今週の礼拝メッセージ
2001.12.23(SUN)
その名はイエス
新城教会 滝元明牧師

新約聖書 マタイの福音書1章21節〜23節
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。今日は久しぶりにここにいますが、私は十二月に入ってから北海道を巡回しました。私が北海道に行く途中、名古屋からの飛行機の中でヨエル書を読んでいました。そして、二章十二節の御言葉に出会いました。

『「しかし、今、・・主の御告げ。・・心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」』

そこで、真剣に祈り、リバイバルのために働くことを教えられ、断食をしました。感謝なことに寒い中でも守られ、体重は九キロほど痩せましたが、少しずつ戻っています。十二日間、断食した祈った最後の日に、御言葉が与えられました。それは、詩篇九十二篇十節から十五節の御言葉です。

『しかし、あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。私の目は私を待ち伏せている者どもを見下し、私の耳は私に立ち向かう悪人どもの悲鳴を聞きます。正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。』

 特に、私はこの中で、『新しい油を注がれました。』という御言葉を与えられました。それで、この御言葉を信じています。来年私は、大阪で集会をしたいと願っていますので、そのためには力が必要です。私はだいぶ年をとりましたが、『彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく生い茂っていましょう。』と書かれています。私の家内が赤ちゃんを生むことはもうないと思いますが、霊的な意味において実を結ぶことができると信じて心から感謝しています。
 さて、今日はマタイの福音書から学びます。

『マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』

イエス様のご降誕をお祝いできることは感謝です。その中でも、一番大きな感謝は、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』という御言葉から、クリスマスは父なる神が、子なるイエス様を私たちに救い主として与えてくださったことです。これが最高のことです。イエス様が地上に来られたことにより、私たちの罪が赦され、イエス様を信じることによって、神の子どもとされ、永遠のいのちを持つことができます。これは上からの最高の贈り物です。クリスマスには贈り物をもらいますが、ケーキは食べたら終わるし、車をもらったとしてもいつかは駄目になります。しかし、このクリスマスに、イエス・キリストという救い主を与えてくださったことを信じるなら、罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちを得ることができるとは最高です。
 イエス様の誕生を聖書から見ると、処女マリヤから生まれたと書かれています。マタイの福音書を見ると、イエス様の誕生について書かれています。マリヤは既にヨセフの妻に決まっていました。しかし、まだ夫婦生活をしていませんでしたが、聖霊によって身ごもりました。尾山令仁先生の訳した現代訳聖書を読むと、わかりやすく書かれています。今から二千年前、ユダヤの国では結婚しても一年間は同棲することはなく、一年後に宴会をして公に生活が始まりました。ヨセフとマリヤがまだ一緒にならない時、聖霊によって身ごもりました。これは一般的に言うと大変なことです。ヨセフは正しい人でしたので心配になりました。結婚しないのに子どもができたら石打の刑です。彼が非常に悩んでいるとき、天使が現れ「心配せずに彼女を迎えなさい。彼女は聖霊によって身ごもったのだ」と言われ、名前も教えられました。『マリヤは男の子を生みます。その名をイエスと名付けなさい。』と言われました。イエスとは旧約聖書だとヨシヤという名前です。ヨシヤはホセアという名前ですが、これは「神は救い」という意味です。「その名をイエスと名付けなさい。彼は自分の民を罪から救って下さる方です。」
 その名はイエス。今朝、私たちが救い主イエス様を知っていることは素晴らしいことです。主の名を呼ぶ者は救われる、「イエス様」と告白するだけで救われますから共に告白しましょう。『イエス様』と告白しましょう。イエス様の名前は世界で最高の名前です。
 処女から生まれるとは、すでにイエス様の生まれる七百年前に預言がなされています。イザヤ書七章十四節から十五節に、

『それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。』

 これはイエス様が生まれる七百年前、「しるしを与える」と預言されています。しるしとは何でしょうか。たとえば、聖書を手放すと下に落ちます。これは引力の法則です。しかし、もしも手を離して聖書が上に浮いたら、これはしるしです。普通に結婚して、夫婦生活の中で子どもができます。しかし処女が身ごもり男の子を生むなら、しるしです。今から約二千年前、処女マリヤによってイエス様はユダヤの国ベツレヘムにお生まれになりました。彼は救い主です。処女が身ごもったことは奇蹟です。ここで、処女が身ごもったことに強調点がありますが、「聖霊によって身ごもった」と書かれています。人間は男と女が一つになって子どもが産まれます。しかし、私たちはアダムの子孫です。そしてアダムとエバが罪を犯したことにより罪が入り、その罪によって人は死ぬ者となりました。私たちの中には生まれながらにして、罪の性質があるので、悪いことをしたくなくても罪を犯す性格を持っています。しかし、神は人類を救い出すために、人間の血の入らない神ご自身の、罪のない子を聖霊によって処女マリヤからお与えになり、イエス・キリストが生まれました。そして、この預言が成就したのがクリスマスです。処女マリヤを通して、イエス様がこの地上に来られたことは素晴らしいことです。イザヤ書九章六節から七節に、

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』

と書かれています。イエス様の名前の中に、『不思議な助言者』と言う名前がありますが、旧約聖書に記されているストーリーの中にサムソンがいます。彼が生まれる前、神様が現れ、その時、「名前を教えてください」というと、「わたしの名前は不思議」と語られました。そして、イエス様のお名前の中には「不思議な助言者」と言う名前があります。現代訳聖書によると、「カウンセラー」と訳されています。時々、心が傷ついてどうしたら良いかわからないという時があります。しかし、イエス様を信じたら、皆さんの人生を神様が不思議とカウンセリングして下さいます。「どうしたら良いかわかりません」と言う時、神が祈りを聞いてくださいます。
 北海道で祈っている中で、最後に与えられたことは、『新しい油を注がれました。』という御言葉でした。私は上からすごい力が来たので信じた訳ではありません。御言葉を信じて握りました。「若さは年老いてもみずみずしい」とありますから、来年も若さが与えられると確信しています。これがカウンセリングです。「心配しなくても良い。年をとっても新しい油を与えるから・・・」と言われます。ですから、これから色々な問題があるときに、直接イエス様に聞いたら良いのです。すべてを知っておられる不思議な助言者に頼ることが大切です。
 次には『力ある神』と書かれています。イエス様は全能の神です。イエス様は神でしたが、この地上に限定された人間としての姿をとり、神の子として救いのために来られました。その名前は、不思議な助言者、力ある神です。イエス様は全能の神そのものです。この神様を信じたら素晴らしいです。『神にとって不可能なことは何一つない』です。時々人間は人生に行き詰まります。問題にぶつかります。そんなとき、駄目だとは思わないで、「神にとってできないことはない」と信じて、神に祈ることが大切です。
 また、イエス様は『永遠の父』です。イエス様がこの地上に来られたとき、大きな問題をかもし出しました。それは、ユダヤ人に対して、『父とわたしは一つ』と言われたことです。それを聞いたユダヤ人たちは怒りました。「神を冒涜しているのではないか」と言いました。またイエス様は、『アブラハムはこの日を見ようとして楽しみにしていた』と語りました。それを聞いてユダヤ人は、「あなたは五十才にもならないのにアブラハムを見たと言うのか?」と聞くと、『わたしはアブラハムより先にある』と言われました。神様の名前は『わたしはある』です。それを聞いて皆は、石を投げつけてイエス様を殺そうと考えました。実はイエス様は全能の神、とこしえの父です。父とわたしは一つということは、イエス様は神ご自身でした。神ご自身が、人となって救いのために来られたのがイエス・キリストです。
 また『平和の君と呼ばれる』と書かれています。イエス様を信じたら平和が訪れます。家庭に問題があっても平和が与えられます。私たちがイエス様を信じたら、和解と平和をくださいます。私たちにとって一番嬉しいことは、イエス様が来てくださったことによって、どのような罪も赦されるという奇蹟です。赦されない罪はありません。この世界に赦されない罪は一つもありません。赦されない罪についてあえて言うならば、悔い改めない罪は赦されません。教会に来られていても時々失敗する人がいます。若いときに情欲に溺れて罪を犯してしまう人もいます。しかしそういう人でも、悔い改めたら赦されます。頑なに悔い改めないと言われる方は赦されませんが、赦されない罪は一つもありません。
 先日、対馬の真珠の養殖会社で話しました。多くの方が涙を流して御言葉を聞かれました。そこの方が、「先生、どんな罪も赦されないと言われた言葉は響きました。嬉しかったです。」と言われました。この世の中で一番素晴らしいことは、罪が赦されることです。なぜ、罪が赦されるのでしょうか。
 イエス様がこの地上に来られたときにバプテスマのヨハネが、『見よ。この方こそ、罪を取り除く神の小羊』言いました。昔ユダヤの国では、イエス様が来られる前には、神の前に直接出ることはできず、罪を犯すと、「神様、罪を犯しました。ごめんなさい」と言うだけではなく、ある人は羊、ある人は牛を連れてきて、神の前に出し、本当は自分が罪を悔い改めて死ななければなりませんが、私はこの羊、牛を身代わりにささげますから罪を赦して下さいと言って、祭司がそれを切り、血を流します。命は血の中に入っていますので、自分が死ぬ代わりに小羊をささげます。羊に手を置いて、自分の罪を言い表して羊に罪を着せて祈ります。私だったら、「小学校の時に偶像を拝んだ、かぼちゃを盗んだ・・・」と祈るのです。そして、「これを私の罪の代わりとしてささげます」と言って神様の前にささげ、殺しました。犠牲の羊の故に罪が赦されるのです。
 そして今日、どんな罪も赦されるということは、神が遣わされた神の御子イエス・キリストがこの地上に来られ、人類の罪を身代わりに背負われ、代わりになって死なれた故に罪が赦されるのです。イザヤ書五十三章一節から五節に、

『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。』

と書かれています。彼とはイエス様のことです。王の王で神の神であるとこしえの父が貧しいこの地上の馬小屋に生まれてくださったことは、見ばえどころではありません。神がこの地上に来られる時、へりくだった場所に生まれて下さるという預言です。三節から、

『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』

と書かれています。イエス様がこの地上に来られた目的は、私たちのために罪を負われ、十字架にかかり死なれることでした。イエス様が私の罪を背負って下さり、さげすまれ、のけ者にされました。また四節に、

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

この御言葉を個人的に適応すると、「まことにイエスは滝元明の病を負い、滝元明の痛みを担った。だが滝元明は思った。イエスは罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、イエスは滝元明のそむきの罪のために刺し通され、滝元明の咎のために砕かれた。イエスの懲らしめが滝元明に平安をもたらし、イエスの打ち傷によって、滝元明はいやされた」と言うことになります。
 今日信じてください。罪のない神の小羊、救い主がこの地上に来て「私たちの病を負われた」と書かれています。今日病気の方は、この御言葉を宣言して祈りましょう。今日イエス様の十字架で病を負われたことを信じましょう。五節に、

『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

と書かれています。なぜ罪から救われるかというと、罪のない神の子イエス様が私たちの罪のために、十字架で身代わりになって死んで下さった、あなたのために罰を受けて下さった、だからあなたは罰を受けなくても良いのです。イエス様を信じただけで罪が赦されます。どんな罪も赦されます。これは神の御子イエス様が私たちのために死んで下さったからです。
 人間は神様によって創造されましたが、初めの人間アダムとエバが、悪魔の悪巧みに騙され、悪魔の手に落ちました。食べてはならない木の実を食べたことによって人間は悪魔の手に陥りました。しかし、イエス様の十字架の贖いは、悪魔の手から私たちを買い戻すことです。
 私が数年前に、東南アジアのある国に行きました。するとそこの宣教師が私をすごいところに連れて行ってくれました。
 「先生、ここは泥棒市です。ここでは盗まれたものが売られている」と言われました。家のものを盗まれたら、次の日にここに来てみるとちゃんと売っています。しかし、「俺の家の時計、宝物だ、返せ・・・」と言っても返してもらえません。盗品がすでに第三者に売られているのです。それを再度自分のものとするためには、またお金を払って買い戻さなければなりません。罪から買い戻されると言うことは、悪魔の手からもう一度神のものとして、あなたを買い戻して下さると言うことです。聖書の言葉でこれを『あがない』と言います。今日、どのような罪でも、イエス様を信じたら赦されない罪はありません。悪魔は、人間を訴えます。しかし、サタンの声が来ても、「サタンよ、退け!私はイエス様を信じている」と宣言することができます。「私の罪はイエス様の十字架によって赦されている。サタンよ。退け!」と宣言してください。赦されない罪はありません。まだ罪が赦されているか、赦されていないかわからないと言う方はいますか?時々、サタンに攻撃され、やっぱり、私はまだ罪人だ、という人がいるかも知れません。そのような方は赦されていると宣言して祈りましょう。イエス様を信じたら、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

と書かれています。信じるだけで良いのです。難行苦行や、金を出しなさいとは言いません。信じるだけで罪が赦され、永遠のいのちを持つことができます。そして神の子とされます。やがてイエス様が来られた時には復活に預かることができます。素晴らしいいのちに預かることができます。これがクリスマスです。今日素晴らしい救い主が訪れたことを信じ、感謝しましょう。
 北海道に行ったら、一人のご婦人が私の所に来られて言いました。「滝元先生、私は親不知が生えていて痛くて・・それを抜くのに三万円かかると言われました。ある時に、ひとりの牧師に金がいると言うので、献金してあげたいと思いました。祈っていたら神様がささげなさいと言われました。八万円でした。三万円歯を抜くのに金がかかるけれど・・・と考えましたが、神様が出すように言われたので思い切って出しました。すると翌朝、目を覚ますと、親不知がなくなっていました。未だに生えてきません。癒されました。」と言われていました。
 今日、癒しも素晴らしいことですが、イエス様の所に来たら罪が赦され、天国に行ける、これは最高の恵みです。信じるだけで救われれるのです。お祈りします。

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