今週の礼拝メッセージ
2001.7.15(SUN)
人生祝福の鍵
新城教会牧師 滝元順牧師

新約聖書 使徒の働き20章34節〜35節
あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

旧約聖書 ヨブ記1章1節〜5節
ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

 ハレルヤ!共に礼拝することができ感謝します。今週、私は南米ペルーに行きます。たったの八日間ですが、ぜひお祈り下さい。私たちの教会には南米から多くの方々が来られています。土曜日には百名以上の方々が母国語で礼拝を守っています。一昨年、私はアルゼンチンとブラジルに行きました。その時ペルーから来られている兄弟姉妹が、「順先生、ペルーにはいつ来てくれるのですか?」と聞かれました。私は、「そのうち行くから・・・」と言っていました。教会にはペルーから多くの方々が来てくださっていますし、ここで救いを得て帰られた方も多くおられます。ですから、新城教会の責任として、ペルーを訪問し兄弟姉妹を励まし、共に祈る機会を持ちたいと願っています。
 今週土曜日は、ペルーの日系社会の人達に対する講演会が行われます。多分、新聞にも報道される講演会ですから、ぜひ祈って下さい。良いことばかりではなく、悪いことも話して下さいと言われました。私とフェルナンド師と共に行いますので祈って下さい。また日曜日は日系人の教会で礼拝を持ちます。そして、夜はペルーで成長している大きな教会での集会があります。その他の日には、色々な方々を訪問し、又、とりなしの祈りもする予定です。私たちの教会が、全世界に福音を宣べ伝える教会となれるよう祈っていきましょう。
 教会では普段はあまり聞かれない、「目に見えない世界」について語られます。私たちは見える世界に生きていますが、見えない世界も同時存在しています。そして見えない世界の影響が見える世界を支配します。そのことに対して、人々はほとんど気付いていません。今日本には多くの問題がありますが、実はそれらは見えない世界の問題の投影です。教会では見えない世界でどのように勝利をするかについて学びます。そして、皆さんの生活はその実践の場です。聖書から見えない世界でどのように勝利するかについて学び、一般生活で実践するのです。人生は地上だけに止まらず、永遠の世界にまで続いています。教会はそこに入る門です。
 今日は旧約聖書のヨブ記から話します。ヨブは人生の中で神から大きな祝福を受けた人であり大富豪でした。同時に、この人ほど大きな試練に出会った人もいませんでした。聖書は両極端を提示し、「祝福の秘訣」と共に、「試練の原因」についても教えています。神はヨブを代表として選び、今を生きる私たちがそこから学ぶように望んでおられます。
 人生は祝福と試練が交互に追ってくるような側面があります。祝福される時期もあれば、どん底のような時期もあります。国自体でもそうです。数年前日本はバブル景気にわいていました。しかしそれも徐々にかげり、今では失業率が過去最高になり、ある意味でどん底に来ています。それは繰り返すことを歴史が証明しています。
 彼の一生についての記録がヨブ記です。まず最初にヨブの人生祝福の秘訣を学びます。一章一節から三節に、

『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。』

と記されています。ヨブが祝福された人生を歩んだ秘訣について、『この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。』と記されています。きよい潔白な生活は、幸せに生きる秘訣です。今は色々と問題がありますが、その根底に罪があります。潔白に正しく生きることができず罪の中に生きることは、結果的に人生を破壊します。ヨブは潔白で正しく、神を恐れて、悪から遠ざかっていました。そして誰の目から見てもそれが明らかでした。私たちも、「あの人は潔白ですね。正しい人ですね。裏表がありませんね。」と言われる者になりたいですね。「あの人には、日曜日の顔とウィークデーの顔がある」などとは言われたくないですね。
 静岡県の水窪というところに、高木太郎という牧師がおられました。彼はとても良い証と忠実な働きをされこの世を去りました。彼は「水窪聖人」と言われていました。今でも「クリスチャンとはあのような人のことですね」と言われます。私もそうなりたいと思います。これが第一の秘訣でした。
 次に、ヨブが祝福された人生を送った秘訣は、彼が「祈り深い人」であったと言うことです。人間だけに祈りの心があります。「祈りたい」という気持ちは人間だけにあります。誰でも、「神様がいたら私の祈りを聞いて欲しい」と考えたことがあると思います。なぜならば、人間だけが神様と交わることを許された唯一の動物だからです。人間と猿は構造的にはほとんど同じです。しかし人間だけが祈ります。猿が人間に似ていても祈る心はありません。初詣に猿の軍団が来て、横でどんぐりを賽銭箱に投げ入れて拝んでいる姿は見たことがありません。しかし、人間はどこに行っても祈る動物です。文明が栄えていない世界の人でも、コンピューターや情報に囲まれているハイテクの国々でも、同じように祈ります。これは人間が神様と交わることができる唯一の動物である証拠です。祈りなしでは人生はうまくいかないからです。
 教会に来て素晴らしいのは、祈りを覚えることです。祈りは神の世界に直結する素晴らしい神との交わりです。インターネットでサーバーという大型コンピューターにつなげるなら、そこから多くの情報を引き出すことができます。私は最近本を書きましたが、かなりインターネットを使い資料を集めました。個人の持っている知識や情報量は限られています。特に、見えない世界の情報量は本当に限られています。しかし私たちが神様の世界にアクセスすれば、必要なときに、必要なだけの情報を送って下さいます。祈りはその鍵です。しかし祈りにはパスワードが必要です。電子メールもパスワードがないとつながりません。祈りにもパスワードが必要です。それが「イエス様」です。イエスという名をパスワードに使うと神様につながります。多くの人々はパスワードが違うためにつながっていないのです。他の色々な名前を使うので本当の神様につながらないのです。ある時は「仏」、ある時は「阿弥陀」、ある時は「観音」、ある時は「弘法」・・・それらは誰につながると思いますか?それは神様ではなく、「悪霊」につながります。しかし、イエス様の名前を使うならば、本当の神様からの情報を受け取ることができます。ヨブが祝福された秘訣は、祈り深い人であった為です。彼は富豪でよく宴会を開催したようです。しかし、その後に神に感謝し、家族のためにも祈っていたという記録をヨブ記に見ることができます。
 続けてヨブが祝福された秘訣を見ると、ヨブは神様の心に留まった人であったことがわかります。一章八節に、

『主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」』

と書かれています。ヨブは神に知られた人でした。私たちもヨブのように神の心に留まる人にならなければなりません。ヨブは神様の自慢の息子のようなものでした。私が色々な教会に行くと、自慢話をしてくれる先生もいます。聞いてもいないのに「私の息子は有名大学の○○学部に入っています」と紹介してくれます。息子について語る両親の顔はそのとき微笑んでいます。しかし時には、「順先生。私の息子のために祈って下さい」と言われます。「どこにいますか」と言うと、「後ろ姿ですぐにわかります。髪の毛が紫色ですから」と言われます。問題があるようです。問題がある息子娘は、両親にとって悲しいものです。
 やはり、神様も同じだと思います。イエス様があなたをご覧になってどのように評価されているでしょうか。神様が「サタン。愛知県新城市に滝元順という男がいるけどお前は彼を知っているか?」と聞くと、「知らん!」と言われたら悲しいです。「彼ほど潔白で正しく、神を恐れている者は日本にいないのだが・・」と言われたら晴らしいです。神様が微笑んで下さるような人生を送りたいものです。「ああ。またやってしまった。またもやあんな罪を犯している!」と悲しまれるのではなく、神に喜んでもらえる人生を送るならば、祝福に満ち溢れた人生を歩むことができます。それがヨブが祝福を受けた秘訣でした。
 しかし、一方ではヨブほど大きな試練を経験した人はいないと思います。今ヨブが生きていたら、彼を呼んで彼の試練の証を聞いたら、「私の試練などは大したことがない」と考えると思います。
 彼について神が悪魔に自慢しました。すると悪魔がそのことに対して「意義あり!!」と申し出ました。「神様。あなたは彼の所に天の軍勢を遣わして人生を守っているではありませんか。あれほど守られば誰だって真剣に仕えるものですよ。彼の守りを取ってごらんなさいよ。また、彼の豊かさはあなたが与えたものでしょう。それを全部取り払ってご覧なさい。きっとあなたのことを呪いますよ。」と言っています。すると事もあろうに、神様の心が動いています。悪魔はさらに、「神様。ヨブの祝福を取ってご覧なさい。きっとあなたのことを呪うでしょう」すると神様は、「・・そうだな。やってみようか。自由にやれ」
 実はヨブ記を読むと、神様にあまり気に入られない方が良いではないか、と思ってしまいます。悪魔は神の前から出ていって彼の財産を全部取ってしまいました。使用人も皆殺しにしてしまいました。そして、事もあろうに十人の子どもすべてが殺されてしまいました。あまりにもひどい事です。こんな事件は聞いたこともありません。七人の息子、三人の娘が同時に死んでしまうようなことがあったらどうでしょう。自分に置き換えてみたら想像できません。
 先日ある教会で奉仕しました。私を迎えてくれた一人の若い父親と食事をしながら、彼は私に、「子どもを亡くしました。」と話されました。その話を聞いて食事の手が止まってしまいました。どうして亡くなられたかと聞くと、夏の暑い日に車の中に大丈夫だと思ってしばらく子どもを置いて帰ると脱水症状で死んでいたそうです。その家に訪問して祈ってあげましたが、息子の思い出の品がたくさんあり悲しみが家に満ち溢れているようでした。なぜそんなことが起こったのだろうかと思いました。一人が亡くなっても悲しい事です。しかし、ヨブは十人の子どもたちを一度に亡くしたのです。考えることができないほどのひどい試練でした。
 しかしヨブの最大の悲劇は、見えない世界でヨブに関しての会議が行われていたのを、彼が知らなかったところにありました。
 ヨブについて神と悪魔の間で会議がありました。その後、事件が起こっています。これは見えない世界で見える世界が支配されることを教えています。
 しかしこれを聞いて恐れないで下さい。神様は私たちに極端な例を示して、私たちに霊的な世界を意識するように教えているからです。しかし、見えない世界で、私たちのことがしばしば話題になっている可能性があるのです。一章六節に、

『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。』
 二章一節にも、
『ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。』

と記されています。ここでは誰に関して天でサタンと神が討論したのでしょうか。それはヨブに対してでした。そこにヨブがいたら何とかなったかもしれません。しかしヨブはいませんでした。そんなことがあったとは全く知りませんでした。結果的にヨブは大きな試練を刈り取ることになったのです。エレミヤ書二十三章十八節から、

『いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。』
 二十二節に、
『もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行ないから立ち返らせたであろうに。』

と記されています。私たちが神の会議につながり、天でどのような話し合いがされているか知ることが出来たらどんなに素晴らしいでしょうか。
 しかし、新約時代になり、イエス・キリストを信じるなら、なんと天の会議に私たちも出席出来る特権が与えられたのです。イエス様が十字架にかかって死に、復活されたときに何が起こったのでしょうか。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とエペソ人への手紙二章六節に約束されています。見えない世界であなたのことが議題になっていても、その会議につながり、悪魔の訴えを打ち破る事が出来るのです。
 私は人生に起こる色々な出来事について、その過程にはいくつかの段階があるかもしれないと思います。息子さんを亡くされた方がこう話されました。「私は息子を亡くす数日前、不思議な経験をしました。息子が急に私に抱き付いて離れませんでした・・・」
 仕方ないので息子さんを連れてドライブに行ったそうです。すると、道を間違えて山を登ってしまいました。そして出たところが、その地域の火葬場だったそうです。火葬場の看板を見て、その名前が目に焼き付いて離れなかったそうです。
 数日後、息子さんが亡くなり、同じコースを息子の遺体と共に登って行ったそうです。「息子が亡くなる前に神様が準備してくれた」と言われました。もちろん、そういう側面もあると思います。そして、息子さんが亡くなったことにより、家族がイエス様を信じたという、悪いことも益となったというすばらしい証も聞きました。
 しかしそこに至るまでにいくつかの段階があるように感じます。まず第一に、事が起こるまでの情報は、「注意する」と言うことです。子どもが暑い車の中に入っていたら取り返しのつかない大事件につながることは誰にでも分かっています。だから注意すべきです。私たちもくれぐれも注意することが大切です。
 夏は子どもたちによく注意して下さい。夏は特に川遊びをします。危ないと注意して下さい。注意がないときに色々な問題が起こります。交通事故も同じです。祈っても注意しなくてはなにもなりません。神様がついている、天の軍勢がついていると言って一五〇キロでぶっ飛ばしたら危険です。注意を怠ってはいけません。神は注意を怠ることがないようにと私たちに願っておられます。まず本人が注意することです。
 第二段階は、「とりなして祈る」という段階です。神様が事前に危険を教えて下さいます。「天で悪い会議が開かれて、あなたが訴えられているから、注意しなければなりません」と言われます。
 ある意味で、その亡くなった息子さんが離れなかったり、火葬場に出たりしたのは取りなしの祈りの領域だったのかもしれません。そのような場面に出会ったら真剣に祈るべきです。「家系の背後に働く死の力が打ち破られますように」と祈るべきです。
 時には神は夢の中でも教えられます。全ての夢をそのように判断してはいけませんが、時には状況がピタリと合い、目が覚めても消え去らない、心に引っかかる夢もあると思います。その夢がどうあっても、変な夢を見たときには祈る必要があると思います。「もしも背後に悪い策略があったら打ち砕きます」と祈る必要があると思います。ぜひ祈って下さい。
 先週、私がこの事について話すと、一人の方が「悪い夢を見たことを思い出しました」と言われ一緒に祈りました。どうであっても祈ることは大切です。
 第三に、問題が起こってしまったとき、そのことを敗北ではなく、そこから新しいことを始めてくださるのです。ある意味でヨブ記は、第三段階だったと思います。その中から神は栄光を現してくださったのです。人生の試練や事件も決して無駄ではなく、神がなさりたいみこころが付随しているのです。ヨブは大変な状況になりましたが、最終的には二倍の祝福を受けています。
 しかし、彼はあまりにも大きな試練を受けました。子どもが亡くなった後、肉体も破滅的な病にかかり、彼の親友が来て一緒に泣いてくれたけど、最終的には慰められるどころか責められました。「おまえには罪があるのではないか。反省した方が良い。」と友人からも辛い目に遭いました。自分の親友が親友ではなく、敵となってしまいました。しかし、最後にヨブが回復された鍵は、ヨブ記全体の鍵となる言葉に目を留めるとわかります。
 『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。』と記されていますが、『いたずらに』という言葉と『何の理由もないのに』という言葉が、ヨブ記全体を解く鍵の言葉です。その意味は、「神様はイタズラに、何の理由もないのに、人を責めたりしない」ということです。理由もなくヨブに試練を与えることを許されなかったのです。
 ヨブは正しい人であり、何の欠点もありませんでした。だから人の目から見て、神はヨブに試練を与えるはずがない、神が共におられる人だと思われていました。しかし問題が起こりました。ヨブは原因を考えてもわかりませんでした。「なぜ、こんな問題が起こるのですか?」
 しかし、最終的にヨブに神が試練を許した原因は、彼は正しい人でしたが、彼の心の中には、神に栄光をお返ししない自己中心があったことでした。自分や家族のためには祈っていましたが、自分を傷つける人や関係ない人のためには祈りませんでした。また、彼は正しい人でしたが、ある意味で正しさ自体が自分自身のアイデンティティであり、アピールでした。
 ヨブが回復された瞬間について、ヨブ記四十二章九節、十節に書かれています。

『テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。』

と書かれています。エリファズ、ビルダテ、ツォファルという三人はヨブの敵となったような人物でした。しかし、互いに赦し合い、ヨブがその友人たちのために祈ったときに、

『主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。』

と記されています。ヨブが今まで「祝福など祈ってなるものか」と思っている人達のために祝福を祈ったときに、問題解決がおとずれたのです。
 これは人生の中に大きな祝福の鍵を提供しています。私たちが自己中心に生きるときには天においていつも悪魔からの訴えに遭いますが、私たちが神を中心として「受けるよりも与える方が幸い」と始めに御言葉を読みましたが、受けるのではなく、与える人生に変わるときに人生は祝福されると、ヨブの両極端な人生から教えているのです。
 クリスチャン人生は受ける人生ではなく、与える人生です。この教会があるのも、先にイエス様を信じた人達が、「もっと多くの人がイエス様をを信じて欲しい」という願いを持ち、献金し、会堂を建てました。それは一九八〇年のことでした。また、「皆が喜んで交わりができるような場所が欲しい」と教育館が建てられました。それが一九九二年のことでした。これは自分のためではありません。そこに献金をしても何の見返りもないかも知れません。しかし、一人でも多くの人々がイエス様を信じるために与えました。そのために、後から多くがイエス様を信じることができました。今晩もゴスペル夜店がありますが、町の人がイエス様を信じるようにと、与えるために行っています。
 クリスチャン生活は与える人生です。与えることは一見、損をするように思いますが、実際は素晴らしい人生を送る秘訣です。祈りの領域においても「与える祈り」を「とりなしの祈り」と言います。自分にあまり利益がない人のための祝福を祈ると、天における悪魔の訴えの手が下がるのです。ぜひ、今日学んだ聖書の箇所から「鍵」を受け取って下さい。
 ヨブが友人たちのために祈ったときに回復がおとずれたように、今日はあまり祝福を祈りたくない人を思い出し、その方のために祝福を祈って下さい。その時に天において素晴らしいことが起こります。私たちは天の会議につながることができます。悪魔の訴えの手が下がり勝利を受けることができます。これが人生祝福の鍵の一つです。
 教会では色々なことを学び、ヨブ記も色々な解釈や側面があるので今日語ったことが全てではありませんが、何れにしても「受けるよりも与える方が幸い」です。そのような人生を生きていきましょう。

バックナンバー

戻る
戻る