今週の礼拝メッセージ
2001.7.22(SUN)
生活のただ中に主への賛美を
新城教会牧師 滝元開副牧師

新約聖書 使徒の働き 16章25節〜34節
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。今日は皆さんと共に御言葉を学ぶことができることを感謝します。二〇〇一年になり、神様は私の計画を越えたことを起こして下さいました。その一つは、「ざわめき」の働きが始まったことです。賛美によってリバイバルが進むようにということで賛美の働きがスタートしました。色々なリバイバルの働きが成されていますが、賛美を通して前進する働きがあることに気付かされました。更に賛美をささげていきたいと思います。
 皆さんのお祈りに支えられ、昨日は名古屋のワーシップシャウトが祝福されたことを感謝します。また先々週は東京で行われ、今週は福岡、次は大阪、東京と五週間続きますので、ぜひお祈り下さい。この働きを通して日本のリバイバルのために少しでも貢献することができるようにと願っています。そして、「ざわめき」とともに副牧師という大役を神様が与えて下さいました。心から感謝しています。主のために忠実な働きができるように、ぜひお祈り下さい。今日は使徒の働き十六章の御言葉から学びます。
 パウロとシラスが捕らえられた時、獄中で賛美をしました。その時、神様が素晴らしいことを行われました。イエス様への賛美が溢れる時に素晴らしい御業が成されたことが書かれています。賛美の中に現される神様の力がどのように偉大なものであるかについて、もっと私たちが体験できるように、また言葉だけではなく、私たちの生活のただ中にいつも賛美が溢れるように心から願います。夏休みが始まりましたが、この夏が賛美に溢れた夏になるように願っています。私たちの生活の真ん中にいつもイエス様への賛美が溢れる時に、神様の祝福と勝利と救いの御業が溢れることを信じています。
 現代社会は音楽で満ち溢れています。町の中にも、店の中にも、車の中にも音楽が流れています。また、家に帰っても音楽が溢れています。私たちの生活と音楽とは切っても切り放すことができないものです。その音楽には色々な音楽があり、神様の領域に属する音楽と暗闇の世界に属する音楽があります。私たちクリスチャンはいつも神様の領域に属する音楽、「賛美」の中に進むべきです。音楽も色々な表現方法があり、色々なジャンルがありますが、それぞれが神様に向かう音楽であったら素晴らしいのです。神様の領域に属していても属していなくても「音楽」には力があります。聴く人の心に、勇気を与え、癒し、慰めなど力があります。それが神様の領域にある音楽であれば素晴らしいのですが、暗闇の支配・悪魔の領域に属する音楽で私たちの心が支配されたら大変なことになってしまいます。
第一サムエル記十六章二十三節に、

『神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。』

と書かれています。ダビデは少年時代サウル王に仕えていました。普段は羊の番をしていましたが、彼はたて琴が上手で賛美の霊に満たされていました。そんな時サウルに悪い霊が襲いました。サウルは恐れてどうすることもできなくなったのです。するとダビデが呼び寄せられ神様を賛美しました。ダビデが立琴を鳴らすと、悪い霊が出て行ったことが書かれています。賛美の中には悪しきものを打ち砕かく力があります。私たちが日々捧げる賛美によって、悪しき力が打ち砕かれることができたら、素晴らしいです。賛美や音楽は口の告白です。賛美は「私はイエス様を賛美します。神様は素晴らしいです」という告白です。しかし、それが悪い告白であったらその告白通りになってしまいます。ローマ人への手紙十章十節に、

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

と書かれています。私たちが告白するか告白しないかはとても大きな事です。私たちは「イエス様を信じます」という告白によって救われます。そしてイエス様が私たちの心の王となって下さいます。ですから、私たちの告白が永遠を決める重要なものなのです。私たちの告白がいかに大切なものであり、告白によって表される言葉の力がどのようなものであるかについて知るべきです。創世記一章一節からを見ると、神が言葉によって世界を造られたことが書かれています。『光よあれ』という宣言によってこの世界が造られました。ヨハネ一章一節から三節に、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』

と書かれています。言葉そのものが神です。言葉によって天地万物すべてのものが造られました。言葉による支配は大きなものですから、私たちが語る一つ一つの言葉や賛美する一言一言を吟味しなければなりません。第二コリント四章六節、

『「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。』

と書かれています。『光よあれ』という言葉をもってすべてを造られた神が私たちに対しても『光よあれ』と言われ、神様を知る知識を与えて下さっています。その方が私たちに与えて下さっている言葉を私たちは用いなければなりません。
 「ざわめき」の働きをスタートする時、キックオフ大会が行われ多くの方が日本中から集まって下さいました。その時、リバイバル新聞の社長さんが来て下さいました。リバイバル新聞に電話をし、「ざわめきの働きを始めることになりましたが、広告を出すにはお金がなく何もない中から始めますので、ぜひ、一度取材に来て下さいませんか」と言うと、東京から社長さん自らが車で来て下さいました。泊まる部屋が一緒になり、話をしました。神様がここまで導かれたこと、賛美によって霊的戦いが進んでいることなど色々な話をしました。「ところで、ざわめきを通して何をするのですか」と質問され、その時私は「ただ神様に賛美し続けていきたい。」と語りました。最後に社長さんが言われた言葉は、「ざわめきの働きが始まるということで取材ささせていただきましたが、創世記一章二節の『地は形もなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。』という御言葉が心に響きました。何にも形のない「ざわめき」、その上に神の霊が動いていることだけは確認しました。だからきっと神様が何かして下さるでしょう。」と言って下さいました。そしてその後、私に与えられた御言葉は創世記一章三節の御言葉でした。

『その時神が光りよあれと仰せられた。すると、光ができた。』

「光よあれ」という告白を持って神様が天地万物を創造して下さったように、私たちの告白を通しても暗闇の力が打ち砕かれ、リバイバルの御業が前進することを確信しました。私たちは主を賛美するという歩みをし続けていきたいと思います。
 しかし、この世界の中にある音楽にも力があると思います。若い人からお年寄りまで音楽の力を体験していると思います。音楽によって人生のスタイルが変わったり、その人の雰囲気も音楽に影響を受けていることがあります。サタンは色々な策略を持って人々を束縛しますが、サタンの計画の一つは、「音楽」を持って人々を束縛することだと思います。何気なく聴いている音楽、何気なく口ずさむ音楽を通して、人々の心は捕らえられてしまいます。イザヤ書十四章に、天使が地に投げ落とされてサタンになったことが書かれています。十一節から十二節に、

『あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。』

と書かれています。天使が「自分は神のようになりたい」という思いを持ち、堕落してサタンになりました。このサタンの元の天における役割は、音楽を奏でることでした。彼の手には琴がありました。ですからサタンは音楽を持ってこの地に投げ落とされ、そして、音楽を持ってこの地上の働きを始めたと思います。サタンは色々な働きで人々を苦しめますが、その中の一つが音楽であることを忘れてはなりません。ですから、私たちが聴く音楽が神様に喜ばれる神様への真実ないけにえであり続けるように、また、いつも私たちのただ中に神様への賛美が溢れるようにしていただきたいと思います。私たちの賛美の告白によって、暗闇の力が打ち砕かれ、主の勝利が前進することを信じ、実行していきたいと思います。旧約聖書の中に、音楽を持って、賛美を持って主の戦いに勝利した記事が書かれています。ユダの王ヨシャパテと敵国アモン人とモアブ人の連合軍が戦いを挑んできた時の事です。その戦いはどう考えてもヨシャパテにとって不利な状況でした。その時、彼は断食して祈り、「神様、助けて下さい。このままでは私たちは破れてしまいます。助けて下さい」と祈り、ひとつの方法を考え出したのです。第二歴代誌二十章二十一節から二十二節に、

『それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。』

と書かれています。彼は聖歌隊を任命し、武装した者たちの前に進ませました。通常の戦いならば、武装して剣や鑓を持った者が最前線に進み、戦いに挑みます。しかし、ヨシャパテは最前線に聖歌隊をおいて賛美をさせました。不思議な戦いの方法ですが、賛美し続けていった時に神様ご自身が働いて下さいました。彼らが賛美をした時、主が伏兵を設けたと書かれています。神様が天使を送り、アモン人、モアブ人を襲わせて、勝利が現されたことが記されています。私たちはリバイバルの戦いの最前線にいつも賛美があるべきです。また、私たちの生活の最前線にいつも主への賛美があるべきです。賛美が若い世代にとどまらず、乳飲み子から高齢者に至るまで溢れていたら素晴らしいものです。
 一九八五年に初めて「十二時間連鎖賛美」が行われました。それまでは大きな伝道集会があると、集会のために連鎖祈祷会が行われていました。私たちは一生懸命集会のために祈っていました。そんな時、「連鎖祈祷も良いけど、賛美も良いではないか」ということで連鎖賛美を始めました。その時は賛美に溢れていない時代でしたので、どのような集会になるのか見当がつきませんでした。しかし、それがとても祝福されました。詩篇二十二篇に『イスラエルの賛美を住まいとされる』と書かれているように、確かに神様は賛美の中におられると身を持って体験しました。クリスチャンホームに生まれ育った者にとって、救いの体験は難しいものです。泥沼の生活の中からイエス様に出会って救われたという劇的な改心はほとんどありません。そんな中で「神様に触れられる」、「恵まれる」、「祝福される」という事があまりわかりませんでした。証の中で、「御言葉が示されました」と聞くと、心にピンときたのかなあ?今の心境にあった言葉があったということかな?としか思えませんでした。わけがわからなかった私たちに、確かに神様が生きておられ、「わたしはあなたと一緒にいる」と賛美の中で神様が語って下さいました。十二時間連鎖賛美が祝福され、翌年一九八六年には、「二十四時間連鎖賛美」が行われました。毎年夏の一大イベントとして行われました。そして、一九八九年から毎月「二十四時間連鎖賛美」が行われるようになりました。その後、イエス様が三日三晩私たちのために苦しんで下さったのだから、私たちも三日三晩・・・ということで、「七十二時間連鎖賛美」をしました。さらに、甲子園ミッションがキックオフするという九十二年には、「九十二時間連鎖賛美」が行われ、神様の大きな祝福が与えられました。私たちの信仰生活を向上させて下さると共に確かに賛美の中に神が生きておられることを体験させて下さいました。それと共に、「賛美の中でリバイバルの働きが力強く前進する、だからもっと賛美しなさい」と神様が語って下さり、その度に新しい賛美を与えて下さったことを覚えます。詩篇一四九篇一節に、

『ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。』

と書かれています。この御言葉は一九九〇年から九十一年に、「賛美がもっと与えられたら」と思っていた私に与えられた御言葉でした。新しい歌が与えられるようにと祈り、作ろうとしていましたが、全くできませんでした。しかし、ある時突然、神様が天から雨のように賛美を降らせてくださりそれを受け取ることができ、主に新しい歌を持って賛美することができるようになりました。一節から九節を読んでいくと、「賛美の中にある神の力」について記されています。五節から九節に、

『聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

と書かれています。『新しい歌を主に賛美せよ』と言われる中で神様が与えられた賛美は、「戦いの賛美」でした。『国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため』に賛美を与えたと教えて下さいました。その中で与えられた「ざわめき」の賛美は、多くの方から「こんなのは賛美ではない」と批評され、なかなか受け入れられませんでした。しかし、リバイバルの戦いの中で賛美を持って勝利の御業を神様が切り開いて下さったと信じています。『彼らの口には神への称賛。』と書かれています。『称賛』という言葉は聖書中一度しか使われていません。これは「究極の賛美」という意味です。賛美によって暗闇の力が打ち砕かれることは「究極の賛美」です。イスラエルの賛美を住まいとされる神様の御業が私たちの生活のただ中に現されるために、賛美を持って悪魔の力が打ち砕かれ、賛美を持って救いの御業が現されるように祈っていきたいと思います。御言葉通りの御業が私たちの生活のただ中に始まるように願います。
 さて、その賛美を私たちがどこで賛美するか、いつ賛美するか、そして、賛美した結果について、今日のテーマの御言葉である使徒十六章から学んでいきたいと思います。
 まず、使徒の働き十六章二十四節に、

『この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。』

と書かれています。パウロとシラスは牢獄の中にいました。二十五節に、

『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。』

と書かれています。私たちはどこで賛美をするべきでしょか。牢獄で賛美するのです。しかし、決してこれから犯罪を犯して牢獄に入れられてそこで賛美をしなさいということではありません。どのような苦しみがあっても、どのような境遇にあってもその場所で、たとえ牢獄のような環境の中でも、神様を賛美することが必要なのです。リバイバルという大きな戦いのただ中で主に賛美することが大切です。
 第二に、いつ賛美するのでしょうか?真夜中ごろ賛美したと書かれています。私たちが賛美するべき時は、真夜中です。ということで毎晩真夜中に起きて大声で賛美をしたら、「狂っている」とみんなに言われるかも知れません。今は最も暗い時代です。真夜中というのは今の時代だと思います。このような中で主への賛美をささげる時、神ご自身が偉大な御業を現して下さることを信じます。
 来週から「ざわめきワーシップシャウト四大都市ツアー」が始まります。そのためにざわめきのクラブメンバーたちにこの働きを支えていただくためのプランが神様から与えられました。「同刻プレイズ」です。甲子園ミッションの時に同刻祈祷が行われました。十一月三日から五日だったので、毎日十一時三分から五分まで心を合わせて祈りました。それと同じように同刻プレイズが始まりました。「四大都市」ということで四時から始めています。四時は微妙な時間です。学生の場合は学校にいたり、帰りの電車の中かも知れません。ある方は、職場にいて、ある方は家庭にいます。そんな中で同じ時に同じ主への賛美をささげます。今週の課題曲は「全地よ神に向かい」です。先週は「息よ四方から」でした。先週は丁度歯科で治療中にアラームがなり、声には出しませんでしたが、心の中で賛美をしていました。ぜひ、皆さんも皆さんがおられるその場所で主への賛美を始めて下さい。その時に必ず神様による新しいことが成されるという信仰を持って賛美して下さい。
 そして第三に賛美によって何が起こされるかについて、二十六節に、

『ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。』

と書かれています。まず、賛美した時に『獄舎の土台が揺れ動いた』と書かれています。賛美を持って起こされた第一の神様の御業は、問題の一番深い土台を揺り動かし、そこから大きな御業が現されたことです。人間の力ではどうしようもない問題のただ中で祈りつつ神様への賛美をささげるときに問題の根本的な土台が揺り動かされ、大きな勝利が現されます。そして第二には、『扉が開いた』と書かれています。獄舎が揺れ動き建物が倒れてそこにいた人が死んでしまったというのではなく、獄舎が揺れ動き、そこにもたらされた霊的勝利のゆえに獄の扉が開かれるという事が起こされました。私たちはリバイバルの扉、救いの扉、問題解決の扉が開くように祈っていますが、新しい神様の領域の扉が開かれるためにも神様に賛美をささげていきたいと思います。そして第三には、『みなの鎖が解けてしまった』と書かれています。パウロとシラスは足かせをつけられていましたが、鎖が解けてしまうという超自然的な御業が現されました。賛美によってそのようなことが起こされることを信じていきたいと思います。『罪を行っている者は罪の奴隷です。』と聖書の中に書かれていますが、私たちのクリスチャン生活の中でも罪の中に縛られて、罪の手かせや足かせに悩まされることがあると思います。パウロが語った御言葉にローマ書七章に、「私はしたくない悪を行う惨めな者だ」と言っています。しかし、八章においては、「私たちは罪の奴隷ですが、神様は奴隷としてではなく、私たちを子として扱われ、子としての祝福を与えて下さるので圧倒的な勝利に神様が導いて下さる」と語っています。賛美の中で圧倒的な勝利が表されることを信じて賛美をささげていきたいと思います。どうしても離れることができない悪週間や罪から離れられないというところからも神様は解き放って下さいます。私たちが一生懸命祈っていながら、今一つ解かれないということを感じる時には、もう一度主への賛美をささげていくことが必要です。最後、パウロとシラスが解き放たれた時、看守たちは囚人が皆逃げてしまったので自害しようとしました。その時パウロが「私たちはここにいるから自害してはいけない」と言いました。そして彼らは看守たちの前に立ちました。

『そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。』

とパウロは語りました。賛美の中に起こされる色々な御業の中で、私たちがこの御言葉を信じることができたらどんなにか素晴らしいことかと思います。「主イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われる」ということが、賛美の中に鍵があることを信じ、実行していきたいと思います。家族の救いは皆さんの長年の祈りの課題かも知れませんが、家族・親族の救いが賛美を通して現されていくことを信じましょう。私たちは賛美によって究極的に魂の救いを目指すべきです。そして、皆さんの家族の救いが賛美によって成されることができますように、家庭の中に働く暗闇の力が打ち砕かれるために賛美をささげることが必要です。賛美をすることができなかったらCDを聴いたり、神様の御前に絶えず家庭の中に賛美を溢れさせていく時に、神様の御業が現されることを信じていきたいと思います。『家族』と書かれていますが、家族はギリシャ語で「オイコス」と言います。「オイコス」という言葉は家族という少ない範囲ではありません。家族だけにとどまらず、親族、部族、国民に属するものであり、また、関わる全ての人という意味です。ですから、私たちが賛美をささげる時に親族、部族、町、私たちに関わる全ての人の救いのために私たちに神様が賛美を与えて下さっていると信じ、賛美に溢れた歩みをしていきたいと思います。生活のただ中で私たちの口に絶えず賛美が溢れ、生活の真ん中に主の御業をいつも仰ぐために主への賛美をしましょう。その賛美によって暗闇が打ち砕かれ、魂の救いに到達するまでの大いなる主の栄光が現されることを願いつつ、賛美をし続けていきたいと思います。ハレルヤ!お祈りします。

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