今週の礼拝メッセージ
2001.7.29(SUN)
神の国での盗難事件
新城教会牧師 上條 実牧師

旧約聖書 アモス書3章11節
それゆえ、神である主はこう仰せられる。「敵だ。この国を取り囲んでいる。彼はあなたの権威を地に落とし、あなたの宮殿はかすめ奪われる。」

 ハレルヤ!今日皆さんと共に御言葉を学ぶことができることを感謝します。早速御言葉を学びます。私たちは日頃色々な事件を見たり耳にします。新聞の記事を今までは他人事のように、遠い所で起きた出来事のように感じ見ていました。しかしこんな田舎の新城でもこの頃多くの事件・事故が起きています。他人事ではなくなりました。新城教会では月曜日の夜、県民の森で祈祷会をしています。また水曜日の夜はスタッフだけで祈り会を持っています。七月十八日の水曜日の夜も新城総合公園でスタッフだけの祈祷会をもちました。大変恵まれた時を持つことができました。そして車を新城総合公園の北側ゲート前に駐車していましたので車に戻ったときのことでした。その日私たちは豊橋の家庭集会後総合公園に直行したため、鞄などを車に入れたままロックして祈祷会に出席していました。夜の十一時頃到着して祈祷会に参加し、十二時半頃には終了しました。そして車に戻って車のまわりを見るとなぜかガソリンスタンドの領収書が落ちていました。何でだろうと不思議に思い車に目をむけると窓ガラスが割られ、車の中が物色されてグシャグシャの状態になっていました。私たちの車にあった私の鞄と運転していた岡本司兄の鞄が盗まれてしまいました。私の鞄の中には携帯電話、財布、免許証、クレジットカード、聖書、ミッションのスケジュール、家と車の鍵などが入っていました。正直大変ショックでした。是非礼拝中車の中に貴重品を置かないようにしていただきたいと思います。幸い財布の中に現金があまり入っていなかったのですが、すぐに一一〇番し、新城警察署に来なさいとのことでしたので行きました。そして何を盗まれたのかとか、車の状況を調べたりとかして被害届を出しました。その同じ水曜日には色々なところも荒らされたようです。また何週間か前には教育館の玄関前にある自動販売機も荒らされたことがありました。新城は田舎で住み易い所で平和だと思っていましたが、物騒になって来ました。今回盗難にあって一番痛かったのは全日本リバイバルミッションのスケジュール帳でした。幸い次の日財布と財布の中に入っていた免許証とクレジットカードだけは見つかりましたが大変ショックな一日でした。もう一度言いますが皆さんもこの礼拝の時や常に、車の中に貴重品等は置いたままにしないで下さい。お互いに気を付けましょう。またこんな事が兄姉に、この周辺に起こらないように祈っていきましょう。私はあの事件後もう一度守りの為など、神さまの前に出て祈り、聖書を読みました。その時神さまが先程お読みしたみことばを語って下さいました。もう一度お読みします。

『それゆえ、神である主はこう仰せられる。「敵だ。この国を取り囲んでいる。彼はあなたの権威を地に落とし、あなたの宮殿はかすめ奪われる。」』

これはイスラエルの民のさばきについて書かれています。イスラエルの国がアッシリヤに取り囲まれ、宮殿が襲撃されてしまうという場面です。敵が彼らを取り囲んでいるとありますが、アッシリヤがイスラエルを取り囲み『あなたの権威を地に落とし、あなたの宮殿はかすめ奪われる。』とあるように、権威が地に落とされ、宮殿にあった金銀、財宝などが奪われてしまうということが書かれています。私たちクリスチャンも神様から祝福をいただき、恵みの中に生かされています。神様を信じたら永遠のいのちが与えられ、また毎日平安と喜びと愛に満たされて毎日過ごすことができると聖書を通して学ぶことができます。神の国が現されています。この地上は天国の支店のような、神の国の祝福を頂いています。私たちは神様の皇太子、御国の世継ぎであり、神の御国に入る事ができる約束をいただいています。にも関わらず毎日の生活はどうでしょうか。毎日の生活は盗難事件があったり、苦しみ、悲しみ等の毎日です。私は信仰がしっかりしている、神様に愛されて守られていると思っていても、油断していると知らない間に今日のタイトルのように「神の国での盗難事件」がおきています。アッシリヤがイスラエルの宮殿の金銀、財宝を奪ったとありますが、同じように神様の恵みをいただいている私たちが気付くと、敵に取られている時が多くあると思います。暗闇の力、私たちの祝福を奪い取る敵がいる事を覚えて下さい。ではあなたは今日神の国のものを盗まれていませんか。
 まず第一番目に、あなたの喜びが盗まれていませんでしょう?今回盗難に遭い、力が抜けました。毎日神様の祝福を与えて下さい、守って下さいと祈ったにも関わらず、なぜこんな事が起きるのだろうかと落ち込みました。取られてしまうと喜びがなくなります。あなたは今喜びが盗まれていませんでしょうか?私たちは救われています。天国に入れるという喜びと確信があります。御言葉に書かれています。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえって下さいました。ただそれを信じるだけで私たちは救われると御言葉にあります。永遠の喜びを神様からいただいています。こんな自分が天国に行ける。全ての罪が赦される。永遠の命が与えられる。という素晴らしい祝福です。皆さんも救われたときの感動を思い浮かべる時、なぜイエス様を心に信じ受け入れただけでこんなに世界が変わるのだろうと思うほどに劇的な救いを神様からいただいたと思います。しかし、毎日その望みを持っていながらも、悩みがあり、悲しみがある。心に深い傷を受け、人間関係や仕事、病気などで私たちは救いの喜びを失っていることがあります。目の前の悩み、苦しみ、心の傷等は大きな問題であり、癒されるように解決を求めて祈りますが、その喜びがそれらによって消えてしまいます。しかし今日是非覚えて下さい。私たちクリスチャンの土台となるべきものは十字架だということを覚えて下さい。イエス様が十字架にかかられ、葬られ、三日目によみがえって下さった。刑罰を受けて下さったということを覚えて下さい。自分と十字架の間に問題、悲しみ、悩み、病気、心の傷等を入れないで下さい。私たちは十字架によって救われています。だから自分と十字架の間ではなく、十字架の外側にその問題等を置いて下さい。私たちは救われています。あなたのためにイエス・キリストは命を懸けてあなたを救って下さいました。イエス様は私たちと同じ肉体を持っていました。叩かれたら痛いし、くすぐったらくすぐったいし、完璧な人間の体となって下さいました。私たちが罪を犯したため、地獄の苦しみを受けなければならなかった者が、イエス様の十字架によって天国に行ける恵みはどんなに感謝しても感謝できないほどの素晴らしい恵みです。どれだけお金を積まれても、変えることのできない喜びを私たちは持っているはずです。しかし、知らない間に、目の前に大きな問題を置き、傷つき、悩み苦しみ、気付くとイエス様を信じていることは確かでわかってはいても、喜びがありません。私たちは目の前にある暗い方に目を向けてしまうのです。私は先週の月曜日、夜の祈祷会をリードさせていただきました。その時「感謝する時を持ちましょう」としましょうという導きをして、一五分間位個人祈祷をしました。その時私はいつものように「イエス様、あなたが私のために十字架にかかって下さった事を感謝します。」と十字架のことを考えて感謝しました。しかし、その時神様に怒られたような気がしました。それは「お前は本当にそれで十字架を感謝しているか」ということでした。私はその時にふと一つの事件を思い出しました。私は学生時代こう見えても、陸上部に所属していました。高校二年生の春休みに陸上部の練習で短距離走のタイムを測った後、スタートの瞬発力を付けるためだったか忘れましたが、スタートの合図と同時に前に走るだけではなく、後ろに向きを変えて走る練習をしました。その時スパイクを普通の靴にはき変えれば良かったのですがスパイクのままで練習をしていました。どうしてそんなことになったのか分かりませんが、踏み込んだ足のスパイクが私の右手の小指に刺さり、切れてしまいました。見ると指が裂け、中の骨が見え、あっと思っている間に血がドボドボと出てきたため、保健室に行きました。すぐに病院に行きましたが、十針縫いました。消毒するとき、医師にガーゼに消毒液をつけて傷を擦られました。ただでさえ傷がしみるのに、その時頭の上まで痛みがきて私は暴れたようです。看護婦さんが四人がかりで押さえて私は耐えて処置をされました。麻酔を打ったので少し痛みが和らいでいましたが、麻酔が切れるとものすごい痛みがあり、痛くて痛くてたまらなかったことを覚えています。感謝の祈りの中でその怪我と痛くて眠れないことを思い出しました。その時に、イエス様の十字架は脇腹に鑓を受け、殴られ、髭をむしられたなど様々な十字架の場面を思い出したときに、十字架への感謝が足らなかったと痛感しました。私たちは聖餐式の時でも「イエス様、私のために十字架にかかられ血を流して下さったことを感謝します」と十字架を感謝しますが、あなたを救うためにどんな苦労をしているか、どんな犠牲があるかを覚えているでしょうか?人種差別のようになったら申し訳ないと思いますが、十数年前にタイのスラム街で路傍伝道をしたことがありました。トタンだけで囲った五から六畳の所に家族全員多くの人が住んでおり、悪臭がありました。こんなところでは絶対自分は住めないと思いました。路傍伝道の途中土砂降りの雨が降ってきた時、家からみんなが出てきました。御言葉を聞きに来たかと思いましたが、そうではなく、雨でシャンプーをし始めました。今の自分の生活を考えるとそんなところに一日でも、いや一時間でも自分の家としてくつろげと言われてもくつろげないと思いました。しかし、神様は私たちを救うために、天の国からわざわざ私たち人間社会、罪だらけの社会に来て下さって私を救うために来て下さり、苦しみを受けて下さいました。今日聖餐式があります。この聖餐をいい加減な気持ちで預からないで下さい。心からその犠牲に対して最高の感謝をして行かなくてはいけません。私たちはイエス・キリストの十字架を考えて感謝するべきです。そして救われていることの喜びを返していただきたいと思います。知らない間に十字架によって救われていること。私たちは天国に行ける、死ぬことが怖くない。天国に行けることが喜びであり、感謝と希望があるにも関わらず、毎日の生活の中に喜びがなくなってしまう、今日喜びを返していただきましょう。十字架にかかられたイエス様のことをよく考え、十字架のことを心から感謝していきたいと思います。あなたはよろこびがありますか?今日救いの喜びに満たしていただきましょう。十字架を見上げたとき、あなたが持っている問題も、傷も病も癒され、解決されます。
 また、もう一つ盗まれているものがあります。それは愛です。愛の中でもまずイエス・キリストに対する愛が盗まれています。あなたはイエス様をどれだけ愛していますか?私は神様のために働きたいと思った時とにかく何でも良い、どんな働きでも良いから神様のために働きたいと思って献身しました。人がやりたくないこと、どんなことでも良い。掃除だけでも良い、毎日教会の掃除でも良いから神様のために働きたいと思っていました。神様を愛していました。そんな思いで神様の愛を感じて飛び込んだにもかかわらず、現在毎日の忙しいスケジュールの中で不平不満が出てしまう。こんな事で本当に神様を愛しているだろうかと神様から問われました。また兄姉に対して愛があるでしょうか?私たちはキリストが頭で私たちは各器官だと言います。「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われます。自分の事のように、人を愛さなければいけないと分かっているにも関わらず、敵対心を持ち、交わりを持つことができない。また兄姉に対して無関心になっている。なぜあんなことを言うのかと人を憎んだり、人を赦せなくなってしまっています。兄姉の問題や病い、祈祷課題は聞いてはいるが、祈らない、助けない。これで本当の神の家族でしょうか?隣人を愛すると言いながら愛を取られてしまっていると思います。また、私たちはイエスキリストによって救われ、恵みの中にあります。しかしまだ救いを知らない方々のために、私たちはどれだけ愛を持っているのでしょうか。今年の夏は猛暑で多くの方がこの暑さによって体調を崩し亡くなられています。昨日も私の住んでいる地域で、お葬式がありました。お年寄りが亡くなりました。私は昨晩今日のみことばを語るための準備したとき、神に攻められました。「お前はその人の救いのために祈ったことがあるのか」「亡くなった人のためにどれだけ愛を注いだか」と問われました。自分は自分の地域のために祈っている。地域の人々を愛していると言いながら、その人が何才なのか、どんな人なのか、どういう家族構成なのかなどのことすら知りませんでした。ましてやその人に福音を伝えたと言うこともありませんでした。イエス様は死ぬほどまでにも、命を懸けて愛を注いで下さったのに、お前は失われていく魂のためにどれだけ愛を持っているかと言われました。その時魂に対しての愛が全くない私が、講壇に立つことができないと悔い改め、神の前に悔い改め、へりくだる時を持ちました。自分は救われて喜んでいる、救われて天国に行ける。永遠の命をいただいた。しかし周りの人を愛すると言いながら、私たちの周りや家族、お隣の人、愛する一億数千万人という日本の魂のためにどれだけ愛を持って祈っているかというと、祈りの大半は自分のことです。日本にリバイバルを与えて下さい。この地域の人を救って下さいと祈っていないのです。自分に関することは必死に信じて祈っていますが、人々に対しては愛がないことを覚えます。八月十二日には下條末紀子師が来られてゴスペルサパーがあります。また九月十六日にはロンブラウンさんたち一行が、再度コンサートをして下さいます。魂に対する愛、救霊の愛を取り戻して祈りましょう。誘いましょう。導きましょう。しかし自分勝手なことばかり考えている自分、無関心であることを赦していただきましょう。
 またもう一つは祈りが奪われいると思います。イエス様が生きていると信じて祈っていますと言われる方がいると思います。しかし今回マルコ十四章三十八節に、

『 誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。』

とあります。このみことばはイエス・キリストが十字架にかかる寸前に弟子たちに語られた御言葉です。ゲッセマネでの祈りの時です。イスカリオテのユダが足音が聞こえて来るような緊迫した時の事です。イエス様は祈っていました。しかし弟子たちは一時間も起きることができませんでした。弟子たちは眠りこけていました。一番大切な、クライマックスな時を迎えながら、弟子たちにイエス・キリストが言ったことは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈り続けなさい」ということでした。私たちは何の誘惑にかかっているのでしょうか。私は祈りました。すると神様が教えて下さったことは、祈りはするが、あきらめていないかということでした。ダメだぞ、祈っても無理だと悪魔は誘惑をかけてきます。その悪魔の誘惑の声に私たちはのってしまっています。信仰を持って祈りますと言います。しかし本当に信じているでしょうか。祈りは祈りでその後はあきらめていませんでしょうか?神様にはできないことはない、『求めなさい。そうすれば、与えられます。』神様は生きておられ、どのような大きな事にも神様は確実に答えて下さるという約束ですが、どれだけ私たちは神様にアーメンと信じて忍耐を持って待ち続けているでしょうか。神の時があります。神の計画があります。祈ったときにどれだけ委ねているでしょうか?神が動いて下さるまでどれだけ待つことができるでしょうか?祈ったにも関わらず自分で動いてしまうことが多々あります。また、誘惑に陥らずに目を覚ませと書かれていますが、問題のために、病のために祈ります。私たちはアーメンと信じて祈ります。神様は必ず祝福を与えて下さいます。ではどんな祝福でしょうか。神様は偉大です。全地を造られた神様です。聖書の中には「見たことも聞いたことも、思いに浮かんだこともないものを神様は備えて下さる」という約束です。ですから、今日祝福を小さく考えないで下さい。小さな祈りの答えで満足しないで下さい。祈りは必ず答えられます。もっと神様を信じて大胆に祈り求めていきたいと思います。神様は三十倍、六十倍、百倍の祝福を与えて下さるのです。自分の子どものために、いつも祈っていただき感謝します。今は元気になってきていますが、病気の最中には必死で祈ります。しかし少しずつ元気になり、良くなって行くと祈らなくなってしまいます。自分で安心してしまうと祈らないのです。覚えて下さい。神は無駄なことはなさいません。元通りになったら祈りが答えられたのでしょうか?大間違いです。三十倍、六十倍、百倍の恵みです。絶対に神様は無駄なことをされません。詩篇の中に『苦しみに遭ったことは私にとって幸せでした』と書かれていますが、私たちが苦しんだのであれば、元通りになったと言うことが祝福ではなく、それを遙かに通り越して、あなたに三十倍、六十倍、百倍の恵みをあげようとプレゼントを持って待っていて下さるのです。神様を小さく考えないで下さい。期待のあるところに祝福があります。今日はもう一度神様が生きておられることを覚え、大きな祝福を下さる神様。驚くばかりの恵みを与えて下さる神様。祈りは聞かれます。不信仰から目を覚まし、盗まれたところを奪い返し、神様の生きている、祈ったら答えられると言うことを信仰を持っていきたいと思います。
 また御言葉の権威が奪い取られていると思います。私たちは聖書を読んでいても聖書を軽く考えていることがあります。聖書は私たちにとって一番大切な書物です。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

と書かれています。聖書=私たちの神です。聖書をいつも読み、学び、私たちは聖書に合わせていくことが私たちの素晴らしい祝福です。しかし、御言葉を軽く考えてしまいます。神の言葉であり、権威があると言うことを忘れてしまいます。聖書を読まなくなってしまいます。みことばは悪魔を打ち砕く剣であり、力を与え、人を変えます。あなたが権威のある書物と信じているかどうかです。みことばは必ず成就します。ただ知っている、御言葉が何か気休めの言葉ではありません。人のなぐさめ言葉は力づけられることがありますが、人の言葉は消えていってしまいます。しかしみことばには絶対的な権威があります。この権威を使って信仰生活を歩んでいきましょう。御言葉は一点一画変わりません。あなたの人生の土台です。ですからこの御言葉をぜひ覚えて、読んで下さい。またみことばが語られる、礼拝、家庭集会など様々な集会に参加して下さい。みことばに従うとき祝福があります。エレミヤ書四十八章十節に、

『主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。』

と書かれています。主のみわざをおろそかにすると書かれていますが、それは聖書をおろそかにすることだと思いました。読まないこと、また教えられても実行しないこと、権威が奪われていたことを悔い改めてもう一度権威を返していただきましょう。今日あなたも神の国の中で盗難事件にあっていませんか。喜び、愛、祈り、御言葉が知らない内に敵に盗まれていませんか。自分はクリスチャンで天国に行けると思っているかも知れませんが、もう一度身の周りを考えてみて下さい。知らない内に盗まれています。敵だ、この国を取り囲んでいる、今日も暗闇の力が私たちを必死になって祝福を奪い取ろうと取り囲んでいます。イエスキリストの権威によってその敵を打ち砕き、天のみ使いを私たちの周りに陣をはってもらいましょう。今日十字架を覚え、権威をいただきましょう。大胆に神の前に出ましょう。今日は聖餐式があります。イエスキリストがあなたを救うために命をかけて下さった事を心から感謝しましょう。どんな状況にあっても祈りが答えられることを感謝しましょう。救いの喜びを回復し、盗まれたものを奪い取り、今度は祝福された人、祝福された教会、祝福された日本と変えていただきましょう。私のために十字架にかかり、葬られ、三日目に甦り、今も生きている神様を信じ続けて行きましょう。お祈りしましょう。

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