今週の礼拝メッセージ
2002.1.27(SUN)
圧倒的な勝利者となる!
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 ローマ人への手紙 8章34節〜39節
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

旧約聖書 ヨブ記2章1節〜2節
ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

 ハレルヤ!三週間振りに、御言葉を取り次ぐことができ感謝します。忙しい毎日ですが主のために働けることを感謝します。今日は「圧倒的勝利者となる!」というテーマで学びます。ローマ人への手紙八章三十七節に、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

と約束されています。「圧倒的勝利者」という単語は聖書中、この箇所にしか出てきません。意味としては、「度を越えて打ち負かす」という意味です。勝利でも、ぎりぎりの勝利や、やっとの思いで勝利したというのではなく、勝って余る、勝利しておつりがくるという勝利者になりたいと思います。聖書は生きるためのマニュアルのようなものです。聖書は、どのようにしたら圧倒的な勝利者になれるのかについて教えています。同時に聖書は、圧倒的な敗北者についても記しています。そのように、メリハリのきいた例を引きながら、勝利の秘訣を学ぶように神は人類に聖書を与えました。その中で、勝利の秘訣は「祈り」にあります。今年、強調したいことは、「祈りの人となってください」という事です。祈りの人で敗北した人はいません。今までのキリスト教の歴史の中で、主の前にひざをかがめた人の中で、敗北した人はいないということです。祈り手によって世界の歴史は変えられる言われる位、祈りによって人生は勝利できます。今年、一人ひとりが祈り深くあるならば、必ず、あなたは圧倒的勝利者になることができます。今日の午後は祈りのプログラムです。愛知県民の森に行って、山頂と広場、そして教会でも祈ります。それは、私たちが圧倒的な勝利者になるための秘訣だからです。
 イエス様の生涯に、「勝利のパターン」がありました。それは、「山で祈り、平地で勝利」というパターンです。イエス様は山で叫んで祈られました。そして、平地に下りてきて業をなされました。山の祈りと平地の勝利は、「祈りと実生活」に対応しています。私たちは祈り、実生活では勝利者になるのです。
 ヨハネの福音書十四章、十五章はイエス様が祈りについて教えられた箇所です。ヨハネの福音書十五章七節に、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

と語られました。これは素晴らしい希望のみ言葉です。イエス様にとどまっていたら、あなたの欲しいものを求めなさいと言うのです。そうしたら、「何でもあげる」というのです。私はこの御言葉を、自分へのみ言葉として受け取っています。
 イエス様がこの地上に来られる前、人々は祈りという領域である意味、恐れを持っていました。なぜならば、旧約聖書の中に一つの律法があったからです。それは「主の御名をみだりに唱えてはならない」という律法でした。「神の名をやたらに使うな。勝手に俺の名前を使うな」というような命令でした。だからユダヤ人たちは神の名の四文字、YHVH、ヤーウェイという音を発音するのも恐れたのです。だからヤーウェイという名前を直接使わず、「アドナイ」という言葉に置き換えて使っていました。だから、イエス様が来られたときに、弟子たちはどのように祈るべきかよく分かりませんでした。その時にイエス様は、祈りの概念を全く覆す言葉を語られました。ヨハネの十四章十四節、

『あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』

 弟子たちは、神様は「名前をやたらと使うな」と言われるような恐ろしい方で、そう簡単に神の名を使うのは恐ろしいと思っていました。しかし、イエス様は神の世界から来られた神のひとり子で、「俺の名前を使って祈ったら、俺がそのことをしてあげるから」と語られたわけです。それは、「イエス様の名前を使って祈る」ということです。
 今日、初めて教会に来られた方も、イエス様の名前を通して祈ってみてください。新城教会では伝統的に「イエス様」と呼びかけて祈りますが、これは少し間違っていると思います。イエス様が祈りにおけるファイナル・ゴールではなく、イエス様は「門」なのです。「イエス様の名を通し、父なる神に祈る」のです。イエス様は神様なので、「イエス様」と呼びかけても同じ事ですが、しっかりとした「祈りの概念」をつかまえなくてはなりません。わたしの名を使って祈ったら、それをしてあげる、「父なる神様の前に祈りを持っていってあげる」ということです。
 この地上でも、自分の名前では駄目でも、誰かの名前を使うとうまくいくということがあります。さて、私はこの冬の間に、二冊の本を書きたいと願っています。去年は「悪霊を捕虜とせよ!」という本を出版出来ました。今年は、伝道的なものを書きたいと願っています。その一冊は、二十年間新城教会ニュースに寄稿してきましたが、それをまとめて本にしたいと願っています。またもう一冊は、「家系的な束縛」にフォーカスを当てて書きます。今週、三日間程、あるところにこもって書こうと思っています。ぜひ、私のためにとりなして祈って下さい。私はいつも本を書くときに、一泊三千円の安いホテルを使います。そこは私が直接頼んでも、その値段で予約できません。しかし、ある人の名前を通すとその値段でとれるのです。「滝元順ですが三千円で泊めて下さい」と言っても、「あなたは会員じゃあないから駄目です」と言われます。しかしある人の名前を通すと、泊めてもらえるのです。人の名前は、地上でも力があるのです。
 祈りも同じように、私たちの名前ではだめでも、イエス様の名前を通したら神の前に祈りが入っていくのです。今週も、「イエス様の名前を通して」求めることが必要です。
 同時に、祈りが聞かれる秘訣は、「イエス様の戒めを守る」ことです。ヨハネの十五章十六節から十七節、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。』

と書かれています。イエス様の戒めは一つだけです。それは「互いに愛し合う」ことです。世の中は互いに憎みあっていますが、教会は愛し合うところです。そうしたら、あなたの祈りを聞いてあげるというのです。教会はリセットするところです。心の中に憎しみがあったら悔い改めて、互いに愛し合うという立場に立ち、そして祈るときに「祈りを聞いてあげる」と言われます。そして、圧倒的勝利者になることができるのです。今年、祈り深い人々が集まって「教会の祈り」が強められると、主の御業が起こります。
 同時に、聖書は「圧倒的な敗北」についても記しています。聖書中で圧倒的な敗北を経験したのはヨブだと思います。彼の敗北を聞くと、私たちの試練は大したことはない、と思います。彼は最終的には回復しましたが、彼の敗北はひどいものでした。彼は人生のどん底を経験しました。その苦しみの背景に、普通では持ち合わせない視点で聖書は語っています。ヨブ記二章一節から二節に、

『ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」』

ヨブ記の一章、二章を読むと分かりますが、彼は裕福な人で、七人の息子と三人の娘がいました。しかしある時、サタンが神の前にヨブのことを訴え、その訴えが通ってしまいました。その結果、すべての持ち物や、子どもたちを失う大試練に発展しました。私たちは時々試練に遭いますが、その全てにこの法則に適応するのはふさわしくありません。だから勘違いしないで下さい。しかし「大問題」に関しては、このような霊的世界が関わっている可能性があり、祈る必要があるとの情報を聖書は提供していると思います。
 その後もサタンはヨブを訴え、ヨブは頭の先から足の先までできものができ、いのちに関わる程の病になりました。この点についても、全ての病がサタンから来ているという解釈はいけません。朝起きたら小さなできものが手に出来ているのを見て、「ヨブの病だ。悪霊だ。」と言ってはいけません。しかし病の中でも、「人生を破壊するような病の背後には、霊的な関係づけがある可能性があるので、その点についても注意してください」と語っていると思います。今年私たちは、問題の背後に働くサタンの力が打ち破られるように互いにとりなし合っていきたいと思います。もしもこのような世界観が全然なかったら、ある意味で人生は悲惨なものかも知れません。
 ヨブは、持ち物を失い、病も悲劇でしたが、一番の悲劇はヨブのことが天において話題になっていましたが、彼は全くそのことを知る由がなかったという事です。これらの会話は、天においてなされました。サタンは神の前に行き、「地を行き巡ってきた」と言いました。ここでサタンがどこで働くのかについても情報提供しています。サタンは霊的な存在ですから、霊の世界に存在しているのです。しかし行動の現場は「地」です。私たちは「地」に住んでいます。サタンは天に存在しますが、彼の行動は「地を行き巡って」いるのです。先週、サタンは私たちのそばを横切ったかも知れません。神がサタンに「お前は新年早々、どこに行ってきたのか」と聞くと、「今年はまず最初に、愛知県に行きました」「愛知県のどこ?」「はい、新城市です。」と言ったかも知れません。神が、「新城市だったら、滝元順という男を見たか?素晴らしい男だけど・・・」と私のことが話題になった可能性があるのです。
 さて、この事を皆さんに置き換えたらどうでしょう。今晩辺り、皆さんが寝ているときに、天においてあなたのことが話題になり、「あの人物見たか。今日、新城教会の礼拝に出ていただろう。なかなか熱心だろう・・・」するとサタンが「彼は熱心かも知れませんが、こんな情報があるのですが・・」と話題になったらどうでしょう。こんな事を聞いたら、あなたは恐れるかも知れません。しかし聖書は、普通では思いもよらない情報を私たちに提供しています。エレミヤ書二十三章十八節に、

『いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。』また二十二節に、

『もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行ないから立ち返らせたであろうに。』

と記しています。この記述は、「もし彼らが、わたしの会議につながっていたら、状況は変わっていた」ととれると思います。ヨブの悲劇は、天でそのように話し合われていたにも関わらず、全くそれを見ることも、聞くこともできなかったことに「最大の不幸」があったと思います。
 しかしここで、「天での会議」と言われると、「天はどこか」と考え混乱します。天と言えば一般的に上空を指さしますが、地球は丸いのです。南米の人に、「天はどこですか」と聞くと上と言います。しかし、それは私たち日本人にとっては、地獄の方向を指しています。天とはある方向性を持った空間ではありません。それは、次元の違いであると思います。目に見えない霊的世界を「天」というのです。その世界がどのような構造かについて知らなければなりません。パウロは自分の体験について語っています。コリント第二十二章二節から四節に、

『私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。』

と書かれています。彼は、石打ちの刑にされたことがあります。人々は、彼が死んだと思い城壁の外に引き出しました。その時、パウロの魂が体から抜けて、第三の天パラダイスに行ったらしいのです。
 私たちは、やがてこの地上から出ていくときがあります。しかし、恐れないで下さい。誰でも一度はあります。聖書の情報によると、死ぬときは自分が死んだという意識はないみたいです。肉体から抜けたか、抜けていないのかは分かりませんが、何しろ気付いたら、「第三の天にいた」というのです。私たちは、霊的連続性の中に生きているのです。第三の天とは、「神の国」です。それでは、悪魔が神と話し合った「天」とはどこでしょうか。
 さて、天国はどんなところだろうかと時々想像します。私が天国に行ったら、多分、垂れ幕があり、「順牧師歓迎」などと書かれており、天国入国を記念して花束をもらえるかも知れません。皆さんも同じだと思いますが。案外、私は地上で祝福を受けているので、天での褒美は少ないかも知れませんが・・。
 天国で天使が私のところに来て「順さん、あなたは地上でよく頑張りました。あなたに天国のマンションをあげます。これが天のマンションの鍵です。」と言って手渡されたら嬉しいです。「私はついに、天国の住人だ」と喜ぶと思います。しかし、私は鍵を受け取ったらこんな質問を天使に投げかけてみたいです。「天使さん、ところで天国でも戸締まりが必要です?」すると天使が顔を曇らせ、「最近、天国も結構危ないですから、外出するときはよく戸締まりして下さい」と言ったらどうですか。「天国は、景色はきれでも、泥棒がいるのか。地上とあんまり変わらないではないか。」と思います。すると、「ピーポーッ・ピーポーッ・・・」と聞こえて来ます。「なんだろうあれは・・・。どっかで聞いたことがある音だ。」「救急車です。地上と同じですよ。面倒くさいから同じ音にしました。」そして、「天国病院は病人でいっぱいです。でも、あまり気にしないで下さい。時々、イエス様が来て手を置くと治っていくから」と言われます。手を置いて癒されるのは良いけれど、もしも天国に病気があったら、そこはもはや天国ではなくなってしまいます。
 天国はそんなところではありません。第三の天に行くと、盗人も、病気も、苦しみも、悲しみも、悪しきものも、一切なく、神の支配が百パーセント現されているところなのです。
 では、ヨブ記の中に記されている会議はどこで行われていたのでしょうか。それは、「第二の天」です。私たちは地上に住んでいます。そして第三の天が神の世界です。そうすれば、「第二の天」という世界があるはずです。これは悪魔・悪霊、天使が支配している場所です。人はサタンにより、その場で訴えられます。訴えがある場所、それが第二の天です。第二の天があるが故に、私たちはサタンに訴えられます。
 ある意味で、クリスチャンでも、第二の天についての情報を持っている人は少ないのです。人の世界と神の世界という二つの世界で信仰を捕らえているクリスチャンが多くいます。それだけだと、色々な事件があると、最終的に神が敵となります。それは、第二の天の存在について分かっていないからです。何かあると、「神が私たちに悪くした」と考えるのです。私たちを、日々第二の天で訴える存在があります。
 このように、聖書の中から、霊的な世界観を学ぶときに、その対処法についても考えさせられます。そして、聖書の素晴らしさは、その天における勝利を、それも、「圧倒的な勝利」を提示している事です。
 ヨブ記だけを読むと、恐れが来ます。しかし、心配しないで下さい。それは旧約の時代のことだからです。今、私たちが生きているのは新約時代、そして、聖霊の支配される時代に生きています。十字架の救いが完成した後の時代に生きていることは素晴らしいことです。そして、「救い」におけるポジションについても教えています。エペソ人への手紙二章一節から六節に、

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』

 イエス・キリストを信じる以前、私たちは、「罪の中に死んでいて、空中の権威を持つ支配者、不従順の子らに働いている霊に従って歩んでいた」とあります。これは、悪魔、悪霊の支配下で生きていたということです。しかし、

『私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。』

と書かれています。私たちは、悪霊の支配下にいた者であるが、救いとは、「悪魔の支配下から救い出され、罪の奴隷から解放される事である」それは、「ただ恵みによる」、「一方的な恵みによって救われた」というのです。
 日本人の宗教観の中に、「努力がないと救われない」という考えがあります。だから教会に来ても努力しないといけない、と思われるかも知れません。一生懸命聖書を読み、努力して、真剣に山に入って祈らなければ救われないみたいだ、と思わないで下さい。決してそうではありません。救いは一方的に神様の恵みによって与えられるのです。そして、救いの結果、六節、

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

この「天の所」とは、第二の天ではありません。イエス様が十字架で死なれ、復活されたときに何と言われたでしょうか。マタイの二十八章十八節に、

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』

と言われました。一切の権威をとられたイエス様と共に天で座っているというのは、私たちが訴えられる、第二の天ではなく「第三の天に座っている」のです。
 圧倒的勝利者とは、どこにあるのでしょうか。まず、私たちの立場をしっかりと確認するところにあります。イエス様を信じ、バプテスマを受けた私たちの立場は、「第三の天」にあるのです。だから、ヨブのように、第二の天において一方的に訴えられることはないのです。なぜならば、私たちはイエス様と同列に並んでいるからです。ですから、私たちを訴えることはできません。ということは、すでに、クリスチャンは圧倒的な勝利者のポジションを得ているのです。今日あなたがイエス・キリストを信じているならば、圧倒的な勝利者のポジションにあるのです。そのことをしっかりと確認しなければなりません。クリスチャンでも、そのような概念が構築されていないが故に、訴えられる場合が多いと思います。「知るか、知らないか」という事が大きなターニング・ポイントです。私たちが、第三の天にイエス様と共に座っている、圧倒的な勝利のポジションにある、ということです。
 同時に、その、よみがえりポジションを手に入れるために必要な点についても書かれています。コロサイ人への手紙二章十二節からに書かれています。

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

 バプテスマを受けることは、イエス様と共に天に座わる保証です。まだ、バプテスマを受けていない方は、恐れないでバプテスマを受けてください。それだけで、よみがえりのポジションになるとは、すごいことです。しかし案外、バプテスマを受けても、この概念がしっかりとしていません。
 私は小学生の時に、バプテスマを受けました。その頃は、バプテスマを受けないと聖餐式を受けられないという決まりがありました。当時、新城教会は教会員も少なかったので、パンもジュースも分け前が多く、私はバプテスマを受けていないために、いつも差別されていると思っていました。食糧難の時代でもあり、いつもバプテスマを受けたいと願っていました。そして、バプテスマを受ける季節も自分で決めていました。八月に受けるならそのまま、豊川で泳げるというメリットもあり、そんな不純な動機で私はバプテスマを受けました。
 しかし、最近になって、バプテスマによって、「イエス様と同じ、よみがえりのポジションを共有している」ということを知りました。
 私たちは圧倒的な勝利者として、イエス様と同じよみがえりのポジションを共有しているという理解は、今年あなたを守ります。バプテスマは大切です。まだ、バプテスマを受けていない方は、あなたが教会に来られている以上、仮免許みたいに同じ権威の中で守られているので心配しないで下さい。水のバプテスマはとても大切なことです。立場を確保する上で、重要なことです。
 コロサイの二章後半では、罪が赦され、債務証書が無効になり、武装が解除され、悪霊が捕虜となるという権威が約束されているのです。
 そして、「圧倒的勝利者」になる為に、ローマ書八章三十七節に、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

 私たちは天において、第三の天でポジションを確保しています。しかし同時に、私たちの肉体は第一の天に存在しています。ですから、この地上において罪の汚れの故に、第二の天で悪魔に訴えられることもあります。しかし、ローマ書八章二十六節から二十七節に、

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。』

と書かれています。第一の天にある私たちの肉体を、第二の天で訴える悪魔に対し、「聖霊様がとりなして下さる」というのです。続いて、三十四節に、

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』

と書かれています。サタンが訴えるところで、聖霊様と共に「イエス様」も、私たちのためにとりなして下さるというのです。「滝元順はこんな悪いことをしていた」とサタンが訴えても、聖霊様が、「そうは言うけれど、あいつはこんな良いところがある」ととりなすのです。すると、続いてイエス様が出てきて、「滝元順が悪いことをしたと聞いたが、それ以上の弁護する材料を持っている」と言って、とりなして下さいます。サタンが訴えても、私たちの味方となって下さる、「聖霊様とイエス様」が居られるのです。
 またそれとともに、私たち個人と、教会が祈るならば、「度を超して打ち負かす」ことができるのです。「打ち負かす」という単語は、サタンを打ち負かすという意味です。それは、圧倒的な勝利者にしてくださるという約束です。今年は、やっとの勝利ではなく、度を超して勝利する、勝っておつりが来るほどになりたいと思います。そのためには、今日語った御言葉を意識して下さい。
 「私はよみがえりポジションにある。また、第二の天で訴えられるようなことがあっても、イエス様も、聖霊様も、とりなしてくださる、また私自身も、祈っているのではないか」と確認してください。決して敗北することはありません。
 また、色々な状況があったとしても、ローマ書八章には「すべてのことが益となる」と約束されています。今まで起こった悲しみ、苦しみ等、どうしようもないことがあったとしても、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

 昨年、私はある意味でちょっとサタンに訴えられた、敗北した、悲しかった、苦しかった、今も続いている、という方がおられても、「全てのことを益とし、圧倒的勝利者にあなたをしてあげる」と言われるのです。圧倒的な勝利の中で、この週を始めていきたいと願います。その中で、特に、自分で祈ることが重要なことですので、「祈りの場」を設けて、神の前に叫んで祈る時間を持って下さい。どこでも祈ることができますので、ぜひ、祈ってください。今年は圧倒的勝利者になると信じます。
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