今週の礼拝メッセージ
2002.1.6(SUN)
祈りなさい!
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 エペソ人への手紙6章18節
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

 ハレルヤ!新年あけましておめでとうございます。しかし、新しい年を迎え、希望もありますが、希望よりも不安の方が多いようにも感じますが、私たちは決して変わらないイエス様に希望を持って歩みたいと願います。
 年末年始において、この教会では色々な御言葉が語られ、御言葉と祈りによって2002年を始めました。今年お一人一人が祝福されて歩むことができるように、互いに祈り合っていきたいと思います。十二月三十一日の越年集会においては、六人の牧師、副牧師によって御言葉が語られました。皆さんが個人的に主から語られている御言葉と合わせて、今年一年の指針として受け取っていただきたいと思います。
 私が今年、神から委ねられ、受け取っている御言葉は、ヘブル人への手紙十一章三十二節、三十三節です。

『これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』

この御言葉は、去年の暮れに、主の前に真剣に祈って、2002年に対する御言葉として受け取りました。三十二節に出て来るギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルとは神の人です。それを私たちに対応させ、三十三節の「彼ら」とは、私たち一人一人のことです。「信仰によって国々を征服し・・・」、これを霊的戦いとしてとらえ、暗闇の支配者たちに対して勝利を得、正しいことを行い、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れますように。この言葉が預言的に、お一人一人に開かれていきますよう、心から祈らせていただきました。
 「ししの口をふさぎ・・」とありますが、昨年一年間、霊的ししによって人生を食いちぎられたり、試練に出会われた方もおられるかも知れませんが、今年は信じて下さい。ししの口がふさがれることを信じてください。またそれだけではなく、試練の火や困難の火が消え、剣の刃をのがれ、一切の危険から守られ、弱い者なのに強くされ、霊的戦いの勇士となり、他国の陣営、悪魔の国を完全に打ち破る「勝利の一年」となりますよう、心から願って止みません。
 また続けて神が私に語って下さっている御言葉は、エペソ人への手紙六章の後半です。

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

ここでは「祈りなさい」という言葉が、二回も命令形で私たちに迫っています。聖書の中で二度繰り返されている言葉は特に重要です。今年一年間、絶えず目を覚まして祈らなくてはなりません。「すべての祈りと願いを用いて」と書かれています。「願い」とは「嘆願」という意味があります。色々な領域において、熱心に神に嘆願しなければなりません。日本のリバイバルのために、ひとりひとりの健康と守りのために、すべての領域において神に嘆願して祈り願うならば、御霊による祈りを授けて下さると教えています。
 「絶えず目を覚ましていなさい」とあります。時々私たちは眠りこけてしまうことがあります。そんな時、神が力強く語られます。「絶えず目を覚ましていなさい」。
 私は旅が多く、色々なところで奉仕させていただきますが、ある教会で奉仕する前日は緊張します。なぜならば、その時刻に間に合わないと大変なことになってしまいますから。ですから、目覚まし時計をかけて眠ります。しかし気持ちよく眠っていると、突然、目覚まし時計が鳴ることがあります。それで寝ぼけていて、自分がどこにいるのかわからない時があります。目覚まし時計によって起こされ、急いで立ち上がって出かけるのです。時折、人生の中でも霊的に眠りこけてしまい、祈りから離れてしまう時、目覚まし時計が鳴るときがあります。皆さんの人生にも、祈りの目覚まし時計がなったことがあると思います。
 昨年は大きなテロ事件がありました。そのことに関して、あるキリスト教指導者がある雑誌に寄稿しました。「あれは人類に対する大きな目覚まし時計だ。祈りなさいという神からの目覚ましではないか」。現実にテロ事件後、アメリカで国家的祈りが大きく広がっていきました。また全世界でクリスチャンが祈るようになりました。悲しい事件でしたが、ある意味において、人類に対する目覚まし時計だというのです。なぜ、神があのような事件を許されたかはわかりませんが、一つ言えるのは、今は「終わりの時代」であると言うことです。イエス様はマタイの福音書二十四章十二節から十四節で、

『不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』

と預言され、世界は無限に続くのではないと語られました。そして終わりの時代には「人々の愛が冷えてくる」と言われました。現代の家族、友人関係、社会などに愛が冷えてしまっていることは確かです。同時に、終わりの時代のしるしは、「御国の福音が全世界に宣べ伝えられる」でした。今どの国にも福音が宣べ伝えられています。福音を受け入れる、受け入れないは別にして、マスメディアの発達において、福音が全世界に伝えられています。ある意味で、これは世の終わりのサインです。第一ペテロ四章七節に、

『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。』

とあります。この言葉は今から二千年前に語られました。二千年前のクリスチャンも、世の終わりが近いと感じながら過ごしていました。それと比べたら、現代はもっと緊迫感を持つべきです。この世の終わりに際して『身を慎みなさい』と神は二千年前よりさらに強く私たちに語っておられるはずです。ユダの手紙二十節から二十一節に、

『しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。』

と書かれています。私たちが終末の時代に持つべき信仰の態度は、自分の持っている最もきよい信仰の上に自分自身を築き上げることです。今年、私たちが主に仕えていく姿勢は、私たちが今までに培ってきた信仰の中で、最も高いところを基準として歩むように勧められています。皆さんが今までクリスチャンになって、どの時点が最も主に近かったでしょうか。今年は、その時点から信仰生活を始めてください。
 一月はある意味で、国民的祈りの賜物が強く現されている月だと思います。特に正月三賀日、日本人は、国民総出で祈りに行きます。祈りの対象は間違っているかも知れませんが、一度に八千万人ほどが神社仏閣で祈りをささげます。祈りを悪魔に奪われていますが、ある意味で、日本人には祈りの賜物が用意されていると思います。私たちクリスチャンもこの一月、真の神からの祈りの賜物を受けて年を始めるべきです。そうすれば素晴らしい一年になると思います。
そして、どうせ祈るならば、答えられる祈りをするべきです。いくら祈っても答えられなかったら、祈りもむなしいです。聖書は、答えられる祈りの秘訣について教えています。
 イギリスに十九世紀、ジョージ・ミューラーという偉大な神の働きをした人物がいました。彼はこのように語りました。「私は祈りの霊によって生活している。歩いていても、寝ていても起きていても、私は祈っています。この祈りの応答は常に与えられます」と。ジョージ・ミューラーは祈りだけで孤児院をたてました。その中に多くの奇蹟がありました。彼の生活の信条は「祈りの霊」でした。歩いているときも、寝ているときも、起きているときも、「いつも私の心に祈りがある」と言いました。私たちもこのようなライフスタイルになりたいものです。いつでも自分の心に祈りがある、そして常に祈りの応答が与えられる、何と彼は、人生の中で五万回以上の祈りの答えを記録しています。私たちが神に近くあり、祈り心をもって生活することは、一年を安全に歩むための秘訣です。新しい年になり六日間が過ぎようとしていますが、いかがでしたか?日々祈りと共に生活できましたか。「正月だから祈りから少し離れてゆっくりさせていただきました」と言われる方もいるかも知れませんが、それではいけないのです。常に私たちが祈り心で生活するときに、知らない内に御霊による祈りが与えられるのです。
 答えられる祈りのために絶対的に必要なことは、「イエス・キリストの名によって祈る」ことです。多くの日本人には祈り心があります。正月は特に「神よ。私を一年間守って下さい」という祈りがあります。しかし、「イエス様の名前」を使っていない以上、残念ながら「父なる神」、天地宇宙を造られた神の前には届いていません。イエス様は、「わたしは門です。」また、「わたしが道です。」とも言われました。イエス様を通してでなくては、神の前に出ることはできません。イエス様の名前によって、神に祈ることが必要です。日本人は色々な名前を使って祈っています。ある神社では、かつての偉人、武将、神話上の人物、架空の存在の名前をもって神に祈っています。しかし神は、「その名前では駄目だ」と言われます。私たちが神の前に出ることができる唯一の道は、「イエス様」です。イエス様を通して、私たちは父なる神様の前に出ることができます。去年はマイラインが盛んに言われました。マイラインは電話会社を選びます。そうすると、初めの桁を押さなくてもその電話会社に自動接続されるというものです。私たちのマイラインはイエス様です。イエス・キリストの名を通してでなければ、神の国につながることはできません。私たちがイエス・キリストの名を通して祈る時、その祈りが本物の神の前に届きます。この正月、何千万人が祈ったかわかりませんが、彼らの心にあるのは私たちと同じ願いだと思います。「今年一年間、家族が守られるように、試験に受かるように」など、願いは同じです。しかし、マイラインが違うと真の神に届きません。私にとって今年祈らされたことは、「日本人が間違った門、名前を使って祷っていますが、イエス様という門に気付かされるように」と祈らされました。イエス・キリストという名前で祈ることができることを感謝したいと思います。
 続いて、私たちの祈りが答えられるためには、ヨハネの福音書十五章七節に、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

これは、素晴らしい言葉です。「何でも欲しいものを言って下さい、そうしたらそれをかなえてあげる」というのです。子どもたちに、「何でも欲しいものを買ってあげる」と言ったら、大へん喜ぶと思います。同様に、神は神の子どものために「何でも言って下さい。何でもかなえてあげるから」と言われました。この言葉を今年、預言的につかみたいと願います。しかし、「あなたがたがたがわたしにとどまるなら」という条件があります。イエス様という名前にとどまり、イエス様を門として祈るならばです。同時に十二節に、

『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。』

と書かれています。イエス様がこの地上に来られて「戒め」を与えられました。旧約聖書に戒めが記されています。イエス様はそれをベースにして、新しい戒めを人々に与えられました。人々は「どんな厳しい戒めだろうか」と緊張しました。しかし、イエス様の戒めは、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、ああしなさい、こうしなさいという難行苦行ではありませんでした。イエス様は、「互いに愛し合うこと」を「戒め」として与えられました。十六節から十七節には、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。』

「愛し合う」ことを条件に、「祈りに答えてくださる」と約束されています。ヨハネ第一の手紙三章二十二節から二十三節には、

『また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。』

 イエス様は「終わりの時代には愛が冷えます」と語られました。私たちはどんどん愛が冷えていく時代に住んでいます。しかし、教会は神の国の領域にあるべきです。社会において愛が冷えていっても、教会の中の愛は熱くなるべきです。互いに愛し合うことは、神に祈りを答えていただくための「必要条件」です。逆に言えば、「あなた方が愛し合わなければ決して祈りを聞かない」ということです。
 教会はイエス様を中心とする、きよい愛の共同体です。世の中の愛がどんなに冷えていっても、私たちが互いに愛し合うところから離れたら、教会は意味を成さず、また、神は祈りに答えられないのです。今朝、心を点検し、互いに愛し合うことを意識していきたいと願います。今年はこの教会に愛が満ち溢れ、互いが互いを気遣い、ただ単にヒューマニズム的な愛ではなく、キリストの愛により互いの祈りによって気遣い、支え合っていきましょう。憎しみ、妬み合いという、この世の価値観で動くのではなく、熱く愛し合い、愛を実践するときに、「何でも欲しいものをわたしに求めなさい。私はあなたの祈りを聞いてあげる」という約束です。
 これは家族においても、友人関係のおいても同じことです。夫婦関係でも同じです。互いの愛を失うのと同時に、神の愛をも失います。関係が近ければ近いほど、愛することができなくなってしまいます。しかし、イエス様は「愛し合いなさい、これがわたしの戒めです」と語られます。「愛すること」これがイエス様の最も大切な教えです。そして人生を祈りにおいて勝利するためのキーワードだと思います。今年、お互いが愛し合うなら、必ず教会に神のみ業が現れます。
 一人一人に神が目的を持っておられ、賜物を与えられておられます。また、教会に対する賜物と祈りを持っておられます。そのみ業が現されていくためには、一人一人の祈りの生活が変わる必要があります。一人一人、愛の中で成長し、祈りの人になっていくならば、教会全体に神が持っておられる、「キリストの体としての神の業」が更に増大し、主のみ業がこの国に現されていきます。
 イエス様は人の姿をとってこの地上に来て下さいました。そして私たちに祈りの生活についての見本を示してくださいました。私たちはイエス様から祈りを学ぶべきです。ルカの福音書六章十二節に、

『このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。』

と記録されています。イエス様は神ですから、別に祈る必要はなかったのではないか、と考えます。しかし、イエス様がこの地上に来られたとき、神の姿を捨てて、人間として生活されました。だからイエス様は私たちと同様に、父なる神様に祈る必要がありました。イエス様は祈りによって新しい力を受け、この地上を歩まれました。私たちもこの原則に従うべきです。イエス様は大きな働きをされました。しかしその度ごとに、祈るために山に入って行き、祈りながら夜を明かされたとあります。また、朝早く起きて祈ったとも聖書は記しています。イエス様は祈りの人でした。皆さんも祈りの人になってください。そして、たまには、山にでも入って祈ってください。そうするならば、個人的に素晴らしい力と導きが与えられます。ヘブル五章七節に、

『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』

と書かれています。イエス様がこの地上に来られたときに、「大きな叫び声と涙を持って祈られた」と記されています。私たちも、時には、大声で祈るべきです。涙を流して祈るべきです。それはイエス様もそうされたからです。案外、祈りが体裁良くなっています。それではいけません。心のどん底から、叫んで祈る必要もあるのです。先週、兄弟姉妹と共に、県民の森の山に入って祈りましたが、神の前に叫んで嘆願することは大切です。神様は大声を出さなくても聞こえると言われる方がいますが、私たちの心の感情を神に伝える祈りは大切です。イエス様がそのようにされたので、私たちもそのようにしたいと思います。そうするならば、さらに私たちの中に力が与えられ、御霊の思いが広がるでしょう。
 ある意味で私が変えられたのは、個人的に主の前に祈るようになってからでした。一九八五年頃のことでしたが、私の周りに多くの問題が起こってきました。ある意味で、それは私にとって目覚まし時計のようなものでした。その頃私は牧師に任命され、嫌な予感がしていました。なぜならば、牧師として任命されながら、私はほとんど祈っていなかったからです。祈りは好きではありませんでした。日に三回、食前には祈っていましたが、心から叫んで祈るというライフスタイルはありませんでした。だから私は牧師になったときに嫌な予感がしました。
「神様はきっと私を放っておかれないだろう。祈らせるために、何か問題が起こるに違いない。」と変な確信がありました。そして、本当にその通りになってしまいました。祈らなければならない状況が、これでもか、これでもかというくらいに起こってきました。それで意を決して、祈り始めました。ある時、神の前に個人的に出て祈らなくてはならないと強く促され、一月の寒い夜中に、一人でリュックサックを背負って県民の森の頂上に登って真剣に叫んで祈りました。「神様。助けて下さい、今私は色々な問題で押しつぶされそうです。」
その時に神が教えてくださいました。「この戦いは血肉のものではなく、霊的戦いであり、祈りによらなければ勝利出来ない」と言われました。それがきっかけとなり、私の中に「祈り」というライフスタイルが築かれてきました。そして神の前に出て、真剣に呼び求めて祈る習慣が形作られました。気がつくと、様々な問題がなくなってきました。そして自分自身も神に近くなっていました。他人から見てもだいぶ私は変わったらしいです。この新城教会におられるお年寄りの方々がよく言われます。「新城教会に色々な奇蹟が起こったけど、一番の奇蹟は、あの順牧師が変わったことだ」と言われます。嬉しいような悲しいような複雑な気持ちですが、私は変えられました。ですから、皆さんも優先順位を「祈り」に設定してください。ライフスタイルの中心に、祈りを置くならば、神が必ず皆さんの人生に関わって守ってくださいます。私たちは忙しい時代に生き、案外、祈らなくても済んでしまうような時代に生きていますが、ライフスタイルの中心に、祈りを持っていくならば、色々な問題が解決され、様々な危険からも回避されると信じます。目覚まし時計が鳴ってから祈るのではなく、「常に祈る」べきです。いつも眠らずに祈るならば、目覚まし時計が鳴ることがなくても済みます。ですから、皆さんの個人的な祈りを充実させてください。一日忙しいかも知れませんが、確実に神の前に出て個人的に祈る時を持ってください。それはあなたにとって大きな祝福となるのです。仕事に行く途中、車中で祈るのです。また、車で帰る途中、どこかに車を止めて五分でも十分でも、神に叫んで祈ってください。祈りを最優先していくならば、あなたの人生に変化が起こり、素晴らしいことが起こされます。ローマ人への手紙八章二十六節に、

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』

と書かれています。イエス・キリストを信じている者の心の中には聖霊様が住まわれています。しかし、聖霊様のとりなしはどこから始まるかというと、祈りの時間をとるか、とらないかで決まります。日々を祈り心で生活すると共に、イエス様が山で祈られたように、大声で叫び、涙を持って祈られたように、メリハリをつけた祈りの時間をとるときに、知らない内に私たちの心から「御霊による祈り」が生まれてくるのです。何を祈ったら良いかわからない、どう祈ったら良いかわからないところから、「御霊の祈り」が生まれます。聖霊様が働き始めます。御霊による祈りが始まります。祈りがしっかりと位置付けられるときに、人生はスムーズに動いていくと思います。
 マルチン・ルターという宗教改革をした偉大な人物は、毎日三時間ずつの祈りを欠かさなかったそうです。それによって、迷いを見分ける力が与えられ、偉大なる宗教改革の大事業を成し遂げた、とある本に書かれていました。彼は宗教改革という一大事業を成し遂げました。しかし彼のライフスタイルの中心は祈りでした。どんなに忙しくても、彼は毎日、三時間の祈りを欠かすことはありませんでした。必ず神様の前に出て、叫んで祈るようにしていました。彼が祈る時に聖霊様が共に働かれ、宗教改革が起こりました。あの宗教改革がなかったら、現在の私たちの信仰もありません。彼を支えたものは祈りでした。私たちも御霊によって導かれて生きることが必要です。ガラテヤ五章二十五節に、

『もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。』

と書かれています。「御霊に導かれる」とは、どうすれば良いのでしょうか。それは、祈りを最優先していくときに、聖霊様が私たちを導いてくださいます。今年一年間、祝福された素晴らしい年であることを願います。そのためにはぜひ、ライフスタイルの中心を「祈り」にしていただきたいと思います。
 確実に祈りの時間を持つ、祈りの場所を作る、祈りを最優先する、祈り心で生きていくとき、聖霊様があなたを導かれ、素晴らしい神のわざがあなたの人生のただ中に現されていきます。そして、互いに愛し合って互いのために祈り続けることです。

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

互いのために祈り合うこと、これが愛し合うことです。その時に愛が実現していきます。そして、聖霊様が私たちを導かれます。また教会を導かれます。この不確定な時代にあって、すべてを知っておられる聖霊様が、私たちを安全に導いてくださいます。それを一月から始めるべきです。なぜならば、特に、日本人のためには一月に祈りの賜物を神が用意されているからです。今年は、目覚まし時計で目覚めてから祈る一年ではなく、「絶えず目を覚まして祈る一年」でありたいと願います。一言祈りします。
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