今週の礼拝メッセージ
2001.8.19(SUN)
みことばへの従順
新城教会 四元雅也副牧師

新約聖書 ヤコブの手紙1章22節〜25節
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

 ハレルヤ!感謝します。今日皆さんの前で御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。何しろ、主日礼拝でのメッセージは初めてですので緊張しています。一ヶ月程前にこのメッセージのことが知らされ、家庭集会などで多くの方に祈っていただきました。多くの兄弟姉妹が喜んでくださり、私自身色々な兄弟姉妹に祈られ、愛されていることを感じました。今年の六月に副牧師に就任し、最初はなかなか受け入れることができず、私のような者がなっていいものかと最初はとまどいました。しかし、多くの兄弟姉妹に支えられて今日まで導かれました。まだ片足がフワフワ中に浮いているような感じですが、今は、神様が私に今年与えてくださった大きなチャレンジだと、考え方を変えられるようになりました。成長する機会を与えて下さったことを神様に感謝します。また、先月の二十二日に、二男が誕生したことも感謝します。すべてが皆さんのお祈りに支えられ、守られていることを心から感謝します。

今日は、ヤコブの手紙一章二十二節からの御言葉から学んでいきます。
『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』

二十五節には、

『ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。』

と書かれています。いうまでもなく、私たちは御言葉を土台に生きています。クリスチャンは神様の御言葉である聖書に絶対的な信仰の基礎を置くものです。聖書が言うから私たちはイエス様を信じ、聖書が言うから私たちはクリスチャンとして歩んでいます。

ローマ十章十七節
『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』

聖書には私たちの人生にすべての必要な要素が含まれています。私たちの一般社会においても常識であり教訓になっている、人を愛すること、また、盗み偽りなどの悪から離れて正しい生活をすること、また自分の両親に従い親孝行をすることなど、世間でも人の道としてとなえられていることも聖書中に見ることができますが、私たちの一般常識とは相反することもたくさん書かれています。今日ここに始めて来られた方は少なからずこの礼拝の風景を見て驚かれたと思います。私は中学二年生の時、初めて教会に来て、外国に来たかのような感覚になりました。なぜ、みんな手を打って合唱しているのだろうか。お祈りの時には、お祈りとは何だろうと戸惑いました。しかし何度か来ているうちに、これは聖書に「あなたの唇で賛美しなさい。」また、「絶えず祈りなさい」と書かれているのだと気づきました。そして、彼らは(クリスチャンたちは)御言葉に従って生きているのだと知りました。私たちは、御言葉に従って賛美し、祈るときに祝福を体験します。ある人の聖書に、「や」「た」という文字がたくさん書かれていました。それを見つけた牧師先生が不審に思い、「兄弟、なぜそんなところに「や」、「た」と書いてあるの?」と聞くと、「先生。これはやってみたら確かだったということです。やってみたら確かだったといちいち書くと長くなってしまうので「や」、「た」にしています。」と言われたそうです。聖書の御言葉は私たちの今までの常識を覆すような言葉も書かれています。例えば、「敵を愛しなさい。」「あなたの敵のために祈りなさい。」「もし敵が一里行けと言ったら二里行きなさい。」「何か取ろうとしたら拒んではいけません。」また「受けるより与える方が幸いです」と書かれています。私たちは当然もらう方が嬉しいです。あげるのは嫌だという思いがあると思います。しかし、聖書は受けるより与える方が幸いと書かれています。そういうことがたくさん書かれています。私たちの常識を覆しハードルを越えなければ到達できないような御言葉が聖書の中にたくさん書かれています。しかし、「やってみたら確かだった」ということが聖書の御言葉の真理だと思います。私たちの人生とかけ離れた遠いところに聖書の御言葉の基準があるのではありません。遠い理想に私たちの到達点があるのではありません。私たちの日常でやってみたら確かだったというところに聖書の御言葉があることを、今日覚えたいと思います。まだイエス様を信じておられない方もぜひ、聖書を読んでみて下さい。あなたのために大切な神様の言葉が書かれています。そしてあなたの人生をこの御言葉が変えることを体験するはずです。

クリスチャン生活の祝福の鍵、それは、私たちの人生に聖書の御言葉を照らし合わせるのではなく、聖書の御言葉を基準に、私たちの人生を合わせていくことが必要だと思います。基本は、私たちがまず神様を信じることから始まります。今日初めて来られた方もぜひ、神様を求め、信じてみて下さい。そうすれば聖書に書かれている素晴らしい恵みを知ることができます。創世記一章には、神様が天地創造されたことが書かれています。聖書が言っていることは、天と地、また私たちの見えるすべてのものを、神様が造られたということです。聖書には神様ご自身が初めの人間アダムとエバを創造の最後の究極のみ業を創造の最後の究極のみ業として造られたと書かれています。私たちは一人一人神によって造られ、決して偶然の産物や進化によって生まれたものではないと言っています。現代科学、特に生物学は進化論によって成り立っています。そして、造られ私たちは今尚進化の過程にあると言われています。これは、聖書が言うことと相反する論理です。しかし、昨年興味深いTV番組を見ました。人の遺伝子を取り上げたものでした。今は遺伝子工学が進み、遺伝子情報を調べることから人間のルーツをたどることができるようになってきました。女性と男性とが結ばれて赤ちゃんができます。生まれた子供は、当然、両親から半分ずつ遺伝情報を受け継いでいます。しかし、ある部分だけは、男性のものは受け継がずに女性のものだけが受け継がれて生まれてくることがわかってきました。だからその部分の遺伝情報だけは、男性と交わることがなく半永久に同じものが受け継がれていきます。それをたどるとその人の祖先が何代先まででもわかるというのです。何千年前かわかりませんが、ヨーロッパのアルプス山脈で、ある人が生き倒れになり、氷河に埋もれて凍結し、ミイラ化してしまったものが最近掘り出されたそうです。そのミイラは「アイスマン」と名付けられたそうですが、番組では、ミイラの直系の子孫が誰であるかを特定するドキュメントをしていました。するとイギリスのある女性がそのミイラの子孫だということがわかったと、驚くべきことを言っていました。その時からその女性は「あなたはあのミイラの子孫だからアイスウーマンだね」と言われているそうです。今日、そんな研究が世界規模で行われています。この教会にはペルーやブラジルから来られている方がいますが、あのアンデス山脈に住んでいる人は北海道のアイヌ系の人たちと遺伝情報が近いと言われています。ということはアイヌ人が民族移動して住み着いたのではないかと番組では言われていました。しかし、その番組で、私が最も驚きを持って見たことは、究極的に人間のルーツをたどっていくと、なんと、世界中の人のルーツが、一人の女性にたどり着くことが最近わかったというのです。勿論、この調べ方は男性側から調べることができませんので、彼女のそばにもう一人、男性がいたのではないかと推測されます。それはまさしく聖書が言う、初めの人間アダムとエバを神が造られたということに合致するではないでしょうか。このことが実証される前は、人のルーツとは、世界の各地域に原人が現れ、別々の場所で進化を遂げたと論じられてきました。たとえば、アジア人なら祖先は北京原人。ヨーロッパ人ならネアンデルタール人、という具合です。しかし、それは覆され、新たな真理として一人の人から人の営みが始まり、全世界は、その人から増え広がっていったことが、遺伝学上証明されたのです。素晴らしいと思いました。確かに聖書の御言葉は正しかったと思いました。進化論は、あくまで論だけに、ひとつの意見ではありますが確立されているものではありません。これを教科書にあたかも真実のように載せるのは間違っていると私は思います。科学は今の現実に実証されていることを基に更にそれを立証していくことです。科学は進めば進むほど聖書の正しさを立証していくことを思います。私たちはそのように聖書に従って歩むべきです。私たちの人生は聖書に近づいていくべきです。ということは、私自身のことですが、御言葉をトランプのカードのようにこういう時にはこの御言葉、苦しいときにはこの御言葉嬉しいときにはこの御言葉と・・・とエースを出すような使い方をしています。今回この御言葉を考えているときに示されました。自分の都合で使い分けるような御言葉ではいけないと思います。自分が受け入れがたいこと、実行しにくいことであっても御言葉が言っていれば、神様がそうだと言われたら従うべきです。クリスチャンの人生の中に問われていることだと思います。それを実行できれば、私たちは祝福された、実りのある人生を歩むことができると思います。礼拝の中で何度か紹介されましたが、今年私の住む町の偶像礼拝にまつわる町との癒着構造についての講義をしました。そして大きな勝利を得ることができました。これは七年前に中野夫妻がその住宅に入居した時から始まりました。入居されたときにその行政で成されている運営が特に地域の神社と癒着していました。その住宅は町の北部に位置し、私たち住民はその町に区費を納めています。それと同時に地区の自治会があり、自治会費も納めています。しかし、区費からは十五パーセント、自治会費からは約半額の祭りに関する寄付がされています。私たちの払っている区費や自治会費から是非を問わないままにそこから祭礼費が引き出されているという状況でした。そこで中野夫妻が立ち上がり、「これはおかしい。私たちはそれを払うことはできません」ということで戦いが始まりました。最終的に行き着いたところは、自治会費を神社の寄付金だけ払わないのはまずい。しかし、他の用途に使うようにするということになりました。私たちが入居した六年前にもそうでした。今年になるまでそのようなシステムでした。最近になってから新しい棟が建ち、多くの兄弟姉妹が入居され十組ほどのクリスチャン世帯が入居したので区と偶像礼拝の関わりのためにとりなして祈ろう、また、この町のリバイバルのために祈ろうということで何度か集まってとりなしの祈りをしました。また、祭りの時期にも祈りにいきました。私たちの家族は昨年家族で祭りをやっている所に行き、祈りました。家族全員でしました。子どもたちはまだ小さいですが、その時には聖霊様の助けがあり、真剣に祈ってくれました。子どもたちの祈りによって勝利が来たのを覚えています。年が改まり今年になって色々な動きが起こってきました。まず、自治会長さんがあなたたちクリスチャンはいつも意見を言ってくれるから来期自治会長をしてみないかと言われました。私たちは戸惑いました。自治会長の仕事は大変なので兄弟姉妹と共に祈りながら考え、自治会長は無理だけど評議員であればできると申し出ました。評議員は自治会長より一つ下のポジションです。そう答えを出すと、申し立てをしてきた本人があなたたちは偶像参拝しないと言うからできない、駄目だと言われました。なぜそのように言うのだろうかと思い、逆に私たちは燃え上がってしまい、また祈り出しました。そんな中で、同じ住宅に住む青木夫妻が「昨年組長で去年やりたいことをやり残したと思うのでもう一年組長をしたいと思います!」と再任をかって出ました。また年が改まり今年度になってから予算の中に偶像礼拝に対してのお金が盛り込まれておかしいから何とかしなければいけないと言うことで祈りました。市役所に行って職員に話すと、職員たちは憲法に忠実で客観的な立場で見ておられ、新城市としてしっかりしなくてはならないという見解をいただき励まされました。やっていくしかないと思い、にわかに動き出しました。そして、みんなで祈り話し合った結果、区に対しての意見書を出すことにしました。「区から祭礼費がされていることはおかしい」、また、「区の組織を通じて祭りの参加をさせたり、札を配らせたり、回覧板に偶像行事の回覧をするのはやめてください」という内容で意見書を書きました。すると、意見書を書いたその週から色々な問題が起こってきました。本当に驚きましたが、兄弟姉妹のお子さんたちが突然病気になったり、ある方は入院して手術が必要な病気になってしまったり、ある姉妹は頭痛に悩まされたり、ある姉妹は突然手足の関節が痛み出し、病院に行くとリュウマチかも知れないと言われて検査することになったり、家庭の中に不和が起こったりと色々な問題が起こってしまいました。私たちの心をくじくようなことが起こりました。自治会の方でつるし上げになり、「そんなふうでここに住めると思うのか」と言われ、このままでは孤立してしまい住めなくなってしまうのではないかと不安になり、この辺でやめた方が良いかと思ったこともありました。そんな時にマタイ十一章二十八節の御言葉が与えられました。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』


疲れて重荷を負っている時に、イエス様に重荷を渡すことを語られ励まされました。そしてその後に、

『あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

と書かれています。もし今の現状が神のみこころから出て、今与えられている重荷が神様が私に与えられている重荷であれば、それは決して重荷とならずに後に平安な義の実を結ぶと御言葉に書かれているように、それは重荷とならずに軽いものになる。また平安な義の実を結ぶことができると思わされました。そして現実的に進むしかない。イエス様を信じて頑張るしかないと言うことでしたので信仰を持って進むことにしました。この御言葉が与えられて自分自身の中で吹っ切れたときに、総代さんからお話があり、クリスチャンの皆と区の役員とで話し合いの場が何度か与えられました。それからは私たちの主張したとおりに話しが進んでいきました。そして最終的に七月八日に町の組長会で決議がなされました。そして回覧がまわってきました。

「区の基本的な考え方。八幡神社、秋葉神社の維持。祭礼余興の存続を望まれる区民の皆さんのご意見を尊重しながら区と八幡神社、秋葉神社、祭礼余興との関係をより正しくしていくために、区と八幡神社、秋葉神社、祭礼余興団体を別々の二つの組織とし、八幡神社、秋葉神社、祭礼余興団体を事業財政、人事等、区から完全に独立した団体として立ちあげることにします。」

という結論が出ました。八幡神社、秋葉神社、祭礼余興団体を賛同者のみのによって組織を作り、財務上、人事上、実務上においても区の行政からは全く切り離すという結論がつきました。私たちが正しく主張していたのでその通りになったので大きな勝利を見ることができました。そしてそればかりではなく、実はその背後で市の方からも私たちの住む町で起こっていることが注目され、市議会で取り上げられ、共産党議員から市長に「このようなことが起こっていますが市長としての見解はどうでしょうか。」と伺ったところ、「それは一行政区ではなく、市としても取り組むべき課題である」という見解をいただき、それを基に市の役人からも区にあなたがたのことを市が注目しているのでしっかりと決めてくださいと言われ、私たちを手助けするような後押しがされていました。そのようなことも後から伺いました。これから他の行政区にもそれが繁栄されていくのではないかと期待しています。最終的に私たちが望んでいたよりも大きなことを神様が成して下さいました。新城市に対しても影響を与えるような大きなことになりました。途中何カ月か神様のみこころに従っていくかと試されることもありました。多くのみこころに従う場合に心に痛みを伴うこともあると思います。従っていくときに神様の祝福があります。それは私たちの常識を越えたところに聖書の御言葉があるからです。ハードルと越える一歩に私たちは痛みを覚えますが、ハードルをて越えて御言葉に従ったときに祝福があることを覚えます。究極な従順を示されてのはイエス様です。イエス様が群衆に捕らえられて引き出されるときにユダが近づいてきて、「イエス様、お元気で。」と口づけをしました。そしてイエス様が「友よ。何をしに来たのですか。」と言ったときに群衆が来てイエス様を捕らえました。その時イエス様の弟子の一人が剣を抜きその一人にかかり耳を切り落としました。その時イエス様は、

『剣をさやに収めなさい。剣を持つ者は、剣で滅ぼされます。』

と言われました。そしてイエス様は、今私の配下に十二軍団よりも多くの天の軍勢をつけることができないとでも思っているのですか。

『だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」』

と言われました。その時イエス様を捕らえに来る時に今十二軍団よりも多くの天の軍勢を送って彼らを一掃することもできるけど、「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現しないではないか。」と言われました。イエス様は十二軍団以上の軍勢を配下に置く権威を持っていました。しかし、あえてそれに行使せず、御言葉に従うことを選ばれました。御言葉に従って十字架への道を進まれました。神の子としての権威を用いようとせずに従順を示されたイエス様です。私たちも神様の子として歩んでいます。神の子として当然の権利を持っています。それは天地宇宙を造られた全能の神様をお父さんと呼ぶことができます。その神様に祈りをささげ私たちの願い事を聞いていただくことができます。私たちの持っている素晴らしい権利です。しかし、子とは義務もあります。それが従うことです。神様に従うことが神の子として生きる私たちの当然の義務です。第一サムエル十五章二十二節からに、

『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』

と書かれています。今日ひとりひとりが自分自身が吟味し、神様の前に従う決意をしましょう。そして、従っていくときにあなたの人生が祝福されると聖書に書かれています。神に従うことは苦しく損な道に見えますが、本当は祝福に満ちた道であると聖書は教えています。神様が御言葉を私たちに与えられることは私たちが苦しみの道を歩むためではなく、私たちは恵みの道、平安な義の実を結ぶ祝福される道を歩むために与えてくださいました。イエス様も十字架という苦しみを歩まれた後、栄光のうちに天にあげられ神の右の座につきました。
 私の住宅での戦いはある意味では短かったですがその場所にいた私にとっては長い戦いに感じました。しかし、終わってみれば、考えた以上に祝福、勝利をもたらした戦いでした。皆さんの人生の中にも色々なことがあると思います。問題は皆さんがどう思うかではなく、聖書が何と言っているかです。やってみたら確かだった。今日イエス様の御言葉に従ってみましょう。中国の家の教会で共産党政権の元で殉教した伝道者がいました。中国では共産党が政権を握っているためにクリスチャンが迫害され、ある者は投獄され、ある者は虐殺されています。彼の作った歌が賛美歌となって歌い継がれているそうです。紹介します。

もしほんの少しだけ 義の道から離れたら
私はすぐに 楽になるだろう
しかし私は 私の主キリストを覚える
そのお方がどれほど忠実に 苦難を負われたかを覚える
私はもうこの世を捨てた あらゆる関わりは私から解かれた
たとえ道が行けば行くほど 狭くなったとしても
しかし私は この地上で旅人でありたい

彼はこの地上で私は旅人であると宣言しました。そして、本当の私が行くべき、帰るべき場所は神様の元・天の御国であると信じてその御言葉により頼んで殉教していったと伝えられています。今日私たちも神様に従うことにおいて自分自身の意見をとやかく言うのではなく、従いますと神様の前に告白するものとなりたいと思います。今日皆さんにお勧めしたいことは、今聖書の御言葉はこう言っているけれど、自分は・・・・という考えで従えないところを従いますとイエス様の前に告白して祈りたいと思います。愛することができなかったものを愛する、赦すことができない人を赦す、ささげることができないものをささげる、やりたくないことを主のみこころのゆえにする、委ねることができないことを委ねる、信じることができないことを主にあって信じる、それぞれ皆さんの置かれた人生の中で、置かれた立場の中で主の前に宣言して祈ってみてください。祝福の扉がそこから開かれることを信じます。平安な義の実がそこから結ばれていくと信じます。皆さんでご一緒にお祈りしましょう。
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