今週の礼拝メッセージ
2001.11.11 (SUN)
サクラメント
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章13節〜16節
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

マルコの福音書16章15節〜18節
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

 ハレルヤ!教会は心の休み場であり、神に触れていただく素晴らしい場所です。さて、今朝は「サクラメント」というタイトルで話したいと思います。サクラメントとは、「礼典」と訳されます。プロテスタント教会には儀式ぶったことはあまりありませんが、二つだけあります。それは「聖餐式」と「バプテスマ(洗礼)」です。イエス様がこの地上に来られたときに、この二つだけは続けるようにと言われたもので、私たちはそれを継続しています。しかし、これはただの儀式ではなく、人を生かす霊的な意味があることを学びたいと思います。
 第一に聖餐式について学びます。聖餐式とは、パンとぶどうのジュースをいただきます。それはある意味で「食べる」という行為です。人間は食事が楽しみであり、それは生命維持に欠かすことのできない営みです。新城教会ではゴスペルサパーが毎月行われています。教会のプログラムは飽きると変わっていきますが、ゴスペルサパーだけは変わらないプログラムで、十数年も続いています。食べる集会は飽きません。皆さんは、一日三回食べることを面倒くさいと思いませんか。朝食を食べてから五、六時間後にまた昼ご飯を食べます。さっき食べたのになぜ、また食べるのかと思いますが飽きることなく、毎日食事を楽しみにします。「食べる」という行為は、ある意味で人間の楽しみの中心です。人の体は食物によって作られます。ここには、日本人と南米の兄弟姉妹が居られますが、体の質が違うと思います。なぜなら、日本人の体は米でできていますが、南米人は肉でできているのではないかと思われます。二年前に私はアルゼンチンに行きましたが、彼らは肉をたくさん食べます。小学校の給食で、毎回一人三百グラムも肉が出るそうです。人は気をつけないと食生活で病気になることもあります。ある説によると、食べ物で人間の感情が左右されるそうです。感情の起伏が激しい人は野菜不足。疲れやすく無気力な一は蛋白質不足。短気の人は塩分の取り過ぎ。すぐに怒ったり怒鳴る短気な人はカルシウム不足だそうです。ただ、それだけが理由ではないと思いますが、何れにしても食べることは人間の営みの中心のようです。
 しかし聖書を見ると、人類は食べることにおいて悪魔に誘惑され祝福を失っています。神はまた、食べ物のコントロールによって人類は死に打ち勝ち、「生きる」と言われました。創世記二章十五節から、

『神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

神は「善悪の知識の木から取って食べてはいけない、しかし他の物は食べての良い。」と語られ、逆に言えば、善悪の知識の木から取って食べなければ、生きることができると言われたのです。しかし悪魔は言いました。三章五節に、

『あなたがたがそれを食べるその時、あなたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』

人類の歴史は霊的戦いから始まっています。同時に、その中心が「食べ物」であったのは興味深い事です。
 イエス様はこの地上で素晴らしい奇蹟をなされました。病を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出し、人々は「この方こそ、救い主、待ちに待ったメシヤだ」と期待しました。しかし、イエス様の生涯で人々に大きなつまずきを与えた発言がありました。「本当にこの人について行って良いのだろうか。ちょっとまずいのではないか」と、人々がイエス様につまずいたのでした。その状況において、あなたなら、どのように反応するかを考えてみて下さい。ヨハネの福音書六章五十三節から五十六節に、

『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』

イエス様に人々が近づいた時、突然このように語られたのです。もし私がそこにいたらどう反応するだろうかと不安になります。多分、「今までは良かったけど、やはりこれはカルトだ。ここにいたら大変なことになってしまう」と考えたと思います。イエス様の弟子たちも同様に感じたようです。六章六十節に、

『そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」』

また六十六節には、

『こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。』

と記されています。皆は驚いて逃げてしまいました。私がそこにいたら、逃げた内の一人であったと思います。しかしこの言葉には深い意味がありました。そして、イエス様が真に教えたかったのが「聖餐式」の奥義についてでした。
 イエス様は十字架にかかり、死に、よみがえり「新しい契約」を完成されました。しかし、その前に、イエス様は十二弟子たちと食事を共にしました。その時、パンを裂きながら「このパンはわたしの肉です。またこのぶどうのジュースはわたしの血です」と言いました。弟子達はなんだか訳が分かりませんでしたが、イエス様が言われたことだから一緒に食べて飲みました。やがてイエス様は死んでよみがえり、天に帰られました。その後、パウロという偉大な使徒が立てられました。その時、神が直接、パウロにその奥義について教えられました。それがコリント第一の十章十三節から十六節の言葉です。

『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』

 この箇所は、はじめ「試練」について教えています。今日、試練の中にある人がいたら、「自分だけだ」とは思わないで下さい。人は試練をも共有しているのです。だれかが知っています。あなただけのものとは思わないで下さい。同じような経験をしている人が多くおられます。しかし、神はそこから助け出して下さるのです。続いて語られているのが、『私の愛する者たちよ。偶像礼拝から離れなさい。』です。「試練と脱出」、そして「偶像礼拝」について語られています。「試練」と「偶像礼拝」は密接な関わりがあるということです。私は牧師として人々に伝えしたいことは、「試練からの脱出の道は偶像礼拝から離れることだ」と言うことです。多くの人々が色々な試練に会って教会を訪れます。教会で試練について論議するのは難しいのですが、まず、その背後にある偶像礼拝から離れることをお勧めします。すると不思議なことですが、偶像礼拝から離れるときに人の試練に光が差し込みます。そして、脱出の道が備えられるのです。
 そして、その文脈上で語られていることが、

『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』

 第一コリント十章は、「御霊の食べ物、御霊の飲み物」という視点で語られており、神の霊と共に、御言葉と共に、聖餐式が行われるときに、それはただのパン、ぶどうのジュースではなく、それはイエス様のからだであり、血であると教えています。イエス様の過激な発言、「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、共にいることはできない。また、いのちはない」と言われた奥義は、礼典の一つである「聖餐式」の中にあるのです。イエス様と共にあるには相当な努力が必要と考えるかも知れません。しかし、信仰を持って神の霊と共にパンを食べ、ぶどうジュースを飲むだけでイエス様が私たちと共におられるというのです。毎回、新城教会で聖餐式がありますが、そのように考えたことがありますか。ここには、深い意味があるのです。共に食するときにイエス様が共におられ、いのちが流れ出、試練からも解放されると聖書は教えています。
 しかし、悪魔も食物で人を陥れました。この法則を悪魔はよく知っています。聖餐式の奥義に続いて語られていることは、

『私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。』

 日本の宗教を調べると、一つの共通点があります。特に、メジャーな宗教と言われる神道と仏教には共通点があります。両者とも教理はあまり強調しません。釈迦の誕生日は?神道の教理は?と聞かれて説明できる人は多くはいないでしょう。なんだか訳は分からないけれど、「皆がやっているから先祖を拝んでいる」としか言われません。仏教教典を学んでいる人はあまり見ません。神道の教典を持っている人など、ほとんどいません。しかし、共通していることは、この二つは互いに、食物系の宗教だと言うことです。神道の祭りのクライマックスは「直会」と呼ばれるものです。祭りにおいて神に食物をささげ、最後にそれらを下ろして一同で食べるものです。今は形が崩れていますが、たいてい祭りの後、飲み食いをする習慣があります。それがその意味です。祭りによって神の霊が食物に降りてくるので、それを食べると神の力を受けるというのです。
 来週十一月二十三日は勤労感謝の日ですが、実は元々は勤労感謝の日ではなく、「新嘗祭」と呼ばれる神道の祭りです。日本の神道の祭りは農耕サイクルに沿って行われます。そして、新しい米ができたら、その米をまず神にささげ、霊力の込められた米を食べるのが新嘗祭です。それは神道の教理を学ぶと言うよりも、「アクション」です。「ただ食べる」というものです。その新嘗祭の中でも国家的な一世一代の新嘗祭が「大嘗祭」です。国民を代表して、天皇がその年にできた米を伊勢神宮にささげ食べる儀式です。それはただの儀式ではなく、「神と一体になる、神がとどまる」という意味なのです。
 悪魔は食べ物を通して働くことができることを知っています。元々、善悪を知る木の実を人に食べさせて人類を陥れたので、その法則をよく知っています。
 また仏教でも仏壇に毎朝御飯と水をささげ、しばらくしたらそれを下ろして他の御飯の中に混ぜて食べさせます。また沖縄では、盆の時に先祖の霊と称するものに、たくさんの食べ物をささげ、親族一同墓の前で食事をするのです。それが一番のクライマックスです。食べ物を悪魔にささげさせるならば、聖餐式の逆で、悪霊は「人々のうちにとどまる」ことができるのです。聖餐式は神秘的な神が定められた法則です。その法則を逆にして悪魔は人に関わっ0ています。もし今までに偶像にささげたものを食べた方がおられたら、悔い改めてしっかりと断ち切って下さい。そして、祝福された食べ物は聖餐式です。聖餐式を行うときにイエス様がとどまって下さいます。私たちは食前の感謝の祈りを簡単にしますが、よく祈って下さい。「聖霊様、この食物を祝福して下さい。これが御霊の飲み物、食べ物となりますように。」と祈るなら、祝福がそこにとどまると思います。
 日本の社会はある意味で、偶像にささげた食べ物が多く存在しているので気をつけなければなりません。何が偶像礼拝と関係があるのか、全てを調べることはできません。しかし、偶像にささげられているとはっきりしている飲み物が「日本酒」です。日本酒を簡単に飲む人がいますが、醸造前に必ず神事が行われ、酒の醸造を始めます。そして、新酒ができると杉玉をつるし、また偶像礼拝をします。だから神社の祭りの時には、必ず日本酒を並べます。それは御霊の飲み物ではなく、「悪霊の飲み物」になります。今、多くの人々がアル中で苦しんでいますが、それはただ、中毒だけではないと思います。背後に悪霊にささげた食べ物、飲み物という概念が存在するのです。結局、人々は悪霊に首を捕まれて、人生を駄目にされます。
 けれども、私たちが教会で何気なく行っている聖餐式は、神が共におられることであり、いのちがそこに現れる神秘的な神の法則であるのです。しかし、コリント人への手紙第一、十一章を見ると、そのような意味が分かっていたのにも関わらず、それらを適当に扱っていた人たちのことも書かれています。その時は聖餐式によって害を受けた、と記されています。そのくらい聖餐式には力があるのです。
 さて、もう一つの礼典が「バプテスマ」です。今日は二人の方がバプテスマを受けられます。バプテスマは水の中に入ります。それはただの儀式のように見えますが、そうではなく、素晴らしい神の栄光が現される時です。バプテスマも聖餐式と同じように儀式のように見えますが、深い意味があります。
 私は小学校二年の時にバプテスマを受けました。当時、聖餐式に参加する為には、バプテスマを受けないとできないとされていたので、聖餐式を受けたいと思いました。当時はこんなに大勢の人が教会におられなかったので、パンもジュースも多めでした。食糧難の時代にあって、私は聖餐式にあこがれ、「早くバプテスマを受けたい」と願いました。また、私は自分でバプテスマを受ける季節も決めました。当時バプテスマは川でやっていたので、受けたついでに泳ごうと思って八月にしました。しかし、バプテスマの意味については、全く興味がありませんでした。皆さんはどのような動機でバプテスマを受けたかの分かりませんが、バプテスマとは水の中に瞬間的に浸かるだけの事です。しかしそこには深い意味があります。
 案外、バプテスマを受ける段階になると人は躊躇します。私は迷っている人にいつも言います。「なぜ、迷うのですか。別に水から出た途端、額に十字の入れ墨が入るわけではないし、あなたはいつもお風呂に入らないのですか。」
 なぜ、迷うのでしょうか。これはただの出来事ではないからです。これは霊的な権威づけの時だからです。イエス様がこの地上に来られたとき、素晴らしい働きをされました。しかし、神の子であるイエス様が悪魔からの妨害を受けました。四十日断食した後に悪魔がイエス様を誘惑し、「俺を拝め」とまで言っています。またイエス様が十字架にかかる前、ユダに悪魔が入り、イエス様を銀三十で売って捕らえられたりと・・・、なぜ、イエス様はあれほどにパワーがあったのに、悪魔にかかわられたのだろうかと疑問に思います。なぜならば、イエス様の公生涯の権威は、ある意味で「限定付き」だったからです。しかし、その限定が解除され、天においても、地においても一切の権威を取られたのが、イエス様が十字架にかかられ、三日目によみがえられた時でした。マタイの福音書二十八章十八節から二十節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

と語られました。イエス様が「一切の権威を受けた」と言われたのは、よみがえられてからです。よみがえりによって、すべての権威を神から受けられたのです。そして、私たちが、イエス様と同じポジションに着くために何が必要であるかについて、聖書は教えています。
 私たちも痛いのを我慢さえすれば、イエス様と同じように、十字架に付くことはできます。しかし、その後が大変です。三日目によみがえらなければなりません。よみがえれば、天においても、地においても一切の権威が与えらるのです。しかしそんなことは不可能です。けれども、キリスト教の神秘は聖餐式と共に、「バプテスマ」にあります。コロサイ人への手紙二章十二節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

と約束されています。バプテスマを受けていなくてもイエス様を信じていたら、救われています。神の国・天国に入ることができます。そして、神の権威と共に生きることができます。しかし、ある意味で、それはイエス様の公生涯と同じように「制限付き」です。しかし、バプテスマを受けるときに、イエス様と同じ、「よみがえりポジション」につくことができると約束されているのです。

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

バプテスマによって、「水の中に入って出る」という行為により、イエス様の十字架の死と復活を瞬間的に辿ることができるのです。バプテスマを受けた人々はイエス様のよみがえりポジションにあります。このことをしっかりと捕まえて下さい。バプテスマを受けているとは、天においても、地においても一切の権威を受けた「イエス様と同じポジション」に着くことなのです。十三節から十五節に、

『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

と書かれています。ここでは、バプテスマを受けるときに与えられる権威について教えています。それは、「罪が赦され」、「責めたてている債務証書を無効にした」と記されています。これは、偶像礼拝に対しての教えが中心であると思います。なぜなら、偶像礼拝は債務証書が発生し、悪魔に訴えられるからです。しかしその債務証書が無効にされると書かれています。それだけではなく、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してくださる」とあります。「すべての支配と権威」とは、「悪魔とその軍隊」です。悪魔とその軍隊・悪霊どもは色々な武器を持って人々を責め立てます。ある人は病、ある人は精神的な問題、ある人は家庭の問題、ある人は金銭的な問題で責め立てられます。世界六十億以上の人々を同時に責め立てるほど、悪魔はたくさんの武器を持っているのです。責め立てられたらどうすることもできません。しかし、バプテスマによって、イエス様の復活と同じポジションに立つとき、その武装が解除されるのです。そして最後に、あなたを責めたてていた悪霊どもが、「捕虜とされる」というのです。ここに完全な勝利があるのです。これがバプテスマと共にある権利です。
 午後に二人の方のバプテスマが行われます。すでに神様の力が注がれていますが、今日は「限定解除の日」です。よみがえりのポジションに着き、罪が赦され、債務証書が無効にされ、武装解除され、悪霊どもが捕虜となるのです。それが「バプテスマ」の中にあります。
 今日は教会で行われる「礼典、サクラメント」について学びましたが、これは素晴らしい事柄です。私たちは何の気なく行ってきましたが、そこには素晴らしい神の神秘的な力が働くのです。バプテスマはよみがえりのポジションが与えられます。また、聖餐式は信仰によって受けるときに、イエス様がともにおられます。人間は食物によって負けましたが、神は食物から勝利を与えて下さいます。不思議な法則です。いのちが湧いてきます。祝福されます。お祈りします。
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