今週の礼拝メッセージ
2001.9.2(SUN)
誓いを変えない神
新城教会 滝元明牧師

旧約聖書 エレミヤ書51章13節〜19節
大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。

 ハレルヤ!今朝ここで話ができることを心から感謝します。先週は東京、その前の週は佐渡ケ島で礼拝をし、今日は自分の教会で奉仕できることを感謝します。皆さんにお祈りをいただき、全てが祝福されていることを感謝します。佐渡ケ島に行ったとき、台風十一号が来ており、雨が降ったら大変だと向こうの方が心配されていました。また先週は小笠原の大島に行く予定でテレビを見ていると、台風がまた来ているということでした。私は台風に対する信仰があり、佐渡に行ったときにも、大島の集会の前にも真剣に祈りました。感謝なことに台風は来ませんでした。日曜日に二回の集会をし、終わった頃に雨が降り出しましたが、守られたことは感謝でした。素晴らしい集会を持つことができ感謝します。その集会のために東京のある教会から招かれましたが、韓国系の方が多かったです。韓国や中国、マレーシアからの留学生が集まる集会でした。恵まれた集会でした。ほとんどが青年でしたが、二人の壮年がいました。開会礼拝の時に私は赤いシャツで出ていくと、一人のおじさんが「どちらから来ました?」と聞かれました。「愛知県から来ました。」「愛知県にも教会があるのですか」「はい、あります」「お宅さんはもう洗礼を受けていますか」「はい。受けたと思っていますが・・・」と話しているうちに、先生が来られ「先生を紹介したいから来てください」と言われたので行きました。彼は非常に気まずい顔をされていましたが・・・。「洗礼を受けていますか」と聞かれたのは、私の霊性が落ちている為かと思い反省しました。
 今日はこのように皆さんの前に出ることができ感謝します。今朝はエレミヤ書から御言葉を学びます。五十一章十三節の御言葉に、

『大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。』

と書かれています。素晴らしい御言葉です。この御言葉を霊的に見ると長い間この地域を支配していた悪しき霊が断ち滅ぼされ、やがて素晴らしい時が来るということです。
 この教会では八月二十七日に、豊川流域の町々を祝福し、サタンの手から勝ち取るという「とりなしの祈りウォーキング」がありました。私もそれに参加しました。吉前河口のゼロ地点から、二十七キロを賛美し祈りながら歩きました。何人かの兄弟姉妹が歩きました。私は年のせいもあり、十五キロだけ歩きました。とても祝福されました。サタンの力を打ち砕く祈りをしました。川の源流から祝福を祈るチームもあり、最後に合流しました。一九九二年からこの教会には霊的戦いが始まり、とりなしの祈りが与えられています。サタンの力が弱められて日本に大きな力が来ることを信じるています。十四節に、

『万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」』

と書かれています。私たちはいつも信仰には夢を持つべきです。駄目だというのではなく、「必ずこうなる」という信仰が必要です。エレミヤ書五十一章十四節の御言葉は、一九九二年九月五日に新幹線の中で与えられた御言葉です。丁度その時は新城教会は霊的戦いが始まり、教団から離脱され、多くの人が出て行った暗い時でした。しかしその時に私にこの御言葉が与えられました。時々、御言葉を直接神様から与えられることがあります。聖書の中に「御言葉が打ち開かれると、光を放つ」と書かれています。私に今聖い神が語ってくださるという時があります。この御言葉を聖霊様がはっきりと私に語って下さいました。嬉しかったです。新幹線の中で「ハレルヤ!」と叫びたかったですが・・・。トイレに入って「ハレルヤ!イエス様、感謝します。この御言葉を信じます。」と祈りました。一九九三年十一月五日から七日まで甲子園ミッションが起こされ、色々な戦いがありましたが、延べ十二万四千人が集まりました。バッタのように人々があちらこちらから集まってきました。それと同時に私が信仰を持っていることは、この教会も必ずバッタのような大群で満ち溢れる時が来ると信じています。信じますか。「アーメン!」必ず霊的戦いの中で壁が砕かれて、リバイバルが来ることを信じています。
 八月二十四日に、私の生まれた津具村に行きました。私は既に悔い改めの祈りはしましたが、もう一度、小さな頃は色々な偶像を拝んだので、そこに断ち切りの祈りに行きました。私が救われた時代は「偶像から遠離れ」と教えられていました。それで偶像に対して恐れがありました。しかし、霊的戦いが始まり、今度は恐れではなく、悪霊を縛って追い出すということで積極的に恐れから解放されたので、私はかつて拝んだ偶像のところに行き、「それとは関係がない!!」と宣言してきました。すっきりしました。偶像は悪霊が本性を現しています。私の育った町の八幡神社の祭りでは、必ず喧嘩があります。下津具村と上津具村の小学生が必ず祭りの日になると大喧嘩をします。石を投げつけたりします。これは悪霊のものです。また鬼祭りがあります。それは淫乱などで汚れています。偶像は汚れています。しかし、私が神を知らない時に偶像礼拝したこと悔い改め、「この地は主のものであるからサタンを打ち砕きます」と祈りました。また私が小学生の時に大喧嘩した場所にも行き「喧嘩したことを赦して下さい」と悔い改めの祈りもしました。私の実家には今でも偶像がありますが、山に上がった時、ふと考えました。一九五〇年三月十五日に開拓伝道を始めて実家に行ったときに親から迫害がありました。よく山の中に入って祈りました。その時私の母が心配して妹に私の後について行って見てくるように言いました。彼女が報告したことは、「おいおい泣いていた。」です。私は親の前ではあまり泣いたことはありませんが、神の前にはおいおい泣いて訴えたことがあります。その時に、ヘブル書六章十三節から十四節の御言葉が与えられました。特別に主の臨在が現れ、今私に聖なる神がこの言葉を語って下さると思いました。

『神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」』

 この時はまだ職も家もない、目の先が真っ暗なときでした。迫害のただ中でこのように神様が語られました。文語体の聖書では、『それ神はアブラハムに約したもうとき、さして誓うべき己より大いなる者がなきゆえに己をさして誓いて言いたまえり。われ必ず汝を恵み恵みまん。増やし増やさん。』と訳しています。アブラハムに語られた言葉を私も信仰を持って信じました。
 あれから五十二年が過ぎましたが、考えてみると職も家もないところから開拓伝道し、ここに今あることはイエス様の恵みです。日本リバイバルクルセード、全日本リバイバルミッションと神様が成してくださったことは神の恵みだと信じました。私はいつも必ず神様が恵みの上に恵みを与え、増やされて更に増やしてくださることを信じています。昨日よりも今日の方が良い、今日よりも明日が良い、去年よりも今年、今年よりも来年・・・と信仰を持つことです。この御言葉は私たちイエス様を信じた人に神が与えてくださった御言葉ですので信じていきましょう。これは神様が自分をさして誓ったことです。人は偉い人をさして誓いますが、神様はさして誓うところがないのでご自分をさして誓われます。アブラハムに言われた神様の約束は、私たちも同じように受けることができます。私たちは信仰によってアブラハムの子であり、約束によってイスラエル人であることを信じなければなりません。神様は絶対に嘘を言われません。旧約聖書はヘブル語で書かれています。日本語で「神」、「主」と訳されていますが、一番多く使われているヘブル語は「エロヒム」で二五〇〇回使われています。この言葉は、「エロ」という言葉は力強く権威があるということです。「エロヒム」は彼は強い方でご自身の言葉を決して変えられないという意味があります。神様は一回出された言葉を「あの時の言葉は間違った」とは言われません。約束され、「必ず恵み恵まん」と言ったら必ず恵んでくださいます。ですから私はこの教会、また日本も必ずリバイバルが来る、バッタのような大軍が押しかけてくるときが来ると信じています。クリスチャンになった方も今の状態が悪くても、必ずこれから恵まれると信じて下さい。私だけが駄目だと言うことはありません。信じたらその通りになります。旧約聖書でアブラハムに神様が「わたしの示す地に行きなさい」と言われ、「彼は行くところ知らずに出て行った」と書かれています。彼は神様に特別選ばれた人です。選ばれて「あなたの末の子孫によって地の諸族が皆祝福される」と言われました。しかし彼は段々年をとり、なかなか子どもが与えられず、「私の奴隷が後継ぎになるのですか」と聞くと、「いや違います。あなたから出る者が世継ぎになる」と言われました。そこで彼は約束を信じ、約束の子イサクをもらったのが彼が百才の時、そして奥さんが九十才の時でした。聖書は「サラは女の常のことがなくなった」と書かれていますので、普通から見ると赤ちゃんができない状態です。九十才になって神様が超自然的な方法でサラの胎を開かれ赤ちゃんができました。結婚してまだ赤ちゃんがない方は失望しないでください。信仰を持つことです。これは、預言的なことを意味しています。あなたの末によってと書かれています。「末」というのは一人をさして言っています。これはイエス・キリストをさしています。イエス様の降誕は処女マリヤが結婚する前に聖霊によって身ごもったと書かれています。神様がアブラハムによって与えて下さったイサクをいけにえとしてささげなさいと言われました。彼は百才でできた子どもを可愛がったと思います。神様は、神様と子どものどちらを愛するかというテストをしたと思います。三日間かかってモリヤの山に行き、彼はイサクをささげようとし、斧をあげたときに天使が「待ちなさい。あなたの気持ちが分かった。あなたはひとり子よりも私を愛していることがわかった。」神様がその時に、

『神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」』

と言われました。私たちの人生で恵まれる秘訣は、神を第一にすることです。先日行った大島の教会は開拓して一年半くらいの教会です。彼らは賛美をたくさんしています。彼らは熱心に賛美をされます。韓国の衣装を付けて踊りながら賛美します。本当に嬉しそうな顔をして歌っていました。一年半で今八十名の教会だそうです。いつも注意されていることが「主の前に歌いなさい。恥ずかしい顔をするな」と言われるそうです。時々人を意識すると恥ずかしさがあります。しかし、主の前に賛美するのです。力一杯賛美し最後の夜には劇もありました。夜十時半頃に先生の奥様が来られ、「先生、これから少し賛美しますがどうされますか。」と言われました。「何時くらいまでですか。」と聞きました。「いや何時までかかるかわかりません。」と言われました。私は「やめておきます」と言いましたが、彼らは十二時頃まで喜んで賛美していました。神を見つめることが必要です。教会に来ていつでもイエス様を第一にすることが必要です。問題が第一ではいけません。神様を第一にすることです。アブラハムが自分の子どもではなく神を第一にしたときに、「必ずあなたを恵み恵み、増やし増やさん」と言われましたので、私たちは神を第一にして歩いていきたいと思います。これは「ひとり子さえも惜しまなかったから、わたしはあなたを祝福する」と言われました。ヨハネの福音書三章十六節に、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

と書かれています。アブラハムがひとり子イサクをささげた時に、神様のイメージの中に十字架が立てられたと思います。そこでやがて自分のひとり子が人間のために犠牲になり十字架にかかって死ぬ時を見ておられたと思います。今日確信しましょう。神様は私たちを愛しておられます。ひとり子をイエス様を父なる神が与えられ十字架で犠牲にしてささげて下さったほど愛して下さっています。イエス様がこの地上に御子として来られました。いばらの冠をかぶせられ、人間の罪のために朝九時から午後三時まで十字架の上で苦しまれ色々な祈りをされました。十二時から三時まで『太陽は光を放つことをやめた』と書かれています。この表現はイエス様が苦しまれているのを父なる神が見て、もっと苦しかった事を現しています。『わが神、わが神。どうして私を見捨てるのですか』という悲壮な叫びを父なる神が聞いていました。どんなに御子が「助けて」と叫んでも人間が罪から救われるための使命ということで、神様はそれを見ても顔を向けることができない苦しみでした。イエス様が「事が終わった。わが霊を御手にゆだねます。」とご自分で霊を父なる神にお委ねしました。これには天の父の苦しみがありました。
 アブラハムもイサクをささげる時、三日の道のりを行くときにイサクにたきぎを背負わせました。イサクが「お父さんいけにえの羊はどこにあるの?」と質問しました。アブラハムは知っていました。「神が備えてくださる。」「山に行きイサクを縛ったときに神様があなたをささげるように言われた。だから従順にあなたがいけにえになってくれ。」イサクは従順でした。イエス様が十字架の上でほふられる小羊のように引かれていったと書かれていますが、従順にイサクも「神様の御心であったら喜んで私は死にます。神様の言われるとおりにしてください。」という思いがあったと思います。そしてアブラハムが斧を振り上げると、神様は「わかった。手を下してはならない。」その時に羊が近くにかけられているのを見、これをささげなさいと言われました。私たちのためにイサクの気持ちよりもアブラハムは余程苦しかったと思います。天の父なる神様は子なるイエス様を犠牲として与えてくださいました。今日私たちがイエス様を信じて永遠のいのちを受けることができるのは、父なる神様が子なるイエス様を犠牲にささげられたゆえです。私の罪が赦され、永遠のいのちを持つことができます。ですから今日信じましょう。「必ず恵み恵まん。」イエス様のゆえに私は恵まれ、また祝福されると信じましょう。素晴らしいイエス様を心から愛していきましょう。十五節に、

『主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。』

と書かれています。私たちはこのすべてを造られた生ける真の神を信じることが必要です。また偶像から離れることも教えています。五十一章十七節から十八節に、

『すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。』

と書かれています。今日恐れから解放されなければなりません。十字架の上にひとり子さえも与えてくださった素晴らしい神を信じて、「必ず恵んであげる」と言われた約束を変えられないイエス様を心から信じて行きましょう。皆さんが信じられたら必ずこれから家族が祝福されます。日本は国家指導者から偶像礼拝しています。神様から見ると愚かなことです。日本人は霊的に無知です。私も偶像礼拝したところに行って祈ったとき、偶像を拝んでいたことが本当にむなしいものだと思いました。石で作った像です。これはただ私たちが恵みによって救われたからそう思うことができるのです。私たちが哀れみを受けたように日本の人たちも必ずリバイバルが来て目が開かれることを信じましょう。そして偶像から立ち返ることができるように祈りましょう。これからは生ける真の神があがめられることを信じていきましょう。今日皆さんの家庭が必ず祝福されると信じます。皆さんも祝福されます。信仰を持っていきましょう。お祈りします。
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