今週の礼拝メッセージ
2001.12.9 (SUN)
祝福をくださる神
新城教会 上條実牧師

新約聖書 ヨハネの福音書3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。救い主イエス・キリストが私たちのためにお生まれになって下さったことを心から感謝いたします。先ほど読んでいただいた御言葉をもう一度お読みいたします。

『神は、実にそのひとりごをお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

この御言葉から今日は「祝福を下さる神」と題してお話ししていきます。祈っていただきましたクリスマスの子どもの集会が昨日行われました。私は子ども会の責任を持たしていただいておりますので子どもたちと共に準備として約一ヶ月間祈ってきました。お祈りする前、今回の子どもクリスマス会の動員について子どもたちと話し合いました。何人集めたいかということで話し合いました。去年は目標を三百人に設定しました。去年もその為に真剣に祈りました。そして感謝な事に三百人を少し越える子どもたちが集って下さいました。では今年は何人の目標をたてようかと言ったところ、千人と千五百人とか子どもたちですので大きいことを言っていました。正直言って私は精々去年と同じ三百人でと思っていました。三百人でも普通ではありません。この教会に一番近い東郷西小学校がほぼ三百人です。だから簡単ではないから三百人にしようと、話を持っていきました。しかし子どもたちは去年と同じではおもしろくないということで子どもたちは四百人にしようとまとまりました。しかし私は四百人は難しいぞ、大変だぞと言いましたが、子どもたちは「なんで信じんの?」といとも簡単に言うのです。「とにかく難しいぞ。四百人って考えて見な。今年ロン・ブラウンさんのコンサートをしたけれど、教会員の人が必死に友だちを誘って四百人だったんだぞ。大変だぞ」と言うと、「大丈夫じゃん、祈れば」と言うのです。幼子の信仰は立派です。信じ切っているのです。では真剣に祈らないと集まらないということで準備と祈りを始めました。子どもたちに四百人しようと言うはしましたが、正直私は不信仰なもので、絶対に無理だと思っていまいした。しかし、子どもたちは真剣に祈り始めました。今回二回子どもクリスマス会のためにということで、子どもたちを集めて祈祷会を持ちました。十一月の二十三日には市内の七つの小学校と豊橋の学校に行って祈りました。また、十一月三十日の夕方も学校が終わってから集まって、真剣に祈りました。四百人が集まるようにと祈りました。子どもたちは信じ切っているのです。わたしはその十一月三十日の祈祷会の最後に、悔い改めを攻められました。我が家の聖都も友だちを電話で誘っているの話を聞くと、四百人が集まるであんたも来てよと連絡していました。私は「ちょっとまって。四百人集まるかわからないぞ。」と言うと、「なんでお父さん、そんな事を言う?祈っているじゃない。信じないと」と言われてしまいました。彼らの単純な信仰を見て、正直に「私は四百人集まらないと思っていた。ごめんなさい。」と子どもたちに謝りました。わたしは既に四百人集まらなかった時、何と子どもたちに弁解しようと考えていました。「お前たちの祈り不足だ」とか考えていました。しかし子どもたちに悔い改めました。そしてその後私も信じて祈りました。当日二時少し前から子どもたちが集まってきました。二時少し前で二五〇人位でした。私は「やっぱりだめかあ」と思ってしまいました。しかし子どもたちの祈りは聞かれました。一生懸命誘って、ある子は一人で三十四、五人来たと言っていました。集まったのは子どもだけで三六八名、大人が五四名で合計四二二名が集まりました。メッセージする側としては大勢集まるのはうれしいのですが、子どもたちが騒いでメッセージを語る時話しづらくなり、いらだつ時があります。ある年はにはメッセージ中に一人の子どもが自分の後ろにまわって悪戯をしてきました。だから今年は水を打ったように静かに御言葉を聞くようにとみんなで祈りました。なんとこの祈りも聞かれました。昨日は皆が静かに御言葉を聞き、イエス様を信じる祈りをすることができました。嘘のように静かに聞く姿を見た時、神様は生きていると実感しました。私たちは無謀だと思うようなことでも、生きている神様に真剣に求めて叩き続けるときに神様が祈りを答えて下さることを身にしみて覚えました。また幼子のようにならなければ、神の国にはいることができないと御言葉にありますが、昨日は子どもたちの信仰で、勝利をいただきました。確かに、私たちの神様は生きておられます。また今日の御言葉のタイトルである「祝福をくださる神」は必ずあなたにも祝福を下さると信じましょう。まもなくクリスマスです。ルカの福音書二章八節から十一節に、イエスキリストの誕生の場面が書かれています。

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

羊飼いが野宿をしている時、天の軍勢が現れました。真っ暗い夜の中に光が輝きました。天の使いが告げた言葉で飼いは恐れました。そしてその言葉通り、イエスキリストがお生まれになったのです。私たちは今の生活を考えると色々な事件があり、恐れがあります。私たちは人前では顔には出さず、人にも言うことができない問題を持っています。またこの時代、このまま進んでいったらどうなってしまうのだろうか。自分の将来を考えるとどうなるのだろうかという恐れなどがあります。イエスキリストの誕生を知らせに来た天の使いは『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』と言っています。「この民全体のため」と言うところにあなたの名前を入れて読んでみてください。イエス・キリストがこの地上に来られたのはあなたのために喜びを知らせに来たと行っています。今は喜びがなく、悲しみの多い時かも知れませんが、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストは喜びを下さいます。また祝福をくださいます。ではどんな祝福をくださるでしょうか?
 祝福の第一番目は、イエスキリストは永遠の命を与えて下さいます。イエス・キリストがこのクリスマスの時来て下さったのには目的があります。それはあなたのためです。私たちは当然自分の犯した罪の結果として裁かれるべき者でした。しかしイエス・キリストは私たちのためにこの地に来られ、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえって下さいました。この十字架が自分のためであると信じたときに、救われ、永遠のいのちをいただくことができるのです。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

ひとりとして滅びることなくというところにあなたの名前を入れてみて下さい。あなたが滅びないように永遠の命を与えて下さいます。私の神として信じる時、イエス・キリストによって救われて、永遠のいのちを持つことができるのです。私たちは目の先だけを追い求めてしまうことがあります。しかしルカの九章二十五節に、

『人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。』

と書かれています。また、ルカの福音書十二章十六節から二十一節に、

『それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」』

と書かれています。私たちは生活で、自分の幸せを追い求め、目の先のことで必死になってしまいます。しかし、そんな中大切なことを見失ってしまいます。今日あなたは何を求めて生活されていますか、何を求めて毎日一生懸命働かれていますか。私は数年前に豊田市に在住している岡本兄姉のお友だちのお宅を訪問しました。その家のおばあさんがお話したことを今でも忘れることができません。彼女にイエス様は十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえって下さいました。そして死は永遠の喜びの始まりだということをお話ししました。クリスチャンは死ぬことが恐くない。天国に行けるなど死に対して詳しくお話ししました。彼女は死について興味深く聞いてくれました。私が話し終わると彼女はこう話し出しました。「私は病気をして一人になったときに、死ぬことが恐くて恐くてたまらなかった」と言いました。彼女は代々仏教で、毎日大きな仏壇を拝んでいました。お勤めを毎日してきたにも関わらず、いざ自分が死について考えるようになった時、三途の川を本当に渡ることができるのだろうか?一生懸命拝んでいるけれど私は本当に極楽に入ることができるのだろうか?と思うようになりました。一生懸命お勤めしても不安でたまらない。だから、死ぬことが恐くてたまらない。自分の枕元にお化けでも良いから、でてきて「死んだらこうなる」と教えてくれればと思って寝ていたそうです。いつ死んでも良いようにと毎日胸の上に手を合わせていたそうです。今日あなたはいかがでしょうか?私は極楽に行くことができると言っていても、正直に本当にあなたの心の奥の叫びを聞いてみて下さい。あなたは本当に天国に行くことができますか?あなたは本当に永遠のいのちを持っているでしょうか?イエス様を信じているクリスチャンは永遠のいのちをいただいています。イエス様が私の罪のために身代わりになって下さり、三日目によみがえって下さいました。私たちはイエスさまを信じました。私たちはイエス様を信じて永遠のいのちが与えられ、いつ死んでも天国に行けるという確信があります。永遠のいのちをあなたに得ることができる神様。死に対しても勝利と望みがある神様を信じて下さい。あなたは永遠の都、天国に入ることができます。先週も悲しい出来事がありました。あの松本君にもまた出会うことができます。また私たちの信仰の先輩がすでに天国へ行っていますが、その方ともまた会うことができます。行くことができるかわからない、心配だとか死の恐怖でいっぱいの方いませんか?明るく振る舞っているだけで、忘れているだけで、実は恐怖に押しつぶされそうな方いませんか?イエス様を救い主として信じてください。私たちは弱く、罪だらけの人間です。しかしこのクリスマスにお生まれになって下さったイエス・キリストを自分の救い主だと信じ受け入れて下さい。
 また、「祝福をくださる神」の第二番目は罪が赦されると言うことです。罪が赦されることは素晴らしい恵みです。私たちは言葉で人を傷をつけてしまうことがあります。過去人々を傷つけたり、傷つけられたりでいつまでも引きずって生きている方がいます。あのことさえ無ければ、こんなに悩まなくても良いのにとか思うことがあります。罪の呵責にさいなめられて、苦しみながら生きている人がいます。今日本に多くの精神的な病の人がいますが、罪が赦されたなら、多くの方が病から解放されると思います。私たちは過去の罪に悩まされ、苦しみながら、過ごしていますがローマ書八章一節に、

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』

と書かれています。また、ヘブル人への手紙八章十二節に、

『なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」』

と書かれています。これは素晴らしい御言葉です。イエスキリストを信じる時、あなたの罪は赦されるのです。私は罪人です。イエスキリストの流して下さった血潮によって赦されるのです。赦されるだけではなく二度とその罪を思い出さないとあります。なんと感謝でしょうか。しかし、日本の神々はどうでしょうか。女性の方が妊娠し、子どもがいらないと言うときに中絶をします。また流産した時仏教では供養をします。水子供養です。しかし、良いことをしてあげたと思っていても、結局責められます。赦されることはありません。供養して拝めば拝むほど、その子どものことを思い出し、苦しんで傷つきます。また悪魔との関係付けられ、霊的束縛を受けてしまいます。しかし、イエス・キリストの元にあなたが来て、私はこんな罪を犯しました。赦して下さいと悔い改めたときにローマ書八章一節にあるように、

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』

と書かれています。また、ヘブル人への手紙八章十二節に、

『なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」』

イエス・キリストはあなたを攻める方ではなく、赦して下さる方です。完全に赦して罪を二度と思い出さないと言って下さいます。私たちは新しい者と変えられて、すべての罪が赦されるということを確信することができます。赦されるということは素晴らしい神様の恵みです。今日あなたの中に罪に対して傷ついているところがあるならば、イエス・キリストの元に来て下さい。この十字架でイエス・キリストが血を流して下さいました。あなたのためです。その血によって罪がすべてきよめられると御言葉に書かれています。今日あなたの罪が赦され、もう二度と罪が思い出されないと神様が宣言して下さいます。こんな素晴らしい神様を覚えて下さい。
また、もう一つは、神様は祈ったら必ず答えてくださいます。祈ったときに必ず答えて下さる方です。この一ヶ月間、子どもたちと四百人が集まるように祈ってきました。クリスチャンの子どもたちは二十三〜二十四人です。その子どもたちが真剣に祈り始めて、昨日は全部で四二二名集まりました。これは人ではなく、神様がして下さったことです。子どもたちの祈りが答えられたのです。あなたも願い事がたくさんあると思います。自分ではどうすることもできない、自分の手には負えないことがたくさんあります。あなたは祈りを知っていますか?祈る対象を覚えて下さい。あなたを愛し、あなたのために自分のいのちを投げ出してでもあなたを救って下さった神様、イエスキリストに祈って下さい。その方に私たちはいつもい親しみ深く「イエス様」「天のお父さま」と祈ります。何でも良いのです。私たちの思っている思いを神様に、自分の言葉で祈って下さい。何でも祈ってください。神は真実で正しい方ですので私たちの祈りに答えて下さることを覚えて下さい。私たちと神様の関係は親子関係です。親に親しく、何でもお願いするようにあなたもイエスキリストに求めて下さい。親は子に必要かと考えます。必要であれば必ず答えて下さいます。祈っ下さい。それも小さく求めるのではなく、大きく求めて下さい。神様はあなたに一番必要なものを備えて下さいます。祈りは聞かれます。祈って必ず答えて下さる神様です。あなたに永遠のいのちを与えて下さる神様、また、罪を赦して下さる神様、祈りに答えて下さる神様、素晴らしい祝福を与えて下さる神様が今日あなたの心の扉をノックされています。「わたしを救い主として受け入れませんか。信じませんか。」信じるのはあなたです。あなたが心の扉を開けたときにイエス・キリストはあなたの神となって下さいます。今日あなたは死の恐怖がありませんか。自分はどこに行くのかわからない、自分は天国に行くことができないと思われている方、心を開いて下さい。イエスキリストを信じて下さい。また罪で苦しんでいる方、悩んでいる方はそれをイエス・キリストによって赦していただきましょう。完全に赦して、二度と思い出さないのです。また祈ったら必ず答えて下さる神様です。この神様をぜひ、あなたの神様と信じておかえりになって下さい。お祈りします。

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