今週の礼拝メッセージ
2001.11.18 (SUN)
溢れ出る喜び
新城教会 岡本信弘牧師

新約聖書 ペテロの手紙 第一 1章3節〜9節
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

 ハレルヤ!主の恵みを心から感謝します。先月は、『受けるより与える方が幸いである』という御言葉から、与える恵みについて話しましたが、今日また、一ヶ月振りにここで御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。
 先週久しぶりに風邪をひきましたが、大事に至ることなく守られて感謝します。「先生は食べることも早く、あちらこちらへ行って、忙しいですよね。ホントに人間ですか?」とよく言われるのですが、風邪をひいて、やっぱり私も人間だった、と思うと同時に、いつも健康でいられるのは、本当に神様の恵みであると感謝しました。こうして、元気に主の奉仕ができる恵みを感謝します。
 今日は皆さんと共にペテロの手紙から「溢れ出る喜び」というテーマで学びます。ペテロの手紙第一の一章八節〜九節に、
『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』と書かれています。
 「栄えに満ちた喜び」とありますが、皆さんには栄えに満ちた喜びがありますか? 危ない世界情勢の中、事業がうまくいかなかったり、経済が破綻し、多くの人が失業し、誰もが不安を抱え、悩みを持っているというのが当たり前の時代に住む私たち。しかし、どんなにこの世界に、不安や悩み苦しみがあったとしても、私たちクリスチャンには望みがあります。
 昨年、東京と大阪でスーパーミッションという集会をしました。その時、「将来と希望」というテーマが掲げられました。私たちに与えられている希望は、一時的なものではなく、神様が一人ひとりに与えてくださっている、将来につながる、ずっと続く恵み、祝福です。

 それではペテロの手紙から学びます。
 ペテロという人は漁師でしたが、神様が選ばれ、弟子の長老格として多くの素晴らしい働きをした人です。ペテロは偉大な伝道者、使徒でありましたが、一方では多くの失敗をし、多くの苦しみを通った人でありました。私はそういうところに親近感を覚え、そんなペテロが大好きです。
 多くの失敗をしたペテロでしたが、一番の失態がルカの福音書の二二章に書かれています。イエス様は十字架につけられる直前に、弟子たちにご自分が十字架にかかることを話しました。ペテロは「主よ。ご一緒なら牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言い、どんな所にも、最後の最後までついて行くと言いました。これは弟子として当然の言葉です。しかしその言葉に対してイエス様は、「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われました。ペテロは三年半の間、イエス様のそばにいて、その偉大さを知り、素晴らしい癒しや奇蹟を見ていました。その業によって、彼はイエス様を裏切ることはないと思っていたかと言うとそうではないと思います。ペテロは、イエス様が捕らわれて十字架にかかることはあり得ない、そんなことはない、と思っていたからこそ、最後の最後までイエス様について行きますと言えたのではないかと、私は思います。
 イエス様が捕らえられた時、ペテロは隠れるようにしてついて行き、その中庭で、「あなたはイエスの弟子ですよね」と言われました。その時ペテロは、「いいえ、私はあの人を知りません。仲間ではありません」と答えたのです。そのように三度、否定した後、鶏が鳴くのを聞き、イエス様が言われたことを思い出したペテロは、「外に出て、激しく泣いた」と書かれています。
 この記事を見る時、人間の弱さ、人間の足りなさを覚えると思います。四六時中イエス様のそばにいて、素晴らしい業を見ていたペテロでさえ、最後の最後にこのようにイエス様を裏切ってしまいました。しかし、彼はよみがえりのイエス様に出会い、もう一度、聖霊の力を受けました。生まれ変わり、聖霊に満たされ、主の証人となり、多くの苦難を乗り越え、主の使命を全うしたことは皆さんご存知だと思います。
 この手紙は、今から二千年前に書かれたものですが、今の時代の不安や問題にも、神様が語られている御言葉であると教えられます。皆さんの中にも、色々な問題を持っておられる方がいらっしゃると思いますが、主の前にそれを委ねて溢れ出る喜びを受けて、今日ここから帰られることを願います。

 聖書の中には、「喜び」とか「喜ぶ」という言葉が何百回も出てきます。特に、新約聖書には、イエス様が私たちに与えてくださったものは、喜びだと書かれています。イエス様に喜んで仕え、人生を全うするために、神様が素晴らしい恵みの御言葉をたくさん与えてくださっていることを見ることができます。
 ペテロの手紙第一の一章三節に、
『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。』と書かれています。
 父なる神様は、この地に御子イエス様を送ってくださいました。それは、私たちを愛するがゆえ、あわれみのゆえでした。イエス様は、罪のゆえに、当然、滅びの場所である地獄へ行き、報いを受けるべき私たちに、永遠のいのちを与え、恵みを与え、救いを与えてくださいました。私たちの罪の身代わりになり、十字架にかかって死んでくださいました。そのあわれみ、恵みの中で私たちは生かされ、もう一度生まれ変わる者にしていただくことができました。
 私たちは肉体を持っているので、病気になったり、事故に遭うこともあります。しかし、私たちはイエス様のあわれみによって救われ、生まれ変わった者です。聖書に『私たちの国籍は天にあります』と書かれています。この教会には多くの国々の方々が集まっておられますが、どの国の人であっても、私たちクリスチャンは同じイエス様を信じる信仰によって、天の国籍を持つ者であることを是非知ってください。それは、神様の恵みです。
 また、ヨハネの一章十二節に、
『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』とあるように、神様は私たちを、神の子どもとしてくださっています。それも、神様の恵みです。神様の一方的なあわれみの中で、罪の中から救われ、贖われ、永遠のいのちを与えられただけではなく、神様の子どもされたという素晴らしい特権が与えられています。何という祝福でしょうか。

 さらに、ペテロの手紙一章四節には、
『また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。』とあり、神様の、天国の資産を受け継ぐ者としてくださったというのです。
 イエス様の資産とはどれほどでしょうか。皆さんもたくさん貯蓄しておられるかも知れません。日本人の中にも金持ちがいます。アメリカに行き、野球で活躍しているイチロー選手は、年俸十五億円を稼ぎ、CMの出演料を入れると、一年間に何十億もの儲けがある、と報道されていましたが、世の中には何千万、何千億という資産を持っている方もいらっしゃいます。しかし、私たちは神様から資産を受け継ぐ者とされています。その資産は、どれだけのものかわかりませんが、天に蓄えられているとあります。
 今、私の家では子どもたちが大きくなり、学校に支払う大きなお金が必要になってきました。貯めていたものもどんどん減り、預金通帳を見ると、どんどん減っていっている状態です。低金利の中、お金を貯めるのには大変な時代です。定期預金をしても利子があまり付きません。しかし、私たちはこの地上にではなく、天に宝を積むことができるのです。天でどれだけの利子が付くかわかりませんが、イエス様が資産として受け継がせてくださったものを、私たちは自由に使うことができる恵み、特権をいただいているのです。
 どれだけのものが、天に積まれているのでしょう。私たちが毎週している献金はもちろん、神様の御前に行なった奉仕、また祈り、それらがみな天に積まれます。私たちが、神様にお捧げする時、神様は祝福してくださいます。イエス様は私たちから取ろうとされているのではありません。私たちが神様にお献げしますと言っても、献げられるものはわずかなものです。しかし、神様はそのわずかなものを喜んで受け取られ、祝福してくださいます。そして、私たちが捧げたもの以上に、神様の資産は計り知れないほど、たくさんあり、その資産を私たちに受け継がせてくださるのです。私たちが天に行った時に、その蓄えられたものを自由に使うことができます。使う特権があります。

 イエス様はこの地上に来られる時、どのように来られましたか。
『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。(ルカの福音書二章十節)』と、イエス様は喜びを知らせに来たと書かれています。
 これは、私たちのところに、素晴らしい喜びが満たされるために、主がこの世に来てくださったという一つの御言葉です。私たち一人一人が喜びに満たされていくことは素晴らしい恵みです。

 私たちの日常生活にも、いろいろな喜びがあると思います。結婚した時、子どもが産まれた時、また、おいしいものを目の前にしたり、食べたりすると顔がほころび、喜びが込み上げきます。特に女性の方は、美味しいものを食べたいという気持ちがあると思います。私も時々、大阪や東京へ出張に行き、おいしいものを見つけると買って帰ります。おいしいものは家族を喜ばすことができます。
 毎日毎日、私たちにはいろいろな喜びがありますが、それは一瞬であることも多いです。しかし、神様が与えられる喜びはずっと続きます。この地上では、銀行や保険会社の経営が破綻したり、どこにおいても盗難があり、殺人があるような物騒な時代です。しかし、天に預金するなら、「虫もサビもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」と保証されています。素晴らしいことです。これは、何にも比べることができない恵みであり、祝福です。天に宝がある、そのことを思うだけでも私たちは喜びをもって、毎日の生活を送ることができます。
 しかしある人はこう言います。「たとえ、これからのことが約束され、天国に宝が蓄えられていることがわかっていても、神様の子どもとされる特権を持っていても、今、問題がある、今、病気がある、家族に悩みがある。それが解決されなかったら、喜ぶことはできない」と。そのことの解決を聖書が教えています。

『そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(ペテロ第一の一章 六〜七節)』

 ここには、「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが・・・」と少し矛盾したような書き方がされています。天国の資産を受け継ぐ者とされ、永遠のいのちが与えられ、神の子どもとされる特権が与えられ、素晴らしい恵みと喜びに満ち溢れている。しかし、しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないと、私たちに試練があることを教えています。何のために試練がありますか? 信仰の試練については、『火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって・・・』と書かれています。
 金は高価なものです。純金と言われるものは、その純度が九九パーセント、一〇〇パーセントで、大変貴重なものですが、純度を高めるには火を通し、何回も精錬され、不純物が取り除かれていきます。しかし、そんな金でもいつかは朽ち、いつかは滅びます。金が火を通して、純度を増すように、私たちは、信仰の試練を通して、イエス様の現れの時に賞賛と光栄と栄誉を受けることができる者として整えられていきます。私たちは金よりも尊く、貴重なものであると、神様が私たちを励ましてくださっています。
 皆さんの中に問題や試練が起こる時、それは、神様が私たちに更なる恵み、祝福をくださるためのものであることを知ってください。私たちがそれを受け止め、信仰もって進んでいく時、神様が問題を解決し、大きな祝福へと変えてくださることを知ってください。

『ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ五章一節から五節)』
 
 自分自身を見てみると、忍耐が足りないし、品性というものにもほど遠いなぁと思います。問題や試練や患難に直面するとき、忍耐が生まれ、忍耐が品性が生み出すこと、そして神様を信じている私たちには、試練の先に希望があることをここでは教えています。
 何の問題も何の障害もなく、クリスチャン人生を歩むことができれば素晴らしいことです。誰もがそれを望んでおられると思います。しかし、私たちがこの地上においてクリスチャン人生を全うしようとするとき、波風があります。それは丁度、作物を植えて育てる時と似ています。
 稲も、苗を植えて収穫するまでには、暑い時、寒い時、風の強い時、雨の時など、様々な気候の変化があります。しかし、そのようなところを通り、最後においしいお米ができます。実をならすことができます。私たちクリスチャン人生の中にも、何の心配もなく、何の試練や問題もないなら、しっかり根が張ることもできないまま、少しの風や雨で倒れてしまい、実を結ぶことができません。この地上において、主に選ばれた者として生活していく時、試練に会う時、患難に会う時、私たちの信仰は更に強められ、主に喜ばれる者になっていくことができるのです。問題があることは、その時は喜ばしいことではないかも知れませんが、ヤコブ一章二節から四節には、
『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』と書かれています。
 なかなかこのように、試練を喜ぶ心境になることはできません。しかし、神様は、その問題に報いてあまりある祝福を与えてくださる神様であることを覚えてください。そして、色々な問題にぶつかった時、それをこの上もない喜びと思い、また試練によって忍耐を働かせることにより、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者にしてくださると神様が約束してくださっています。イエス様が私たちに託してくださったこの地上での働きを全うするために、完全な者になることを私たちは願い求め、イエス様に似た者となっていきたいと思います。

 次に、コリント人への手紙第二の八章一節から五節を読みます。
『さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。』

 これはマケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みです。彼らは極度の貧しい生活の中にあっても主を愛し、主のために溢れ出て、惜しみなく施す富となったと書かれています。自ら進んで力以上にささげ、自分自身を主にささげて、私たちにも委ねてくれたと書かれています。貧しいからといって、問題があるからといって、ささげられないということにはなりません。主によって強められ、持てるものをささげるなら、神様が祝福を与えてくださいます。
 私たちの人生においては、色々な問題にぶつかり、倒れそうになる時があると思います。しかし、御言葉にあるように、神様は必ず私たちに脱出の道も備えてくださり、耐えられない試練に会わせることはないことを知っていただくと同時に、気をつけなければならないことは、サタンはいつも私たちに攻撃を仕掛けてくるということです。問題や、試練を通して祝福しようとされる神様とは反対に、そのことを通して、人々をその信仰から引きずり落とそうとするのがサタンの方法です。サタンが私たちの戸口で待っていることを忘れてはいけません。
 どんなに安全な家であっても、家を出る時、夜、寝る時は鍵をかけます。田舎だから、家は大丈夫だと思いながらも、泥棒が侵入しないように、安全のために鍵をかけて出かけます。私は絶対大丈夫、と思っていてもサタンは人が気づかないような方法で近寄り、心に進入してきます。しかし、イエス様という鍵をかけ、信頼し、共に歩むなら、祝福されたクリスチャン生活を送ることができます。
 負けてはいけません。私たちが喜びに満たされ、大きな収穫を得るために、忍耐と同時に聖霊の力をいただいて、霊的な目を開かせていただき、サタンの攻撃を見破らせていただきたいと思います。

 私たちは、素晴らしい恵みの中で生かされていますが、自分の力に頼り、何とかして喜びを継続させていこうと一生懸命やっても、限界があります。教会に来て頑張りましょう、といっても、問題を抱えている人は、それを乗り切ることができるでしょうか。また色々な問題が重なってしまったなら、押しつぶされそうになっている自分を支えられるだろうか、耐えられるだろうかと、不安があると思います。ペテロが自分では大丈夫、力がある、私は絶対イエス様を否むことはない、と思っていた。しかし、それは人間的な力で頑張ろうとしたので、結局は、イエス様に従うことができませんでした。初めに彼が「私はどんなところにもついて行く」と言った気持ちは偽りではなかったと思います。しかし、彼は否んでしまいました。それはどうしてでしょう。ペテロは、人間の力の弱さ、足りなさをわかっていませんでした。
 私たちも、この忍耐が、祝福につながる、恵みにつながる、素晴らしい恵みをいただくことができるとわかっていても、人間の努力だけでは、頑張り続けることはできなくなるのです。一週間、一ヶ月なら、頑張ることもできるかも知れません。忍耐できるかも知れません。しかし、人間はそれほど強くはないのです。ですから、私たちは聖霊の力が、助けが必要です。
 神様から祝福をいただき、神様からの資産を受け継ぐ者として成長するための大きな要因の一つは、喜びに満たされて主に仕えていくことです。そのために必要な聖霊の力をいただきたいと思います。

『御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」(ヘブル人への手紙一章八節から九節)』

 順先生が祈祷会で、「喜びの油が注がれるように」と祈ると、笑いが止まらなくなる人がいます。私はよくあれだけ笑えるものだと思ったりします。正直言って、私は笑うことがあっても、笑いが止まらなくなるという状態になったことがありません。笑い転げたこともありません。しかし、ある方は、笑いを自分で止めることができないほど、笑い転げてしまうような人もいます。その人は恵まれていますが、だからといって、笑い転げない私が恵まれていないわけではありません。そのような現象を、ある人を通して、神様が喜びを注いでおられることを象徴的に見せてくださっているのです。特定の人を通して、喜びを、目に見える形で現し、そこに神様が喜びを注がれておられることを、皆が知るためにそのようなことを起こされます。ですから、傍観者にならないでください。そんなことがあるはずがないと思わないでください。同じ喜びがそこに注がれています。神様は、皆に同じように、注いでくださいます。現象が現されている人を見て、神様が喜びを注がれていることを受け入れ、信仰もって受け取るなら、たとえ現象は現れなくても、私たちにも同じ喜びが与えられていることを知るのです。
 ある人が祈りの中で触れられて倒れるのを見て、倒れた人だけが恵まれるかと相談されることがあります。実際のところ、私はあまり倒れることはありません。しかし、倒れる人は、自分で倒れたくて倒れているのではありません。倒れた人を見て、神様がそこに触れられたことを、そこにいる全員の人に教えるため、信仰を与えるために、現象を起こすのです。神様は目に見えませんが、確かにおられます。そして、確かに一人ひとりに働かれています。
 神様は、私たちが日々喜んで主に仕えていくことを望んでおられます。私たちが喜んでいる時、人を赦すことができます。また喜んでいる時、前進することができます。喜んで主に仕えていくことは、主の喜ばれることです。
 しかし、私たちがその喜びを、自分だけに留めていては、自己中心的なものになってしまいます。イエス様は、私たちが喜びを受け、それが溢れ出て、多くの人に分け与えることができるようにと、望んでおられます。
 私たちは神に選ばれた者です。たとえ試練があり、患難があっても、それを必ず喜び、恵みに変えてくださいます。神様が私たちを放っておかれるはずがありません。神様は真実で、生きてはたらいておられます。そして私たちは、莫大な神様の資産を受け継ぐことのできる者なのです。一人ひとりに喜びの油が満たされ、溢れ出る喜びが与えられますように、心から願っています。
 また私たちには、この地上の務めを終えた後に、永遠のいのちが与えられており、天国に国籍があることをいつも覚えていてください。死んだ後にも望みがあり、祝福があります。信仰をもって、喜んで主と共に歩んでいきたいと思います。お祈りします。
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