今週の礼拝メッセージ
2001.8.26(SUN)
神の手の中にある自由
新城教会 岡本信弘牧師

新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章1節〜13節
そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

 ハレルヤ!主の恵みの中で、皆さんとご一緒に礼拝を持つことができることを感謝します。この夏、みなさんはどのように過ごされましたか? 夏休みをとって、楽しい思い出を作られた方も、これから休みをとる方もいらっしゃるかもしれません。いずれにしても、まだ暑い日が続きますので、お互いに祈り、健康に気をつけていきたいと思います。私も忙しい中、いつも皆さんのお祈りに支えられ、主が健康を与えて下さり、喜んで奉仕できることを感謝します。
 今日玄関で皆さんをお迎えしていましたら、私の身内の一人に、「今日も偉い先生方はいないのか」と言われました。「偉い人はいません。だから私が話しをします」と答えました。先週、四元副牧師が御言葉を語っているのを聞いて、「いや、うまい」と思いました。家に帰って娘に聞くと、「お父さんより話すのがうまいね」と言われましたが、私は色々なことを考えるのは頭が回りますが、話すのがあまり上手ではありません。皆さん、ぜひ、忍耐を持って聞いてください。
 今日は、コリント人の御言葉から学びますが、一人ひとり教えられることが違うと思います。聖書の同じ箇所をいろいろな人が読むとき、また、一人の人が同じ箇所を違う日に読むとき、それぞれに受け止め方が違い、神様から語られることが違ったりします。聖書は不思議な書物です。御言葉は、神の生きた言葉です。今日、神様が私たちに何を語ろうとされているのか、何を教えようとされているのかを受け取っていきただきたいと思います。
 聖書は旧約と新約があり、新約聖書には、旧約時代の歴史を引用しているところがたくさんあります。旧約聖書は歴史を土台として、その中でどのように神様のわざが現されたかが書かれています。今日は第一コリント人への手紙十章から、「神の手の中にある自由」というタイトルで、本当の祝福、自由を得るために聖書にはどう教えているのかを学んでいきたいと思います。
 「自由」。現代は何でも自由にできる世の中です。
先日こんな話を聞きました。最近、ある二十四時間営業のコンビニエンスストアーで、朝方四時頃、本が並んでいる前のところに、中高生が何人か座って本を読みながら飲み食いしていたそうです。私はコンビニの外で中高生が座って飲み食いしているのは見たことがありますが、店の中でそのようにしているのは見たことがありません。「店長は注意しないのか」と聞きましたが、店長は、「この人たちもお客さんだから」といって、注意しないそうです。その子たちは、本を読み終わると外に出ていったそうですが、そのまま店の出入り口の真ん前に座って話し込んでいたということです。営業妨害だと思います。しかし、丁度買い物に来た警察官も、その様子を見ても少し注意するだけだったそうです。その子たちは警察官を見ようともせずに、無視していたということです。そんなことが赦されて良いのだろうかと思います。そんな時代になってしまったのかと、愕然としました。
 私もわがまま放題に、自由にさせてもらって育ちましたが、子どもの頃から言われ続けてきたことは、「よそ様のご迷惑になるようなことはするな」ということでした。しかし、今の時代は、自分さえよければ何でも自由です。そして警察の手を煩わさなかったら何でも良いというのです。自由が反乱している時代において、本当の自由というのが何であるのか、またその自由をもたらすことができるのは何かということを考えさせられました。聖書には自由についてどのように言われているでしょうか。
 私たちは今、目に見えない神様を信じています。そして、私たちは神様の恵みを受け、素晴らしい祝福の中に生かされています。聖書には歴史的事実がたくさん書かれているので、クリスチャンではなくても、その時代にそのようなことがあったと、事実として受け止めることができます。しかし歴史的に証明されている事実がある一方、そんなことがあったのか、そんなことはあるはずがないではないか、と思われることも聖書には書かれています。いずれにせよ、私たちは聖書中の出来事を見たわけでも、体験したわけでもありません。しかし、聖書の言葉はみな神様が語ってくださったことと信じ、受け取っています。
 聖書の記述は今から何千年も前のことですが、なぜ聖書の御言葉として残されたのでしょう。第一コリント十章十一節には、『これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。』とあり、聖書が私たちに教訓を与えるものだと書かれています。

 イスラエルの民が出エジプトし、約束の地カナンを目指したことは、丁度私たちの人生を現していると言われます。旧約聖書は単なる歴史ではありません。
この時代にモーセという預言者がいました。モーセは、神と直接話しをすることを許された人でした。そして、イスラエルの人々をエジプトから引き出し、カナンの地の手前まで導いた素晴らしい預言者でした。時代背景を少し説明しますと、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと続き、ヨセフの時代にエジプト全土に飢饉が起こりました。ヨセフはエジプトの王パロに仕え、飢饉の前の豊作の七年の間に食糧を蓄えました。カナンの地に住んでいたヨセフの家族は飢饉を逃れるため、ヨセフの招きに従ってエジプトに住むために移動し、豊かな生活をおくり、イスラエル人はその地で増え広がりました。しかし、ヨセフの死後、ヨセフを知らない新しい王が立てられ、強くなったイスラエルの民を恐れて、苦役で苦しめるようになりました。この時からイスラエルの民は、何百年間という奴隷生活を強いられていきました。何度もここから脱出したい、解放されたい、自由になりたいと彼らは願い求めました。神がその祈りを聞き入れモーセという人を起こされました。
 モーセは不思議な人です。モーセはヘブル人でした。「ヘブル人の男の子は殺せ」というパロの命令の中、川に流され、殺されてもおかしくないところから彼は救い出され、王宮で育てられました。モーセはおとなになったとき、エジプト人と自分の同胞であるヘブル人が争っているところへ仲介に入り、結果的にエジプト人を殺してしまいました。また次の日に、ヘブル人同士が争っているところに仲介に入ったとき、「あなたはきのうエジプト人を殺したように、私も殺すのか」という言葉を聞き、恐れて王宮の生活を捨てエジプトから逃げ出しました。その時彼は四十歳でした。彼は荒野の生活に出ていきました。彼は自分が望んだのではなく、そのように導かれていきました。
 彼はシナイ山の麓に住み、結婚し、羊飼いの生活をして四十年間、平穏無事な生活をしていました。彼は、これから後どのようなことが起こるか知りませんでした。神はイスラエルの民の嘆きを聞き、八十歳になったモーセを呼び出し、エジプトのパロのもとへと遣わしました。彼自身はもう一度そこに戻るとは夢にも思わなかったと思います。事実、神様に「イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と命じられたとき、「私はいったい何者なのでしょう」といって恐れ、「私はそんなことのできる者ではありません。ことばの人ではありませんし、何の力もありません」と断っています。しかし、モーセは主に押し出されてパロのもとに行きました。エジプトに対して十の奇蹟が示されました。その奇蹟を通して、イスラエル人をエジプトから引き出そうとしました。しかし、何度も約束が覆り、最後に行われたことは、エジプトの国中の初子がすべて殺されるということでした。結局、この事を通してパロはイスラエルの民を自分の手から解放する許可をモーセに出しました。その時、二百万人以上の人々が喜んでエジプトを脱出していきました。「これで私たちは自由を得られる。今まで長い間虐げられてきた奴隷生活から解放される。素晴らしい人生が待っている。約束の地カナンを目指して出発だ」と出ていきました。しかし、最終的に、エジプトから出てきた者の内、約束の地カナンに入ることができたのは主に従い通したヨシュアとカレブだけでした。なぜでしょう?
 イスラエルの民は出エジプトし、意気揚々と荒野に出ていきました。一方、民が出て行ったあと、パロはイスラエルの民を手放したことを悔い、自分の軍隊を率いて民を引き戻そうとし、追手を遣わしました。イスラエル人は必死で逃げました。しかし、目の前に葦の海(紅海)が立ちふさがったのです。右にも左にも後ろにも戻ることができないという状況下で、彼らはつぶやいています。「モーセさん。こんな所になぜ私たちを連れて来たのですか。私たちはエジプトにいた方が良かった」と。しかし主がそこに臨んだときに、紅海が二つに割れ、乾いた地が現れました。

『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』

出エジプト記十四章十三節

 主がそこに働かれた時に、紅海が真っ二つに分かれて、乾いた道ができました。考えても想像がつかないことです。私たちがどうする、こうするというものではなく、主が戦ってくださる、主がそこに介入してくださるから、あなたがたは黙っていなければならないという命令に従ったとき、彼らは乾いた地を渡り、渡り終えたときに海はもと通りに戻り、パロの軍隊は一人も残らず全滅したと聖書に記されています。そのような奇蹟の中で彼らは更に進んでいきました。また、彼らは昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれてきました。しかし彼らは、本当は数週間で行ける距離のところを約束の地カナンに行くまで四十年間かかりました。これは道に迷ったのではありません。道に迷っただけなら、一時間で行けるところを多少時間がかかっても数時間かければ行けるでしょう。何週間かで行けるところを何十年もかかるはずはありません。なぜ到達できなかったのでしょうか。これは彼らが主に従わなかったためです。
 皆さんが岐路に立たされたとき、直接神様から「右に行きなさい」と言われたらどんなに楽だろうと思います。しかし、チョット考えてみてください。神様が、皆さんが行きたいと思っていた方に「行きなさい」と言われたなら、「やっぱりね」といって喜んで従うと思います。しかし、自分が絶対に行きたくない、これは御心ではないと思う方を神様が「こちらに行きなさい」と言われたなら、「ちょっと待ってください」と言うと思います。イスラエルの民も同じだと思います。神様は、最短の距離で彼らをカナンへと導き入れようとしました。しかし、彼らは斥候を送り、人間的な知恵や知識に頼り、見えるところによって「この道は御心ではない」と自分たちで判断を下したために、神様の御心の道をはずしてしまったのです。そして四十年間さまようこととなったのです。ほかに、彼らが約束の地カナンに入れなかった要因がいくつかあります。まず第一に、『これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです』(第一コリント人への手紙十章六節)とあり、「むさぼり」が原因でした。私たちは、「これが欲しい、あれが欲しい」とよく言います。私は今は、どうしても欲しい物はありませんが、昔は欲しいものがたくさんあって、「これが欲しい!と言ったら絶対に買ってもらうまで譲らなかった」と言われるほどわがままでした。むさぼりがあったと思います。若い頃は、人よりも良い車が欲しいと思い、高級車を買いました。車体もタイヤもいつも磨いて、中も掃除をして大切に乗っていました。今では考えられませんが・・・。そんなむさぼりが、ありませんか?
 イスラエルの民はなぜむさぼったのでしょうか?
 彼らが出エジプトする中で、神様は必要な物をすべて与えてくださいましたが、彼らは与えられた物では満足できませんでした。神様は、彼らがマナによって養われていたにもかかわらず、「肉を食べたい」と不満を言ったときも、うずらを送ってくださいました。どれだけ与えられたか知っていますか? 宿営の回りのこちら側とあちら側に約一日に歩く道のり分、そして高さは約二キュビト(八十八センチ)の高さ分が与えられたのです。神様は、これでもかというくらいに与えてくださいましたが、彼らはそれでも満足できませんでした。毎日必要なマナや肉が与えられても、不平不満をならべたてたのです。
 私たちも何でも食べることができ、飲むことができるにもかかわらず、あれが良い、これが良いと言います。聖書には「いま持っているもので満足しなさい」と御言葉がありますが、むさぼることは神様の前に大きな罪だと思います。私たちはむさぼりから解放されるように祈ることが必要です。しかし、私たちが良い物を食べたいと思うことは罪ではありません。私たちが必要以上に、どうしても欲しいと思うところに問題があります。
 第二に、偶像礼拝の問題が書かれています。

『あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。』(七節)

 今、日本には数々の偶像崇拝の問題があります。この問題が解決しなければ、日本にリバイバルが起きないと言われているほどです。多くの人が惑わされて偶像崇拝に身を委ねています。なぜこれが神なのか、と思われるものまでが神として拝まれています。
『わたしのほかに神があってはならない』という御言葉通りに、クリスチャンは偶像崇拝がどんなにか大きな罪かを知っています。しかし、偶像礼拝は、ただ偶像を拝むということだけではなく、むさぼりのように、私たちの心を一番支配しているものも偶像礼拝になります。ある人にとっては子ども、ある人はお金、名誉・・・そのようなものに心が奪われてしまっていれば、それは偶像礼拝と同じなのです。
 私たちは主を第一とし、主と共に歩んでいくことをいつも覚えるべきです。時々、私たちは第一である神様が第二、第三となってしまうことがあります。その隙にサタンが入ってきます。サタンは私たちに直接攻撃するようなことはしないで、人の弱い部分に働き、そこから攻撃を仕掛けてきます。私は偶像崇拝をしていないから大丈夫、私はクリスチャンホームにいるから大丈夫だと思わないでください。
 第三に、姦淫の罪が書かれています。

『また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。』(八節)

彼らは好色に身を委ねて、罪だらけの生活をしたのです。民数記二十五章一節、二節には、
『イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。』とあり、姦淫と偶像礼拝がリンクされています。
 自らの欲望を満たすために、姦淫、不倫、淫行の中に身を置き、娘たちに取り入るために、わかっていながら偶像礼拝し、堕落の一途をたどっています。サタンはどこに罠を仕掛けているかわからないので、気をつけなくてはなりません。
 第四に、主を試みたり、やたらに誓願してはならないことを教えています。

『私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。』(九節)

この記事を見てみると、民数記二十一章五節〜六節に、

『民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死んだ。』

とあります。その記事の前には、『ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕えて行った。そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」』(民数記二十一章一節〜二節)とあり、彼らは神様の前に、町々を聖絶するという約束をし、それを成し遂げたのです。しかし祝福をいただいたのにすぐ、不平不満を言って、またも主に逆らったために蛇が送られたことが書かれています。彼らは蛇にかまれましたが、モーセのとりなしによって、燃える蛇を仰ぎ見れば、生きる、と神様からの救いをいただき、見上げたときに癒されました。
 私たちも「イエス様、どうしてもこうしてください。これをしてくださったら私はこうします」というように願い求めることがあります。そして、願いがかなえられたら、約束していたことを忘れてしまったりします。願い求めることは悪いことではありません。私たちは弱い者であり、神様が助け与えてくださるので助けを求めることは良いことです。しかし、神を試みて、主の怒りを身に受けるようなことにならないように気をつけることが必要です。
 私たちは主の前にへりくだり、主が共におられることを知るべきです。サタンは私たちの弱いところに働き、攻撃をしかけてきます。クリスチャンだから大丈夫と思わないでください。しかし、恐れないでください。主が私たちと共におられるなら、私たちは弱い者ではなく、足りない者ではなく、主に選ばれた者であり、圧倒的な勝利者となることができるということを信じてください。
 神様は忍耐をもってイスラエルの民を見守り、導いてくださいましたが、彼らは偶像礼拝、姦淫行為によって、神様を侮り、神様を自分たちの外に置いてしまいました。私たちは彼らと同じ間違いをしないように、主から決して離れず、主と共に歩んでいきましょう。そうすれば必ず祝福されます。
 もう一度第一コリント人への手紙十章に戻ります。十一節〜十三節に、

『これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』

と書かれています。
 今、悲しみの中に苦しみの中に、試練の中にいる方がおられるかも知れませんが、主は必ず脱出の道を備えられます。主は私たちを苦しめようとして問題や悲しみを投げかけているのではありません。その問題を通して私たちが強められ、リバイバルの働きのために、主の戦いのために整えられることを主は願っておられます。その向こうに大きな祝福があります。私たちは受けるだけの者ではなく、問題が起こったときに神様につぶやく者ではなく、欲しい欲しいとむさぼる者ではなく、ヨシュアとカレブが「主が共におられる」という信仰をもって前進したように、主と共に歩む者となりましょう。ヨシュアとカレブは特別優れた勇士であったわけではありません。ただ、彼らは主の御言葉を信仰もって受け取り、神の言葉に忠実に従ったからこそ祝福され、約束の地カナンに入ることができたのです。
 今日、神様が私たちと共におられるとき、神による自由があることを知ってください。自分勝手に歩む人生は、何か自由を勝ち取ったかのように思えますが、私たちを正しく導いてくださる神様に従うことこそ、本当の自由を得る秘訣であることを信仰もって受け止め、進んでいきたいと思います。お祈りします。
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