今週の礼拝メッセージ
2001.11.4 (SUN)
教会は何処に?
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 テモテ人への手紙第一3章14節〜15節
私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。

 ハレルヤ!久しぶりに御言葉を取り次ぐことができ感謝します。皆さんのお祈りに支えられて、毎日の奉仕も支えられていることを感謝します。また、このように御言葉を語る特権を心から感謝しています。
 日本において教会はあまり多くなく、一般から見ると特殊な存在かも知れません。そして、教会は不思議な場所だと思います。子どもからお年寄りまでが一つとなり、麗しい共同体が形成されています。全員、背景も育ちも違いますが、イエス・キリストによって集まっています。イエス様が生まれなければこの集まりはありません。今から二千年前にこの世に主が生まれて下さったことによって、今朝は集うことができました。イエス様が生まれなかったら、私は生まれなかった者です。なぜならば、私の両親は教会で出会い結婚したからです。
 さて、今日は「教会は何処に?」というテーマで御言葉を学びます。今お読みした御言葉の中に、『神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。』と書かれています。真理とは宇宙に一つしかないものです。その柱と土台が教会であると書かれています。そうしてみると、教会は社会に対して大きな責任があるのです。明日は何が起こるのかわからない日々が続いています。第三次世界大戦にもなりかねないような危険な事態です。その中で教会が果たすべき責任は大きいと思います。特に、世界平和のために、イエス・キリストによって世界が変えられるよう真剣に祈るべき時が来ていると思います。
 「教会」とは、誰かが日本語に訳して用語を作りました。英語では「チャーチ」と言い、ギリシア語では「エクレシア」と言います。それを誰かが「教会」と訳しました。漢字は文字を見ると意味が分かります。「教会」という字を見て受けるイメージは、「会衆を教える」と書くので「教会は勉強をするところ」という印象が強いと思います。現実に、私がこのようにお話しして、皆さんが聞くという教室のイメージを強く受けます。
 同志社大学を作った新島襄は、「日本を改革するためには二つのダイナマイトが必要だ」と語りました。「それは教育と教会だ」と言って、彼は同志社大学を創立しました。ある意味で教育は重要です。どのようなことを習うのかで、その人の一生が左右されるからです。今、イスラムの社会にスポットが当たっています。彼らは小さな頃から、イスラムの教典、コーランだけを学んでおり、そのことしか教えられていないために、一部の人達は信じられない行動をします。人を殺しても神のためだというのです。正しい教育を受けることは大切です。日本に教育制度が発達していることは素晴らしいことです。特に、日曜日に教会に来て、世界のスタンダードであり、道徳の基準である神のみ言葉、聖書を学ぶことは大切です。何気なく日曜日に聖書の話を聞いて、ある人は右から左に抜けてしまうかも知れません。しかし、いつも聞いていると神の言葉によって心が変えられ、心の中に神の国が形成されていきます。そのような意味で教会は教室的な場所でもあります。
 しかし聖書を見ると、教会が教室だけではないことを教えています。エペソ人への手紙一章二十節から二十三節、

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 教会はイエス様を「かしら」にした「キリストの体」です。そして、一人一人はイエス様をかしらとした、各器官だというのです。教会はただ集まるだけの場所ではなく、キリストの体が形成される場所です。そしてそのかしらが、イエス・キリストです。宗教改革者カルビンは、「人は出会ったとき、誰でもまず顔を見る。誰も足下から顔を見る者はいない。しかし、人々は教会を足元から見る」と語りました。私たちも教会において、かしらであるイエス様を見なければなりません。イエス様をかしらとして、一人一人はからだの器官に加えられているのです。そのような意味で、今日始めて教会に来られた方も、「教会は特別なところで自分とは関係ない」と思わないで下さい。神の祝福を受けるために必要なことは、「自分がキリストのからだの一部である」という認識を持つことです。からだは色々な器官によって構成されています。器官が一つ欠けてもバランスがとれないのです。全部が結合して、はじめて機能を果たすものです。同様に、キリストの体においても同様であり、一人一人が各器官としての役割を果たすのです。その認識がなくては体としての恩恵を受けることができません。ぜひ、今日はキリストの体に属していると信じて下さい。
 同時に、教会とは、ひとつの家族を現しています。家族は主人がいてメンバーがいるとバランスがとれます。教会もイエス様を主人とする大きな家族です。そしてその家族の中で養われるのです。
 教会に来られる方々の最初の動機を調査すると、大部分が何らかの問題を抱えて来会されます。何も問題はないが教会に来た、という方は意外に少ないと思います。何らかの問題で息詰まって教会に来られる方が多いのです。昔と今では教会に対する期待感が変わったと思います。三十年程前は教会に、教室的な期待感を持って来られた方が多かったと思います。それは、教会に行くと「特殊な教育を受けることができる」という考えがあったからです。昔、英会話を勉強することは難しかった様です。しかし、教会に行くと外国人宣教師がいて、ただで英会話が勉強ができると思って来会した人も多くいます。しかし今は別に教会に来なくても多くの英会話教室があります。昨日テレビで、現在日本に八千程の英会話教室があると紹介していました。今、教会に、人々は色々な問題を持ってきます。それも、問題解決のために色々なところを廻り、それでも駄目で教会に来られる方が多いのです。その問題を聞くだけで、後ずさりしてしまうような大きな問題が多いのです。解決出来たらほとんどがノーベル賞級の問題です。教会は、悪い言葉で表現すれば、社会で問題を持っている人々が集まる、吹きだまりのような場所かも知れません。しかし、多くの人が教会に来て、「明るいところですね」と感想を語られます。それは考えてみれば不思議なことです。問題を持って集まってきた人々の「教会」に来て、明るく見えるとは不思議です。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。それはイエス様をかしらとして、人々が体であるという関係が構築されるとき、天地宇宙を支配されている神が働かれるからです。
 同時に教会は、各器官同士が互いに助け合います。教会はお互いの重荷を負い合う場所です。時々、重い荷物を運んでいると親切な人が来て、「重そうですね。助けてあげましょうか」と手伝ってくれます。すると、急に楽になります。同じように、教会に来ると、色々な重荷を支え合う仲間が溢れており、親身になって互いに支え合うのです。第一コリント十章十三節に、

『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』

と書かれています。この御言葉を信じて捕まえて下さい。「私は試練に会っています」と言われる方はぜひ知って下さい。人の出会う試練は、人の知らない試練はない、誰かが同じ経験をしているというのです。そして神は耐えることのできないような試練を人に与えないというのです。キリストの体に属するときに、神は試練と共に脱出の道を備えて下さるのです。
 長いトンネルに入ると不安になります。本当に出口があるのかと思います。しかし必ず出口があります。この御言葉は教会の中で実現するのです。ガラテヤ六章一節から二節には、

『兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』

と書かれています。クリスチャンでも失敗することがあります。しかし、教会は失敗した人をさばく所ではありません。互いに失敗しないように励まし、助け合うところであり、互いの重荷を負い合って神の国に向かい前進する場所です。体は一つの部分が苦しめば全体が苦しみます。
 救世軍の司令官であった、山室軍平は、「足に釘が刺さったとしたら、それは足だけの苦痛ではなく全身に苦痛を与えるから、顔をしかめたり、舌打ちをしたり、やがて椅子に腰を下ろし、足を抱き上げてひざの上におき、両方の目で傷のあるところを見つめ、手にピンセットか何かを持って、その刺を抜き取るであろう。そのように体の一部の痛みは、そのまま全身の悩みであるから、全身の力を尽くしてその救護に当たるのである。」と語りました。
 ・・・これが教会の姿です。ひとつのところが痛んでいる時に、全身が意識を集中し、救護に当たるのです。誰が当たって下さるのでしょうか。「かしらなるイエス様」がトゲを見つめ、真剣にトゲ抜きをして下さいます。刺抜き地蔵に多くの人が行きますが、そこに行っても刺は抜けません。人生の刺を抜いてくださるのはイエス・キリストだけだからです。私たちがキリストの体に属すとき、刺を抜いて下さるのです。皆さんが何らかの悩みを抱えていたら、イエス様はそれを覚えておられます。教会は、人生の刺を抜くために全神経を集中して、主が先立って下さる場所であることを知って下さい。このように、教会は大きな家族です。
 しかし、聖書を見ると、教会はただの家族ではないことがわかります。マタイ十六章十八節から十九節に、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

と書かれています。「ハデスの門」とは「地獄の門、即ち、死の門」です。それは悪魔の門です。教会にはハデスの門も打ち勝つことができないのです。この御言葉は、教会が目に見えない世界において、どこに建てられているのかを教えています。それは、「ハデスの門前」に建てられているのです。古代において門は、敵の攻撃に対して最も強化しなければならない場所であり、最も多くの兵が配備された場所でした。すなわち、教会は、敵が一番多く配備された門の前に建てられています。教会とは、そもそも、そのような性格の存在です。教会は教室だけではなく、家族だけではなく、サタンの手から人々を取り返すための「軍事基地」のような場所です。教会をギリシア語で「エクレシア」と言いますが、これは、元々はギリシアの議会のことを指しました。その議会の性格は、戦争に関する決議をするところでした。宣戦布告や作戦会議の場所がエクレシアでした。教会は敵の門を攻撃するために建てられた、神の最前線基地です。次の御言葉は、教会が持っている権威について教えています。

『何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

「つなぐ」という言葉は、「縛り上げる」、「鎖をかける」、「禁じる」という意味があります。「あなたが地上で縛り上げるならば、天上でも縛り上げられる。」「あなたが地上で鎖をかけるならば、天上においても鎖がかけられる。」「あなたが地上で禁じるならば、見えない世界、天でも禁じられる」ということです。これは霊的な戦いについての権威です。目に見えない世界はわかりません。しかしそこは、悪魔と悪霊どもが真剣になって働いている領域です。どうやって彼らに打ち勝つのでしようか。教会がこの権威を行使するのです。悪霊どもに対して教会が鎖をかけるならば、目に見えない領域でこれらの存在が縛られてしまうのです。また、教会が解くならば、解かれると教えています。それは、束縛されている人々に対して行使される権威です。人々の解放を宣言するなら、見えない世界で解かれ、現実にも解放が起こるのです。そんな機能を持ち合わせている場所が「教会」です。束縛を解く、解放する、無効を宣言する機能を持っているのが教会です。教会に与えられている権威を有効に使うべきです。真剣になって今悪しき力も働いていますが、教会はつなぐ権威を使い、闇の世界で働いている悪魔の力を縛り上げなければなりません。
 今は悪霊の働きを禁じなければならない時が来ています。アメリカとタリバンの戦いが泥沼化していますが、イスラム原理主義の人たちは、「この戦いはジハード、聖戦だ」と叫んでいます。彼らはアラーとマホメッドの名による戦いだと叫んでいます。しかしアメリカや同盟諸国は「テロリストとの戦いだ」と言っています。タリバンは宗教戦争にしようとしています。しかしアメリカや同盟国はイスラム教の寺院に行ったりして、そうならないように配慮しています。しかし目に見えない世界では、どのようなことが起こっているのでしょうか。見えない世界では、霊的な戦いが起こっているのです。彼らが自分たちの神の名前を持ち出しているということは、これに打ち勝つためには本物の神の名を出さなくてはならないのです。イスラムの背後に働いているのは暗闇の力、悪霊の力です。テロリストの背後には破壊的な悪霊の力が働いているのです。彼らが悪霊の名を出して戦いを挑んでいるのですから、それらに打ち勝つためには、天地宇宙を創造したイエス・キリストの名を出さなくては勝てないのです。しかし、そんなことを言ったら、本当に宗教戦争になってしまいます。相手が、「聖戦だ」と叫んでいる中で、アメリカが「イエス・キリストの名による戦いだ」と叫んだら大変なことになります。それは絶対言えない事だと思います。しかし、ここで「教会」が頑張らなくてはならないのです!それを宣言できるのは教会だけです。私たちは、教会が持っているこの権威を、この時にこそ、使わなければなりません。彼らが霊的な戦いを宣言しているならば、教会は見えない世界でのイエス・キリストの名による戦いを宣言しなければなりません。そうでなければ、勝利者はありません。
 かつて日本が太平洋戦争の時に、日本の神の名前を出しました。現人神、天皇を出して世界戦争を仕掛けました。しかし連合国側は、日本の植民地政策と支配に対する戦いと位置づけて戦争をしました。結果として日本は戦争に負けました。しかしそのとき、世界に勝利者はありませんでした。先日、小泉首相は、「日本はアメリカの最大の同盟国だ」と語りました。その言葉を五十数年前に誰かが語っていてくれたなら、何百万人もが助かったと思います。あの戦争で得した人は誰一人いませんでした。日本には原爆が投下され、多くの人々が犠牲となり、アメリカにおいてもヨーロッパにおいても同様でした。これは、日本が神の名を持ち出したときに、イエス様の名によって霊的戦いをする人がいなかった結果かもしれません。教会はこのような時にこそ、霊的戦いをしなくてはなりません。
 ある意味で、見えない戦いが最大の恐怖です。今、アメリカでは炭疸菌事件で皆、びくびくしています。私はこの十一月、アメリカでの奉仕に出かけます。それを聞いた友人が薬を送ってくれました。それは炭疸菌に対する治療薬です。これは感染してから飲むものだとは思いますが。「順先生、神様が守ってくれるとは思いますが、これを持っていって下さい。」とありました。何れにしても、目に見えない敵は一番怖いのです。しかし、ばい菌より怖いのは霊的な敵です。それに打ち勝つことができるのは、何と、教会だけです。教会は霊的軍事基地の機能を持っているのです。皆さんは見えない世界で勝利するために呼び集められた神の兵隊です。その教会が今ここにあります。
 ところで、「新城教会は何処にありますか?」と聞かれたら、何と答えられますか。きっと、「茶臼山駅前にあります」と答えられると思います。しかし、今日、私たちは新城教会が何処にあるのかについて、聖書から確認したいと思います。
 そもそも教会は、百二十人が二階座敷で祈っていたところに聖霊が下ったことから始まっています。使徒の働きをお読み下さい。使徒二章一節から、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。』

と書かれています。初めは百二十人に聖霊が注がれました。その時、物音がしてエルサレム中から人々が集まってきました。しかし、その事を通して三千人が救われました。聖霊が注がれ、教会の誕生と同時に、教会は火山が爆発するように広場へ出ていきました。そして人々は、エルサレムの広場に集まって来たのです。
 エルサレムの広場とは何でしょうか。そこはかつて、イエス様が十字架にかかる前に引き出された広場でした。ある意味で、彼らにとっては敵の面前でした。そこに教会が引き出されたのです。始め百二十人が集まっていた教会は家でした。しかし、聖霊が注がれ、教会は広場に出ていきました。ということは、教会は部屋の中にはなく、広場にあったということです。そのような視点で使徒の働きを読んでみましよう。
 三章には、ペテロとヨハネが午後三時の祈りの時間に宮に上っていった記事が記されています。すると足のきかない男が施しを求めていました。そんな中、ペテロとヨハネは男の手を取って、「イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と言って立ち上がらせたと記されています。すると彼は、

『おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。』

と記されています。これは教会がユダヤ教の宮の中に現わされたのです。この出来事を通して五千人が救われました。ユダヤ教の宮とは、しばらく前、イエス様を十字架で殺す決議が成された場所であり、敵の面前でした。そこが人々が救われ、いやされる場所になってしまったのです。教会はここでも家の中にはなく、敵の面前であるユダヤ教の宮の中でした。
 八章を見ると、迫害された人々が散らされ、サマリヤの町に行ったことが書かれています。ピリポという弟子がサマリヤの町に行きました。八章四節から八節に、

『他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。』

これは「サマリヤの町」に教会が出現した記事です。サマリヤとは、良きサマリヤ人の話にもあるように、ユダヤ人と対立関係にあった町でした。ユダヤ人は、「サマリヤ人は滅びてしまえ」と思っていました。しかし、そんな敵対関係にあったサマリヤの町の真ん中に教会が出現しました。そして、その町に大きな喜びが起こりました。
 九章では、サウロが教会を迫害するために議会から権限をもらい、エルサレムからダマスコに向かって馬を走らせていました。すると、ダマスコに着く寸前、九章三節に、

『ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』

と記されています。これは街道が教会になったのです。いやそれ以上に、迫害のただ中に、迫害者の上に教会が出現したのです。「迫害のただ中に教会がある」のです。ここでも教会は限られたただ一つの空間にではなく、「迫害のただ中」にあったのです。今日イエス様を信じて迫害されている方は心配しないで下さい。教会は迫害者のただ中にあります。
 続いて十章を見ると、カイザリヤにコルネリオという異邦人が住んでいました。異邦人はユダヤ人から問題外と見なされていました。異邦人に神が恵みを与えられることは決してないと信じられていました。私たちもユダヤ人から見れば異邦人です。しかし何と、突如として、コルネリオの家にしるしと不思議が起こりました。コルネリオが祈っているときに、幻の中ではっきりと神の御使いを見ました。

『ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。』

 教会はついに異邦人の家の中に現れたのです。更に、使徒の働きを見ていくと、色々な場所に教会が出現しています。
 十六章を見ると、ピリピでパウロとシラスが逮捕され、牢屋に入れられ鎖につながれていました。彼らは明日は処刑されるという危機的な状況でした。彼らには看守がついていました。しかし二人は、真夜中に牢屋の中で賛美していました。すると大地震が起こり、鎖が解け、彼らは外に出されました。その時看守は、囚人が逃げてしまったと思い、自害しようとしました。その時パウロは、「自害してはいけない。私たちはここにいる。」と叫びました。そして看守は救われました。

『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』

 牢屋の中に教会がありました。牢獄の中も教会になってしまいます。また、十九章を見ると、エペソのアルテミス神殿は小アジア一体を支配していた偶像の拠点であり、悪霊の拠点でした。しかし、そこにも教会が現わされました。十九節、十八節に、

『そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。』

と記されています。異教の神々の神殿の中に教会が現れました。またある時は議会の中に、二十七章では、船が難破して死を覚悟する危機的な状況の中、

『元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。』

とパウロは語りました。死を覚悟した揺れ動く船の真ん中に教会が現わされたのです。この様に、教会とは、限られたところではなく社会のただ中にあるのです。
 皆さんがこの場所から帰ると、一人ひとりが属している領域があると思います。ある人は会社の一員、ある人は学生、ある人は先生、ある人は主婦・・・社会の色々な領域に属しています。しかし、あなたが属しているその場所がすなわち、「教会」だということです。あなたはそこで戦う勇士として、教会として神が任命されているのです。新城教会はどこかというと、「あなたが働いている職場が新城教会」です。新城教会は茶臼山駅前ではありません。「あなたが属しているところ」です。学生は学校が教会です。そこに神は栄光を現そうとされています。
 宗教改革以前まで、神の働きは聖職者と言われる一部の者だけとされていました。一般の人は聖書も読めませんでした。本来の教会の姿から遠く離れてしまっていました。しかしマルチン・ルターは宗教改革を起こし、すべての人が神のために働くことができる、牧師と同じように何処でも働くことができると「万人祭司」を主張しました。牧師は誰でしょうか。滝元順ではありません。あなた自身が牧師です。伝道者は誰ですか。あなたです。あなたが遣わされているその場所が教会です。例えば学校で、四十人クラスの中であなたがただ一人のクリスチャンだとしたら、あなたは、三十九人の信徒を抱えている牧師のようなものです。聖書から見るとその場が教会です。神を信じない人々のただ中に現されるのが教会です。
 聖書の最後に「黙示録」があります。そこに七つの教会が紹介されています。どのような名前の教会かというと、「エペソ教会」、「スミルナ教会」、「ベルガモ教会」、「テアテラ教会」、「サルデス教会」、「フィラデルフィア教会」、「ラオデキア教会」と呼ばれる教会です。これらは__福音教会という名前ではありません。七つとも全て、町の名前です。エペソは小アジア最大の都市であり、当時すでに二十五万人程住んでいました。「エペソの教会に書き送りなさい」とあります。
 神様は何処に教会を作りたいのでしょうか。それは、町に作りたいのです。駅の前ではありません。町全体を教会にしたいのです。今日、礼拝後に新城音楽祭にゴスペルクワイヤーが出かけて行きます。それはただの出演ではありません。町が教会なのです。そこで力一杯賛美して下さい。これから色々な所でゴスペルクワイヤーは用いられると思います。そこで歌わしてもらうのではなく、そこが教会なのです。教会で賛美しなくてはなりません。
 「新城教会はどこにあるのですか?」と聞かれたら、茶臼山駅前ではなく、「この町が新城教会」なのです。新城教会に何人来ていますかと聞かれたら、「三万六千数百人です」と答えて下さい。でも、「三万六千人くらいが求道者ですが・・・」ということかも知れませんが・・・。これが教会の姿だと思います。町が教会です。あなたが住んでいる町が、あなたの教会です。そして、その町に神は栄光を現そうとされています。やがて新城市が、求道者の数より、イエス様を信じる人々の数が多い教会になったら素晴らしいです。この町に入っただけで主の臨在を感じ、サマリヤの町のように、「その町に大きな喜びが起こった」という教会が出現することを祈りたいと思います。このような神の教会に属しているという認識を持ち主に仕えたいと願います。お祈りします。
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