今週の礼拝メッセージ
2001.9.23(SUN)
神の下さる賜物は永遠のいのちです
新城教会 上條実牧師

新約聖書 ローマ人への手紙6章22節〜23節
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 ハレルヤ!今日皆さんと共に御言葉を学ぶことができることを感謝します。ローマ書六章の御言葉から「神の下さる賜物は永遠のいのちです」というタイトルで学びます。お読みした御言葉は素晴らしい慰めの言葉です。クリスチャンである私たちにとってはイエス・キリストを信じて永遠のいのちをいただいたと言うことは素晴らしい特権です。今日は九月二十三日で祝日です。そして明日の月曜日は代休で喜んでおられる方もいらっしゃると思います。日本の法律の中で「国民の祝日に関する法律」というのがあります。その祝日法の中で九月二十三日は「秋分の日」と定められています。皆さんはどの様な趣旨で祝日になっているかご存じでしょうか?日本の法律に対して、もっと祈って行くべきだと思います。秋分の日とは祝日法で「先祖を敬い、亡くなった人々を偲ぶ」と定められています。ただ休みだからといって暢気に構えてはいけないと思います。日本国の法律の中で、「先祖を敬い、亡くなった人を偲ぶ」ということは、政府公認で日本中の人は先祖崇拝をするために休日を取りなさいと言っているのです。この秋分の日は、クリスチャンとして祈らなければなりません。そんな中で「彼岸」とは何だろうかと思い調べてみました。昼間と夜が同じ時間で真東から太陽が昇り、真西に太陽が沈む日で「彼岸」と言います。私たちは墓参りに行く、牡丹餅を食べることぐらいは知っていましたが、あまり深いことまでは知りません。今回もう少し深く彼岸について学んでみました。今からご紹介するのは仏教サイトのインターネットで調べたものです。

<彼岸について>
「彼岸会(ひがんえ)」といいます。梵語の「波羅蜜多」の訳で、彼岸に到るという意味です。迷いに満ちあふれたこの世、此岸(しがん)から、悟りをえた世界彼岸(ひがん)へ到ることを願って、行いを慎む期間とされていました。彼岸へ到達するために、常日ごろ、忙しさに追われ、自分自身の仏心を見つめることのできない人々が、春と秋の七日間、善事を行い、先祖への報恩感謝を表わします。この七日間の法会のことを、彼岸会といい、お彼岸と略していいます。ですから、お彼岸は、自分を見つめ直し、先祖への報恩感謝をすることにより、より豊かな心を持つための、人格形成期間のようなものです。

 まだクリスチャンではない時には、彼岸というと先程言ったように墓参りをする日、牡丹餅を食べる日ぐらいしか思っていませんでした。特にクリスチャンホームに育った私にとっては全く関係のない日として気にも留めることもありませんでした。しかし調べてみると、「お彼岸は、自分を見つめ直し、先祖への報恩感謝をすることにより、より豊かな心を持つための、人格形成期間のようなものです。」と書かれていました。今私たちが生きているのは此岸(しがん)という所とされ、先祖への報恩感謝をして私たちも将来悟りをえて、彼岸に到る事ができるよう考え、行いを慎む時だというのです。仏教に目をむけなさい。先祖たちが行っているところに行けるように見つめ直しなさいと言うのが彼岸だというのです。仏教はインドから中国に入り、日本に来ました。しかし彼岸はインドや中国にはなく、日本独特のものです。日本で付け足して彼岸という教えを創ってしまっているのです。
では仏教とはなんでしょうか?仏教を教え始めた釈迦はどういう人で、どんなことを教えたのでしょうか?
 仏教を始めたのは釈迦ですが、釈迦が木の下で自分はどうして生まれてきたのか、人生は何だろうかと考えた時に悟りました。その悟りについてもインターネットで調べてみました。「釈迦の教え」ということが書かれていました。そこからご紹介させていただきます。釈迦は二五〇〇年前にインドの北部で生まれ、釈迦の誕生日は西暦前五六六年四月八日とされているそうです。彼は二十九才で悟りを求めて修行し、想像を絶する苦行を数々を行い色々人生について考えていたそうです。そして以下のように書かれていました。

<釈迦の教えについて>
極端な偏りは何も産み出さない。皇子時代の快楽の日々、修業の時代の苦行の日々、これら極端な偏りはいけない、真理を捕らえるためにはその中ほどを貫く糧、中道が大切ではないかと気がつきました。そして出家してから六年に当たる三十五歳の時真理に目覚め、ブッダとなりました。悟りを開いたブッダは教えを広める伝道生活を送り、やがて八十才で亡くなりました。

 釈迦は一生懸命、人生とは何かを考えました。そして二十九歳で悟りを求めて出家し、三十五歳まで人生について考えたようです。そして「中道」ということを悟りました。中道とは釈迦の中心的な教えです。中道は、何事も両極端はいけない、程々が良い、人生は四苦八苦、迷いや執着心を断って考え過ぎないのが一番だと悟ったというのです。中道というのは、釈迦の悟った一番のメインの教えです。「中道」偏ってはいけないので、全然考えなくてもいけない、しかし考えすぎてもわからなくなってしまう。だから、程々にやるのが一番良いと教えています。結局のところこの悟りは「あきらめ」です。釈迦は色々な難行苦行を行いました。しかし釈迦は結局人間なのでわかりませんでした。答えを出したのが「中道」、程々にしていけばという、言い方を変えれば適当な宗教なのです。私たちは葬式などしきたりにこだわり、皆の前で間違えてはいけないと思うだけ。全くそれらの行為にどの様な意味があるのかも考えずに、ただ周りの人と同じことをしなければならないといういい加減な信仰の人が多いと思います。はっきり言います、仏教には絶対救いはありません。仏教の中心は「中道」。いい加減、考えすぎずに適当に丁度真ん中ぐらいを行っていれば良い。人生や死後どの様になるかなど、一番大切なことが全く分からず、分からないと言えないから「中道」という言葉で何がなんだか分からない状態にしてしまっています。だから彼岸は、丁度真東から太陽が昇り、真西へ沈むという、真ん中に太陽が位置するという事もあって、彼岸の意味と中道ということが合致するようです。また気候が、熱くなく寒くもないということで、中道的なので彼岸と言うようです。私たちは仏教を調べれば調べるほど、救いはどこにあるのか分からず、救いを上手に分からないようにぼかしています。適当にやったら、何とかなるというのが仏教の教えです。それは釈迦が「中道」と言うことを教え始めたからです。今日私たちはそのようなところから目が開かれ、偶像礼拝からハッキリ離れ、真の神であるイエスキリストを知ることができた事はこの上ない素晴らしい祝福です。私たちの救い主であるイエス・キリストにある永遠のいのちは、神様が下さった賜物であると書かれています。決していい加減な気持ちでキリストを信じたのではありません。命がけの信仰だと言うことを覚えてください。周りが行っているからとしきたりを追い求めている仏教とは、全く違うことを覚えてください。
黙示録三章十四節から十六節に、

『また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。』

と書かれています。今日あなたは自分の信仰生活について考えていただきたいと思います。仏教は中道で程々で良いと言うことを学びましたが、ともするとキリスト教を信じている私たちの中にも「仏教を土台にして」キリスト教を信仰している方がいるのではないかと思います。それはイエス様はいのちをかけて私たちを救って下さいました。いのちをかけてこんな私のために十字架にかかった下さいました。しかし毎日の行いの中で「中道」を土台にイエス様を信じている方がいるかと思います。信仰生活は適当で良い・・・など 「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」とあるように吐き出されてしまうような領域の中で信仰を守っている方がいらっしゃるのではないかと思います。仕事は仕事、礼拝は礼拝と・・・メリハリをつけて生活しています。私たちは今日の礼拝のように神の前に出るときには、「あなたを愛します。あなただけに従います。」と私たちは思っていますが、毎日の生活の中では仕事や家庭の中で、祈らなくてはならない、聖書を読まなくなってしまい、信仰生活が「中道」を守っている方があると思います。いのちをかけて神様が私たちを救って下さったにも関わらず、自分は神に対していのちをかけられず、いいい加減な信仰生活を送ってしまう、キリスト教の中道と言われてしまうような信仰生活ではないかと思います。とにかく、いのちをかけて私たちを救って下さった神様は、私たちに何を求めているのでしょうか?それは熱いか冷たいかどちらかであって欲しい、なまぬるいのははき出すと言っています。私たちははき出されない、熱いクリスチャンでありたいと思います。イエス・キリストが十字架にかかられ、三日目によみがえられたと心から信じて、いい加減なクリスチャンではなく熱いクリスチャンにならなくてはと思います。自分の信仰の基準を「中道」ではなく、聖書を土台として熱いクリスチャンとして生活していきたいと思います。私たちの教会で九十二年に聖霊の働きが起こり、霊的戦いが開かれました。その時私たちは一生懸命祈りました。そんな中、丁度霊的戦いが始まったときで教会に色々な問題が起こり、色々な悪口を言われ、教会には悲しいことが沢山あり、私たちは多くの傷を負いました。そんな中で甲子園ミッションがあるということで必死で神様に祈りました。教会員全員で一致して必死に祈り、必死で神様に期待し、必死に神様を愛しました。特に聖霊様を求めて、真剣に祈りました。感謝なことに全日本リバイバル甲子園ミッションは三日間で延べ十二万四千人の方が集まり、大集会となり、霊的勝利をいただくことができました。そして多くの方がそこで救われました。本当に感謝します。その後武道館の十日間を行いました。また、昨年はスーパーミッション四十日間を行いました。しかし甲子園の時には必死でいのちをかけて一生懸命祈り、奉仕しましたが今はどうでしょうか?当時毎日会堂やスタジオなどで熱い祈りをささげていたにも関わらず、罠に引っかかってしまっていることを思います。神様が助けて下さったにも関わらず、やればできると考えてしまい、それまでの体験があるから大丈夫だ、など何とかなるという安心感が生まれてしまっていると思います。私たちにビジョンがなくなってしまっているような感じがします。大きな甲子園ミッションは言い方が信仰的ではありませんが、「大きな魔物」のような今まで経験したことがない大きな集会ということで、ただ信仰のみで必死になって甲子園ミッションをしました。しかし私たちは知らないうちに段々熱いのが冷めてしまい、祈りは一応しますが、生温くなって熱く祈ることができなくなってしまっている。熱さがなくなってしまっている自分を思います。覚えていただきたいことは、日本は九月二十三日、秋分の日が先祖を敬うなどという法律を作り、日本全国で休みを取るような仏教を土台とした国です。私たちはその暗闇が私たちの上に載っているような、弱いクリスチャンではなく、イエス・キリストの岩の上に立つ、暗闇を私たちの足で踏み砕くクリスチャンとして熱く燃やされ、もっと聖霊に満たされていくことが必要だと信じています。自分の中にビジョンが欠けていると思います。先週ロン・ブラウンコンサートに四四〇名の方々が集い、会堂いっぱいの方が来会されました。このコンサートのために皆さんが一生懸命チケットを買い、お友だちを誘いました。しかしどれだけの期待があったでしょうか。私たちの願いは、魂が救われ、リバイバルが起こることです。しかし、そのコンサートで私たちはどのような期待を持っていたでしょうか。良い音楽だからそこそこ人が集まるだろう。何の事故も怪我もなく、トラブルもなく終われば良い・・・。と何も期待感がなく、神様はどこからリバイバルを起こして下さるか、いつどこでリバイバルを起こして下さるのかわからないのにも関わらず、期待が自分の中にはないのです。私たちは何も熱いものがありません。それで良いのでしょうか?ヘブル人への手紙十一章一節に、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

信仰とはまだ経験したこと、見たことのないことを期待していく時に働かれ、大きなみ業を見せて下さるのです。神の偉大さが私たちには分かっているようで何も分かっていない。知らない間に私たちもクリスチャン生活が「中道」であるような気がします。神様は生きておられます。神様は祈ったら必ず答えて下さいます。分かってはいるのですが、信仰、ビジョンがないのです。私たちはイエス様を熱狂的に愛し、イエス様のためなら何でもという姿勢が必要です。十字架によって救って下さったことを、もっと考え、感謝して自分の信仰生活を改めて下さい。知らない間にこれで良い、この程度で良いという思いがあります。私たちの信仰がまだ仏教の土台の上に乗っているかも知れません。ですから、今日はその土台を打ち砕き、今日は生温い者ではなく、熱い者にして下さいと祈り、聖霊様を歓迎し、聖霊の力いただきたいと思います。是非あなたも熱いクリスチャンとして、会堂、また教育館などで祈りましょう。時間がある時にはトラクトをもって一軒一軒にトラクト配布をしましょう。あなたのできる限りをイエス様のために動きましょう。中道的信仰生活ではなく、熱いクリスチャンとして上からの油注ぎを求めていきましょう。
 またもう一つ彼岸は、死ということにテーマが置かれています。悟りをえた世界彼岸(ひがん)へ到ることを願って、行いを慎む期間とされていました。悪魔は先祖を想いを馳せさせ、死というテーマを人々に考えさせています。では私たちクリスチャンはどの様に死に対して覚える必要があるでしょうか。ローマ人への手紙六章二十三節に、

『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』

と書かれています。私たちクリスチャンに与えられるのは、永遠のいのちです。しかし罪から来る報酬は死だということを覚えて下さい。罪に対して「中道」、曖昧ではいけないということです。これくらいで良いと軽く考えたときに、罪から来る報酬は死だと言っています。今日も聖餐式があります。イエス様が私たちのために十字架で打たれて血を流して下さり、葬られて三日目によみがえって下さった。その十字架を信じることで罪が全部赦され、永遠の命が与えられるというのです。中道ではありません。イエス様は完全に赦して下さるということです。ですから私たちはイエス様を信じて、更にきよさを頂こうではありませんか。自分を厳しくし、罪からあがなわれたことを信じて聖く、熱いクリスチャンになっていきたいと思います。
 仏教では死についてインターネットを調べたら、このように書かれていました

<仏教に関する死について>
仏教では地獄と極楽がありますが、その中では六つのランク、六道輪廻があります。どこに生まれ変わるかは死後四十九日間で決められます。この間、七日日間ごとに七回の裁判があります。

私たちは葬儀があり、四十九日があるというのを良く耳にします。また法事等で親戚付き合いをします。ではそれをどのように仏教では言っているのでしょうか。それは次のように書いてありました。

死んだら、冥土の旅の始まりと言います。冥界は死者が住み着く場所ではなく、通過点だそうです。
「この旅出の食事はお仏壇のお線香の代わりです。香じきと言います。食物であるお線香がなくては空腹で困ってしまいます。お線香は絶やしてはいけません。」

本当に馬鹿らしいことです。私の住んでいる行政区で組長をしたときに葬式がありました。葬儀後その日に「ついでに初七日もやってしまう」と言うのです。なぜそんなに急いでやるのだろうかと思いました。仏教では人が亡くなってから七日間は線香を絶やしてはいけない。その線香の香りが亡くなった人の食べ物だというのです。ですから、それをあげないと空腹で困ってしまうというのです。死んでも死に切れないというか、遺言で「線香を七日間は必ず絶やしてくれるなと頼む」と言わなくてはならないくらい仏教は形式的な事をしています。仏教で先祖を大切にしていますと言いますが本当でしょうか?。線香を一本燃えるに五十分ほどかかるそうです。しかし七日間線香をあげつけるのは大変なので初七日をついでにやってしまうというのです。線香の煙、食物をあげずに次に進んでしまうとは、こちらの都合で死んだ人に行ってしまうとは、本当に先祖を粗末にしてないと言えるのでしょうか。また今ではいちいち線香の火をつけることのないように、香取線香のような線香があり、一週間焚き続けることができるものがあるそうです。またしきたりで初七日、七日間ずれて順々に四十九日まで行っていく必要があるそうです。しかし死んでからも七回の裁判があるそうです。初七日だと書類審査があるそうです。そこでは五つのポイントでチェックするようです。次に、三途の川があります。私たちはよく三途の川はよく聞きますが、三途の川を渡るのは三つ通りの道があるようです。一、善人は橋を使って渡る、二、罪の軽い人は川の中の浅瀬を渡る、三、重罪の人は流れの速い濁流の中を渡らなければならない。「地獄の沙汰も金しだい」と言いますが、このあたりでも棺桶の中にお金を入れます。でも、本物だともったいないので紙に書いて入れています。そしてその後、賽の河原ということを読むと、仏教は愛の宗教ではないことがよくわかります。三途のほとりを見渡すとそこには川が見えます。そこが賽の河原だそうです。そこでは大勢の子どもたちが一生懸命河原の石を積んで塔を作っています。仏教の教えを聞き、お布施を行う前に冥界にやってきたため、ざんぎの念を苛まれて塔を作っています。ざんぎの念=恥ずかしく思う。子どもたちは親より先に死に、親に悲しみの涙を流させたという重罪のため、三途の川を渡らせてもらえませんと書かれています。今日覚えて下さい。先にお子さんを亡くされた方がいると思いますが、仏教からいうと三途の川を渡ることができない、ずっと賽の河原で自分は親よりも先に死んだから、お布施=教会で言うならば、献金をしなかったということで河原の石をずっと積んでそこで作業をしていないといけないというのです。当然子どもが天国に行って欲しいという気持ちは当たり前のようにあります。しかし、先に子どもが亡くなったら、その川を渡ることができない重罪だと書かれています。滅茶苦茶なことを信じるというよりも、みんなそんなことは知りません。知らないけれど、しきたりだけは良く知っています。しきたりだけは気にして間違えないようにし、人に悪く思われてはいけないと考えています。
 しかし、私たちの救い主イエス様はいのちをかけて私たちのために死んで下さいました。そして、聖書は第一コリント十五章五十四節から四十七節に、

『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。』

と書かれています。死に対して私たちクリスチャンは勝利をいただいています。今日イエス・キリストが賜物として永遠のいのちを与えて下さったことによって、天国に入ることが出来ます。また多くの先輩方が天国に行っていますが、天国でまた会うことができるという望みがあるということは素晴らしい恵みです。神の下さった賜物は永遠のいのちです。中道でいい加減な道ではなく、死んで、でたらめのわけの分からない仏教ではなく、私たちは今イエス・キリストを土台とし、天国に入ることができるということは、素晴らしい祝福です。数日前、アメリカで大惨事がありました。あの貿易センターは皆が働きたい、エリートと言われる人がそこで働いていたそうです。世界の経済の中心地であり、知恵のある人たちが働いていましたが、突然予期しない出来事が起こり、建物は倒壊し、五千人以上の人が亡くなったことを考えるとき、人間はいつ死ぬかわからないと思いました。そしていくら知恵があっても家があっても金があっても何をしても自分は死んでいく。私たちがクリスチャンとして一番大切なこととして考えて生きなくてはならないのは永遠のいのちです。いつ死んでも天国に行ける、いつ死んでも神様の前に立つことができることをしっかり準備しなくてはならないと思います。そのためには熱いか冷たいかどちらかであって欲しい、ぬるい者は吐き出されると書かれています。ですから、死に対して私たちがいい加減な気もち、「中道」という仏教思想の中に立っていたら、それを打ち砕き、今日は真の神であり、あなたのためにいのちを惜しまずに与えて下さり、十字架にかかり葬られ、よみがえって下さったイエス・キリストをもう一度信じていきたいと思います。アクセサリーのような神ではありません。十字架にかかり、いのちをかけて下さった方です。十字架で死んで、葬られて三日目によみがえって下さったこと。この福音を信仰の土台に置き、いい加減な気持ちではなく、主の前にしっかりと立ち、もう一度信仰を築き直して、益々聖霊の油注ぎ、聖霊の力を求めて熱いクリスチャンになって、熱い教会になってリバイバルのために魂の救い、家族や近辺の人々の救いのために私たちは祈っていきたいと思います。信仰生活をもう一度見つめましょう。今何の上に信仰を築いているでしょうか。神様を土台に熱いクリスチャンだったら幸いです。熱いクリスチャンとして信仰を全うしたいと思います。知らないうちに仏教的要素が残っており生温いクリスチャンで吐き出されてしまうようであったら今日悔い改めましょう。今から聖餐式をしますが、イエス様が私のために十字架にかかって下さり、血を流して下さったことを感謝して祈りましょう。お祈りします。
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