が助けなければならないのだろうか・・・」
 日本人もアテネの人と同様、物の中に神が住んでいると考えますが、これは間違いです。そして本日のメッセージタイトルにある「アニミズム」とは、「物の中に霊が住んでいる」という考えです。天地宇宙を造られた神が物の中に住むわけがないのに、仏像の中や仏壇の中、岩、山や海など、被造物の中に神が住んでいるという考えるのです。これを「アニミズム」と言います。この考え方にパウロは反論し、ギリシャ人の間違いを正しています。二十八節に、

『私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。』

 聖書の教えはアニミズムの考え方とは違います。神は手で作ったものの中には住まわれない、逆に、私たちこそ、「神の中に生き動き、存在している」と教えています。
エレミヤ書二十三章では、

『天にも地にも、わたしは満ちているではないか。』

と記されています。今日、教会堂に入ったから神様に出会えたようには思わないで下さい。これはアニミズム的な考え方かも知れません。祈りのあるところには神の臨在が強く現されますが、神様は限定された会堂だけに住まわれる方ではありません。パウロはアテネに偶像が多いことに憤っています。しかしそれは人々に対する憤りではなく、背後にある霊的存在に対しての憤りです。私たちは悪魔の働きについてよく知るべきです。第二コリント十章三節から六節には、

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

とあります。私たちの戦いは目に見える戦いではありません。その中でも、特に大きな霊的戦いの領域は、心の中に起こる『様々な思弁と神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり』です。悪魔は人の考えの中に働きかけるのです。それは「神の知識に逆らう」知識によってです。神の知識によるならば、『天にも地にもわたしは満ちている』と考えるはずですが、悪魔の与える知識は、「神は仏像の中に住む」です。全く反対のことを教えます。悪魔は、私たちの心の中に神の知識とは逆の知識を植え付けようと真剣に働きます。日本人の中にあるアニミズム的体質は神の知識に逆うものです。それを取り去らなければなりません。

『あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

とは、神の知識に反する考えが取り去られ、神の知識に支配されるならば、「あらゆる不従順」即ち、悪魔の働き全てが打ち破られるのです。それはリバイバルと関連があります。そのためには、神に反する知識を取り除いていただきたいと願います。
 今朝、「SIR」機関誌が手渡されましたが、その中にグレゴリー・ボイド師の「世界観を巡る戦い」という記事があります。霊的な戦いは「ものの見方、即ち、世界観」の中で起こると語られています。後でよくお読み下さい。
 さて、日本の隣は韓国です。両国は歴史的には似通っている点が多くあります。特に宗教においては両国共に、仏教と儒教の大きな影響を受けました。日本同様、韓国においては、約千年に及ぶ仏教支配がありました。儒教は日本ではあまり表面的ではありませんが、日本人の中に儒教的な考えが多くあります。この二国を比較すると、ある点では大きな違いがあるのですが、宗教学者や比較文化学者が疑問に感じる一つの点があるようです。それは「キリスト教の受容性」についてです。二つの国が同じような宗教ルーツを持ちながら、キリスト教の受容においては全く違っているからです。現在、韓国ではキリスト教が国民の約三十パーセントを占めています。国民の三分の一がクリスチャンです。しかし日本のクリスチャン人口は一パーセント以下です。プロテスタントはさらに少ないです。残念なことです。なぜ違うのか、ある意味で謎だと言われています。色々な調査が成されていますが、日本を海外から見ると日本人の宗教観は不自然だと言われます。日本人は自分の宗教について尋ねられると、「別にありません。」と答えます。「本当ですか」と詰め寄られると、「強いて言えば、仏教ですかね・・」と答えるのです。日本人が一番影響を受けている宗教は何と言っても仏教と神道です。これが最大勢力です。仏教はインドから入ってきたものです。神道は色々な影響を受けていますが、日本に古くからあったものです。仏教と神道の中身は全く異質のものです。しかし、日本人は仏教と神道を同等に真剣に礼拝しています。それは海外から見ると信じられない光景だそうです。寺で真剣に拝んでいると思ったら、隣の神社も真剣に拝むというのです。これを見ると、イスラム教徒がイスラム寺院に行って礼拝し、隣のキリスト教会でも同様に真剣に祈っているのと同じように見えるそうです。「日本人は何とおかしな宗教観を持っているのだろう」と感じるそうです。それには江戸時代にとられた神仏習合政策の影響があるからですが、真剣に拝んでいる割には自分の宗教について聞くと、「わかりません」と答えるのです。京都に修学旅行生が多く来ますが、バスの中では眠っている学生たちが、神社仏閣に到着すると突然真剣に拝み出す光景も海外から見るとおかしく見えるようです。宗教学者によると、日本人は仏教、神道と言うが「仏教も神道も本当の意味で日本人の心には深く浸透していないのではないか、もっと深い隠された部分があるのではないか」と言われます。
 目を転じて、韓国は三十パーセントのクリスチャン人口です。韓国は千年にも及ぶ仏教支配がありましたが、李朝時代に仏教排斥運動が起こり、約五百年に渡り仏教は迫害されました。そのため仏僧たちは町に入ることができず、寺は山に移されました。だから韓国人が「寺」と聞くと「山」を連想するそうです。儒教も李朝によって国教として定められた後、きわめて律法的なものになり、国民は個人的宗教としては受け入れませんでした。そのため近代になって宗教空白時代が来たと言われます。それで国民は、困ったときには寺や儒教でなく、「シャーマン」と呼ばれる霊能者の所に伺いを立てに行きました。今でも韓国には二万人以上の霊能者がいると言われます。国民が困ったときにはそこに行って占ってもらうそうです。
 韓国において仏教と儒教が力を失ったときにタイミング良く、キリスト教が入ってきたのです。韓国の宣教の歴史は百二十年です。日本の宣教の歴史は百五十年です。しかし韓国では、百二十年で国民の三十パーセントがクリスチャンとなりました。なぜ韓国でそんなに教会が伸びたのでしょうか。教会はどのような働きをしたのでしょうか。韓国教会はシャーマニズムに真っ向から戦いを挑んだのです。本当に人生を助けてくれるのはシャーマンや占い師ではなく、イエス様であることを力強く国民に伝えたのです。教会は「現実的問題解決」というアプローチで、真正面から伝道を展開しました。それが民衆の心をしっかりと捕らえたのです。それは国民のニーズにぴったりと合っていました。
 悪魔は人を助けてくれるような振りをし、占い師はまことしやかなことを言いますが、最終的には頼る人々を滅ぼしてしまいます。しかし、イエス様は私たちを真の幸せに導いて下さる方です。
 今日、初めて教会に来られた方で、困ったときには占い師の所に相談に行っている人がいたら絶対にやめて下さい。彼らは時にはいやしたり、悩みを当てることもありますが、最終的には苦しみを与えるからです。
 私は昨日千葉県で奉仕しました。そこに来られた一人の婦人がこう語っていました。「私はいつも占いや降霊術ばかりしていました・・・」
  ある日、その人の子どもに変化が起こったのです。子どもが万引きをしたそうです。それで、お母さんはあわてて、「万引きしては駄目」と怒ったそうです。そして子どもの持ち物を調べ、子どもの書いた日記を見て驚きました。
 「僕の内側に誰かが住んでいて、『盗め』という声が聞こえて万引きしたくなる。僕は大きくなったらどんな人間になってしまうのだろう・・。大きくなったら恐ろしい人間になるに決まっている。だから神様。早めに僕の命を取って下さい。お願いします。」と書いてあったそうです。お母さんが占いに頼った結果として、子どもが悪い声を聞くようになったてのです。「盗め。盗んだら得するぞ!」お母さんはその日記を見て真っ青になり、今まで仕えていた神が本物ではないことに気がつき、教会に来ました。
 この世の神々は救ってくれるような振りはしますが、本当の助けにはならず、人々を暗闇の中に落とします。
 日本においては、必要な領域に真正面から福音が宣べ伝えられなかったのです。これからは真正面から、人々が必要を感じている領域に福音を投げ込まなければなりません。
 先週読んだ論文によると、「日本のキリスト教会が人々の必要を満たす位置にいたら、韓国と同じように伸びたに違いない」と論じられていました。イエス様が行ったように、教会は人々がサタンの手から解放され、真の神様から恩恵を受ける国となる為に働くべきです。
 ではなぜ、日本人が福音を受け入れないのでしょうか。その深い部分はどこにあるのでしょうか。神道でも仏教でもないとしたら、何処に福音を受け入れないように働いている力があるのでしょうか。
 さて、日本人の持っている仏教信仰には一つの特徴があるそうです。それは日本人が特に執着するところで、それが強い「遺骨信仰」だそうです。遺骨に対して日本人は他の国々には類を見ない執着があるようです。戦後五十年以上経った今でも、日本は厚生省を中心に太平洋戦争で亡くなった兵士の遺骨を求めて収集団を出しています。これは日本だけです。南方のジャングルにまで入って枯れた骨を拾うのです。
 先日私はハワイに行きましたが、実習船愛媛丸が沈没した直後でした。日本の遺族は家族が海に沈んでいるわけで心情的には分かるのですが、何しろ一刻も早く愛媛丸を引き上げるよう要求を出していました。しかし外国メディアは、「すでに乗っていた人たちは死んでしまっているのに、なぜ莫大なお金をかけて愛媛丸を引き上げる価値があるのか」とレポートしていました。船を引き上げる為には何百億円もかかるのです。外国のメディアは、引き上げ費用を遺族に分けた方が良いという考え方をしていました。しかし、日本人はどうしても、引き上げて欲しいと要求していました。
 肉親や家族に対する愛情はどこの国の人でも同じですから、ここには日本人特有の考え方があるのです。それは、人間は死んだらその霊が骨に宿ると考えるからです。たとえば肉親の骨は「肉親そのもの」と考えるからです。これは聖書の知識と反するアニミズム的考えが元にあるからです。「形見」というのもありますが、欧米人にとって形見は単なる故人が残した記念品ですが、日本人にとっては記念品を越えて、実の肉親の霊そのものであったりするからです。皆さんの中でそのような考えがある方は改めて下さい。この考え方ゆえに、日本に福音が伝わらないのです。パウロの伝道によってアテネ市民に素晴らしい福音が語られているのにも関わらず、「そんなことはまた聞くことにしよう」と人々は聞きませんでした。日本もそれと同じです。聖書は私たちに情報を与えています。神が与える知識と反する知識が置かれている事自体が大きな束縛となり、人々に福音が伝わらないのです。そこに強力な霊的力が働いているからです。ということは、アニミズムはただの考え方ではなく、「悪霊的な力そのもの」なのです。
 もしも今日、まだアニミズム的考え方を持っていたり、物の中に霊を感じていたり、父母が残した遺品の中に父親、母親が存在するかのような考え方があったり、骨の中に父母がいるような考え方があったら解放される必要があるのです。以外とそこが大きな束縛となって、神の絶大な祝福を留める力となっているのかも知れません。
 今、自分自身を点検しましょう。考え方の中に絶妙に働く悪魔の力が打ち破られますように。私たちはしっかり、この点をとりなして祈る必要があります。
 人は死んだらどこかにふわふわ浮いているのではありません。神の身元に行くのです。神様の手の中に入るのです。決して行くところがなくて仏像の中に住んだり、遺灰や骨の中に住むことはありません。正しい神様の知識の中に生きていきたいと思います。聖書の世界観の中に知識を得るべきです。私たちの中にある古いアニミズム的な性格が打ち破られ、新しい神の知識に基づくものに変えられるように祈ると共に、日本に働いているアニミズム的な考えの背後で働く悪しき力が打ち破られるように祈っていきましょう。

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