今週の礼拝メッセージ
2001.9.16(SUN)
敵意からの解放
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 エペソ人への手紙2章14節〜18節
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

 ハレルヤ!御言葉は、『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし』と約束されていますが、イエス・キリストによって国籍、民族、文化、言語などを越えて一つになることができ感謝します。
 先週は大きな事件が起こりました。私も携帯電話にニュースが入り、家に帰ってテレビを見て驚きました。アメリカは戦争状態のようで、これからどうなってしまうのかと、全世界中に不安が過ぎり、今も緊張が続いています。しかし、これはある意味での聖書の預言の成就です。人々が、「イエス様、この世の終わりにはどのようなことが起こるのですか。」と聞きました。すると、ルカの福音書二十一章九節から十一節に、『戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。』
イエス様は、「戦争の噂を聞いても恐がってはいけない」と語られました。今日、皆さんの中で戦争が始まったらどうなるだろうか、と恐がっている方がいたらイエス・キリストに信頼して、恐がることがないようにしましょう。
 しかし私たちは祈るべきです。イエス様は、主の祈りの中で、「みこころが天でなるように地にもなるように」祈りなさいと教えられました。天とは神の領域です。神の計画は天において完璧です。しかし、この地上に神の計画は百パーセント現されていません。なぜならば、地上は悪魔の支配下にあるからです。したがって、神の計画と反することが地上に起こるのです。だからあなたがたは、この地上に天にある神の計画が現されるように祈りなさい、とイエス様は教えたのです。
 特に今週は祈り深くあるべきです。世界が神の御手の中で守られるよう、アメリカの国のためにも祈るべきです。国の首脳部がどのような決断をするかによって、世界の歴史が変わってしまいます。各国首脳の判断の中に神の知恵が注がれるように祈るべきです。
 そんな中で、私たちは世界にある問題の根本を見直さなくてはならないのです。イエス様は、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち破り、ご自分の肉において敵意を廃棄された方として示されていますが、色々な問題の背後には壁があり、敵意があります。壁や敵意がなくならない限り、いくら世界平和を叫んでも平和を求めても難しいのです。
 今年の夏は北海道から、沖縄まで行かせていただきました。北から南まで旅行しました。それは遊びに行ったのではなく主の働きのためです。
 先日、北海道に行きました。北海道には本州とは違う気候帯や文化があります。そして日本は狭いようで広いのです。同じような人々が住んでいるかと思いますが、そこには色々な文化形態があります。そして国内にも、色々と解決すべき問題があることを日本を巡回するとわかります。さらに、世界に出て行けばもっとわかります。
 北海道には昔アイヌ民族が住んでいました。本州の倭人とは違う、アイヌ民族が住んでいました。顔が少し浅黒く、目鼻の堀が深い人達です。しかし、幕府がアイヌに対して同化政策を取ったので、今は社会の中に混ざっています。しかし、まだそのような方々も北海道に住まわれています。私はそのような領域に興味があるので、アイヌの文化、習慣を紹介する資料館に立ち寄りました。それは大へん興味深いものがあります。アイヌ資料館に行くと、入口にトーテム・ポールのような像が建っていました。それはアイヌの偶像ですが、アメリカ・インディアンのものとほぼ同じ偶像です。こんな所になぜあるのかと思います。
 人類はメソポタミヤ周辺で発生し、徐々に移動してきました。北海道、アリューシャン列島を通り、アメリカ大陸に行きました。遺伝子鑑定をすると、アメリカのネイティブと呼ばれるインディアは、アジア人の遺伝子を持っていると言われます。だから、宗教的背景も似かよっているのです。そのような中には、霊的戦いの資料も含まれています。資料館の入口には、アイヌ系の子孫の方が受付や館内案内をしていました。私はその方々に色々な質問してみようと思いました。それで私は、「アイヌが集落を作って生活しているところが現代でもあるのですか」と聞きました。私はアイヌ民族の背景に、同化政策があったことを知っていたので、それを踏まえた上であえて聞きました。すると彼女は、「あなた方日本人が、私たちアイヌにどんなことをしたのか知っているのか。また、私が日本人にどれだけ苦しめられたのか知っていますか」と言われました。私は「少しは勉強して知っています」と答えました。すると彼女は、自分がどんなに日本人にいじめられ、苦しめられてきたのかを、涙をながしながら訴え出しました。「小学生の時に私は日本人からこんなことをされた・・・」
 顔つきが少し違うということで、彼女は差別されたのです。彼女は日本によってアイヌの土地、言語、文化、家などが奪われた事実について切実に訴えられました。私も言葉を失い、「悲しい歴史ですね」と答えました。そして、「しかし私たちは和解しなければならないと思います」と話し、最後に「一緒に記念撮影をしましょうか」というと、「私は日本人と一緒に写真を絶対に撮りたくない。写真撮影はこの仕事の給料の中に入っていない。」と言われました。「そうですか・・・。あなたはアイヌを紹介するためにいるのではありませんか。」と言いました。すると、「うるさい。もうそんなことは関係ない。」と言って去ってしまいました。私は、「どうか、北海道にあなたの御手を延べて下さい。」と祈りました。クリスチャンはそのような壁を砕くために働かなくてはならないと切実に感じました。
 また二週間前、私は沖縄に行きました。そして沖縄の方々とも話しました。沖縄には悲惨な歴史があります。それは第二次世界大戦の終わり頃、沖縄戦と呼ばれる悲惨な戦いが起こったからです。それは、アメリカ軍が沖縄本島に上陸したときの事件です。その為に沖縄県民の多くが亡くなりました。民間人を含め二十万人以上が戦闘の中でいのちを失ったと言われます。子どもからお年寄りまで、無差別に殺されました。そのような中、沖縄の人々は、「日本政府は本土にアメリカ軍が上陸しないように沖縄に引き寄せ決戦をした。私たち沖縄県民が犠牲になった」というのです。沖縄の人々は本土の人とは顔つきが違う琉球王国の民族です。そのような中に差別があり、日本政府は沖縄を犠牲にしたというのです。沖縄の人々は同じ日本人です。同じ言葉を話します。しかし、戦争体験者には深い傷がありました。
 私が今回泊めていただいたのは、米軍基地の中のホテルでした。奉仕した教会が軍に関係をもっている教会でしたので、そうなったのだと思います。基地の面積は沖縄本島の約二割だと言われています。基地は広大な面積を占めており、基地の中は沖縄の町並みとは全く違います。とくに嘉手納基地は広いです。片側三車線ほどの広い道路が基地の真ん中を貫き、車がビュンビュン走っています。町並みはアメリカそのものです。基地内では円が使えずドルです。会話は全部英語です。全く違う世界がそこにあります。広々とした芝生の中に家々が点在し、ここはどこの国だろうかと思います。しかし、ゲートを一歩出るとそこには普通の光景があります。それで沖縄の人々はアメリカ軍に対して怒っています。「アメリカは沖縄を占領し、自分の国のよう使っている」という怒りがあります。双方、色々な意見があり、なかなか問題を解決するのは難しいと思いました。日本国内だけでも多くの隔ての壁と敵意が存在しているのです。
 また国を一歩出ると国々の間にさらなる大きな問題があります。日本とアジア諸国の間にも多くの問題があります。どこに行っても問題だらけ、敵だらけです。今回アメリカであのような大事件が起こりましたが、その背景には深い憎しみと敵意があったことを見落とすことはできません。今回、ビン・ラディン氏がテロを起こしたのではないかと言われていますが、それはある意味において湾岸戦争からの付けだと言われています。十年ほど前、多国籍軍がアメリカを中心に組織され、サウジ・アラビアに駐留しイスラム諸国を痛めつけたので、彼らは、「いつかはアメリカを苦しめてやろう」と、今回のテロを起こしたというのです。人間の怒りや憎しみはなかなか消えないものです。敵意や憎しみの壁が崩されない限り、いくら世界平和を掲げても、なかなか実現しません。
 しかし、イエス様がこの地上に来られた目的は、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち砕くためです。
 イエス様の生きておられた時代には奴隷制度がありましたが、アメリカ建国当時においても奴隷制度がありました。今、日本で「ゴスペル」を歌うブームがあります。この教会にもゴスペルクワイヤーがあり、多くの方々がそこでゴスペルを歌っていますが、ゴスペルの根底にあるものは、「奴隷制度」です。黒人たちが横暴な主人たちによって苦しめられていた中、彼らは苦しみあえぎながら主を求めたというスピリットがあります。その苦しみの中で、「神様助けて下さい」とただ神だけを信頼し、自分の心を打ち明けた魂の叫びがあります。そのような中、ついに彼らの叫びが神に届きました。南北戦争後アブラハム・リンカーンにより奴隷解放がなされ、アメリカの黒人達に自由が訪れました。
 奴隷制度とは、考えてみるとひどいものです。人間が人間を売り買いするのです。今日、日本がどこかの国に占領され、日本民族が他国に商品のように売り買いされて道具のようにこき使われたらどうでしょうか。人格も何もかも無視されて使われます。そんな辛いことはないと思います。イエス様の時代にはそんな奴隷制度が溢れていました。しかし、聖書は、エペソ六章九節に、

『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じように、ふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。』

と記されています。教会の素晴らしさは、社会には色々な壁や差別が満ち溢れていますが、私たちの神は人を差別されることは決してないと言うことです。神の国は壁のない所です。あなたには色々な背景があるかも知れませんが、決してそこに気をとられてはいけません。神は何の壁もないお方です。イエス・キリストの時代、最も深く高い壁、奴隷制度のただ中で、「神は人を差別されない方」と語られているのです。私たちは心の中からも壁をとらなくてはなりません。
 ときどき私たちの中にも壁や差別意識があります。そのことによって、今回の戦争ではありませんが、家庭の中に大きな争いや社会の中にも色々な問題が起こってきます。まず私たちはイエス・キリストによって、内側の壁を崩すようにと教えています。壁・差別の後ろには、激しい怒りがあるものです。時に人は激しい怒りに捕まえられ、怒りをエネルギーに生きている人があります。「怒り」はすぐには去りません。私は牧師として色々な方々と話しますが、ある方は血走った目で、「あの人は私のことをこうした、ああした」と訴えます。その話しが、二十年、三十年前の話しでも、昨日起こったかのように話します。ということは、怒りとはしつこいものであり、なかなか解放されることがない束縛です。
 今回、アメリカのブッシュ大統領が、「これはテロではなく、戦争だ」と言いました。そして、これは「善と悪との戦いだ」と語っていました。評論家がそのことを、善とは「自由諸国」、悪とは「テロリスト」だと解説していました。彼は、善と悪との戦いと語りましたが、実際、善と悪を理解することは難しい事です。善と悪を定義するのは大へん難しいのです。それは、それぞれが持っている価値観によってもかわるものであり、宗教的、哲学的にも関わりがあります。家に帰って「善・悪」について調べて下さい。私は調べてみました。善とは何かについて調べると、悪の反対概念と書かれていました。それで、悪とは何かについて調べてみました。すると、善の反対概念と書れていました。訳がわかりません。善とは何でしょうか。悪とは何でしょうか。しかし、私たちが聖書を学び始めると善と悪についてわかってきます。善とは一般に正しいこと、正しいとされる概念かも知れません。しかし、突き詰めていくと神ご自身、創造主である事がわかります。神様は創造主です。創造主とは無から有を生じさせることができる方です。神様は創造主、私たちは被造物です。そして創造主なる方が決めたことは、全て「善」になります。ということは、善とはただの観念や概念ではなく、神ご自身が善なる方であるのです。ゆえに、神ご自身が語られた言葉、聖書は全て「善」なのです。結論として、善とは神格、意志に基づくものだということです。神の意識が働くものが「善」です。
 では悪が善の反対概念ならば、悪は何かということです。悪が善の反対概念であれば、これはただの観念や概念ではないということです。善が神格と共にあれば、悪も知能と共にあるのです。聖書は悪とは、ただの概念ではなく、生き物だというのです。悪の根源は何かというと聖書は悪魔だと教えています。人類を創世の初めから攻撃し続けている悪魔とその一味が「悪そのもの」であるのです。ということは、日頃、私たちは悪を目にしていますが、その背後に人格的な存在があるのを見落としてはなりません。クリスチャンになると善と悪をただの観念ではなく、存在であるということがよくわかります。そして人の心の中に、時として、「激しい怒りや憤り」が訪れますが、それがどこに起因しているかというと、これはただ、人間の感情的なものだけではないのです。
 聖書は人の怒りは神様の義を実現させるものではないと語っています。また怒りの根底についても教えています。黙示録十二章十二節に、

『それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」』

また十七節には、

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

と書かれています。創造の初めから怒っていた存在があります。はじめから怒っていた者は誰でしょうか。それは人間ではなく、「悪魔」でした。悪魔が激しく怒って神の前から地上に落とされたのです。その激しい怒りの背後に、悪魔が関わっていると聖書が教えています。ときどき私たちも、色々なことで激しい怒りや憎しみ、そして、壁ができてしまうことがあります。この時私たちは十分に注意しなければなりません。怒りの背後に「存在」が関わっているからです。エペソ人への手紙には、『怒っても罪を犯してはいけません。悪魔に機会を与えてはいけません。』と書かれています。もし、私たちの中に激しい怒りや憤りなど、何らかの壁があったら、その背後に悪しき存在と力が関わっている、だから気をつけて下さいというのです。そしてその怒りは決して神様の義を現すことはできないのです。
 私たちも今、世界平和を祈るべき大切な時期に、まず私たちの中から隔ての壁や敵意、激しい怒りを取り去らなくてはなりません。同じ怒りを持ちながら、私たちは世界平和を祈ることはできないのです。
 「キリストこそ二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち破る」・・イエス様以外によって世界平和は訪れないのです。今度アメリカが報復したらまたテロリスト達は怒ります。また隙を狙って、もっと大きな仕返しをされます。そうしたら、さらなる怒りを燃やしてやり返します。ついには出口のない泥仕合になります。
 私たちは世界のために祈るべきです。そして祈るためにも、私たちの霊性を整えていただくことが必要があります。それが私たちの中にある「激しい怒りや憤りから解放」です。
 聖書は、私たちが「聞くには早く、語るには遅く、怒るには遅いようにしなさい」と勧めています。時々色々なことを聞くと、「あいつ。もう赦せない」と怒ってしまいます。しかし聞くには早く、(聞くことが早いとすぐに怒りますが)語るには遅くしなさいと教えています。悪いことを聞いてもすぐに反応せずそれを受け止め、よく考えてから怒るということです。ですから私たちはよく注意すべきです。
 先週は私はちょっと頭に来ることがありました。何かというと、最近私は、「悪霊を捕虜とせよ!」という本を出しました。なかなか評判がよく、売れています。するとある人が、「順先生、見ましたか?ハーザーという雑誌に先生のことが書かれていましたよ。」と言われました。見てみると、ひどいことが書かれていました。最近、あの雑誌はおかしくなりました。「神社は偶像ではない」と言うような事を言いだしています。しかし私の本には、神社の偶像礼拝性についてはっきり書いていますので、怒って批評されたようです。私はコロサイ二章十五節の御言葉から、「悪霊を捕虜とすることができる」と書きました。これは事実です。私たちを責め立てていた悪魔の持っていた武装が解除され、悪霊どもが捕虜として凱旋の行列に引き出されると書きました。すると、「御言葉の理解がおかしい」と書かれていました。「捕虜となる」というのは悪霊ではない、「救われた魂だ、悪霊を捕虜にはできない」と書かれていました。
 しかし、ハーザーの主張する理解は完全に間違っています。どの注解書を開いても、コロサイ人への手紙二章十五節の御言葉の捕虜とは、確実に、悪魔・悪霊として理解されています。私が何か、新しい神学を打ち立てているのではなく、正統的な理解の範囲内で書いたのに、どうしてこんな馬鹿なことを書くのだろうかと思いました。
 しかし、これを聞いたときに、この時こそ、私が試されている時だと思い祈りました。「彼らを赦して下さい」と祈りました。しかしそのようなことを通して、もう一度、その御言葉について学びました。そのために更なる御言葉の深い真理について知ることができました。そして、イエス様が与えて下さった十字架の勝利はすごいものだと感動しました。
 悪魔の武装を解除し、「彼らををさらしものにして」「彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられた」ということはすごいと思いました。
 「さらしもの」にしたと書かれていますが、それが人であったらどうでしょうか。「さらしもの」という意味は「辱められる」ということです。新約聖書中このギリシア語は、二回しか出てきません。もう一つはマリヤが妊娠したときに、ヨセフはマリヤがさらしものになることを恐れて身を引こうとしました。彼女が辱められるのを恐れたのです。私たちが救われた結果として、さらしものとなって引き回されるのでは矛盾します。「さらしのもの」にされるのは「悪魔や悪霊」です。そして、奴隷とされるのは、悪魔と悪霊なのです。聞いて語るのは、遅くしなくてはならないと思いました。そして、怒ってはいけないということを教えられ祈ることができました。
 聖書は『『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』と書かれています。この御言葉の実行はなかなか難しいかも知れません。自分を迫害する者のために祈る、また敵を愛するとは難しいことかも知れません。しかしそこに真理があります。私たちが神の御言葉を実行するときに、神の力・神の国が現わされます。『御国が来ますように。みこころが天になるように地にもなりますように』という祈りの背景には、私たちが御言葉を実行することが必要です。
 ローマ書十二章十九節に、

『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」』

また、ヘブル十章三十節に、

『私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。』

と書かれています。国同士も本当はそうなのです。国々がお互いに復讐に復讐を重ねるような世界ではなく、敵のために祈る、迫害する者のために祈る、自分の敵を愛して祈る、そんな世界になったら素晴らしいです。まず、そのためにも、私たちの内側から解放していただかなくてはなりません。私たちの中に、何らかの壁や敵意や争いがあったら、「神様、どうか私の中の壁を砕いて下さい。」と祈りたいと思います。
 本日の主題聖句、エペソ人への手紙二章十八節は、

『私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。』

と書かれています。私たちはイエス・キリストの名により、アバ父なる神の御前に出ることができます。アバ父なる神様の前に出るときに必要なのは、両者ともに「一つの御霊において」ということです。壁が崩されてはじめて御霊によって御前に出ることができるのです。
 私たちの教会には色々な国々から兄弟姉妹が集まっています。今朝は、韓国の先生が明るく証をされましたが、日本と韓国の間には深い溝があり、一般には難しい問題があることも確かです。しかし、このように互いに喜んで受け入れ合うことができるのは、聖霊様の働きであり、壁が崩されている証拠です。他の国々との間にも、色々な障害があるかも知れません。しかし、一つになることができるのは聖霊様の働きです。聖霊によって壁が砕かれ、激しい怒りをもたらす、悪魔の力が打ち破られるときに平和が来ます。

『平和の神はすみやかにあなたがたの足でサタンを踏み砕いて下さいます。』

と聖書は教えています。平和の神がサタンを踏み砕く、しかし「あなたがたの足で踏み砕く」と語られています。これは私たちの中にある怒りや憎しみを、「私たちの決断と共に」打ち砕かなくてはならないことを意味していると思います。聖霊様によって心を照らしていただき、私たちの中にある怒り、憤り、根底にある激しい怒りが砕かれ解放されますように。原動力が憎しみや怒りかも知れないという方は解放を受けて下さい。そのようなところから隔ての壁が打ち砕かれ、主の平和がこの国に来るよう、祈りたいと思います。これは十字架によって勝ち取られている領域なので、そのまま受け取るときに実現するのです。心を聖霊様に照らしていただき祈りたいと思います。
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