今週の礼拝メッセージ
2001.10.28 (SUN)
私は祈っています
新城教会 上條実牧師

新約聖書 ピリピ人への手紙1章9節〜11節
私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。

 ハレルヤ!昨日は新城文化会館でレイナ・マリヤのコンサートがありました。私もそこに出席させていただきました。レイナ・マリヤの通訳を福沢満雄先生の娘さんの路津子先生がして下さりとても良いコンサートでした。今回は新城市が主催でした。とても良い伝道集会のようなコンサートでした。色々な悩みがあるけれど解決して下さるのはイエス・キリストだけだと大胆に言われていました。そして最後のエンディングでは、舞台のバックに十字架が掲げられました。私たちは新城の町のリバイバルために祈っていますが、不思議な方法で神様は新城市民に伝道させて下さっていると思い感謝しました。では今日先程お読み下さった御言葉から学びます。これはパウロがピリピの人に書いたことです。一章一節に、

『キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。』

と書かれています。一節から十一節まではピリピの人への挨拶が書かれています。その初めに聖徒たちと書かれています。監督や執事ではなく、聖徒たちと書かれているのでピリピのクリスチャン一人一人のために祈っているということが書かれています。今日は聖徒たちに何を祈っているのかについて学びたいと思います。新改訳聖書はわかりやすく書かれていますが、リビングバイブルはもっと現代訳がされておりわかりやすい聖書です。同じピリピ一章九節から十一節までをリビングバイブルでお読みします。

『私はこう祈っています、どうかあなたがたの他の人々への愛が、もっともっと満ち溢れますように。同時に、霊的な知識と洞察力も、更に深められますように。それはあなた方に、善悪をはっきり見分ける力がいつも備わり、主が来られる日までずっと、誰からも避難されることなく、心がきよく保たれるよう願うからです、どうか、常に神の子どもにふさわしく、親切な良い行ないができますように、それはもおおいに主をほめたたえ、主の栄光が現すことになるのです。』

九節の御言葉は新改訳聖書では、

『私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、』

と書かれています。リビングバイブルでは、

『私はこう祈っています、どうかあなたがたの他の人々への愛が、もっともっと満ち溢れますように。同時に、霊的な知識と洞察力も、更に深められますように。』

と書かれています。パウロがピリピの人のために祈っていること、また、今日この新城教会の一人一人に神様が祈っていることは、まず第一に、『あなたがたの他の人々への愛が、もっともっと満ち溢れますように。』という御言葉です。今日あなたは愛を持っていますか。ここに『私はこう祈っています』と書かれています。私にとっても今日語らせていただくことは全て祈りの課題です。先週も岡本牧師より『受けるよりも与える方が幸いです』という御言葉が語られましたが、私たちは他の人に愛をかけることができるように祈っていきたいと思います。他の人への愛というと、一番の模範はイエス・キリストだと思います。イエス・キリストは自分のためではなく、この地上に来て下さり、私たちと同じ肉体をとって下さり、私たちを天国に連れていくために十字架にかかって、死んで葬られ、三日目によみがえって下さいました。これは最高の犠牲の愛です。私たちはその模範と同じように他の人々に対して、犠牲の愛を与えて下さいと祈り求めていきたいと思います。私たちはいつも祈りますが、いつも祈るのは自分のことばかりです。少しは他の人のためにも祈りますが、自分の心の思いは自分の事ばかりです。とっている行動も自己中心です。しかし、今日『他の人々への愛が、もっともっと満ち溢れるように。』と書かれているようにイエス様を模範として、他の人々への愛が満ちあふれるように祈りましょう。また、もう一つの事は、

『同時に、霊的な知識と洞察力も、更に深められますように。』

と書かれています。
 第二番目に「霊的な知識が与えられるように」祈っていきたいと思います。私たちは霊的戦いと言うことを知り、知れば知るほどさらに祈り、戦って行かなくてはならないと教えられます。今まで日本は霊的戦い、暗闇の力である悪魔の力がどんなに福音宣教の邪魔をしてきたか分からずに、思う通り押さえつけられてきました。しかし目が開かれ、みことばを読む中で霊的知識が更に深められていく必要を覚えます。今日私たちは更に霊的知識を深めていただきたいと思います。では霊的な知識を深めるためにはどのようにするべきでしょうか。そのためには、やはりいつも変わらない神の御言葉を読むべきです。読まなかったら神様がわからないと思います。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

と書かれています。御言葉は神様です。ですから私たちはいつもこの御言葉をしっかりと読み、知識をいただくべきです。そのような中でエペソ六章には悪魔の策略に対して神のすべての武具をつけるように書かれています。特に十七節に、

『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

と書かれています。御言葉を受け取りなさい。御言葉が剣となり、戦うことができますとあります。以前順牧師と話している中でぽつりと言われたことが私の心の中に残っています。それは「今までは悪魔に追いかけられてきたが、今度は悪魔を追いかけていくことが必要だ」と言われ、本当にそうだと思いました。私たちは今まで、問題が何か起きてしまってから「大変だ。こんな事が起こってしまった」ということから一生懸命聖書を開き、その問題に戦うことのできる御言葉の剣を捜して「イエス様、この御言葉で解決して下さい。」と宣言し願っていました。しかしこれからは何か起きてから対処するのではなく、先々に私たちが戦って勝利して行くべきです。先々に悪魔を追いかけていき、私たちが行く道すべてに勝利が見えてくるような生活ができたら素晴らしいと思います。だからいつも御言葉を読み、今の御言葉。時の御言葉の剣をいただかなくてはならないと思います。ルカの福音書八章十二節に、

『道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。』』

と書かれています。これは種蒔きの例えです。御言葉が道ばたに落ちたときに『あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われないように持ち去ってしまう』と書かれています。毎日の生活の中でどれだけ私たちは聖書の御言葉に根ざしているかを覚えて下さい。毎日御言葉は食事と例えられています。いつも三度の食事をいただくのと同じように御言葉をいつもいただき、毎日新鮮な食べ物である御言葉をいただきたいと思います。しかし、私たちは日常生活に追われてしまっています。「神の国と神の義を第一に求めなさい」と知っていながら、生活に追われてしまい、生活を第一とし、残りの時間に御言葉に目を留めます。ある時には霊的な断食を何日も、いや何カ月もしてしまうような時もあります。聖書を読まなくても生活はできます。しかし戦いの剣が私たちの手の中にないのです。礼拝メッセージを聞いているときでも、道ばたに落ちてしまい、悪魔にとられているときがあると思います。是非今日は祈ってください。私たちは聖書を毎日読む時「神様。今日私に何を教えて下さるのですか」と祈って、今日の御言葉の剣を貰ってください。悪魔を追いかける剣を頂きましょう。エレミヤ書二十三章十八節に、

『いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。』

と書かれています。ここに『主の会議に連なる』と書かれています。今世界では戦争が行われています。戦士たちは上からの命令を理解し出かけて攻撃しています。毎日爆撃する場所も、作戦も違います。間違えたら命取りになることがあります。聖書を読むことは、主の会議に連なることです。あなたがどれだけ神様の今日の命令を聞くことができるかどうかです。しっかり会議につながって下さい。御言葉を何も考えないで読んでしまうのではなく、主の会議に連なっているという意識で読み始めてください。今日の会議で今日の御言葉、御言葉の剣を頂くことができます。問題に勝利することができる剣。悪魔に勝利できる剣を与えて下さいと祈って聖書を読んでいきたいと思います。私もこの一週間、その様な祈りで御言葉を読ましていただきました。エレミヤ書二十三章の十八節の御言葉「主よ。あなたの会議に参加させて下さい。今日私に必要な御言葉を与えて下さい。」と祈って聖書を読みました。あなたも是非祈って聖書を読み始めてください。必ず主はあなたに一番必要な御言葉を与えて下さいます。御言葉は今も生きています。今日霊的な知識を与えて欲しいと祈りましょう。またエレミヤ書二十三章二十九節に、

『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。』

と書かれています。私たちは自分の力で頑張って解決をしようとします。しかし、解決することはできません。解決方法は、御言葉です。この御言葉は『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。』と書かれています。岩のような動かない問題であっても、御言葉をいただいて、金槌を振りかざして岩を砕いていきましょう。
 第三番目にまた、ピリピの一章九節では、リビングバイブルで『霊的な知識と洞察力』と書かれています。『洞察力』。新改訳聖書では『識別力』と書かれています。洞察力とは、見抜くこと、見通すことという意味です。私たちのまわりでも洞察力が必要な職業がたくさんあります。私が思うに洞察力が必要なのは税関の人たちです。不思議と麻薬の密売者などを見抜くことができます。税関を通る時、挙動不審者を見分けます。私たちもそのような洞察力が与えられたら素晴らしいと思います。マルイチさんが洞察力が与えられ、今何が売れるかを理解し、商品を仕入れ、これが爆発的に売れたとしたら素晴らしいと思います。今は小さなアイデアが大企業になってしまう時期です。私たちは洞察力が与えられるように祈っていきたいと思います。商売がうまく行くように祈って行くべきですが、更に優れた洞察力を頂きたいと思います。私たち人間はからだ、心、霊の三つから成り立っています。そのすべてにおいて神様から洞察力を与えていただきたいと思います。マタイの二十四章四十五節から四十七節に、

『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』

と書かれています。今日私たちが覚えるべき事は、四十五節の御言葉にあるように食事時には彼らにきちんと食事を与える忠実なしもべだということです。今何を与えるべきかをよく理解する事ができるようになりたいと思います。洞察力は先を見抜くことなので今何が必要かについてよく私たちの肉体、心も霊も洞察力をしっかりと見極めるべきです。主人が食事を欲しがっているにも関わらず、寝間着を持って行くようなでは主人も気分を損ねます。やはり食事を出さなければ行けません。そのしもべには最後に彼に全財産を任せると書かれています。ですから私たちは主に祈って洞察力をいただきたいと思います。まず体について考えると、洞察力をしっかりといただきたいと思います。自分の体力をしっかりと見極めていなければなりません。先週の午後新城総合公園で新城教会の運動会が行われました。とてもたのしい時を持ちましたが、ある青年は全速力で走った後、すぐにトイレに行って戻していた人もいました。気持ちは若いつもりでも、自分の体がついていかないのです。私たちは自分の体力も見抜く必要があります。次に心の洞察力のことを話したいと思います。私たちは心が傷ついています。心の癒しが必要としています。私は元気ですと行ったとしても、一つの事で傷を付けられると心はしなえてしまいます。私たちは傷を負ってしまいます。ある方は自分に傷があることすら分からず、苦しんでいる人もいます。また傷つけられていて苦しいことは分かっても、それがどこから来たかわからずに、もがき苦しんでいる方もいると思います。今日イエス様の流された十字架の血潮と、イエス様の打たれた傷によって癒されます。今日心の傷をイエス様によって包んでいただき、これからは守られて、傷を受けない器となるよう洞察力を頂きましょう。あなたが軽々しく話したことばで、人がものすごく傷ついている事をご存知ですか。私たちが良いと思って話していますが、相手の立場になって話さないために傷つけることがあります。聖書は隣人を自分自身のように愛せよと書かれています。隣人を愛して、隣人の身になって会話をしなくてはなりません。知らない間に人々を簡単に傷つけてしまいます。また私たちがとった態度や言葉で多くの人を悲しませているときがあるかも知れません。また私たちの語った言葉や態度で多くの人が悩み苦しんでいるかも知れません。なんでそんなことで悩むのかと思うことでも、相手にとっては大きな問題だったりします。自分中心で語り、行動する時、相手にとっては大きな傷となってある時は命さえも落としてしまうほどの苦しい悩み事になってしまうということを覚えて下さい。ですから、今日神様から洞察力をいただき、この人に何を語れば良いか、どの様な態度で接していけばよいか理解させていただきましょう。イエス様が模範です。イエス様がすべてを癒し、生かし、慰め、立たせて下さいます。知らず知らずのうちに私たちの言葉で人を罵倒し、人を傷つけ、その人を廃人にさせてしまうような言葉や態度であったら神の前に悔い改め、自分の態度や言葉をきよめていただけるように祈っていきたいと思います。また私たちはコミニュケーションを取っていかなければなりません。特に近い人ほどコミニュケーションを取って、協力しあって行かなければなりません。特に日本人はコミニュケーションが下手です。話さなければならない大切なことさえ、話さない時があります。特に夫婦で言うと男性に多いと思います。なぜかというと自分もそうだからです。女性は話してほしいのです。なんでも話してほしいようですが、男性はコミニュケーションが下手です。そんな時女性は、何も語ってくれないために寂しさを覚え、そうこうしている内に夫婦に溝ができてしまいます。ある人はその様な悩みで、疎外感を受け、苦しんでいるかも知れません。今まで親友と思っていた人がコミニュケーション不足で、傷ついているかも知れません。今日覚えて下さい。私たちは心の部分に十字架の血潮をそそいでいただきましょう。いやしていただきましょう。同時に、洞察力をいただき、二度と傷つけることがないように、気を付けて語っていきましょう。先程主の会議に連なるという御言葉を読みましたが、神様から教えていただいて語るべき言葉を聖別していただきましょう。すべてに時があると聖書に書かれています。ですから、今日誰と会うというにも時があります。神様の時の中ですべて設定されています。ですから祈って「御言葉を下さい。そして私の足りないところもしっかりと教えて下さい」と祈り、心の面で洞察力をいただきましょう。注意深く語らなくてはいけないと思います。
 またもう一つは、霊的な戦いの中で洞察力をいただきましょう。イエス・キリストは洞察力のある方だと学ぶことができます。ヨハネの三章にニコデモという人について書かれています。彼は素晴らしい指導者でした。しかし、その指導者が堂々とイエス・キリストの所に来て私はどうしたら天国に行けるのでしょうかと聞くことができずに、夜こっそりと来て、ヨハネ三章三節で、

『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』

と挨拶をしました。しかし、イエス・キリストは洞察力ゆえに、全く関係のないことをずばりとニコデモに言っています。『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』ズバリイエス様はニコデモの必要に沿った答えを語っています。マタイ九章を読んでいくと中風の人が運ばれてきた時にイエス様が『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました。』と語られました。その時に周りの人が心の中で「この人は神を汚している」と口に出さずに心の中で言いました。その時にイエス・キリストが四節から五節に、

『イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。』

と書かれています。心の思いさえも全部イエス様は見抜かれる方です。今日覚えて下さい。あなたの中に今色々な悩みがあっても全部イエス様がご存知だということを覚えて下さい。また今日是非覚えていただきたいのは今がどのような時代なのかと言うことです。マタイの二十四章四節から七節に、

『そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。』

と書かれています。私たちの住んでいる今は間もなく神様が帰って来れられる、世の終わりの時にあります。そのような時に私たちがしっかりと今の時について神様から教えていただきたいと思います。ルカの十二章五十四節から五十六節に、

『群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。』

と書かれています。今がどのような時か覚えて下さい。戦争などを考える時世の終わりの時だと思います。そういうことは多少あなたも覚えているかも知れません。神様から時を悟って下さい。自分のことばかり考えないで、終わりの時神様のことをしっかり宣べ伝えなければなりません。ヨハネの四章三十五節に、

『 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。』

と書かれています。祈っても祈っても父母は救われない。難しい、などとあきらめている人がいます。問題も解決しない。私の祈りは答えられない。など思っている方いませんか?覚えて下さい。祈りは聞かれます。今日刈入れ時まで四ヶ月あると思っている人はいませんか。神様の目から見たらもう収穫時だと言っています。神様は見えています。私たちの思いと神様の思いが違います。神様の方では実が実り、稲穂が首を垂れてまさに今が刈り時だという時を神様が設定しています。今西に雲が起きるとにわか雨が来ると気候のことは洞察できても、神様はどうして今のこの時代を見分けることができないかと言っています。主の会議に連なり、洞察力を頂いて、立ち止まるのではなく、進んでいきましょう。

私に必要な御言葉を与えて下さいと祈りましょう。またどうして福音が進まないだろうかを御言葉によって教えていただきましょう。神の言葉をしっかりキャッチして、戦うことができるように祈りましょう。私たちが霊的に洞察力をいただき、最近調子が出ない、神様に祈れない、なぜだろうと悪魔の状況を理解し、これからどの様に働いてくるかも洞察力を頂き、常に悪魔を追いかける者となっていきたいと思います。原因を見極める洞察力をいただきましょう。背後に御言葉を奪い取る悪しき力がある。何とかして暗闇の力が私たちを地獄に行かせようと策略をもうけてくる。しかしあなたも霊的な洞察力を与えて頂き、やられる前に悪魔の力を打ち砕いて行きましょう。御言葉の金槌で割って叩いて勝利していきましょう。ピリピ一章九節に、

『私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、』

と書かれています。この御言葉が私たちの御言葉になることができるように。神様の愛をいただき、しっかりと神の知恵をいただき、洞察力をいただき、どのような時でも負けることがない追いかけられて問題を対処していくような人生ではなく、問題の先に行きそこで打ち砕き、問題を先に勝利してその勝利の真ん中を堂々と歩むことができるように、悪魔を追いかけていく勇士になることができるように今日神様に求めていきたいと思います。
 愛が与えられるように、霊的な知識、洞察力が与えてくださいと祈りましょう。求める者に神が与えて下さいます。これは約束です。お祈りしましょう。
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