今週の礼拝メッセージ
2001.10.21 (SUN)
与えるクリスチャンになろう
新城教会 岡本信弘牧師

新約聖書 使徒の働き 20章35節
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

 ハレルヤ!主の恵みを心から感謝します。皆さんのお祈りに支えられて、いつも健康で喜んで奉仕をさせていただける恵みを感謝します。プレイズの働きも守られていることを感謝します。
 今は交通の便も良くなり、日本国内ならすぐにどこへでも行ける時代です。また、遠く離れていても携帯電話で、近くにいるように話すことができます。一昨日、北海道にいたときに滝元明先生から電話があり、「信先生、今いいですか」と言われ、いいですよと言うと、「じゃあ、今行くわ・・・」と言われ、「滝元先生、私は今プレイズではないですよ。北海道にいます」と言うと、「そこには行かれない」と言われました。プレイズの電話が携帯に転送されていたので、滝元先生は私がプレイズにいると思って話をされていたのです。私も九州や中国地方、東北、北海道に行き、忙しい中にありますが、皆さんのお祈りに支えられていることを感謝します。

 今日は、使徒の働き二十章三十五節、『受けるよりも与えるほうが幸いである』という御言葉から「与えるクリスチャンになろう」というテーマで学びます。
 皆さんも朝に夕にお祈りすると思います。私は祈った後、自分がどのような祈りをしたか振り返ってみたとき、初めのうちは、「イエス様。健康であることを感謝します・・・」など、二つ、三つは感謝の祈りをしていますが、その後は「これをしてください、あれをしてください・・・」と八〇パーセント〜九〇パーセントくらい、願うことを祈りにしていると気付かされました。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。』と御言葉にあるように、まず私たちが感謝して、与えられた恵みを主の前にお返ししていきたいと思います。
 今日、健康が与えられ、経済的に守られ、仕事も守られ、家庭が祝福されている恵みを感謝したいと思います。そして肉体の健康や経済的な祝福だけではなく、喜びや平安、祝福をいただき礼拝を守ることができる、これは神様からの与えられた素晴らしい恵みであり、特権だと思います。もちろん、この中にも体調を崩したり、家庭の中に問題を抱えている人がいると思います。また、仕事がなくて仕事を捜している人もいるかも知れません。しかし、今どのような状態にあっても、私たちが主の前に出ることができることは神様の恵みだと思います。私たちは毎日感謝するべきだと思います。
 皆さんも救われてから、また救われる前も含めて、神様からどんなに感謝してもしきれない程の恵みを与えられてこられたのではないでしょうか。ですから、私たちはまず、主の前に、与えられた恵みを感謝する祈りをしていきたいと思います。
 いつも皆さんにお証しますが、私は健康が与えられていることを感謝します。先週、一緒に食事をした方から、「先生、そんなに早く食べたら体に毒ですよ」と真面目な顔で言われましたが、正直、私は早く食べるのを見せたいというのではなく、早く食べないと美味しく食べた気がしないのです。体に悪いと言われながらも、そんな食べ方でも健康が支えられています。
 先月プレイズ出版の有能なスタッフがひとり入院しました。「盲腸だ」と言われ、手術をし、一週間経って退院してきました。これから働いてもらうぞ、と思っていたら、またお腹が痛いと言ったので、「何か拾って食べたんじゃあないの」と冗談を言っていましたが、病院に行ったら、ほかところが膿んでいたのでもう一度手術することになり、また三週間入院して、結局一ヶ月間程入院していました(やっと、昨日退院してきましたが)。私も何度か見舞いに行き、祈りました。彼の入院生活の中で、大変だなぁと思ったことは、栄養一切を点滴で補給し、食べ物だけでなく、水も一滴も飲めないということでした。私は今まで入院した経験もないし、手を動かすことも、走ることもでき、飲みたいときに飲み、食べたいときに食べられる。本当に感謝だと思いました。器官が機能するということは素晴らしいことです。
 そして、何よりも感謝なことは、救われているということです。それは何にも代え難いことだと思います。私は、もし自分がクリスチャンの家庭に生まれていなかったら、ここに立っていなかったと思いますし、それどころか、どこかで、のたれ死んでいたかも知れないと思います。それは、私は物事をあまり真剣に考えない者だからです。何か聞かれても、「適当にしておいて。どっちでもいいよ」と言ってしまうので、「どっちでもいいと言われても、決めてくれないと困ります」と言われ、よくスタッフに怒られます。そのような性格ですので、もしクリスチャンの家庭に生まれなかったら、「永遠のいのちとは何か、自分は死んだらどこに行くのだろうか」などと真剣に考えることもせず、「どっちでもいいじゃないか、今が楽しければいい」といった、いい加減な生活をしていたと思います。しかし、神様は私をクリスチャンの家庭に生まれさせてくださり、神様に出会うことができるようにさせてくださいました。そして、小さな頃からイエス様こそが唯一の神であり、この方以外に救いはないということを何も疑わずに信じることができ、今も信じていることは神様の恵みであると思います。
 ここにいらっしゃるお一人おひとりは、色々な所から、家族や友だちに導かれ、また問題や苦しみの中で教会に導かれて来られたと思います。そして、救われ、恵みの中で、主に導かれた者として今ここにいます。家族の反対や、迫害の中で戦い、信仰を守り続けてきた人もいらっしゃると思います。しかし、どんなに迫害が大きくても、何にも代え難い神様の恵みをいただいていること、また永遠のいのちをいただいていることは、どんなに感謝しても感謝が足らないほどの恵みであると思います。
 私たちに救いが与えられるために、どれだけの犠牲が払われたでしょうか。神様は今から二千年前にこの地上に、私たち罪人を救うために人となって来てくださり、当然地獄に行くべき私たちのために、鞭を打たれ、いばらの冠をかぶせられ、十字架にかかり、苦しみを受けられ、血を流されて死んでくださいました。その代価として、私たちはいのちを与えられました。そして、イエス様は三日目によみがえり、天国への道を備えてくださいました。私たちは、もうすでに永遠のいのちの道を歩み始めています。私たちには地上の生涯を終えても、永遠のいのちが与えられており、天国に行くことができる、素晴らしい望み、祝福があります。これは神様から与えられたものです。
 私はクリスチャンホームに生まれたが故に、小さい頃から神様を知り、救われ、主のために働きたいという願いを与えられて、今こうして主の働きができる恵みを心から感謝しています。私は商売屋の息子に生まれ、実際に働いてきましたから、儲けることが好きです。先週もある方と、どうやったら儲かるかという話をしましたが、その方が「先生は牧師をさせておくのはもったいないですね」と言われました。ほめられたのかどうかわかりませんが・・・。儲けること以上に、主のために奉仕できるというこの恵みは、私自身どんなに感謝しても感謝しきることのできない恵みだと思っています。しかし、『受けるよりも与えるほうが幸いです』とあるように、私たちは受けただけでは本当の幸せを見い出すことはできない、と聖書は教えています。
 聖書の中には、多くの幸福を得る秘訣について書かれていますが、この『受けるよりも与えるほうが幸いである』という御言葉も、その一つです。「受けるよりも与えるほうが幸い」。頭では意味はわかります。しかし、その恵みは実際、行ってみて初めてわかるのです。

 ある所に、コリンさんという一人の老人がいました。彼は「富が人を必ず幸せにする」と信じていました。彼は、労苦して儲け、欲しい物を手に入れ、富を築き、有名になりました。しかし、どうしても何かが足りないと彼は感じました。老年になったとき、彼は自分が築き上げたものを子どもや孫に託し、クレジットカード一枚を持って旅に出かけていきました。今は旅に出かけると言っても、重い荷物を持っていく必要はなく、カード一枚で何でも買えます。宿泊も、もちろん飛行機にだって乗れます(但し、預金があればですが)。
 彼は高級ホテルに泊まり、有名人なのでどこに行ってもVIP待遇を受けました。何カ月も旅をしている途中で、彼はジャックという、とてもみすぼらしい青年に出会いました。しかし、ジャックの顔は、不思議と輝いていました。コリンは、自分がどのようにして富を築き、どんなに幸せな生活をしていたかをジャックに話しました。話を聞いて、ジャックはコリンに、「あなたは寂しい人ですね」と言って立ち去っていきました。その時コリンは、「何て失礼な奴だ、お前よりも私の方がうんと幸せなのに・・・」と憤慨しました。
 コリンは次の目的地に行き、例のごとく高級ホテルに泊まり、カードを出してチェックアウトをしようとすると、「このカードは使えません」と言われました。「そんなはずはない」と色々と調べますと、彼の預金口座がなくなっていました。彼は旅行中、携帯電話も持たず、家にも連絡していませんでした。彼が慌てて家に帰ると、会社は倒産し、何もなくなっていました。何もかも失ったその時、コリンさんは思いました。「あのジャックという青年が私に『あなたは寂しい人だ』と言ったのは、きっとこの事だ。私が倒産することをわかっていたのだ」と自分で納得したそうです。彼は自分の身の回りを整理し、わずかなお金を持って再び追い出されるかのように旅に出ていきました。
 段々お金がなくなってきたある時、コリンは彼と同じように会社が倒産した老人に会いました。その老人は今にも死にそうな顔をしているのです。その姿を見たコリンは、その人をかわいそうに思い、自分の持っている残り少ないお金と、食べる物を全部あげたそうです。自分はもうどうなってもいいと思ったそうです。老人は本当に喜び、何度もコリンさんにお礼を言い、見えなくなるまでお礼をしていたそうです。その時コリンさんは、何とも言えない、今までどんな物を手に入れても感じることのできなかったような、今まで自分の中に感じたことのなかったような温かいものを感じたそうです。そしてその直後、何カ月か前に会ったジャックに出会いました。そしてコリンはジャックに、「私は老人に全財産をあげて、何もなくなった。あなたに寂しい人だと言われたように、私には何もなくなったよ」と笑いながら言ったそうです。すると、ジャックは「あなたはやっと幸せを見つけましたね」と言ったそうです。その時、初めてコリンは、全財産を失っても感じることができた温かい思いの中に、自分が今までたくさん儲けて、何でも手に入れられたときには味わうことができなかった幸福感、素晴らしい喜びがあったことに気付きました。そしてその後、コリンが持っていた紙切れ同然の株券が、もう一度高騰し、彼はまた金持ちになりました。しかし、その後彼は、自分のためにお金を使うのではなく、貧しい人に与え続けて、幸せな日々を送ったという物語でした。与えられる恵みから与える恵みに変えられたことがよくわかる話だと思います。
 与えることによっての幸せは、ただ頭で考えるだけでなく、思うだけでなく、実際に行ってみて、初めて私たちに来るものなのです。もちろん私たちが何かを与えたら、持っている物は減っていきます。なくなっていくのは当たり前です。十万円を持っていてその中から誰かに一万円を与えたら九万円になります。しかし、私たちが与えたら、そこに与えたもの以上の喜びがあり、祝福があることを覚えてください。
 確かに与えることは素晴らしい。与えることができれば与えたい、そうは思うけど、与えたくても与える物が何もないと思っている方もいるかも知れません。しかし、私たちクリスチャンは、誰もが与えることができるものを持っています。それは祈りです。誰かのために、まず祈ってあげることです。このことをぜひ、覚えてください。
 エペソ六章十八節には

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

と書かれています。私たちは誰かのために祈ることができます。これはクリスチャンに与えられた素晴らしい特権です。

 今、世界のために私たちがとりなして祈るべきです。私のような世界情勢にうとい者であっても毎日テレビを見ます。今までは、映画のシーンにしか出てこなかったような破壊された建物や、戦争の様子が、現実のものとして映し出されています。恐ろしいことが、いつも報道されている毎日です。このような世の中だからこそ、私たちは世界に目を向けて祈りたいと思います。日本は、今は平和ですが、アメリカに起きたようなテロ事件が、また戦争がやがて起こるかも知れない、という不安が皆さんの中にもあると思います。
 マタイ二十四章には終末の時、イエス様が帰って来られるときに、どのようなことが起こるかについて書かれています。今の時代は、戦争のこと、今、問題になっている疫病や地震が起こること、至る所で飢餓があり多くの人が苦しんでいることなど、聖書に書かれている終末の記事によく似ています。それらは、すべて二千年前に書かれた聖書の中に書かれていることなのです。まさにそのように今、世界が動いています。そのような状況の中、私たちには祈るべきことがあります。
 時々、「困ったときの神頼み」という言葉が使われます。この言葉はあまりよくないと思われていますが、私は悪い意味だとは思いません。困ったときに神に祈ること、真の神、全知全能なる神様に祈りることは、決して悪いことではないと思います。自分では解決できない問題に解決が欲しいとき、私は、自分よりも力がある、解決できる方のところに祈りをもっていきます。私たちには解決することはできないけれど、神にとって不可能なことは一つもないと宣言される神様に祈ることができるということは、本当に素晴らしいことです。
 私は祈るときに願い事が多いと言いましたが、願うことにも二つあります。
「私の健康、経済的祝福、これを与えてください」という祈りと、「世界の祝福のために、また、周りの方の救いのために、祝福のために」という祈りは全く違います。同じ願い求める祈りであっても、自分自身の願いを祈るのではなく、滅び行く民のため、日本のため、世界のために祈ることはとても重要なことに思います。
 聖書には、祈ることと同時に、クリスチャン一人ひとりに与えられている賜物ということについて書かれています。賜物にはいろいろな賜物があります。

 ローマ人への手紙十二章四節から五節に、

『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』

と書かれています。
 一つひとつの器官が神様から与えられている賜物です。それは、神様が、それぞれ一人ひとりに与えてくださっているものです。しかしその賜物は、私たち自身を喜ばせるために与えてくださったのではなく、私たちが誰かに喜びを与えるために、だれかに祝福を与えるために備えられた一つの武器であることを覚えてください。
 与えられているばかりでは私たちは成長できません。この教会にも小さな子どもたちがたくさんいます。赤ちゃんは可愛いです。しかし、いくら可愛いからといっても、成長しなかったら親は心配です。子どもが段々成長していく姿を見るのは、親にとって本当に喜ばしく、楽しみなことです。赤ちゃんはお腹が空いたり、痛かったり、かゆかったり、眠かったりと、すべてのことにつけて泣きます。そんな赤ん坊も段々成長し、自分で歩いたり、食べたりできるようになっていきます。物事を自分で考えるようになり、中・高生になり、背丈も大きくなり、父親を「おやじ」と呼ぶようになっていきますが、まだまだ、親の保護のうちに、与えられて成長しています。
 成長した子に、「一人前になったなぁ」と言いいます。一人前とはどこで評価するかというと、与えられる側から与える側になったとき、初めて一人前になったと言えるのではないでしょうか。一人前になったからといって、与えられなくなるわけではありません。私もいまだにたくさん与えられていて、感謝しています。それは、悪いことではありません。しかし、与えられたもの以上に、与えることのできる者に成長していくことを、神様は私たちに望まれています。そして、私たちが「与えるものは何もありません」と言わせないために神様は賜物を与えてくださっています。
 ローマ人の手紙十二章、またコリント第二の十二章にいろいろな賜物が書かれています。預言、奉仕、献げる賜物、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒し、奇跡を行う力、異言、異言を解き明かす力など、たくさんの賜物があります。自分はここにある、どれにも当てはまらないと言われる方もおられるかも知れません。しかし、ここに書かれているものはほんの一部にしかすぎません。一人ひとりに、与えるための賜物が必ず与えられています。
 聖書の一つのたとえの中に、ある人には五タラント、ある人には二タラント、ある人には一タラントを預けて旅に出かけた主人のことが書かれています。主人が帰ったときに五タラント預かった者は、「あなたのためにこれだけ儲けました」と言ってさらに五タラントを差し出しました。二タラント預かったものも、「あなたから受けたものをこれだけにしてお返しします」と、もう二タラント差し出しました。しかし、一タラント預かった者は地の中に隠しておいたとあります。その時に主人からおしかりを受けています。
 このタラントを預かった者たちと同じように、私たちも五タラント、二タラント、一タラントと、それぞれに応じたタラントを神様から預かっています。そのようにタラントを受けながら、「私は、もらっていません」と言うのは、このタラントを地の中に隠している者と同じです。使わなければ、与えなければ、神様からおしかりを受けることになります。与えられている賜物をぜひ、自分のために使うのではなく、人に与えていただき、それを何倍にもして、神様にお返しする者になりたいと思います。
 また、『あたながたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい』と第一コリント十二章三十一節には書いてあります。あなたはどんな賜物を求めますか。神様は必ず皆さんの願いに応え、それを与えてくださいますから、ぜひ求めてみてください。
 私自身、この御言葉を読みながら、私はどんな賜物を求めようかと考えたとき、主の働きの中で「支える者になりたい」と思い、支える賜物が与えられるようにと願っています。新城教会、リバイバルミッション、プレイズの働きの関わりの中で、私は今まで、特に会計面に携わらせていただいてきました。神様は、この教会を祝福してくださり、導いてくださいました。
 この教会堂は建てられてから二十二年目に入ります。百名そこそこのクリスチャンが犠牲を払って献げたことによって、この会堂が与えられました。本当に返していけるのだろうかという程の借り入れをしましたが、月々の返済をクリスチャンの方々が忠実に献げてくださり、この会堂の返済を十年間で終え、そして新たな借り入れをして、十年前に隣りにある教育館が建てられました。その時は私も建築委員のひとりとして入れていただき、ああでもない、こうでもないといった相談を繰り返し、今の教育館ができました。そこにも多くの人の犠牲があり、献げ物があり、今もなお返済が続けられています。そのことは、毎年、年度初めに会計報告がなされているので、皆さんご存知のことと思います。私たちは同じキリストの体として、なお祈り、献げていきたいと思います。
 私も自分の家のローンを払っていますが、それは当然のように払うべきものであり、その返済は献げるとは言いません。また、うちの息子や娘は、今一番お金がかかる時期で、貯めてきたお金も、アッという間になくなってしまうくらいです。そのような中でも、支払うべきものが与えられてきて、神様に献げることができる恵みを感謝しています。
 多くの方々の奉仕によって、今この教会が支えられ、多くの献げものによってこのリバイバルの働きが支えられていることを覚えます。リバイバルミッションの働きを見るとき、多くの人が犠牲を払って、ボランティアで働いてくださることによって、今までの多くの集会、大会が支えられてきました。実際にメッセージをする人、賛美をする人など、目立つ、表面的なところは、一部分でしかありません。その周りで、多くの人が祈り、様々な奉仕によってそれが支えられています。皆の働きがひとつとなって、神様は素晴らしい業を現してくださり、それぞれに素晴らしい祝福を与えてくださっています。さらに神様に仕え、人に仕える者になっていきましょう。
 そしてもう一つ、私たちは神様から、永遠のいのちを与えられました。神様は『ひとりも滅びることなく永遠のいのちを持つ』ことを願っておられます。私たちは神様から与えられたこの永遠のいのちを、ひとりでも多くの人たちに伝え、与えて行かなければなりません。人のために何かをしてあげたり、コリンさんのように、貧しい人に物をあげることはボランティアでもできることです。しかし、私たちが受けたこの素晴らしい救い、霊的な祝福を与えるのは、私たちクリスチャン以外に誰にもできないことなのです。霊的に私たちが祝福され、永遠のいのちをいただいていることは私たちに与えられた特権です。
 世の終わりが近い今、日本のクリスチャン人口は一パーセントに満たないのですから、このままでは皆さんの周りのほとんどの人が永遠の滅びに行ってしまいます。私たちが受けた祝福である永遠のいのちを伝えること。それは、どんなに小さな子どもであっても、病気の人であっても、誰にでもできることです。それは私たちの使命でもあります。
 しかし、伝えるためには、私たちはいつも聖霊に満たされて、主と共に歩んでいなければなりません。人間は、自分の知恵で御言葉を理解しようとしても、また、自分の努力で頑張ろうと思っても長くは続きません。私たちは常に霊的な力を補給し、与えられた恵みをいつもでもほかの人に与えることのできる、溢れ出る者とされていなければなりません。コップに水が一杯入っていても、人にあげたらなくなってしまいます。ですからいつでも与えられるように、コップにいつも一杯の水を満たしておかなけばなりません。私たちは心にいつも聖霊の力を満たし、溢れたものが周りの人に恵みを与え、祝福を与え、喜びを与えるクリスチャンになりたいと願っています。お祈りします。
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