今週の礼拝メッセージ
2001.7.8(SUN)
勇士よ。主があなたと一緒におられる
新城教会牧師 滝元順牧師

旧約聖書 師士記6章11節〜15節
さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

 ハレルヤ!素晴らしい礼拝を共に守ることができ感謝します。今日は「勇士よ。主があなたと一緒におられる」というタイトルで学びます。主が一人ひとりに語っておられる御言葉であると信じて下さい。
 この箇所は旧約聖書の言葉ですが、旧約聖書に出てくる「勇士」とは、戦争で一人でも多くの敵を殺した人のことを指しています。現代においてそんな人が勇士では困ります。しかし、聖書は旧約聖書と新約聖書を合わせて一冊ですから、両方の概念を合わせて判断することが必要です。新約聖書で述べられている「勇士」は一箇所だけです。それは、ヘブル人への手紙十一章であり、「信仰の勇士」として述べられています。そこではギデオンも信仰の勇士の一人としてリストアップされています。
 旧約聖書の勇士は戦いで多くの人を殺した人あり、新約聖書では信仰の人が勇士としてあげられています。この二つの概念を重ね合わせるとどうなるでしょう。
 そもそも信仰とはヘブル人への手紙十一章一節に、

『信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

と記されていますので、それは「目に見えない世界で勝利する人が勇士」ということです。総合して今日における勇士とは、「霊的戦いを戦う信仰の勇士」なのです。
 世界には、神様も働いておられますが、人間を不幸にしようする悪魔の力も働いています。その力に打ち勝つことができないならば、人はひどい目にあいます。しかし、見えない世界で勝利する勇士になったら、人生は勝利に満ち溢れたものになります。
 アダムとエバは最初、神から人生のガイダンスを直接受けました。そこで、「善悪を知る木から実を取って食べてはいけない」と言われました。木の場所に連れて行かれ、「これを食べたら死んでしまう!」と教えられました。しかしその後、蛇が近づいて来て「食べてごらん」とそそのかしたのです。すると最終的には、アダムとエバはその実を取って食べてしまいました。この有名なストーリーを何気なく読んでいますが、この箇所をよく考えると、かなり不自然です。神様から直々に「食べては駄目だ」と言われたのに食べてしまったとは、蛇はすごい影響力を持っていたと言えます。
 お母さんが子どもたちに、「これは絶対に食べてはいけないよ。」と時々言い聞かせます。普通、子どもたちは「駄目だよ」と言われたら食べません。私の家の犬でも、「ダメ!」と言ったら食べません。食品を目の前にして、ヨダレを垂らしていても食べません。しかし、アダムとエバは神様から直接「いけない」と言われていながら食べてしまったとは、蛇から相当な影響力を受けたということです。
 これは暗闇の世界から受ける影響力について教えています。日頃私たちは、瞬間的に判断しなければならない事柄がたくさんあります。そのような中で、かなり見えない世界から悪しき影響力を受けていることを教えていると思います。自分では「やってはいけない」と思うときに、蛇が近づいてきて「やってしまえ」と悪しき影響力を与えるのです。最近の事件を見ても、見えない世界からの声を聞いているとしか思えないような悲惨な事件が起こっています。見えない世界で勝利できないなら人生は大変です。しかし、そんな中であっても、神様は、「勇士よ。主があなたと一緒におられる」と励まして下さっているとは希望です。
 今日のテーマをよく知るために、師士記六章、七章を読んで下さい。すると背景が見えてくると思います。このストーリーは、イスラエルが主の前に悪を行ったことにより、七年間ミデヤン人の手に渡されたというところから始まっています。イスラエルは神によって祝福された国民でした。しかし時々、敵の手に陥り苦しめられた歴史があります。師士記の六章一節から三節に、

『イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。』

と記されています。イスラエルが悩まされていた諸問題の根元は「神の前に悪を行った」事に起因します。結果として現実問題が起こりました。神から離れると人生の中に問題が起こってきます。種を蒔き、収穫を直前にして全部を持っていかれたのです。人生の中でもそのような事があります。これからが人生の本番だ、と言う前に根こそぎ祝福を持っていかれるのです。「これから頑張ろう」とする直前に問題が起こります。これらの背後に、人間の犯した罪と共に、見えない力が働いているのです。では、悪の根本理由は何だったのでしょうか。六章十節に、

それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。

と書かれています。新改訳聖書では、「恐れてはならない」というところに印(*)がついていて、「拝んではならない」という別訳が記されています。「神々を恐れてはならない」とは、「エモリ人の神々を拝んではならない」という意味です。イスラエルが主の前に悪を行ったとは、「天地宇宙を造られた神以外の神、すなわち偶像を拝んだこと」です。
 ある領域において教会とは、人が幸せに生きる方法や、道具を受け取る場所だと思います。私はここにおられる全員が最高の幸せ者になっていただきたいと願っています。イエス様を信じたことにより、「何と幸せな人生だろう」と言える人生を歩んでいただきたいと心から願っています。そんな中、一番注意すべきことは、「エモリ人の神々を拝んではならない」ということです。これは「偶像礼拝」です。偶像礼拝からはっきり縁を切り、偶像礼拝から離れるときに、人は必ず祝福を受けることができます。これが聖書の鉄則です。詩篇一〇六篇三十四節からに、

『彼らは、主が命じたのに、国々の民を滅ぼさず、かえって、異邦の民と交わり、そのならわしにならい、その偶像に仕えた。それが彼らに、わなであった。彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、罪のない血を流した。カナンの偶像のいけにえにした彼らの息子、娘の血。こうしてその国土は血で汚された。』

と記されています。「偶像礼拝は悪霊に生けにえをささげること」と教えています。偶像礼拝とは、ただ像を拝むことで終わるのではありません。その背後に悪霊が控えており、悪霊と契約を結ぶことになってしまいます。しかし偶像礼拝と一線を引き、偶像の背後に働く悪霊と戦っていくならば、必ず勝利を受けることが出来ます。
 日本は偶像礼拝に満ち溢れています。昨日は、七月七日で「七夕」でしたが、七夕は偶像礼拝です。それは星占いであり、中国から来た偶像礼拝です。星に願いをかけることは罪です。神は天地宇宙を造り星をも創った方です。
 そもそも星座は、ギリシア神話との関係があります。それは地上の世界観を天上に投影したものだからです。ギリシア神話の神々の姿を天に投影しているのです。星を見るとギリシア神話の神々を連想します。星座はある意味で偶像礼拝につながるものです。偶像礼拝に陥ったイスラエルは、いつも苦しい目に遭いました。
 けれども、罪を犯した国は駄目だと切り捨てるのではなく、苦しみの中からも助けて下さるというメッセージを師士記から受け取ることができます。主を求めるときに、助けの御手を人に差し伸べて下さるというのが聖書のメッセージです。神に叫び求める時、神は私たちの願いを聞いて下さいます。神はすべてを知っておられる方ですが、叫びに応じて動いて下さる方でもあります。『わたしを呼びなさい。そうすれば、わたしはあなたに答えます。』と聖書は教えています。今日、神の助けを必要としている方は神を叫び求めて下さい。イスラエルもミデヤンのせいで弱くなり、主を叫び求めました。そんな時、神は一人の勇士を起こされました。それがギデオンでした。
 神がギデオンを選ばれた場面を見ると、どのような人を勇士として選ばれるのか、また、どのようなところから助けは起こるのかについても知ることができます。今日お読みした六章十一節から十二節に、

『さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」』

と記されています。ギデオンが酒ぶねの中で小麦を打っていた環境は、ミデヤン人がいつ攻めてくるがわからない状況下でした。当時の酒ぶねとは、石灰岩をくり抜いた溝でした。その中に隠れて、ギデオンは自分の食べる分の食料を確保するために、小麦をこなしていました。ギデオンは人のことなどは考えられない、自分だけ助かれば良いという男でした。そこに神の使いが現れ、『「勇士よ。主があなたと一緒におられる。」』と声をかけたのです。
 ここに「アビエゼル人ヨアシュに属する」と記されていますが、ギデオンがどの家系に属し、どのような背景の人かを知ると、このストーリーがさらに味わい深くなります。ギデオンはアビエゼル人ヨアシュという氏族に属する人物でした。もともとアビエゼル人は、イスラエルの十二部族の中でマナセ族に属していました。マナセ族とは、アブラハム、イサク、ヤコブという流れの家系の中で、ヤコブに十二人の息子があり、そのなかにヨセフという息子がおりました。このヨセフは兄の妬みによってエジプトに売られてしまいました。しかし最終的にはヤコブ一族がエジプトに移住します。やがてヤコブが亡くなる前に十二人の息子たちがヤコブから祝福の祈りを受けました。その時ヨセフは自分の二人の息子をヤコブのところに連れて行き、祝福の祈りを受けさせようとします。その息子がマナセとエフラエムです。マナセが兄さんでエフラエムが弟でした。聖書から見ると、長男は祝福を受けるべき存在です。ヤコブの所に二人を連れていくと、彼は年をとって目が見えないせいか、エフラエムの方に祝福の右手を置き、マナセに左手を置いて腕を交差して祈りました。それでヨセフが、「おじいちゃん、それは違うよ」と言って、右手をマナセに置かせようとすると、「わかっている。これで良いのだ」と、お兄さんよりも弟の方が祝福されてしまいました。それで兄のマナセは弟よりも低くなってしまいました。
 私は弟たちの結婚式の中で、忘れることができないある人物からの祝辞があります。上條実牧師は私の弟ですが、彼の結婚式での出来事です。「滝元家には五人の息子がいますが、手を出して下さい。どの指が一番高いですか?三番目のくすり指ではないですか。三番目は一番大物になります。」と言いました。彼は兄弟の中で三番目です。何を言いたかったのかと考えました。どうも、祝辞を言った人は親指である長男が一番駄目だと言いたかったようです。
 マナセよりエフラエムに祝福が行きました。マナセは打ちひしがれた部族でした。そして、マナセ族の中でもアビエゼル人はさらに弱い氏族でした。そして、弱い中の弱い人物がギデオンでした。しかし、そんな者に神は使いを送って『勇士よ!』と声をかけられました。神様の評価はこのようなものです。
 人間の評価は強い者や高価な物、きれいに見える人を「良い」と位置付けますが、神様が勇士として評価する選びはこの世の価値観ではなく、普通から見たら弱そうに見え、価値のないように見える人に『勇士よ。主があなたと一緒におられる』と声をかけて下さるのです。「私は駄目だ」と考えている人がいたら、「あなたは勇士」です。
 聖書には、「弱いところに神は働く」という一貫した主張があります。教育の現場で聖書の価値観が教えられたら素晴らしいです。第一コリント十二章二十七節に、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

とあります。教会は世の中の価値観ではなく、「神の国の価値観」で成り立っている場所であるべきで、一人ひとりが各器官だと教えています。二十二節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

と記されています。教会の中で一番大切な人は誰か・・。世の中的価値観で人を見ないで下さい。牧師が一番目立つから大切だとは思わないで下さい。教会の中で一番大切な器官は、「目立たないような弱く見えるところ」であり、それがなくてはならないところです。私が毎日健康で神様のために働けるのも、多くの方々の、特に、見えないところで祈って下さっている兄弟姉妹の祈りに支えられています。この教会のお年寄りに会うと、「順先生、いつも祈っていますよ。」と励まされます。目立たないところで真剣に祈っておられる方がおられます。何れにしても、弱さこそ神様が働いて下さる現場であるのです。
 時には人生の中で弱さを体験し、「なぜ」と叫びたくなるようなときがあるかも知れません。しかし、そんな中に神様が働いて下さるというのが原則です。
 この七月になると毎年思い起こして感謝しています。特に今週は感謝しています。一九九二年の七月に霊的戦いが新城教会に始まりました。そして弱くなり、打ちひしがれて「私たちに明日はない」と思うほどの試練の中にありました。「これからどうなるのだろうか」と心は不安でいっぱいでした。しかし、そんな中から主は今まで導いて下さったことに、心から感謝しています。霊的戦いが始まったとき、私はまさか自分が将来、霊的戦いを教える教師になるとは思ってもいませんでした。しかし、一番弱くされた事件を通して、主は私の人生を建て直して下さいました。
 先週は私は長崎の片田舎で集会をしました。また、福岡においても集会をしました。昔の私を知っている人が、「順先生。昔グロリアシンガーズをしていましたね。あの時のこと覚えていますよ。」と懐かしがってくれました。そして「一曲歌ってくれませんか。」と言われたので、「私は今、職種が違いますよ。」と話しました。当時はギターを片手に賛美するのが私の仕事でしたが、途中で変わってしまいました。霊の戦いの勇士にされました。どん底の中から霊的戦いについて教えて下さいました。
 また、私の家内もある時病気になり、どん底まで行きました。彼女は死んでしまうかも知れないと思いました。しかし、そのような中で主は彼女に触れて下さり、とりなしの祈りの領域を開いて下さいました。忘れることができませんが、家内の体の調子が悪くなり、祈っていました。しかしいくら祈っても癒されませんでした。ある時、家内は夜中に倒れて動かなくなってしまいました。すぐに救急車を呼ぼうとしました。その時主が、「お前はここであきらめるのか」と語られました。それでもう一度祈ろうと、倒れた家内を担いで会堂に連れて来て、この十字架の前に置き祈りました。「主よ。助けて下さい。助けてくれなかったら救急車を呼びます。主よ!!」と叫んで祈りました。その途端、家内は「ゴホン!ゴホン!ゴホン!・・・・・・」と咳をし出し、何かを吐き出すような症状が現れ、立ち上がってしまいました。あれは霊的戦いであったと思います。私の真似をしなさいとは決して言いません。人にはそれぞれ、違う導きがあるからです。
 何れにしても、時々どん底を味わうことがありますが、神はそんなところから助けと回復を与え、弱さの中から素晴らしい恵みを与えるどころか、勇士に変えて下さいます。
 ギデオンはミデヤン人の兵士十三万五千人を、たったの三百人の勇士でうち破ったのです。その方法については六章、七章を読んで下さい。神はたった三百名の精鋭たちを研ぎすまし、十三万五千人全てを打ちのめしてしまいました。その戦いにおいて、三百人の勇士は誰一人として傷を受けませんでした。十三万五千対三百は、〇.二パーセントです。ギデオンはミデヤンの〇.二パーセントの兵力で敵を打ちのめしました。
 今、日曜日に礼拝に出席している日本のクリスチャン数は二十三万人から二十四万人です。全国民の比率から言うと、約〇.二パーセントです。日本のリバイバルは難しいと思うかも知れませんが、日本人のクリスチャンがすべて勇士になったら、日本の暗闇を打ち破ることができます。これはギデオンと同じ比率ですから、決して悲観的にならないで下さい。神様はそのような弱さの中から勝利を与えて下さる方だからです。ギデオンが勇士になった条件について、六章三十四節に、

『主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。』

と書かれています。彼が聖霊の力を受けたときに人々が集まってきました。アビエゼル人は一番弱い人でした。しかし、彼らが聖霊を受けたときに彼らは勇士とされました。私たちも同じです。聖霊の力が臨むときに、あなたは勇士となるのです。人間は土の器です。ギデオンが壷の中にたいまつを入れていたように、私たちは土の器です。しかし、そこに聖霊が訪れるときに勇士となるのです。私たちはどうしても聖霊の油注ぎをいただかなくてはなりません。聖霊様に満たされることを願わなければなりません。日々求めるべきです。私も弱い者でしたが、一九九二年に聖霊様が訪れて下さいました。その時から私も変えられました。聖霊様が来て下さるときに勇士に変えられるのです。ギデオンもそうでした。
 しかしギデオンが油注がれる前に、もう一つの条件がありました。これは聖霊の油注ぎを受ける準備です。それは六章二十五節と二十六節です。

『その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」』

主はギデオンに、父の家に行き父の家が仕えている偶像を壊し燃やすようにと語られました。私たちがクリスチャンでない父親の家に行き、偶像を壊したら問題です。しかし、これは霊的世界のことを教えています。これは私たちが聖霊を受けるための重要なポイントです。それは、家系の中で行われた偶像礼拝とのつながりを断ち切ることです。特に、「父の家」と書かれています。母方も祈るべきですが、フォーカスとして「父方の偶像礼拝」とのつながりをしっかりと断ち切る祈りは、聖霊の油注ぎを受けるための準備であり、勇士になる条件です。
 最近私は、主から語られていたことがあります。私はクリスチャン二世なので、偶像礼拝をしたことがありません。しかし、私の父親は偶像礼拝をしていました。偶像礼拝は三代、四代の呪いと聖書に書かれています。私が偶像礼拝をしていなくても、私の父の家が偶像礼拝をしていたら、私にも影響があります。私は既にそれを断ち切る祈りをしました。しかし、私はこのような霊的戦いの働きをさせていただいている中で、更に深いきよめを受けるようにと語られました。「一度あなたの父の家に行き、偶像礼拝の実体を見て、その現場で断ち切りを祈るように」と語られていました。しかし私は、「忙しい」といつも言っていましたが、二週間ほど前に行ってきました。
 父の実家の裏山に登りました。すると、そこには偶像がたくさんありました。それは古い物でした。建てた人の名前が書かれていました。コケが生えていたのでよく見えませんでしたが、よく見ると「滝元徳次郎」と書かれていました。私の曾祖父さんの名前でした。私はそこで断ち切りの祈りをしてきました。また、私の父が氏子であった神社に行っても悔い改めと断ち切る祈りをしました。父の家の偶像礼拝との断ち切りを真剣に祈りました。そして聖書を開くと、突然、師士記六章二十五節の御言葉が目に飛び込んできました。

『その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。』

神から直々に語られたようでした。聖書は順序よく読むべきですが、時々、そのように御言葉を示されます。なぜ、この箇所が出てくるのかと思いました。そして、祈りに来たのは神様の導きであったと感謝しました。
 私たちは聖霊を受けて主の勇士となりたいと思います。その前に、父の家が犯している偶像礼拝と悪霊の関係を完全に断ち切って下さい。そして聖霊を受け、主の勇士となって見えない世界での勝利者となれるよう、祈っていきましょう。

バックナンバー

戻る
戻る