今週の礼拝メッセージ
2001.9.9(SUN)
神の声
新城教会 滝元順牧師

旧約聖書 サムエル記第一 3章1節〜6節
少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分の所で寝ていた。・・彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。・・神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。

 ハレルヤ!久しぶりに新城教会で奉仕でき感謝します。この夏は色々なところで奉仕させていただきましたが、皆さんのお祈りに支えられ、今日このように元気に立つことができ感謝します。
 秋は主の働きが多い季節です。次の日曜日はロン・ブラウンさんを迎えてのコンサートです。ひとりがひとりを導いて来られたら素晴らしいです。また、明日から三日間は大阪で「ペンテコステ聖霊運動百年祭」が行われます。これは、二十世紀の始め、一九〇一年一月一日にアメリカ、カンザス州トペカのベテル神学校に聖霊様が訪れられ、近代の聖霊運動が始まったことを記念して行われるものです。
 教会史を見ると、始めは聖霊によって始まった働きが、時間が経つ中で宗教化、形骸化し、神を追い出してしまうような所があります。しかし、主はペンテコステの時のように、聖霊を注いでご自分の教会を元に戻されるのです。源流に戻されるのです。
 トペカにおいて人々が祈っていると、突如として聖霊様が訪れ、ペンテコステの時、人々が異言を語ったように、そこにいた人たちも異言を語り始めました。それもわけの分からない言葉ではなく、国々の言葉を語りました。あるアメリカ人の青年は聖霊が注がれたときに、話せないはずの中国語を話し出したそうです。数日間彼は英語ができなくなり、中国語だけを話していたそうです。
 今日から私の息子と友人がアメリカに一年留学しますが、英語ができないのにアメリカの学校に行くとはどういうことなのかと思っていますが・・・。聖霊が注がれて英語ができるように祈ってください。
 更にその火は拡大し、一九〇六年にロサンゼルスのアズサストリートにおいて大きなリバイバルが起こりました。私は今年の三月にアズサストリートに行きました。今でもアメリカはそれを記念して、聖霊運動発祥の地ということで保存されています。そこに一本のグレープ・フルーツの木がありますが、それが当時のリバイバルの時からある唯一のものだそうです。当時は世界中からそのリバイバルを見に来て、人々は聖霊様に触れられて帰ったそうです。日本にはスウェーデンから多くの宣教師が来られましたが、彼らはそのリバイバルで聖霊を受けて世界宣教に目覚めたといわれています。
 現在、アズサストリートの隣に日本人教会があります。ロサンゼルス・ユニオン・チャーチという教会です。私の息子達がその教会に一年間集います。私は十一月に、そこに招かれていますのでぜひ祈って下さい。聖霊の働きは神の国の権威の回復、そして、「神の声を聞く」という基本に戻される事です。私たちの信仰の原点が、「神の声を聞く」という源流に戻るべきです。人ではなく、組織、経験ではなく、神から聞くことが最も大切です。今朝は、「サムエル」という偉大な預言者の生涯を通して、御言葉より神の声を聞きたいと願います。サムエルの生まれ出た前後の様子が、第一サムエル記一章に書かれています。聖書は私たちに、霊的原則を提供しています。そこから見えない世界の法則を学ばなければなりません。
 第一サムエルの一章には、エルカナという男性に二人の妻があったと記されています。聖書は元々、一夫一婦制です。それが崩れたら必ず家庭に問題が起こります。エルカナにはハンナとペニンナという二人の妻がいて、嫁さん同士はうまくいっていませんでした。ペニンナには子どもがありましたが、ハンナには子どもがなかったのです。それで、いつもペニンナが優位に立ち、ハンナをいじめていました。当時は、子どもがいないことが大へん悲しいことでした。特に男の子が欲しかったのです。ハンナにとって一番辛いのは、年に一度、シロという所に一家で主を礼拝に行く期間でした。その道中が一番辛かったのです。道々、ペニンナはハンナをいじめました。本当は楽しい、年に一度の祭りが、全く楽しくなく、ハンナは毎年涙を流していました。そこで食べる特別なご馳走も、食べる気がありませんでした。
 ある時、ハンナは傷付いて神の前に祈っていました。「神様、子どもを下さい。神様、もし私に子どもをくれたら、私はその子を神様にささげます」と祈っていました。彼女は宮の中で神に祈っていました。あまりにも悩みや悲しみが大きくて、声にもならずに祈っていました。それを見ていたのが祭司エリでした。エリは彼女を見たときに、祈っているとは思わず、酔っぱらっているかのように見えました。それで、「いつまで宮の中で酔っているのか。早く目覚めてここから帰りなさい。」と言いました。するとハンナは、「祭司様。私は酔っぱらっているのではありません。私には心に悲しみがあり、悩みの多い女です。それで神の前に心を注ぎ出して祈っていた所なのです。」と告げました。するとその時、エリは瞬間的に神の言葉を受け取り語りました。一章十七節に、

『「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」』

 これはエリの言葉ではなく、神の言葉でした。・・・今朝、この言葉を、あなたに関しても神の声として受け取って下さい・・・。
 ハンナはこの言葉をエリの言葉としてではなく、神の声として受け取りました。十八節に、

『彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。』

と記されています。ここに学ぶべき霊的法則があります。時々神が声をかけられます。それは、御言葉から語られたり、ある時には神の器を通して、また預言者を通して語られます。その時、私たちはどのように受け止めたら良いでしょうか。
 ハンナは「信仰」という受け器で神の声を受け取りました。そして、「この女は帰って食事をした。彼女の顔は以前のようではなかった」と記されています。自分の重荷をすべて神に委ねたのです。
 しかし、案外、私たちは神様によって語られていても、それを信仰によって受け取ることができないものです。委ねきることができないものです。神様から語られていても、「本当に神様が語っておられるのだろうか。嘘ではないか。神は途中で気持ちを変えられることはないだろうか」と不信仰になります。しかしハンナは、信仰を持って神の声を受け取りました。私たちもこのような信仰の受け皿が欲しいです。大きな信仰は必要ではありません。聖書は、「からし種ほどの信仰が山を移す」と語っています。
色々な苦しみや悲しみがあっても、神様の手にハンナのように委ねる事が必要なので
す。悩みが多く食事ができなかったハンナが、食事をして明るくなったのです。
 今日、悲しい気持ち、暗い気持ちで教会に来られた方は、問題を主に委ねて、「もはや以前のようではなかった」という変えられた姿と心で教会から帰って下さい。
 翌日の事が書かれています。十九節に、

『翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。』

 ハンナに神様が動き始めたのはいつか。ここに霊的な法則があります。始め神の声が伝えられました。それをハンナは信仰によって受け止めました。その後、主は彼女を心に留められたのです。
 もちろん、最初から主は彼女を心に留められていました。しかし、神が行動を開始されたのは、「その人の決断」に関わりがあったということです。彼女は信仰を持って、委ねきって神の言葉を受け取りました。その時に神が彼女に対して行動を開始され、彼女は妊娠し、一年後に子どもが生まれました。それも男の子でした。
 翌年彼女は、子どもと一緒に喜んでシロに上りました。その時ペニンナは、彼女を悲しませることも苛立たせることも出来なかったはずです。一章二十六節から二十八節に、

『ハンナは言った。「おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、主に祈った女でございます。この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。』

と記されています。その前の年は子どもがなくて泣いて宮にきました。「もしも、あなたが男の子を与えたならば、私はこの子どもをささげます。」と祈っていました。しかし一年後、神の言葉が実現しました。それでハンナは子どもを連れてきて、「あなたに誓ったとおり私はこの子をあなたにお献げします」と誓願を実行したのです。その結果、サムエルも母親と同様、神の声を聞く者となりました。
 さて、ここからもう一つの霊的法則を学ぶことができます。それは、母親が子どもに対して持っている霊的権威についてです。これはある意味で大きなものです。母親ハンナがサムエルを神様にささげる契約を結ばなければ、サムエルは神の声を聞く器にはならなかったと思います。また、ハンナが始め神様と契約を結んだけれど、それを後に実行しなかったら、サムエルは神の人とはならなかった事でしょう。
 ここで、お母さんの手の中に子どもに関する権威が渡されていた事が分かります。今朝、この場所には多くのお母さん達がおられますが、お母さんは子どもたちに対して霊的権威を持っているのです。あなたが子どもに関しての誓いをどのようにするかによって、子どもの将来が決まるという「霊的法則」があるのです。
 ある意味で、見えない世界には霊的法則の方程式があると思います。それは、生まれる前に子どもに関しての契約を母が結び、次に、生まれてからも子どもに関して契約を神と結ぶならば、その結果が子どもに現れると言うものです。これは霊的方程式です。
 悪魔も神様の霊的方程式をよく知っています。この方程式を逆利用して働くのです。日本人は子どもができると妊娠五ヶ月目に、犬の日に腹帯の儀式と言って赤ちゃんを悪霊に捧げる契約を結びます。そして生まれたら、家の近くの氏神にささげます。結果として神様の声ではなく、悪魔の声を聞くようになるのです。今の子どもたちの中にたくさんの問題があります。なぜ問題があるのでしょうか。それは、お母さんが結んだ契約に問題があると思います。もちろん、それが全てとは言いませんが。
 もし皆さんの中で、私はイエス・キリストを信じる前に、子どもに関して悪魔と契約を結んだ方がおられたら、今日は子どもを取り返して下さい。母親の権威は、イエス様の名によって、悪魔の手から子どもを取り返す権威もあるのです。「私は子どもたちを創造主なる神の前にささげます」と宣言し直すべきです。
 私は先週、沖縄に行きました。そこで奉仕して驚いたことがありました。一人の年を取ったお母さんが、子どもを連れてきました。子どもと言っても、私と同年代の男性三人を連れて来られました。それを見て私は驚きました。なぜならば、三人が同じ病でした。私と同じ年代にも関わらず、家に閉じこもり大きな問題を抱えていました。目だけギラギラしていました。見ただけで、「ああ。これは大きな問題を抱えている人たちだ」と分かりました。腰が曲がりそうな年老いた母親が悲しい顔をしてこの三人を連れて来たのです。何と言って良いのかわかりませんでした。しかし主は、お母さんに子どもたちを解く権威があるからそれを使って祈るように導かれました。だから私は年老いたお母さんに聞きました。「あなたは生まれる前に、子どもたちに関して悪魔と契約を結びませんでしたか。」お母さんは、「はい。私は多くの契約を悪霊と結んできました。」「では、それを取り返す祈りをしようではありませんか。」そこでお母さんは真剣に祈りました。「この子どもたちに関する悪魔との契約を破棄し、子どもたちを取り返します。」
 お母さんに聖霊様が臨まれ、触れられました。解放がありました。私は必ず三人の息子たちが癒されると信じ期待しています。この暗闇の支配者たちも、神の立てた契約を知って働くのです。私たちは子どもたちを守らなければなりません。特に、母と子という権威の流れの中で、お母さん方が持っている権威を認識し、子どもたちを守らなければなりません。
 さて、二章十一節には、二つの家庭の比較が出ています。それは「エルカナ」の家庭と「祭司エリ」の家庭についてです。この二つが比較されています。十一節から十三節に、

『その後、エルカナはラマの自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを、大なべや、かまや、大がまや、なべに突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルに、このようにしていた。』

 エルカナの息子サムエルは、小さな頃から主の前に仕えていました。また祭司エリにも二人の息子がいて共に主に仕えていました。それがホフニとピネハスです。両家とも神の宮に仕える家系でした。エルカナの家系はレビ族、またエリの家系はアロンという大祭司の家系でした。同じように神に仕える家系でした。しかし子どもたちの育ちが違いました。エルカナの息子、サムエルは忠実に主に仕えていました。しかし、エリの息子のホフニとピネハスは主の祭司という重要なポジションが与えられていたにも関わらず、「主を知らず、民に関わる祭司の定めについてもそうであった」と記録されています。彼らは、祭司としての勤めの内容についてよく知りませんでした。当時、人々は神の前に生け贄をささげるために肉を持って来ました。その肉の処理についての色々な規定がありましたが、その規定を全く守らず、三つ又の肉さしを手に持ってやってきたとあります。ここを読む度にイメージができます。彼らは毎日、バーベキュー三昧という感じです。宮に来ては神に捧げるべき肉を自分で食べてしまうのでした。それを見て、人々は心を痛めていました。「祭司エリの息子達は何だ・・・。何と言うことだ・・・」
 一方、エルカナの息子サムエルは忠実に主に仕えていました。二つの家庭は同じような環境にありましたが、一方の子どもたちは主に仕え、一方は主に仕えていませんでした。どこに原因があるのでしょうか。
 私は色々なところに奉仕に行かせていただいていますが、案外、クリスチャンホームでも子どもたちがうまく育っていません。色々な問題があって苦しんでいる家庭があります。もちろん一家で主の前に麗しく仕えておられる家庭も多くあります。しかし、一方では、本当に苦しんでいる人たちもいます。
 先日も奉仕に行った先の牧師が泣きそうな顔をして言われました。「先生、私は何度も牧師をやめようと思いました。でも最近は立ち直って、何とかやっているのです。祈って下さい。」と言うのです。「どうしてですか。」と聞きました。すると、「私の息子は今、本当に大きな問題を抱えています。家を出てどこにいるのかわからない、そんな時もありました。」と悲しまれていました。なぜ同じように育ってきたにも関わらず、そのように人生が変わってしまったのか?疑問に思います。
 なぜだと思いますか。「それは親の態度が悪かったのだろう。育て方が悪いのだろう」と思うかも知れません。もちろん、福音を伝えなかったり、子どもにしっかりと御言葉や霊的権威を行使しなければ、正しく育っていきません。しかし、理由はそれだけではないのです。クリスチャンの家庭は、それなりにイエス・キリストについて伝えて頑張って子どもたちを導くわけですから。でも、結果が違う・・。
 ここには見落としてはならない深い原因があることを知らなければなりません。その理由は「家系」にあります。エリの家系には一つの束縛がありました。どんな束縛だったのでしょうか。エリはアロンの子孫です。アロンの子イタマルの「イタマル族」の出身でした。大祭司アロンには四人の息子がいました。そして彼らは、父と共に主に仕えていました。しかし、このアロンの息子ナダブとアビフは神が決めた定めに従わないで、「神様の前に異なった火をささげた」とあります。神によって定められたのと違ったやり方で神に仕えたのです。丁度、エリの息子たちが律法の規定を全く知らなかったのと同様に、アロンの二人の息子ナダブとアビフは神の規定に従わないで火をささげたと記されています。その時、神の怒りが燃え上がり、火が彼らに付いて二人は死んでしまいました。
 兄二人が死んだ後、イタマルは続いて主に仕えました。アロンの家系の中で最初に起こった事件が、「神様の規定に従わない」というところに問題がありました。その後、アロンの家系に属するエリの家庭の中にも、同じ「神の規定に従わない」という問題が起こったのです。これは家系の束縛です。私たちはよく、「家系ののろいが断ち切られますように」と祈りますが大切なことなのです。家系の中で結ばれた悪魔との契約が完全に砕かれなければ、いくら頑張って子どもを育ても、結果が悪くなる場合が多いのです。これがエリの家庭に起こった問題の深い理由の一つであると思います。
 それと共にこの箇所は、油断していると神の声が始めは聞こえていても、段々と色々な理由で遠くなってしまうという注意を喚起しています。サムエル記第一の三章一節から二節に、

『少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分の所で寝ていた。・・彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。』

と書かれています。祭司エリは少し前まで、大変霊的に鋭い感性を備えた神の器でした。ハンナが宮の中で泣いていたときに、瞬間的に神の言葉を伝えました。「安心して帰りなさい。主があなたの願いを聞き届けて下さいます。」しかし、サムエルが成長した頃、エリは年老いて目がかすんで耳が聞こえなくなっていました。これは、現実的に肉体も弱っていましたが、同時に霊的な力も弱っていたのです。そんな中で弟子のサムエルが神の声を聞きました。「サムエルよ、サムエルよ。」これはサムエルにとって始めての経験でした。サムエルは主人のエリが呼んだと思いました。「ご主人様。私を呼びましたか。」するとエリは、「私は呼ばない。帰ってお休み」と言いました。それで帰って寝ていると、また、「サムエルよ、サムエルよ。」という声が聞こえました。すぐに「ご主人様、私を呼ばれましたか。」するとサムエルは、「いや、私は呼んでいない。帰ってお休み。」また帰って寝ました。そして三回目に、「サムエルよ、サムエルよ」と聞こえたので、「ご主人様、私を呼ばれましたか。」
 その時やっとエリは気付きました。「これは主が語っている。今度語られたら、主よ。私はここにおります。私に語って下さいと言いなさい。」
 若いときのエリならば、自分が呼んでもないのに、サムエルが「サムエルよ。サムエルよ」と声を聞いたならば、「それは主の言葉だ!すぐにあなたは主の前に出て、主からの声を聞きなさい。」と指示した事と思います。しかしこの時、エリには若い頃の霊的油注ぎが、ある意味で三分の一になっていました。知らないうちに耳が遠くなり、目がかすんでいたのです。私たちも神様の声を毎日聞かなければなりません。私たちも油断していると、知らないうちに神様の声が聞こえなくなり、また神の声が聞こえても、反応しなくなってしまうことがあるから「気をつけて下さい」というメッセージが込められていると思います。
 今日私たちは、もう一度、神の声を聞く源流に戻していただきましよう。「あなたの声を一発で聞き分けることができますように。若き日のエリと同じように、聞くことができますように」と祈りたいと思います。また、それをとどめる家系的な呪いを打ち破る祈りをする必要があると思います。神の声に聞き従うとき素晴らしいことが起こります。
 今回私は、沖縄で奉仕しましたが、感謝な事に娘の里辺架が一緒に行ってくれました。集会では、よく霊的解放が起こされます。悪霊に捕まれている人が解放を受けます。だから私ひとりだとなかなか難しいので、いつもとりなしをしてくれる家内や娘を連れていき一緒に祈ってもらいます。今回は無料の航空チケットがあったので、彼女を連れていきました。初日の集会の時、素晴らしく恵まれたけど、特別なことはあまり起こりませんでした。娘が、「今日は何も起こらなかった。今日の集会はひまだった。」と言いました。私は、「たまにはそう言うこともある。神様のやり方に従わなくては。」と言いました。
 しかし初日に、ひとりのかわいそうな娘さんが無理矢理集会に連れて来られていました。その方は町でも有名な家に閉じこもっている人で、十数年、何かあると部屋に鍵をかけて鎖でドアノブを巻いて出て来ない状態の人でした。しかし、ひとりのクリスチャン女性が、どうしてもその人を集会に連れて来たいと願って、頑張って連れてきました。しかし、彼女は集会に長いこと留まることができず、脅えて集会が終わると直ぐさま帰っていきました。私は彼女を捕まえて、「また明日来て下さいね。明日来たら神様が何かをあなたにして下いますから」と言うと「わかった」と言って消えてしまいました。
 しかし翌日、彼女は来ませんでした。やっぱり鍵をかけて鎖をかけて部屋に閉じこもっていると聞きました。それでも教会の人が連れに行くと、彼女は二階から飛び降りて逃げてしまいました。しばらくしたら教会に彼女から一枚の紙が届けられました。それは遺書めいたものでした。先生がとても驚いて私のところに集会中に持ってきました。私たちも真剣に祈りました。「その方が解放されますように。」と祈りました。
 その時に主が、一つのことを教えてくださいました。その町の中心に山があり、そこには城があって、「ユタ」という霊能者が集まって祭りをするのです。そこに行って祈るようにと導いてくださいました。その山の下がその人の家でした。まず、彼女のために祈る前に、そこに行って地域を支配する悪霊が打ち破られるように祈りました「ど
うかこの町を支配する悪しき力が打ち破られますように」と祈りました。
 すると先生が、「ぜひその家に行って祈ってください。」と言われるので、あまり気は進みませんでしたが、兄弟姉妹と共にその家に行きました。家の人は誰もいないようでしたが、その人だけがいました。丁度、私たちが訪問したとき、彼女は酔っぱらって寝ていました。入っていって起こすと驚いていました。「あなたは解放されたいですか」と聞くと、「はい。本当は解放されたいのです。でも私の体がいうことを聞かないのです。」
 その人はナイフで自分の体を切りきざむのです。傷がたくさんありました。足も自分で痛めて不自由でした。まだ若い娘さんです。これは絶対にただの病気だけではないと思いました。彼女は、「いつも私が窓を開けて外を見ると、あの山から悪霊が出入りしているのが見える」と言いました。それで、「祈りましょう。」と言って一緒にお祈りしました。まず、イエス様を信じていなかったので、信じ受け入れる祈りをしました。そして、私は祈りました。「イエス・キリストの名によって、この人を長い間苦しめている悪霊よ。良く聞け。この人から手を離せ!」と祈りました。
 何が起こったと思いますか。私は目を閉じて祈っていると、突然、「ギャーッ」と言う声が聞こえました。寝ている彼女がそのままジャンプして宙に浮かび下に落ちました。でも、彼女は何もわかっていませんでした。まさしく、その人を縛っていた悪霊が打ち破られていました。それで、もう一度祈りました。細かい罪を告白してもらって、「悪霊から解放して下さい」と祈りました。そして戦いの祈りをしました。
 「イエス・キリストの名によって、長いことこの女性を苦しめて来た悪霊よ。良く聞け。この人から完全に手を放せ!」と祈ると、彼女はすごい勢いで手足をバタバタさせて暴れ始めました。主が強く働かれていました。しかし、その人はうつ伏せになって、全く目が見えない状態にありながら、右手だけが動き始めました。そして何をするかと思うと、近くにあったはさみを取ろうとしているのです。私は娘に、「はさみを取れ!」と言いました。彼女が急いではさみを取りあげたので大丈夫でした。神様が助けて下さいました。勝利が訪れました。
 その人はその夜の集会に来て、終わりまで出席し、交わりにも出て行き、最後は喜んで帰って行きました。戦いは、さらにこれからだとは思いますが、神の解放が彼女に訪れました。
 その晩から聖霊様が強く集会に働き始めました。色々な解放が起こり始め忙しくなりました。アトピー性皮膚炎で病んでいた娘さんがいました。暑い夏なのに、長袖を着ていました。首のところにはかさぶたがあり、鱗のようになり顔も真っ赤でした。その方のためにお祈りしました。その人を苦しめている一切の悪しき力が打ち破られるように祈りました。聖霊様が働かれました。次の日、その人に出会うと、アトピーの傷が乾いて白くなっていました。彼女が、「見て下さい。全部乾いているから」というのです。二日後に来たときは白い肌になっていました。本当に素晴らしかったです。
 あの時、神様に聞かなかったら勝利できなかったと思いました。それから後の集会も素晴らしかったです。
 続いて次の教会で奉仕しました。会衆が三百人位の大きな教会でした。毎晩大勢の人が来ました。集会は毎晩約五時間続きます。礼拝は、昼の一時から六時頃まででした。夕食が夜中の一時くらいでした。帰って寝るのは2時半くらいでした。一人に祈る時間はほんの数十秒ですが、人数が多くて疲れてしまい、「主よ助けて下さい」と祈るばかりでした。しかし、短い祈りでも、素晴らしく聖霊様が働いて下さいました。最後の日、私は疲れていたので簡単に祈って早く宿舎に帰りたいと思いました。しかしその時に主が一つのことを語られました。「お前はちょっと祈りに慣れすぎている。もっと私に聞いて祈りなさい。」
 丁度、その時、ひとりの女性の頭に数秒間手を起きました。顔も見ませんでした。すると、顔を見るように導かれました。表情は何の変化もありませんでした。しかし、見ていると次第に小刻みに顔が揺れ出しました。それで、もう五秒くらい長く手をおて祈りました。その時、隠れていた悪霊が現わされ解放が起こりました。私が五秒間長くこの人の頭に手を置くか置かないかで、その人の人生が左右するかもしれません。私は、前回の集会ですでに神の声を聞き、従っているから大丈夫だと安心して奉仕していました。でも、いつしか私には、神の声が聞こえなくなっていました。それで、「瞬間瞬間あなたは神の声を聞きなさい」と教えられたように感じました。「主よ。赦し下さい。いくら短い時間でも、主の声を聞いて奉仕できますように。」と祈りました。その日の集会は本当に素晴らしかったです。
 後から娘にその事を話すと、「今日の集会では、そのことをずっと祈らされてい
た!!」というのです。「父の慣れすぎているところを一掃してやって下さい」と祈っていたと言いました。とりなしの祈りも怖いものです。
 私たちは常に、主の声を聞いて生活しているようでも、知らないうちに神の声から遠ざかっています。これは長い期間ではなく、十分、二十分、また、数秒という単位でも、私たちは主の声から遠ざかってはいけません。瞬間瞬間、神の声を聞いて歩む者になりたいと思います。
 今日、「神の声」というメッセージタイトルをつけましたが、神の声に従う者になりましょう。最後にお祈りします。
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