今週の礼拝メッセージ
2001.12.2 (SUN)
平和の君、イエス・キリスト
新城教会 滝元明牧師

旧約聖書 イザヤ書 9章6節
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 ハレルヤ!主の御名をあがめます。今朝は悲しい知らせを聞きましたが、教会は大きな一つの家族です。悲しみも喜びも互いに分け合うことができます。悲しみは、みんなで分け合えば小さくなります。ですから、松本さんのご家族のために祈り、支えてあげていただきたいと思います。充裕さんは、腸捻転で入院されていましたが、良くなって退院も間近でした。昨日の夜、九時頃、ご両親は「また明日」と言って彼と別れたそうです。しかし彼は、突然、夜中に心不全を起こし三十三才という若さで亡くなられました。私も知らせを聞いて、病院にとんで行きましたが、大へん悲しい対面でした。
 しかし、私たちクリスチャンには御言葉があることを心から感謝すべきです。聖書は、「空の鳥一羽も神様の許しがなければ地に落ちることはない」と記しています。ですから、すべてのことを神はご存じで、今はわからないかも知れませんが、必ず良くして下さると信仰を持って歩んでいきたいと願います。彼は婚約していました。婚約者の方は大変悲しんでいました。彼女に超自然的な神様からの慰めと支えがあるように祈ってあげてください。悲しい報告をしましたが、今からは、心から、神様を礼拝していきたいと願います。
 今朝は「平和の君、イエス・キリスト」というタイトルでクリスマスの御言葉を学びます。

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

 これはイエス様の誕生について預言された御言葉です。この言葉は、イエス様がお生まれになる七百年前、預言者イザヤによって語られました。彼はあまりにも的確な預言を神様から受け取りました。『ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。主権はその方にあり・・・』
 「主権」とは「諸々の権威の上にある最高の統治権、支配権」という意味です。諸々の支配の上に立った方が地上に生まれると語られました。そして、『不思議な助言者、力ある神』と預言しました。旧約の時代に、「神が人となる」という概念は全くありませんでした。そのような中で「力ある神」、即ち、神が人となるとイザヤは預言しました。この箇所はあまりにも的確なために、長い間イエス・キリストが生まれた後に付け加えられたものだろうと多くの人々は考えました。しかし、一九四七年、死海のほとりクムランという場所で世界的な大発見がありました。それは奇しくも、イスラエルが建国される一年前のことでした。羊飼いの少年が羊を追ってある洞窟に入ってみると、多くの壺が隠されていました。そして、そこから、ごっそりと旧約聖書の写本が出てきました。旧約聖書は一言一句間違わないように代々、書き写されながら保存されてきました。その写本を調べてみると、なんとそれは紀元前のものでした。イザヤ書もその中に含まれていました。学者たちがイザヤ書を開き、この箇所を見つけました。そこには、イエス様が生まれる前に、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」と預言されていました。イスラエルの国立博物館には、死海写本の特別セクションがあります。私もそこに行ったことがあります。イザヤ書を見て確かめて来ようと思い、感動を持ってそこに立ち寄りました。(日本語ではなかったのでわかりませんでしたが)神が人を通して、救い主を人類に与えるという預言を与えて下さいました。だからこの一節を見ただけでも、「私たちの神は生ける神様だ」ということがわかります。イエス様という方は、生まれるべくして生まれた方です。この他にも数多くの預言が一度に成就して生まれた方なのです。
 昨日は雅子さまに女の子が生まれた、というニュースがありました。しかし、その子どもは生まれるべくして生まれたのではありません。国民が心配していました。「雅子さんにはきっと子どもは生まれないだろう」しかし、妊娠したので多くの国民は喜んでいました。天皇、皇后がインタビューを受けていました。「男の子が良いですか。女の子が良いですか」と聞くと、「どちらでも、健康ならばかまいません」と答えていました。普通、どちらが生まれるのかは、生まれてみないとわかりません。しかし、イエス様は生まれて見ないとわからないというお方ではありませんでした。イエス様は生まれるべくして、生まれてこられた方でした。人類の救い主として、この地上に来て下さいました。
 ここには「生まれる」、「与える」、「あり」「呼ばれる」という、四つの動詞が使われていますが、これらは、完了形で記されています。これはこの預言が「より確実なこと」を示す証拠であるとある注解書に記されていました。
 そして、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」とありますが、それらの「総称」ともいうべき名前が「イエス」です。「イエス様」という名前の中に、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名前が凝縮されています。「イエス」とはギリシア語で、「主は救い主」という意味があります。使徒の働き四章十二節に、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」』

と記されています。私たちが「イエス様」という名前を告白するときに、救われることができるのです。「救いはイエス様の御名にある」ということです。
 イエス様がお生まれになった国は「イスラエル」です。なぜイエス様はイスラエルに生まれたのだろうか、もっとわかりやすい国に生まれてくれたら良かったのに・・・と考えるかも知れません。イスラエルは四国よりも小さな、目立たない国です。大国といわれる、アメリカやヨーロッパに生まれてくれればもっと効果的ではなかったかと思います。しかし、イエス様がイスラエルに生まれなければならなかった理由がありました。
 イスラエルは地理的には、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の接点にあります。ユーラシアとは、アジアとヨーロッパ大陸の総称なので、三つの大陸、ヨーロッパとアジアとアフリカ大陸がぶつかった、「地球のへそ」とも呼ばれるような場所です。そこには、正にへそのような部分、「死海」という湖があります。大へん興味深いところです。死海は地中海の海面よりも四百メートルも下にあります。そこに水が流れ込むと出ていくところがありません。だから、塩分濃度がとても高く、普通の海水の十倍ほどの濃度があります。ですから、塩分濃度は約三十パーセントです。そこに行くと、かなずちの人でも浮くことができます。沈もうと思っても浮いてしまいます。泳ぐというものではありません。死海というので汚い、死んだような海かと思いますがそうではありません。きれいなリゾート地です。しかし、塩分濃度があまりにも高いので、生物は生きることができません。だから魚は住んでいません。イスラエルの歴史を見ると、イエス様がそこに生まれたわけがよくわかります。なぜなら、イスラエルほど世界の人々に虐げられ、苦しめられてきた国民はないからです。時代を追って聖書を読むと、「イスラエルの人々は大変だった」と知ることができます。
 今、アフガニスタンが取り上げられていますが、アフガニスタンは内戦から内戦で、地雷が何千万個あるかわからないと言われます。イスラエルは、それ以上かも知れません。今から三千五百年ほど前、イスラエルはエジプトに奴隷として売られ、四百三十年もの間苦しめられました。しかし、やっとのことでモーセによって引き出され、ふるさとに戻り、王国を作りました。けれども、やがて国は北と南に別れてしまいました。北イスラエルはアッシリヤに占領され、ユダヤ人は十二部族でしたが、そのうちの十部族が北イスラエルと共に行方不明になりました。また、南ユダもバビロニアによって捕囚され、奴隷となりました。七十年後、祖国に帰ることができましたが、祖国は荒れ果てていました。その後も、ギリシア帝国、ローマ帝国と次々に台頭する大国に翻弄され、国土は踏みにじられ、国民は殺され、国土、言語、文化が奪われました。しかし、ユダヤ人は何とか言語や文化が奪われないように守ってた民族でもありました。紀元七十年にはローマ帝国に完全に支配されました。その時、マサダの砦というところにユダヤ人たちは立てこもり、二年間に渡りローマ軍と戦ったという歴史があります。その砦に、九百六十七名が立てこもりましたが、ローマ軍が攻め込んでみると、ほとんど全員が自害していました。そんな悲惨な歴史もありました。また近代に至っては、ナチス・ドイツによって国民の三分の二、約六百万人が虐殺されるというひどい歴史を味わった国民であることは周知の事実です。イスラエルを見ると、理解できない現実があります。「なぜ、あれほど自己防衛本能が強いのだろうか」と考えさせられます。近頃も、アメリカの制止も振り切ってパレスチナの人々に砲弾を撃ち込んだり、戦車を侵攻させたりします。「もっと、おとなしくできないのか?」と思います。今のテロ事件の背景にも中東問題が色濃く影を落としています。しかし、それには理由があります。彼らは大きな苦しみを受けてきたゆえに、何があっても自分達の土地は離さない、という気持ちが人一倍強い国民なのです。世界で一番傷ついてきた国民が「ユダヤ人」と言えるのかも知れません。イエス様はその中こに生まれました。イエス様は一番苦しんでいる、一番悲しんでいる、一番救いを必要としている民族のただ中に生まれたのです。そこには預言的な意味がありました。
 イエス様の救いは私たちのどの部分に現されるのでしょうか。それは、もっとも救いを必要としている苦しみ、悲しんでいる、どん底に神は目を向けられるということです。
 今、どん底を味わっている方がおられるかも知れません。しかし、イエス様は最も深い苦しみの底に救いを現して下さる、これが第一のクリスマスメッセージです。
 イエス様がお生まれになったという知らせは、どのような人々に知らされたのでしょう。最初知らせを聞いたのは、「羊飼いたち」でした。ルカの福音書二章八節から十四節に、

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」』

 預言の成就を最初に耳にしたのが、羊飼いたちでした。イスラエルに行くと、羊飼いをよく見かけます。イスラエル付近には、シナイ半島からイスラエルにかけて荒野が広がっています。そこには国籍も定かではない、羊飼い達が多く住んでいます。それはベドウィンと呼ばれる遊牧民族です。彼らは羊を飼いながら荒野を移動していきます。草のあるところに移動しては、羊に餌をあげます。彼らは不動産を持っていません。彼らの財産は羊です。荒野には所々に木があります。時々、そこに大きなふろしき包みのようなものがかかっていたりします。ガイドに聞くと、「あれは遊牧民が置いていった荷物だ」と言われます。彼らは春になるとそこに戻ってくるから、所々、ちょとした家財道具を木に縛りつけて旅をするようです。彼らは一生、定住地を持たない民族です。ある意味で彼らは一番不確定な、先行きを一番案じている人たちです。今でも荒野には多くのベドウィン達が住んでいます。イスラエルの政府も彼らを定住させる努力をしているようです。イスラエル政府がベドウィンたちの為に家を建て、「ここに住んで下さい」と彼らを連れて来ます。しばらくして、住んでいるかどうかを確認に行くと、家の中から「メーッ」という羊の鳴き声が聞こえます。何と家の中には羊や山羊、ロバが住んでいて、自分たちは外でテント生活をしています。「こんなに素晴らしい、五つ星クラスの宿舎をあげたのに、なぜあなたがたは住まないのか」と彼らに聞くと、「俺たちの家は満天の星じゃないといやだ」と言うのです。
 古くから彼らは、安住する地もなく、大国の狭間で不確定な生活をして来た為、ライフスタイルとして定着しているのです。
 そんな人たちにイエス様のお生まれが最初に知らされました。それは、イスラエルの国の中でも、とりわけ、最も立場の弱い人たちに神が目を向けてくださったのです。
 聖書は素晴らしい価値観を我々に提供しています。第一コリント十二章二十節から二十二節に、

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

 私たちが持っている一般的な価値観は、「強いところに価値がある」です。すると弱いものは切り捨てになります。日本の社会も、強いものが勝つという社会です。一生懸命幸せになろうとしても、そのような価値観が全体を支配している以上、難しいのです。しかし、聖書は、『からだの中に比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならない』と教えています。イエス様のお生まれはまさしくそうです。世界を一つのからだとして捕らえるとき、その中でも最も弱いところにお生まれ下さったのです。
 今日私たちも弱さを感じていますが、その弱さの中にこそ、主が働かれます。弱さは素晴らしい神の働かれる場所であることを忘れてはいけません。時々、私たちが人生の中に弱さを体験しますが、その時こそ、主が働いて下さる現場であることを強く意識する必要があります。
 人類は神様から離れたゆえに、悲しい運命が待っていました。初めはエデンの園に住み、いのちの木の実を食べていれば死ぬことはありませんでした。死にそうになっても、いのちの木の実を食べれば、また若返って再生しました。しかし、いのちの木の実に通じる道が塞がれてしまった、と聖書は記録しています。「善悪を知る木の実を食べるなら、死んでしまう」という神の言いつけを守ることができず、人類の中に死が入ったと聖書は教えています。それも、アダムとエバが罪を犯した時、息子の代に死が訪れました。カインとアベルが喧嘩し、カインがアベルを殺してしまうという事件が起こりました。それが創世記の四章に書かれています。四章十一節から十二節に、

『今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」』

 カインに神が語られたことは、「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる」でした。人類がさすらい人となったのです。以来、何千年にも渡って、人類はさすらい人となったのです。
 しかし、イエス様のお生まれが、最初誰に知らされたのでしょうか。最初に知らされたのが「羊飼い達」、即ち、「さすらい人達」でした。人類は神様から離され、さすらい人にされてしまいました。「さすらい人に神の目など届くものか。」という心境だったかも知れません。しかし、神様は、そのさすらい人に初めに訪れて下さいました。素晴らしいことです。神様の救いは完璧です。神様は最後までケアーして下さるお方です。時々私たちは人生の中で神の手から離れてしまい、見捨てられたのではないかという印象を持つ事があるかも知れません。しかし、神は決してあなたを捨てる方ではありません。必ず、受け止めて下さる方です。罪によってさすらい人になったカインとアベルの子孫を、永遠の腕で受け止めて下さったのです。羊飼い達、さすらい人の所に現れて受け止めて下さったのです。
イエス様の名前は、イザヤ書にあるように素晴らしいお名前です。『「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』と呼ばれます。しかし、イエス様にはもう一つのお名前があります。ルカの一章三十五節に、

『御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』

と書かれています。イエス様は聖なる者、「神の子」と呼ばれると記されています。イエス様は力ある神というポジションをお持ちですが、同時に、「神の子」としての称号をもお持ちです。
 昨日、雅子さまに子どもが生まれましたが、王家に生まれるとはすごいことです。なぜならば、何も知らなくても、生まれただけでその子には立場が備わっているからです。今回、天皇家に生まれた子どもは、今は何も自分のことがわかっていないと思います。自分のことが世間で騒がれているとか、自分が天皇家に生まれたとは、みじんも思っていないのです。しかし王家に生まれているので、すでに「ポジション」が確保されています。王家に生まれるとは、素晴らしいポジションがすでに備わっているのです。イエス様も「神の子」というポジションを持って生まれました。そのポジションはどのようなものだったでしょうか。ルカの福音書四章四十一節に、

『また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。』

 悪霊はなぜ、出て行ったのでしょうか。それは「イエス様が神の子というポジションを持っていた」ので、悪霊はイエス様に手向かうことができなかったのです。そこから出て行かざるを得なかったのです。その悪霊どもがイエス様から離れていった背景に、イエス様が神の子である、というポジションがあったのです。クリスマスのメッセージの中で、素晴らしいことは、ヨハネの一章十二節の言葉に書かれています。

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

 素晴らしい御言葉です。この御言葉を告白しましょう。この方とはイエス様です。イエス様を信じ受け入れるならば、「神の子ども」とされる特権が与えられたのです。ある方はイエス様を信じても、そんなポジションが与えられているの気付いていないかも知れません。しかし、やがてわかる時が来ます。神の子には神の資産を受け継ぐ特権があります。
 今朝、松本充裕君が亡くなられましたが、彼は昔、時々教会に来ていました。しかし先週、滝元開師が病院に行って交わりをしたそうです。彼はその時に、心から「イエス様を信じ、受け入れます」と、透き通ったような心でイエス様を受け入れて、一緒に祈ったそうです。何か神様が準備されたのではないかと感じます。その時彼は、自分が神の子とされたとはわからなかったと思います。しかし、彼は今は「良かった。あの時に祈って良かった・・・私は神の子だったんだ。本当に天国に来た!」と叫んでいると思います。ぜひ、遺族の方々のために祈って下さい。彼が今、天で持っている慰めと平安と喜びが、超自然的に遺族や友人の心に鏡のように映るように祈って下さい。しかし、私たちがイエス様を信じたら「神の子となる特権」が与えられたと書かれています。素晴らしいことです。
 今日、あなたはイエス様を信じていますか。イエス様を信じていれば、あなたは神の子です。イエス様が神の子であるというポジションを持っていたように、私たちもポジションを受け継ぐことができます。そのためにこの地上にイエス様は生まれて下さいました。
 最後に、イエス様は「平和の君」です。今イスラムの人々が、「これは聖戦だ」と言って自分たちの神の名を持ち出して戦争をしていますが、彼らの神は「破壊の神」です。これは本物の神ではありません。本当の神様は破壊者ではなく、平和の君です。ですから、私たちの信じている神様は平和を作り出すことができるのです。平和の君なる方、イエス・キリストです。今の時代には平和が必要です。平和の君なるイエス様に来て下さい、と祈りたいです。ローマ書十六章二十節に、

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』

と書かれています。平和の神が、平和を乱す背後に働く存在を踏み砕いて下さると告げています。それも、主を信じるものたちの足をもって踏み砕いて下さると約束して下さっています。こんな素晴らしいイエス様を信じることができたことを感謝しましょう。平和の君、イエス様です。イエス様が私たちの人類の歴史の中に生まれて下さったことを感謝し、クリスマスに心から主をあがめると同時に、神の子としてのポジションを受け取り、これがすべての人のものとなるよう、クリスマスの機会を生かして福音を伝えたいと願います。お祈りします。
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