今週の礼拝メッセージ
2001.12.30(SUN)
神の武具を受け取ろう
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 エペソ人への手紙 6章10節〜19節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。

 ハレルヤ!今年最後の礼拝で奉仕できることを感謝します。私も、皆さんのお祈りに支えられて、一年間、無事に奉仕出来ましたことを、心から感謝します。今年、色々なことがありましたが、神の守りの中に導かれたことを感謝します。あなたにとって、この一年はどのような年でしたか。世界情勢などを見るときに、激動の年でした。また周りにも、大きな悲しみを経験されたり、病気になったり、色々な問題を体験され、今年は大変な年であったと言われる方もおられるかも知れません。
 また、ある方にとっては、「良い年でした」と言われる方もおられるかも知れません。しかし、私たちは、もう一度、年の終わりに、聖書の御言葉を受けとめ、新しい年に向かっていきたいと願います。
 使徒パウロは、キリスト教信仰を体系化した人物です。キリスト教もパウロがいなかったら体系化されなかったかも知れません。神が彼に特別な知恵を注いで、信仰の基本的な事柄を整理させるために用いました。彼は人生をローマで終えましたが、ローマで捕らえられている中、人生を総括するような真理を神から受け取りました。それで彼は、その重要な事柄を記して諸教会に送りました。それがエペソ人への手紙です。
 その最後の部分、六章十節で、彼は『終わり言います。』と一番重要な事柄を伝えました。それはある意味で、最も強調したい彼の遺言のようなものかも知れません。そして、彼が中心的に語っていることが、十二節にあります。

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 ここで、人類の敵は、目に見えるものではないと教えています。聖書を学ぶとき、目に見えない領域について目が開かれ、目に見えない神を信じるようになります。同時に、人類を苦しめ、人生を壊そうとする暗闇の世界の支配者、悪魔・悪霊の存在に対しても目が開かれてきます。
 さて、パウロの宣教の働きについて使徒の働きを読み進むとき、働きは大へんダイナミックでしたが、初期において彼は果たして本当の意味で霊的戦いの領域について理解していたかについては疑問が残る部分もあります。しかしエペソ六章で彼は、はっきりと霊的戦いについて語っています。その理由は、彼に時間があって、ゆっくりと人生を振り返り神に祈り求めたとき、人生の中に起こってきた種々の問題の背後に、悪魔の力が介入していたことを神から教えられたのでした。彼はそのことについて人生の最後の部分で気づかされ、急遽、この手紙を諸教会に書き送りました。この視点が、初めから開かれていたら、彼の宣教ももっと変わったかも知れません。
 私たちも今年一年間を振り返って、周りに起こった色々な事件を評価して、これが人間的なものではなく、霊的戦いかも知れないという視点を加えて一年を振り返る必要があるのです。
 それと共にパウロが語ったことは、『神のすべての武具を身につけなさい』ということでした。それを二回も繰り返しています。聖書の中で繰り返されている部分は、特に強調されている部分です。私たちが見えない敵と戦うために必要なことは、「神の武具を受け取る」ことです。その結果として、信仰生活も一般生活も、さらに安定したものになるのです。二〇〇一年が終わろうとしているこの日に、もう一度、神の武具を点検し、もしも、欠けている部分があったら、しっかりと補強し、壊れていたら修理していただき、身を固めて二〇〇二年を迎えたいと願います。
 最初に、武具を受けるための条件が語られています。六章十四節に、

『では、しっかりと立ちなさい。』

 これはどのような意味でしょうか。それに続いて武具について書かれています。文法的には、「しっかりと立つ」が主動詞です。必要な事は、まず、しっかりと立つことです。
 ヤコブ書四章七節に、

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

また、第一ペテロ五章八節から九節に、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

と記され、人々が苦しみに遭うことについて、霊的世界と関連があると述べています。
 悪魔が食いつくすべきものを捜しながら歩いているとか、私たちに挑戦しているということを聞くと、恐ろしく思い、関わりたくない無視したいと思いますが、「しっかり立つ」とは、ボクサーがリング上に立ち、ファイティングポーズをとったイメージであるとある注解書にありました。私たちが「しっかり立つ」とは、人生にはこのような状況があることを認識する必要があるということです。
 案外クリスチャンでも、信仰を二元的に理解し、人の世界と神の世界だけで判断している場合があります。だから、色々なことがあると、すべて神のせいにします。そして、「神様は悪い存在ではないか。恐ろしい存在ではないか」と考えます。これは正しい考えではありません。世界は神と人との二つではなく、ここにはもう一つ、人を苦しめ、人を責め立てる悪魔と悪霊の世界があるのを認識しなければならないのです。霊的戦いの勝利の秘訣は、「認識」です。認識さえあれば、かなりの領域で勝利できると私は思います。
 一般社会の中では、神の世界、悪魔の世界、人間の世界という認識はありません。ただ単に、神様がいるかも知れない、いないかも知れない、というくらいの認識しかありません。人生のただ中に、悪魔の世界と神の世界が同時存在しているという認識がないです。「しっかりと立ちなさい」とは、霊的世界に対するはっきりした認識を持つというところにあります。
 もしも私が、ある家庭を壊すために透明人間となって家庭に侵入したら、私は自分の存在に気付かれないようにして働きます。そのためには、家族のメンバーがお互いに同士打ちして、お互いを責め合って自滅していくようにしむけます。そうするならば、私は気づかれずに、破壊活動を続けることができるからです。
 しかしある時、その家族が認識を変えたとします。「家の中に色々な問題があるけれど、もしかしたら、家の中に透明人間のようなものがいるのではないか」という認識ができたらどうでしょう。その認識が生まれただけで、透明人間である私の働きは制限されます。同様に、人生にもこのような見えない敵が存在するという認識を持つのが「しっかりと立つ」ことであり、悪魔に立ち向かうことになるのです。
 悪魔に立ち向かうとは、「積極的に悪魔に突撃しなくてはならないのか」という感じがするかも知れません。しかし、「立ち向かうこと」は「認識をすること」です。私たちの周りには、常に霊的戦いがある、故に、神の武具を受け取る必要があるという認識です。
 続いてパウロは、受け取るべき武具について記しています。六章十四節から、

『では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

 パウロは、この手紙を牢屋の中で書きました。彼の周りには、ローマ兵がウロウロしていました。それを見ながら手紙を書いていました。兵士達は武装していました。彼はそれを見ながら、「私たちも神からの武具で武装すべきだ」と考えました。ここを読むと、真理の「帯」、正義の「胸当て」など、一つ一つのパーツに目が行きますが、それらは何を教えているのでしょうか。それはパーツに対応して述べられている、「真理、正義、平和の福音の備え、信仰、救い、御言葉」が霊的戦いの武具であり武器であるのです。ということは、守りのために受け取らなければならない武具は、「真理、正義、平和の福音の備え=宣教、伝道、信仰、救い、御言葉」なのです。これが私たちの武具です。これらの武具を、今日、私たちは受け取りたいと願います。
 第一に、「真理」を受け取るとはどのような意味でしょうか。ヨハネの十四章六節に、

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

と書かれています。ここでイエス様は、「わたしが真理だ」と語られました。エペソ四章二十一節には、『まさしく真理はイエスにあるのですから。』と記されています。真理とはイエス様ご自身です。しかし、「イエス様を受け取る」と言われても、具体的にはわかりにくい表現です。具体的には何を意味するのでしょうか。それは、信仰のキーワードが「イエス様」というお名前にあるということです。
 キリスト教の神理解に「三位一体」があります。三位一体とはなかなか難しい教理です。それは、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一つだということです。イエス様は神様でした。この地上に制限された肉体をとり、神の子としての身分と共に来てくださいました。けれども、神が人となったので、その期間、宇宙を支配する神はいなくなったというのではありませんでした。人の姿をとられましたが、神はおられました。
 イエス様は十字架で死なれた後、よみがえられ、天に帰ってしまわれました。その結果、この地上からイエス様は姿を消して神はおられないのではなく、その代わりに聖霊様が来られました。その聖霊様は助け主です。しかし、聖霊様は神であり、イエス様と同質であるのです。これが三位一体であり重要な理解です。
 その中で、最も重要なキーワードが「イエス様」です。イエス様は「わたしは門だ」と語られました。イエス様がいなければ、誰一人、父のところに行くことはできません。真理の帯とは「イエス様のお名前」です。イエス様という名前を通して、私たちが祈るときのみに「父なる神の前に出る」ことができます。
 この世の中の宗教でも、唯一の神という概念はありますが、いくら「神様」と叫んでも、イエス様の名前を通して呼ばなくては、父なる神の前に出ることは出来ないのです。また、この世の宗教の概念の中にも「霊を受ける」というものがあります。人は強い霊を受け、満たされたいという願いがあります。だから降霊術師に拝んでもらって霊を降ろしてもらうのです。しかし、「イエス様」というキーワードがなければ、神の霊を受けることはできません。悪霊を受けてしまいます。ということは、イエス様というキーワード、即ち、真理がなかったら、父なる神様にも、聖霊なる神様にも触れることができないのです。イエス様を無視して、父なる神だけを強調すれば、やがてニューエイジ的になります。聖霊だけを強調すれば、シャーマニズム的になってしまいます。また、人となられたイエス様がすべてならば、いつしか人間崇拝にすり替えられる危険性もあります。ですから、三位一体は重要です。その理解の中で、信仰のバランスを保つことができます。これが真理の帯なのです。同時に第一ヨハネ一章八節から九節には、

『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

とあります。真理の帯とは、「自分が罪人であることを認める」ことでもあります。自分の罪を言い表すなら、罪を赦すと同時に悪から私たちをきよめてくださるという約束です。悪とは「存在」です。霊的戦いに勝利する秘訣は、真理の帯の中に「悔い改め」があります。私たちは日々、罪を悔い改め、きよい歩みをすることが「真理の帯」の中に隠されているのです。
 第二に「正義の胸あて」とは何でしょう。詩篇十一章七節に、

『主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。』

とあります。神は正義なる方です。人間の正義には、国によっても理解が違い、人によっても価値観が違います。本当の正義を身にまとっておられる方は、神だけです。『直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る』と記されています。私たちの守り、正義の胸当てとは「御顔を仰ぎ見る」ことなのです。偉大なイスラエルの王ダビデは、詩篇十六篇八節で、

『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。』

と語りました。主の御顔を仰ぐなら人生は揺るがないのです。
 次に「平和の福音の備え」です。六章十五節の言葉を新共同訳聖書で見ると、

『平和の福音を告げる準備を履物としなさい。』

と訳されています。これは「伝道する」ことが「あなたを守る武具」だというのです。イザヤ書五十二章七節に、

『良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。』

と書かれています。福音を伝えることが、私たちを守る武具です。第一ペテロ三章十五節に、

『むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。』

と書かれています。神から受けた救いを誰かに渡す準備をしていることが、あなたの守りとなるのです。今年、福音を宣べ伝えることができましたか。もし福音を伝えることができなかったら、武具がほころびているかも知れません。来年はしっかりと福音を宣べ伝えて下さい。
 第三に「信仰」と書かれています。信仰とは何ですか。へブル十一章一節に、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

と書かれています。信仰とは、まだ見たことがないものを信じることです。しかし、闇雲に信じるのではありません。信仰とは、宝くじを買ってきて、「絶対に当たる」と信じるようなものではありません。武具としての「信仰」とは何でしようか。コロサイ人への手紙二章十二節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

と書かれています。守りのためにどのような信仰が必要であるかというと、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた人々は、「イエス様と一緒によみがえらされた」という、「よみがえりのポジション」にあるという信仰です。この信仰があなたを守ります。イエス様は十字架にかかって三日目によみがえられ、『私は、天においても地においても一切の権威を受け取りました。』と語られました。よみがえられた時、一切の権威を受けとられたのです。そして、私たちも同じよみがえりのポジションに立つ事が出来るのです。私たちも一切の権威を共有する事が出来るのです。「信仰の大盾」とは、バプテスマを受けたら「よみがえりポジションに立っている」という信仰です。今日まだ、バプテスマを受けられておられない方は決断して下さい。そうすれば、イエス様のよみがえりと同じ立場に立つことができます。この信仰を持って下さい。
 また、「救いのかぶと」とは何でしょうか。第一コリント十五章二節から五節に、

『また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。』

と書かれています。ここで、「救い」において理解すべき、最も重要な点について教えています。あなたがこれらの事柄を信じているなら、あなたは救われているのです。そして、これをしっかりと認識がしていることが「救いのかぶと」です。
 その第一は、イエス様が私たちの罪のために死んで下さったことです。『キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと』とあるからです。イエス様が十字架にかかったのは、私たちの罪のためでした。信じますか。また死んだだけではなく、葬られ、聖書に従って三日目によみがえられ、弟子たちも現れた。よみがえりのイエス様に実際に出会った人がいることを信じること、それが救いです。これらを認識することが「救いのかぶと」であり、これが、「守りの武具」となるのです。
 つづいて、「神の御言葉を受け取りなさい」です。神の御言葉を受け取るとは、ヘブル人への手紙四章十二節に、

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』

と書かれています。神の言葉は生きているのです。聖書の言葉は、昔起こったことを記録した、ただの歴史書や物語ではなく、「今も生きている」という理解です。神はことばで天地を創造されたと記されています。聖書のことばはすべて神のことばなので、どの言葉も天地創造を行うほどの神のパワーが込められた生きた言葉なのです。
 今、六つのことを話しましたが、これらは私たちの身を守る武具となります。真理=イエス様、正義=主を仰ぎ見ていく、信仰=よみがえりのポジション、平和の備えの靴=伝道、御言葉=ことばは生きている、これが私たちの守りです。点検して下さい。

 しかし、パウロはこれだけでは終わりませんでした。次に守りにおける中心的な事柄について語りました。これは七番目の最も重要な武具です。十八節から二十節に、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。』

 最後の最後に述べられていることが、「祈りが最も大きな武具であり、武器である」ということです。まず、どのような祈りを受け取る必要があるのでしょうか。それが、「御霊による祈り」です。御霊による祈りとは、聖霊様が与えて下さる祈りです。私たちは御霊による祈りを受け取るべきです。御霊による祈りは、事態を好転させていきます。私たちの生活の中で、イエス様の名によって御霊による祈りを受け取れるように祈りましょう。
 「祈りの人」とならなければ、人生に勝利できません。皆さんは御霊による祈りをされていますか。また、神様の前に出ていますか。何か問題があるときには、神の前にすぐに出て祈る習慣が必要です。ここでは、絶えず祈ることについても教えています。『忍耐の限りをつくし、また、祈りなさい。』を新共同訳聖書では、

『絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。』

と訳されています。第一テサロニケ五章十七節でも、『絶えず祈りなさい』と勧めています。これは「常に祈り心で生活する」ということです。私も、常に祈り心で生活するよう心がけています。一つ一つの事柄を自分の知恵や、知識ではなく、御霊に教えられて祈りながら進んでいきたいと願っています。また、何かがあったら、すぐに神の前に出て祈ることにしています。
 先日、ある兄弟とお話をしたとき、彼は、「私は毎朝、高いところに上って町を見て祈っています」と言われました。皆さんは祈りの場所をお持ちですか。秘密の祈りの基地を持つ必要があります。色々なことがあったら、神の前に出て叫んで祈るのです。「主よ!今こんな問題があります。助けて下さい!」と祈るのです。イエス様の名によって神に祈るときに、必ず、答えを与えて下さいます。私もこの周辺に、いくつか私しか知らない祈りの基地があります。「あそこに行って祈ったら、私のために主が祈りを聞いて下さる。あの時も、あの場所で祈った祈りを主が聞いて下さったのだから。」という、記念の場所もあります。だからそこに行って祈ると、信仰が湧いてきます。何かあった時には、すぐにそこに行き、イエス様の名によって父なる神に祈ります。「助けて下さい。どうしたら良いですか。」聖霊によって助けをいただいて祈る時に、勝利が与えられます。
 それと同時に、『私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。』とパウロは二回ほど祈りの要請をしています。これは「とりなしの祈り」です。祈りも、自分自身の祈りだけでは不完全です。誰かにとりなして祈ってもらうことが大きな守りの武具です。あなたのためにとりなし祈ってくれる友をぜひ捜してください。「私のためには必ず、あの人が祈ってくれている」というのが守りです。特に夫婦は、互いに対しての責任があると思います。お互いが、お互いに対してとりなし手になるべきです。夫は妻に対して、妻は夫に対してとりなし手になることが大切です。なぜならば、夫婦は一心同体だからです。また子どもたちのために、子どもは親のためにとりなし祈る時、家族が守られます。とりなしの祈りの領域を更に広げていただき、とりなし祈る者とならせていただきたいと願います。
 二〇〇一年を終わるに当たり、もう一度、私たちが持っている武具を点検し、もう一度しっかりと受け取らせていただき、二〇〇二年に向かいましょう。守りを固めて戦っていくとき、二〇〇一年以上の守りと祝福があると信じます。イエス様の十字架の血潮を仰いで祈りましょう。一言祈ります。

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