今週の礼拝メッセージ
2001.11.25 (SUN)
いつまでも残るもの
新城教会 滝元明牧師

新約聖書 コリント人への手紙 第一 13章1節〜13節
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 ハレルヤ!今日は久しぶりに皆さんと共に礼拝できることを感謝します。私もこの教会の牧師ですが、随分ご無沙汰していました。この度は九州を巡回していました。十四日に家を出て昨日帰ってきました。
 私は出かける前に、少し疲れていました。八日、九日は県民の森の祈祷会があり、終わってすぐに電車で福井県に行って集会をし、ずっと集会が続いていたので体が疲れていました。それで、これから九州を十一日間ほど旅をするという前に、この会堂に来てお祈りしました。「これから旅に出ますが、疲れることがないように」と祈りました。私はいつも聖書の御言葉を頼りに祈ります。イザヤ書四十章二十八節からの御言葉を祈りました。

『あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

この御言葉を読み、「帰ってきたら疲れることなくここに立つことができるように」と祈りました。感謝なことに、あまり疲れずに帰ってくることができました。旅行中、この御言葉を書いてポケットに入れ、気が付いては祈って行きました。長い電車の中で大声で賛美ができませんが、心の中で賛美をしながら旅をしました。「明日はどんな日か私は知らない」という賛美をしながら行きました。

明日は どんな日か私は知らない
晴れか 嵐か 曇りになるか
私は 明日を心配しない
イエスが 私を守られるから

明日は 私には わからないけど
明日を 守られるイエスがおられる

と賛美しながら楽しい旅をしました。始めに行った教会は福岡県の教会でした。韓国から来られた先生の教会でした。私はどうしてもそこに行きたいと願っていました。なぜその教会に行きたいと思ったかというと、一九九三年に甲子園ミッションがあった時、たくさん献げて下さったからです。甲子園ミッションは、九三年のために五年間準備し、三日間の集会をしました。非常に多くの費用がかかりました。はじめ九三年十月三十日からの三日間ということでしたが、プロ野球の都合で日程を変更して欲しいと言われ、十一月五日から七日の三日間になりました。その時すでに、十月三十日から三日間というポスターを出していたため、全部印刷し直して発送しなくてはならなくなってしまいました。そのためには何百万円という資金がかかりました。そのときに、ある意味で心配し、真剣に祈りました。しかし、驚くような奇跡が起こりました。その福岡の先生がたくさんの献金を送って下さいました。五百万円を送って下さいました。それによってミッションの働きが救われ、素晴らしい祝福をいただきました。甲子園ミッション後に先生のところに行き、「先生、たくさん送って下さって有り難うございました。あんなに送っていただいて、その後困っておられませんか。」と聞くと、「いいえ。私は金には困っていません。」と言われました。その経緯を聞きました。彼らは韓国から日本に来たとき失望し、「日本にはリバイバルが起こらない、駄目だ」と思っていたそうです。そのような時、近くの町に下條末紀子先生が来られ、「甲子園で三日間集会をします。日本のリバイバルのために行います」と燃えて話されたそうです。その時、先生ご夫妻は、感動したそうです。声を出しませんでしたが、「日本にリバイバルが来ます。甲子園で集会を有り難うございます。私も日本のために働きます。私は日本を愛します。甲子園に協力します。」と祈ったそうです。
 その時に、二人に個人的に神様が語られたそうです。「本当に日本を愛するか。心から協力するか。」と聞かれました。「はい、日本を愛しています。」「本当に甲子園ミッションに協力するのか。」と言われ、「はい、協力します。」と言ったそうです。その時に神様が先生に言われたことは、「あなたが本当に日本を愛し、甲子園ミッションに協力するなら、あなたの貯金を全部ささげなさい」と語られたそうです。そこで奥さんは悩みました。「主人にどう言おうか。これを言ったら何と言われるだろうか。」とドキドキしていました。すると、ご主人が、「君、私は神様に示されたことがあるから話したい」と言われたそうです。「何を示されたのですか。」「貯金を全部、甲子園ミッションのためにささげるように言われました。」と言いました。「アラ、私も同じ事を示されました。ささげましょう。」と言って思い切って五百万円をささげて下さいました。
 私はその先生のところに行き、心から感謝しました。すると、先生がこのように話されました。「私は結婚して韓国で神学校に入りました。」
 ある時一円もお金がなくなった時、夫婦で話し合ったそうです。すると奥さんが「あなた、断食祈祷院に行きましょう。」と言って祈りに行ったそうです。そこで真剣に祈ったそうです。ご主人はチョー・ヨンギ先生から御言葉を聞いたそうです。そして、一生懸命に賛美していたそうです。その時に神様が語られたそうです。「あなたの持っている一番大切なものをささげなさい。」
 彼は何もなくて来たので、「何もない」と言うと、一つ気にかかりました。それは手を打って賛美しているときに手に一つ当たる物がありました。それは結婚指輪でした。神様から「結婚指輪を出せ」と言われると困ると思い、その指輪をポケットにしまい、賛美をしていると神様が、「あなたのポケットにある物を出しなさい」と言われたそうです。それで、「はい。わかりました。」と結婚指輪を出したそうです。
 奥さんも祈祷院で祈っている中で、すぐ隣にいたご婦人が自分のご主人の病気のいやしのために祈りに来ていたそうです。「神様、主人が病気なので助けて下さい」と祈っている時に、そのご婦人に神様が話しかけられたそうです。「主人の病気は良いから、あなたの側に金のない人がいるからあげなさい。」と言われました。「神様、私は主人の病気のために祈っているのです。」と言うと、「良いからあなたの近くにいる貧乏な学生がいるから、その人に金を上げなさい」と言われたそうです。あまり言われるので祈祷院の牧師先生に聞いたそうです。「先生、神様がこう言われるのですが、貧乏の学生がいるのですか。」と聞きました。すると、「あなたの隣で祈っている学生ですよ。」と言われました。そこで指輪をささげた時の三倍の金をその婦人が下さったそうです。それからも、神学校の費用を何年間も出して下さったそうです。素晴らしいことです。神様が出しなさいと言われる時は取ってしまって終わりではありません。神様は報いて下さる方です。だから、私はそのような経験があるから神様の声に聞きますと言われました。
 今回、福岡空港から五分程の所に大きな会堂が建っていました。土地は千二百坪で三百人入るきれいな二階建ての教会堂が完成し、献堂式をしました。神様は愛の神様で取っただけではなく、返して下さる方です。そこに行き、神様の恵みをいただきました。ですから、神様に対してはケチにはならず、御声をよく聞いて従ったら祝福されます。
 私は今回、対馬に行き、真珠の養殖会社の社長がクリスチャンで、そこに七十人のノンクリスチャンの従業員に対して話しをしました。とても大きな会社でした。仕事は朝七時半くらいから始まり、四時半で終わります。しかし、私が行ったときには二時で仕事を終え、就業時間内として講演会が開かれました。ある人は涙を流しながら話を聞いて下さいました。一番燃えて話している時に、私は携帯電話をマナーモードにするのを忘れていました。すると家内からで後からかけ直すと、娘、道子の子どもが生まれたという嬉しい知らせでした。二十一人目の孫で嬉しさのあまり家内は、集会中ということを忘れて電話をしてきました。
 最後に行ったところは、田舎で二軒しか家のない所で人口が全部で六千人の大分県にある村に行きました。そこでは二週間前に自動車を運転していたら、大きな猪が出てきて車に衝突して車が大破したと言っていました。猪ものびてしまったそうです。そこは海が近いので私が行くと、魚を切って待っていてくれました。良い集会をして帰ることができて感謝します。私たちとイエス様がいつでも共にいて下さることは素晴らしいです。今日はこれから、「いつまでも残るもの」というテーマで学びます。コリント人への手紙第一の十三章一節からに、

『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』

と書かれいます。なぜ、使徒パウロがこのように語ったかというと、このコリント教会は賜物が豊かで恵まれていた教会でした。一章四節に、

『 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。』

と書かれています。コリントの教会はとても恵まれた教会でした。知恵にも知識も賜物も恵まれていました。丁度聖書を見ると、第一コリントの十二章に聖霊の賜物について書かれています。そこには神様から知恵のことば、知識のことば、信仰の賜物、またいやしの賜物、奇蹟の賜物、預言の賜物、霊を見分ける力、異言、異言を解く力が与えられていました。賜物は信仰によって、神の恵みによって与えられてるものです。しかし、そのような神様の恵みや救いよりも、賜物に目を向けるようになりました。そこでパウロはこの事も大切ですが、どんなに奇蹟や預言をしても、また、どんなに山を動かすための信仰があっても、自分の体を焼かれるために渡しても、結局は愛がなくてはやかましいドラやシンバルと同じだと言っています。だから一番大切なものは愛だと言っています。
 この教会にもたくさんの賜物が与えられています。九州を回りながら日曜日の夜は家に電話します。「今日どうだった?」と聞くと、「良かったよ。信弘先生が説教して試練についての御言葉で恵まれたよ。」と言われます。ある意味で他の教会を回ると、ここには恵みがたくさんあります。この教会には牧師がたくさんいます。私、私の家内、順牧師、上條牧師、岡本牧師、開副牧師、四元副牧師、フェルナンド副牧師と八名います。賛美も楽器がたくさんあります。そして霊的戦いや解放などたくさんあります。しかし、恵みを与えて下さったのは神様です。私たちがどんなに恵まれても、神様から目を離してはいけません。賜物を与えて下さった、賜物よりも神様を大切にするべきです。そこで使徒パウロは愛がなくては何の値打ちもない、と言われたので私たちがいくら恵まれても、聖書を読みながら、私には愛があるかと確認すべきです。いつまでも残るのは、信仰を希望と愛、その中で一番大切なものは愛だと書かれています。ですから私たちは個人的に愛を求めなければなりません。愛とは、神は愛ですと書かれています。ヨハネ第一の手紙にも何度も神様は愛だと語られています。愛は神様です。ですから、神様の愛で生活しているかを吟味すべきです。コリント第一の十三章四節からに、

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。』

と書かれています。どんなに知識があり、金があり、恵まれて聖霊によって神様の賜物をいただいていても、愛がなくては一切無益だと書かれています。「愛は寛容です」と書かれています。「寛容」とはどのような言葉でしょうか。
 言葉は難しいです。先日、試験に受かってこれからスチュワーデスになるという娘さんと話しました。「君。これからへりくだって神様に従っていきなさい。」と言いました。すると「へりくだるってどういう言葉ですか。」と言われました。すると、横にいた先生が、「思い上がらないことです」と言われました。私たちも寛容と言っていますが、辞書を見ると、「心が広くてよく受け入れること」と書かれています。コリントの教会は賜物がありましたが、中に分裂や争いがありました。その中にさばきがありました。よく読んでみると、『先走って裁いてはいけない』という言葉があります。時々私たちも自分が恵まれたと思うと、裁くことがあります。あの人は力がない、駄目だと思うのです。しかし、寛容な心を持つべきです。時々教会の中でも恵まれていない人がいますが、後になって恵まれます。今は恵まれているけれど、後になって冷えることもあります。ですから、寛容を持って人と接するべきです。家庭の中でも愛のある生活、寛容であるべきです。また親切でもあるべきです。親切という言葉は素晴らしいことです。その人のためになることを考えてその人に親切をすることです。だから、愛のある人は寛容であるべきです。『また、ねたみません。』と書かれていますが、「ねたみ」とは、愛の反対です。本当に愛のある人はねたまないと言うのです。人間は案外誰かが死んだとか、交通事故に遭ったというと同情心があります。しかし、誰かが私よりも成績が良くなったとか、誰かが私よりも美しいとか、誰かが恵まれていると聞くと、案外喜ばれません。ねたましく思います。それではいけません。愛はねたんではいけません。聖書を読みながら私も自分の心を点検しました。
 リバイバル新聞を読むと、シンディ・ジェイコブス先生が日本にリバイバルが起こると預言しています。そのリバイバルは沖縄と北海道から始まると書かれていました。私はそれを読んで、一瞬おもしろくないと思いました。新城教会から始まると言われたら良いのに・・・と思いました。なぜ、沖縄から?なぜ北海道から?と思いました。なぜ、新城教会から起こると預言しなかったのだろうかと思います。どちらが間違っているかというと、私が間違っているのです。私はすぐに悔い改めました。「神様。日本に北海道からでも沖縄からでも、九州からでも良いのでリバイバルを起こして下さい。新城が最後になっても良いから、日本中にリバイバルが起こりますように。」どんなに他の教会が恵まれてもねたんではいけません。祝福することが大切です。また、『自慢せず』と書かれています。時々恵まれていると、自慢することがあります。『誇る者は主を誇れ』と御言葉にあります。すぐに神様に栄光を返して、神様は素晴らしいと主を賛美するべきです。しかし、自分たちが素晴らしくやったように考えると、「私は素晴らしい」と自慢をします。自慢は他人に対して誇ることです。「うちの教会は・・・」と誇ってはいけません。これは神様の恵みです。『誇る者は主を誇れ』と書かれています。「神様の恵みでこうなりました」と言うべきです。良いものは神様から出ているので自慢してはいけません。「高慢になりません」と書かれています。高慢は高ぶって人を侮ることです。案外人間は高慢になりやすいです。知識は人を誇らせると書かれています。知識とは、あまり頭が良いと人を馬鹿にします。金持ちも金があると貧乏人を見下げます。それは良くありません。ダンプカーやトラックに乗っている人はスピードを出します。車が大きいだけで強くなったような気がします。ベンツに乗っていたりすると「私はすごい」と思います。しかし、高ぶってはいけません。高慢になってはいけません。数年前にある大学生がベンツを買って乗っていると、もう一台のベンツが来て、追い抜き合っていたら、それがヤクザで、大学生は殺されてしまったという事件がありました。だから、私たちは高慢になってはいけません。愛は高ぶらないとあります。自分が高慢になった時には「神様、愛がありません。愛を与えて下さい」と祈るべきです。また、『礼儀に反することをせず』と書かれています。私たちは礼儀正しくすることが大切です。時々礼儀を知らない人がいますが、尊敬するときには尊敬することが大切です。おじいさんやおばあさんを見ると、歯が抜けているとか、頭の毛が少ないなどと言って若い人が馬鹿にすることがあります。しかし、その人たちがあって私たちがあります。だから聖書は、『あなたの父と母を敬いなさい。』また、『白髪の老人の前にあなたは立ちはかりなさい』と書かれています。礼儀が必要です。また『自分の利益を求めず』と書かれています。人のことよりもまず自分ではいけません。自分の利益を求めないで人の利益を求めることが大切です。また『怒らず』と書かれています。怒りっぽい人は神の愛が足らない人です。私の性格は怒りっぽいと言われますが、性格も神の愛によって変えるべきです。すぐにカッとすることがあります。高ぶるとすぐに怒り、怒鳴りつけます。怒りは神の義を現さないと言いますが、怒ることはあまり良いことではないと思います。私は何度か怒られたことがありますが、怒られた後は悲しいです。私の教団の先生は講壇から皆に怒りました。私は今でも忘れることができませんが、良い面もありましたが、怒られるとショックです。だから私も怒られた悲しみも知っているからなるべく怒らないようにしています。家庭の中でも愛は怒らずと書かれていますので夫婦の間でも話したり、祈り合ったらわかります。怒ってはいけない。聖書の中に『父たちよ。あなたがたも、子どもを怒らせてはなりません。主の教育と訓戒をもって育てなさい。』と書かれていますので、やはり神の愛で育てることが大切です。
 私は六月にスウェーデンに行きました。ハンセンという宣教師が十日間世話をしてくれました。見るからに温厚な人です。怒ったことを見たことがないくらい素晴らしい人格者です。彼は聖霊に満たされていると思います。そこの家に行くと、一人の息子がいます。息子がある一本の木を間違えて切りました。私はある程度木のことがわかりますが、切り刻まれて実が一つもないのです。実を付けるときなのに実がありませんでした。先生は、「これは息子が切りました。」と言いました。「先生、これは切りすぎたのではありませんか。」と言うと、「まあ。二、三年経ったら元通りになるから・・・息子が切ってくれましたよ。良くやってくれました。」と言っているのです。非常に寛容です。普通だったら、「なぜ、こんなに切ってしまったのだ。どうしてくれるのだ。」と言うと思います。しかし正直、怒ってみても実が実るのではありません。偉いと思いました。家から一緒に行った私の孫の里辺架と清香も、「先生は本当に尊敬できる人だ」と言っていました。あのようになると良いと思いますが、彼はやはり神の愛を知っている人です。また、人のした悪を思わずと書かれています。私たちは人のした悪をよく覚えています。「あんなことをしたでしょう。」同じことを繰り返す人はよくありません。たとえ悪いことをしても悔い改めたら赦されます。しかし人の悪を思わずというので赦すことが大切です。
 私は真珠の養殖所で話しました。皆が良い話を有り難うございましたと言われました。「これからイエス様を信じていきたい人は胸の上に手を置いて下さい」と言うと全員が手を置いていました。その中で泣いている人が何人もいました。後から社長が、「先生、どんな罪でも赦されるという言葉は良かったです。」と言われました。聞いてみると家庭に複雑な問題があり、悪いことをしたら赦されないと思った人がイエス様を信じたらどんな罪でも赦されるという言葉で涙を流したと言われました。神様は悔い改めたら赦して再びあなたの罪を思い出すことはしないと言われます。これは神の愛です。また「不正を喜ばずに真理を喜びます」と書かれています。聖書の神様は正しい方なので、クリスチャンは不正を喜んではいけません。コリント教会の人は賜物がありましたが、争いがあり、分裂があり、不品行があり、偶像礼拝があり、様々な罪を持ち込みながら信仰したので愛がなくては何もならない、いくら賜物を持っても駄目だと言いました。ですから、私たちはやはり不正は喜ばずに真理を喜ばなくてはなりません。『すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』
 今月号のリバイバルミッションニュースで田中政男先生が、ハンセン先生が若い頃にイエス様が再臨される、その前兆としてイスラエルの国が独立するときが来ると言われました。「信じられない、そんなイスラエルが国家を作るということはない」と若いときに考えたそうです。しかし、一九四八年にイスラエルが独立したときにハンセン先生は驚いて、「本当だ、聖書通りだ、イエス様が来られるかも知れない」と信じたと書かれています。
 今は世界がどのようになっているかわかりませんが、今は世の中の終わりで終末に向かっています。いつイエス様が再臨されるかわからない、ですから、いつイエス様が帰って来られても良いように、またいつ自分に死が来ても天国に行けるように準備をしなくてはなりません。ですから、私たちは謙虚に信仰を持っていましょう。「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です」と書かれていますので、最も私たちが大切にすることは信仰、どんなことがあっても神様を第一に信じていくことです。そして、希望を持っていきましょう。どんなことがあっても神様がよく導いて下さいます。そして愛を持つこと、いつまでも残るのは愛です。ヘレン・ケラーやナイチンゲールやマザー・テレサは愛を実践した人です。世界のすべての人から称賛されていますが、彼女たちは称賛されて行ったのではなく、神の愛を実践した人ですので、私たちも御言葉を聞くだけではなく、これから愛の人となり、心広く、互いに愛し合っていきましょう。この教会が愛し合って行くならば、益々神様が祝福して下さいますので、どんなにリバイバルが来て恵まれても高ぶってはいけません。どのような賜物が与えられても賜物を誇ってはいけません。奇跡が起こっても奇蹟ではなく、イエス様を誇りましょう。神は愛です。一言お祈りします。

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