今週の礼拝メッセージ
2001.10.14 (SUN)
永遠の救い
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章6節〜13節
また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」

 ハレルヤ!「イエス様の名前によって、あなたを祝福します」とお互いに挨拶をしましょう!世の中では時に、呪いの言葉をかけ合います。しかし、教会ではお互いに祝福の言葉をかけ合います。人間は言葉によって形造られます。「お前はバカだ。お前はバカだ・・・」と言って子どもを育てると本当にバカになります。お互いに励まし合ったら強められます。今日私たちは、イエス様にあってお互いに祝福します。天地宇宙を造られたイエス様の名によって祝福し合います。教会は祝福を受け取る場所です。ぜひ、祝福を受け取って下さい。
 さて、今日学ぶ黙示録は、読めば読むほど難解なところです。そこには恐ろしいことがたくさん書かれています。特に、世の終わりについて書かれています。しかしそれらの預言がどの時代に当てはまるのかは、特定できないのも事実です。ある聖書学者が、黙示録は螺旋階段を真横から見ているようなものだ、と言いました。平面的に見れば連続した点に見えますが、それには奥行きがあり、時間差があるというのです。
 今日お読みした御言葉は、世の終わりに際して神が人類に語られている言葉であると思います。それも、主が、大声で語っておられる言葉です。
 イエス様は天に帰られる前、「全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を伝えなさい」と命令されました。「福音」とは「良い知らせ」です。
 ヨハネは、次のような幻を見ました。六節に、

『また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。』

それは、天使が神様からの命令を受け、永遠の福音を携えて諸国に遣わされている姿を見たのです。現在、福音を伝えられていない国はありません。どこの国にもイエス・キリストの福音が宣べ伝えられています。これはイエス様の命令であり、その命令を受け取った人々によって福音は宣べ伝えられました。同時に、神はご自分の軍勢を世界に遣わし、福音を伝える手助けをされているのです。新城教会には色々な国から人々が集まっていますが、「福音」は全国民・部族に共通するものです。福音によって、イエス・キリストによって世界は一つにされます。
 私は時々外国に行き、見ず知らずの方々と出会いますが、イエス・キリストを信じているだけで心が通います。長年の友だちのような感じがします。なぜならば、イエス・キリストによってもたらされている福音が共通して流れているからです。この福音は永遠を保証するものです。
 キリスト教会に救世軍というグループがあります。彼らは軍服をまとい、勇ましく福音を伝えています。彼らは人々に出会うとすぐに、「あなたは救われていますか」「永遠の命を受けていますか」と聞きます。もし、そのように聞かれたら、「はい、救われています」と答えることができるでしょうか。
 イギリスに救世軍の少女がいました。イギリスには国教会という形骸化した教会があり、牧師でもクリスチャンではないような人もいます。彼女はそのような先入観を持っていて、ある時、国教会の老牧師に、「あなたは救われていますか?」と大胆にも聞いたそうです。すると彼は「お嬢さん、それはエソーテノンという意味ですか。それともソーゾーミノスですか。あるいはソテーソマイという意味ですか。」と聞きました。彼女にはその質問の意味が分かりませんでした。聞いた相手が悪かったようです。その人はギリシャ語の博士であったようです。彼が何を聞いたかというと、「あなたは過去に救われたことがある」という意味ですか。それとも「現在、救われている」ということか。また、「これから救われるであろう」と言う意味なのか、と聞いたのです。
 さて、救われるとは、どの状態なのでしょうか。私たちは過去に救われている、今救われている、やがて救われるであろう、どれに当たるでしょうか。この答えは、神の救いは過去・現在・未来に共通するものであると言うことです。これらすべてを現在形で握っておられる神からの救いを得ているのです。イエス・キリストを信じれば、過去も現在も未来も救われます。
 私たちは過去を取り戻すことはできません。「あんなことをしなければ良かった」と言うことがあります。いくら後悔しても過去は取り戻すことはできません。しかし、神は過去を現在形で扱われます。過去の悪い記憶を良きに変えて下さるお方です。また、未来を創ることができるお方です。あなたの未来も保証されるのです。イエス・キリストの救いは、「過去・現在・未来」に共通するものです。現世御利益的な救いだけではありません。それは永遠の救いであり、永遠の福音です。
 救いとは何でしょうか。「救い」とは、そもそも「救われなければならない環境」があるということです。「救われた」ということは、「救われるべき環境があった」から救われたということです。どのような環境から救われる必要があるのでしょうか。
 私は小学校二年生の時に、絶対に泳げると信じていたのですが、ちょっと自分の背が立たないところに出て泳ぎました。すると途端に足を捕られて沈んでしまいました。口に水が入り、初めの一口は良かったのですが、二口目からは苦しくなり、沈んで行く自分をはっきり覚えています。水面がギラギラして「短い人生だった」と思いました。案外、人間は短い間に色々なことを考えるものです。どうもがいても上に上がることができませんでした。しかし、その時私は奇蹟を体験しました。私の体が浮かび上がり、水面に引き上げられました。奇蹟だと喜びました。すると私と一緒に泳ぎに行った三軒向こうのみよちゃんという背の高い女の子が、「あんた何やっとるだん」と言って抱きあげてくれていました。彼女の腰くらいの所で私は大騒ぎしていました。みよちゃんが助けてくれたので今日、私は皆さんの前に立つことができます。
 彼女は私を家に連れて行き、「今日、順がおぼれていたのを私が助けた」と言って母に私を引き渡してくれました。すると母が、「ありがとうございました!」と言って財布の中からお駄賃を取り出してみよちゃんに渡していました。その光景を見て、私は二度目のショックを受けました。母は五十円玉を取り出していました。それを見ながら、「私のいのちはたった五十円か?」
 いずれにしても、私は助け出されました。私が救われなければならなかった環境は、「溺れていた」からです。さて、人類が救われるべき環境とは、どのようなものでしょうか。聖書は次のように教えています。使徒の働き二十六章十七節から十八節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

と書かれています。これは「救い」について教えています。それは暗闇から光りへ、即ち、「サタンの支配から神の支配に、神に立ち返らせる」というのです。私たちが救い出されるべき環境は、「サタンの支配下からの解放」なのです。イエス・キリストを信じていない人生は、サタンの支配下にあるのです。教会に来ると光と闇がはっきりします。光なる神様と共に、闇の世界もあります。人を苦しめる悪魔と悪霊の組織があるのです。暗闇がわからなければ光もわかりません。しかし、イエス・キリストを信じることによって、サタンの支配から神の支配に取り返されるのです。ですから、この言葉を要約すると、サタンの「支配」、それは、支配権、支配力、影響力、意力という意味もあります。「サタンの支配権から神の支配権に立ち返らせる」立ち返らせるとは、「引き戻す」という意味があります。罪が赦されて、御国を受け継ぐ特権が与えられる、神様の国の住民になるということです。何と、サタンの支配から解き放たれるだけではなく、罪も赦され、永遠の国を受け継ぐことができるのです。それは素晴らしいことです。そして、この福音は永遠性を持ったものです。
 現在、世界に危機が訪れています。本当に大きな危機だと思います。今こそクリスチャンは真剣に祈るべきです。アメリカの報復攻撃が始まり、タリバンやアルカイダが追いつめられています。そして今週、高い確率でアメリカやアメリカの施設を有する国々にテロが起こるかも知れない、と言われています。大へん怖いと思います。人間にはやられたらやり返すという性格があります。初めはオサマ・ディン・ラディンがテロをやりましたが、アメリカが報復したら、また怒りに燃えてやり返すと思います。細菌テロも始まり怖いものです。事件が他国に飛び火したら、世界は滅茶苦茶になってしまいます。これからどうなってしまうのだろうかと心配です。やはり私たちはこのようなときに、真剣にとりなして祈らなければなりません。
 これはある意味で霊的戦いです。なぜなら、タリバンの人たちは「イスラムの神の名の元での戦いだ」と語っています。そもそも、神の名前を持ち出している戦いということは、背後的力が関わっているのです。しかし、アメリカと同盟諸国は、「テロリストとの戦いだ」と語っています。評論家は「イスラムとキリストとの戦いだ」と語っています。世界は今、大きな霊的戦いを経験しています。けれども、「イスラムの神による戦いだ」という挑戦に対して、「テロリストとの戦いだ」と位置付けていたら勝つことは出来ないのです。イスラムの神はそもそも、暗闇の領域に属するものです。
 イスラム教の母胎となっているのは旧約聖書ですが、彼らは旧約聖書を学んでいません。本当に学んでいるとしたら、十戒の中に「殺してはならない」という教えを守るはずです。また、彼らの理解では、イエス様はイスラムの預言者のひとりと考えています。イエス様は言われました。「右の頬を出す者には左の頬も出しなさい。」彼らは全くそのことを実行していません。ということは、結果が破壊的であれば、破壊者が働いているのです。このことにクリスチャンは気付き、「イエス・キリストの名の元の戦いだ」と認識し、背後にあるサタンの力が打ち砕かれるように祈るべきです。国々の背後に、国々をぶつけ合わせる力が働いているのです。
 例えば、皆さんの家庭の中に、家庭を壊す透明人間が入り込んだらどうですか。透明人間は絶対に自分が気付かれないよう、お互いが敵視するように仕向けるに違いないと思います。ある意味で現在、透明人間のような国と国とを戦わせる力が働いているのです。しかし国々は気付きません。そのような戦いに勝利者はないのです。やはり、イエス様が語られた通り、御言葉を実行していかなければ問題解決はありません。右の頬を打たれたら左の頬を出せという言葉は、国際社会でも同じ事が言えます。やはり報復したら必ずそれに対する報復があります。イエス様の教えに従うところに解決があるのです。しかし忘れてはならないのが、その背後に、互いに戦わせる力があると言うことです。イザヤ書十四章十六節から十七節に、

あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』

と書かれています。新共同訳聖書では、

お前を見る者は、まじまじと見つめ、お前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ、国々を揺るがせ、世界を荒れ野とし、その町々を破壊し、捕らわれ人を解き放たず、故郷に帰らせなかった者か。」

と書かれています。やがて人類は本当の敵について気付きます。「お前だったのか。国々を破壊し、人々を不幸に閉じこめていたのは・・・」とわかる時が来るというのです。しかしそのときでは遅いのです。聖書は先に、そのような存在があることを教えています。そして、救いはそのような敵の手からの解放だと教えています。個人においても町において、国においても、破壊者サタンの手から解放されるのが「救い」であるのは明白なことです。
 今日、イエス・キリストを信じることによって、彼らから解放されたことを心から感謝しなければなりません。しかし現在のような状況は、神からの警告かも知れません。黙示録十四章七節に、

『彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」』

「今、神からのさばきの時が来た」という警告かも知れません。旧約聖書には、神の民が罪に陥ったとき、必ずさばきが来ています。そのために使われたのが、当時、悪と呼ばれる凶暴な国でした。キリストを信じる西側諸国に罪が多くなっています。やはり、罪の結果は人々を苦しい状況に追い込みます。そんなとき、「あなたがたは悔い改めなければならない、罪から救われなければならない」という警告が発せられるのです。それは罪の赦しを受けなければ大変なことになってしまう、という警告です。このような世界情勢の中で、私たちは神の警告と受け入れ、悔い改めなければならないのです。
 特に、黙示録に書かれている、神のさばきの原因が何であるかを知る必要があるのです。それは十四章八節に、

『また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」』

と書かれています。ここで「不品行」について語っています。それは性的な罪です。今、世界中に性的な罪が蔓延しています。神様は一夫一婦制を定められました。しかし結婚が崩れています。そして結婚する前に汚い関係を持ち、中高生までが売春をしている滅茶苦茶な時代です。結婚しても不倫しています。これは神の激しい御怒りを引き起こす原因となるのです。あの大バビロンも崩れたのです。神は「気をつけて下さい」と言われます。今日、教会だけがこの罪についてはっきりと警告して語ることができます。だから私たちクリスチャンが、この罪に立ち向かうべきです。若い方々が多くおられますが、世の中がどんなことを言っても、純潔を守って下さい。その罪に汚されてはいけません。マスコミが何と言おうと、私たちはきよい歩みをすべきです。歴史を見ても国が性的に乱れてきた時に必ず、国は崩壊しています。聖書を見ても、ソドムとゴモラという町が肉欲、不品行で天から火が下り滅びました。
 イタリアに行くと、ポンペイという町があったことを知ることができます。しかし、その町は瞬間的に滅びました。紀元前から続いてきた町で、道も舗装されて、町には下水道も完備してた都市でした。しかし、BC七十九年八月二十四日、ベスビオス火山が噴火して、一瞬にして滅びてしまいました。近年になって町が掘り起こされました。するとそれは素晴らしい近代都市でした。しかしそこには、見ることができないような驚くべき汚れた光景がありました。町の人々が昼間から何をしていたのか全部残っていました。彼らは昼間から野獣のような汚れた不品行にふけっていました。私もその町に行きましたが、ある所は木の塀で囲まれていて見ることができませんでした。なぜでしょうか。その奥にあるものは、姦淫と肉欲が満ちているところに死の灰が降って、そのまま生き埋めになった現場が掘り起こされていたからです。壁画には汚れた不品行の場面ばかりが描かれていました。だから、見せることができないので囲いがされています。しかし、イタリアの変なおじさんが来て、その写真を買わないかと日本人観光客を誘っていました。不品行や姦淫の罪によって人々は滅ぼされてきました。悪魔の宣伝に乗ってはいけないのです。悪魔は神の法則を知っています。不品行や姦淫の罪を行ったら人類が滅びることを知っているので、どんどん害毒を流します。昔は見ることができなかったようなものが公に見えるようになってしまいました。昔は口にできなかった言葉が口に出るようになったりしているのは、悪魔の策略です。絶対に悪魔の口車に乗ってはいけないのです。
 悪魔は言葉の中にも働いています。インパクトある言葉を薄めて人々に投げかけています。例えば、「売春」という言葉にはインパクトがあります。「売春なんてひどい」と思います。普通の人がやることではないと考えます。しかし、現在では用語が、「援助交際」という言葉に変えられています。
 また、かつて「離婚」という言葉にはインパクトありました。しかし現在は、「バツイチ」という言葉になっています。バツイチがあれば、バツ2もあり、バツ3もあります。用語を軽くしています。その背後に、不品行や姦淫の汚れがあります。私たちクリスチャンは、悪魔の策略にのってはいけません。そこにさばきの原因があるのです。今、キリスト教国と言われる国々に性的な乱れがあります。それで神のさばきが臨んでいるのかも知れません。だからクリスチャンがまずきよめられ、国の罪を自分の罪として悔い改め、国が解放されるよう、さばきから守られるように、アブラハムのように主の前に今出なくてはならないと思います。黙示録は、「不品行は神様の激しい怒りを招く」と警告しています。
 もう一つ、更に大きなさばきについて聖書は警告しています。それは永遠の苦しみのさばきの原因となるものです。十四章九節から十一節に、

『また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。』

と書かれています。「獣、刻印」については色々な聖書解釈がありますが、しかしはっきりとしていることは、獣は悪魔を象徴しています。また獣の像とは、それを形取った物です。ゆえに、獣の像を拝むとは「偶像礼拝」なのです。これは、神の怒りの杯に、「混ぜ物なし」に注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことであり、火と硫黄で苦しめられると書かれています。彼らの苦しみの煙は、永遠までも立ち上ると書かれています。偶像礼拝の罪は獣の刻印を受けるのです。もう少し前を見ると、「六六六」という刻印が押されると書かれていますが、これは象徴的なことです。偶像礼拝をすると、人にのろいの刻印が押されるのです。その刻印のある者は、永遠のさばきを受けるのです。これは偶像礼拝の恐ろしさについて語っています。偶像礼拝はただの像を拝むことではなく、悪魔を拝むことです。今、秋祭りで多くの人が偶像礼拝をしていますが、これは恐ろしい罪です。偶像礼拝によって獣の刻印が押されて、永遠に苦しまなければならないさばきに合うのです。私たちクリスチャンが、偶像礼拝にどれだけ注意を払い、戦わなくてはならないかについて教えています。どのような迫害があっても、偶像礼拝から離れることが永遠の救いを受け取る鍵です。そのようなところから救われることは感謝なことです。私たちがイエス・キリスト信じると起こされることについても十四章で教えています。十二節から十三節に、

神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」

 私たちはイエス・キリストを信じるときに、永遠の安らぎに招き入れられるという約束があります。
 先週は色々なことがありました。昨日は素晴らしい喜びの結婚式がありましたが、その反面、悲しいこともありました。短い期間でしたが、私たちと共に礼拝していた一人の姉妹が天に召されたからです。私は彼女と病院で今年の五月十一日、はじめて会いました。そこでイエス様のことを話すと、聖霊様が臨まれ、彼女は瞬間的にイエス様のことがわかりました。次の日、家族全員を呼び、「私はイエス様を信じることにする」と言って偶像をすべて捨ててしまいました。墓もクリスチャンの墓を作られました。短い期間でしたがこの教会に来られていました。私たちも癒しを祈っていましたが亡くなられ、昨日は彼女の葬儀の司式をしました。しかし素晴らしい葬儀でした。そこで娘さんが、亡くなったお母さんが作った詩を読まれました。彼女は感動的な詩を残されました。それは永遠の希望の詩でした。
 「イエス様。私は病気が治ってこの地上にとどまっても、もしも直らなくて天に帰ってもどちらでも構いません。治らなかった言って私はあなたを恨んだりしません。私はイエス様と共にあるいますから。」と書かれていました。彼女は永遠の希望を持っていました。「私は病状を全部知っています。しかし私には恐れがありません。やがて天の御国でイエス様と共に過ごせるからです。」
 亡くなられる前、「天国に行く平安がありますか」と聞くと「はい、勿論。」と言われました。そして彼女は、先週の火曜日に夢を見たそうです。夢の中に花畑があり、イエス様と出会ったそうです。イエス様はどんな顔をしていたかと娘さんが聞くと、「優しそうな顔をしていたよ。」と答えたそうです。
 私たちが罪から離れてイエス様に従うときに、罪は全部帳消しにしされ、永遠の火の滅びから解放されて、永遠の国、天国に入れてくれます。だから、クリスチャンにとって死は敗北ではありません。死は勝利の瞬間です。コリント第一十五章五十五節から五十七節に、

『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。』

と書かれています。死さえも勝利に変えて下さる素晴らしい永遠の救いなのです。もし今日イエス・キリストを自分の救い主として受け入れていなかったらぜひ、イエス様を信じて下さい。
 ある中国人がイエス・キリスト信じました。彼は罪と悩みの深い井戸に落ち、もがき苦しんでいました。彼は、「助けて下さい」と叫んでいました。彼が救われたときの様子について比喩的に語っています。
 私が井戸の底から叫ぶと、あるひとりの男が来て覗き込んだ。顔を見ると彼は釈迦でした。「ああ、お釈迦様だ。」彼が助けてくれるかと思うと、「お前はかわいそうだが、前世の因縁でそういうことになったのだ。よくその道理を考えて、あきらめて往生するんだな。バイバイ。」と言って釈迦は行ってしまったのです。
 彼はまた、「助けてくれ・・」と叫んでいました。すると、白い髭を生やした人が井戸を覗き込みました。顔を見ると有名な孔子でした。「孔子様。助けて下さい」と叫ぶと、孔子は、「人間はうかうかしているとそういう目にあうのだ。二度と井戸などに落ちるのではないぞ。」といって立ち去ったそうです。
 彼は絶望して「助けてくれ」と叫んでいたら、もうひとりの人が井戸を覗き込みました。顔を見たら優しい目をしていました。その人はすぐに梯子を下ろして井戸に降りてきて、彼のお尻を押しあげて外まで出してくれました。そしてこれから井戸に落ちないよう、どう歩めば良いかを教えてくれ、落ちたときに受けた傷に薬を塗り、包帯をして手当をしてくれました。「あなたは誰ですか」と聞くと、イエス様でした。
 イエス様は私たちにただ声をかけて、「自分で努力しなさい。」という方ではありません。井戸の底まで降りてきて、私たちを助けて下さる神様です。これがイエス・キリストです。そしてその救いは、「永遠の救い」です。イエス様を救い主として受け入れていない方は、イエス様を救い主として受け入れて下さい。罪があったら赦されます。そしてさばきではなく、永遠の安息、永遠の救いの中に入れていただきましょう。一言お祈りします。
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