今週の礼拝メッセージ
2002.2.3(SUN)
圧倒的な勝利者となる -Part2-
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 ローマ人への手紙8章37節
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

マタイの福音書26章36節〜41節
それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 ハレルヤ!今日こうして皆さんと共に礼拝を守ることができ感謝します。先週は皆さんにお祈りいただき、新刊の執筆に当たりました。一冊は二十年分の新城教会ニュースを編集した本です。七十数個分のタイトルを整理して五十三になりました。タイトルを考えています。「あなたの祝福のために」などのタイトルはありふれているので、五十三編なので「キリスト街道五十三次」にしようかと思いました。昔、東海道五十三次というのがあり、人々は偶像礼拝のためにその道を使いました。しかし今度はイエス様の道を歩むようにと願いを込めています。またもう一冊は、霊的戦いの視点での伝道と解放の本を書きたいと思っていましたが、順調に百二十ページくらい書くことが出来ました。もう一息ですので、良いものができるように祈って下さい。
 今日は前回に引き続き、「圧倒的な勝利者となる。パート_」という題で学びます。ローマ人への手紙八章三十七節に、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

 圧倒的な勝利者とは、勝ってまだおつりが来るという勝利です。クリスチャン生活は勝って当たり前、勝利しておつりまでもらうという大勝利が約束されています。先週はどうしたら圧倒的に勝利できるかについて学びました。ぜひ先週のメッセージを思い出して下さい。(印刷された文書もあります)今はグローバルな時代で、インターネットでも新城教会のメッセージが読めます。世界中で読まれています。先日もロサンゼルスに行くと、ある方が私のメッセージのコピーを持っていたので驚きました。「いつも読んでいます」と言われました。それで、同じメッセージが語れないと思いましたが、いずれにしてもグローバルな時代で神の御言葉は世界中に発信されています。
 クリスチャンが圧倒的な勝利者になれたら、多くの人がイエス様こそ生ける神だということが分かります。先週、そのためには祈りが必要であると語りました。祈りによって圧倒的な勝利を得ることができます。それは、「イエス様の名によって求める」ということです。ヨハネ十四章十四節に、

『あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』

 どんな人でも、祈りたいという気持ちがあります。しかし、どのように祈ったら良いかわからない現実があります。日本には八百万の神があり、どの名前を使えば本当の神に通じるのか分かりません。だから、「下手な鉄砲数打てば当たる」で、何でも良いからすべて使える名前は何でも使おうというのです。イエス様の名前を使うならば、父なる神に祈りが届きます。それ以外の名前は駄目です。私たちがイエス様の名前で祈れることは感謝です。
 同時に、イエス様の戒めを守ることについて話しました。これも難しいものではなく、「互いに愛し合う」なら、「求めるものは何でも与えられる」のです。先週もイエス様の名によって、互いに愛し合って祈ったと思います。その時に素晴らしい祝福が現されたと信じます。
 「名は実体を現わす」ということわざがありますが、聖書もその考え方を支持していると思います。イエス・キリストの名前は、「主は救い」という意味があります。ですから、私たちがイエス様というお名前でお祈りするならば、救いを受けることができます。私たち一人ひとりにも名前が付いています。親が色々な期待を込めて、名前を付けたと思います。私の名前は「順」と言いますが、どのような気持ちで両親が名付けたかわかりませんが、おそらく「順」というのは順番の順ではなく、「従順」の順です。神様に従順になるようにという思いで名前を付けたと思います。しかし、昔はよく「あんたの順は不従順の順だ」と言われました。皆さんの名前にも、色々な意味があると思います。
 ある家に女の子ばかりが産まれ、お父さんはうんざりしていました。最後の子どもを奥さんが産みました。それでお父さんは期待しました。「今度こそ、男の子が産まれるように・・。」しかし、届いた知らせは、女の子という知らせでした。お父さんは愕然として「またか!」と言いました。それでその子の名前を「マタカ」と名付けました。それは可愛そうです。
 聖書の中にも悲惨な名前の人が出てきます。イ・カボデという人が出てきます。サムエル記の中にあります。この時代、イスラエルは圧倒的敗北を経験しました。サムエルという預言者が立ち上がる前のことでした。イスラエルがペリシテに敗北しました。祭司エリは戦争に負けたという知らせを聞き、椅子から転げ落ちて首の骨を折って死んでしまいました。エリの息子、ホフニとピネハスの二人も戦争に行き戦死しました。同時に悲しい知らせを聞きました。丁度ピネハスの妻は妊娠中で、「あなたの夫ピネハスは死にました・・」という悲しい知らせを聞きました。ピネハスの妻はそれと同時にショックで陣痛を起こし、子どもを産みました。そしてその子の名前をイ・カボデと付けました。その意味合いは、「栄光がイスラエルから去った」という意味でした。ひどい名前です。あなたの名前は何ですか。「はい、栄光が去った」もし、私にそのような名前が付いたら。一生涯苦しみます。「私の名前は滝元栄光が去った」です。「変な名前ですね。」と言われると思います。
 また、もうひとりの変な名前の人は、「ヤベツ」です。今キリスト教会の中で「ヤベツの祈り」という本が売れています。またお買い求め下さい。聖書中、普通は読み飛ばしてしまいまいそうな隙間に、キラッと光る言葉があります。ヤベツという人はユダ族の出身です。彼の名前は決して良い名前ではありませんでした。第一歴代誌の四章九節に、

『ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。』

 ヤベツとは「痛み」みという意味です。そして、「彼は痛みをもたらす」という意味があるそうです。とんでもない名前です。母親が悲しみのうちにこの子を産んだからと言って、この子の名前が痛みというのは良くありません。彼はいつもその名前で苦しんでいました。しかし彼が一つの祈りを神の前にしました。それが「ヤベツの祈り」です。四章十節に、

『ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。』

 彼の名前はとても悪い名前でした。名前は体を現わすごとく、彼の人生は悲しみの人生だったと思います。それで彼は神に祈りました。
 ヤベツの家系には、何らかの呪いがあったのかも知れません。お母さんは悲しみの人であり、息子も良いことがありませんでした。それで彼は神の前に出て祈りました。
 私たち日本人の家系には、ある意味で悲しみ、痛みというテーマがあるかも知れません。しかし、祈りによって私たちは圧倒的な勝利者となることができます。この祈りを祈ってみて下さい。「神様、私を祝福して下さい」という祈りに答えて下さいます。しかし、この祈りの背景を知ることが必要です。この祈りを、まじないのように朗読したら祝福が来るというのではなく、私たちの家系の中に受け継いでいる呪いがあっても、神様はそれを取りのけ、祝福して下さるという事です。
 ある意味で日本人の名前には、神の栄光を現さない名前があります。ところで皆さんのお名前はどのように付けられたのでしょうか。姓名判断で名前が付いたという方はいらっしゃいますか。ある意味でそれは、ヤベツのようなものです。しかし神様がそのような呪いを解いて下さり、圧倒的な勝利を下さるという約束です。
 私たちがイエス・キリストを信じるならば、立場的には第三の天におり、悪魔の訴えを退けて下さるという事を先週学びました。エペソ二章六節に、

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 私たちがイエス様を信じて、バプテスマを受けるときに、ともに天の所に座ることができる、だから悪魔が天で私たちを訴えようとしても、決して私たちを訴えることが出来ないということを学びました。圧倒的な勝利者となるために必要なことは、私たちがまず、「自分のポジションを確保する」ことが大切だと先週学びました。先週、自分のポジションをしっかりと宣言して過ごされましたか。
 しかしクリスチャンの中には、ある意味で葛藤があります。ポジション的には天に座っているはずですが、私たちの体は第一の天にあるからです。ポジションは第三の天において圧倒的な勝利というポジションにありますが、私たちの肉体はこの地上にあるがためにいつも、葛藤があるのは事実です。偉大な使徒パウロも、生活の中で葛藤があったことを告白しています。ローマ人への手紙七章二十三節からに、

『私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。』

 彼も生活の中で葛藤を覚えていました。心では、神に仕えているけれど、肉では罪の律法に仕えているではないか。立場は第三の天にあるけれど、地上において私は苦しんでいるという真実な告白です。ある意味で、これが現実かも知れません。イエス様を信じ、クリスチャンになっても、この世の誘惑に負けたり、負けそうになったり、立場的には勝利しているかも知れませんが、実際の生活は大変だと言われる方がおられると思います。順先生や教会で働いている人は良いかも知れませんが、一般の会社や生活の中でやっていくのは大変なことだ、と言われる方もいるかも知れません。私は牧師をしていても、葛藤を覚えます。肉の実際と、霊の世界のギャップに苦しみます。それが克服されないと、絶対的な勝利者になることはできません。見えない世界での勝利が、現実を支配しますが、現実の世界で勝利しないと、見えない世界の勝利はあったものではないと思います。どうしたら良いのでしょうか。ガラテヤ人への手紙五章十六節からに、

『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。』

と書かれています。心では神様に仕えたい、熱心にやっていきたい、しかし、現実はなかなか身動きできない、これが葛藤です。しかしここで言っていることは、『御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』と勧めています。
 御霊に満たされて歩むことがどうして必要かというと、現実の世界に勝利が現されるために必要だというのです。御霊によって歩むならば、肉の行いに歩むことがなくなるということです。肉の行いについて十九節から書かれています。

『肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。』

 この世の中には肉の行いが満ちています。不品行や汚れ、好色が満ち溢れています。また偶像礼拝や魔術、敵意や争いが満ち溢れています。これが肉の行いです。このようなことをしていたら、神の国を相続することができないというのです。罪の中にとどまっていたら神の国に行くことが出来ないという意味もあります。しかし、クリスチャンにおいては、イエス・キリストを信じたら救われているのですから、葛藤があったら神の国に行けないということではありません。
 「神の国を相続できない」とは、何でしょう。神の国とは、私たちのただ中に現されるものです。私たちのただ中に神の国、すなわち、第三の天が現されたらどうでしょうか。悪魔は決して私たちを訴えることはできず、現実の世界に圧倒的な勝利が現されるのです。圧倒的な勝利が現されるためには、「肉の行いがあってはならない」という意味です。クリスチャンは聖い歩みをすることが大切です。そのためには、「御霊によって歩む」ことです。そうしたら、このような罪が支配することはないのです。二十二節からに、

『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』

と書かれています。私たちが御霊によって歩んでいるならば、そのような肉が私たちに支配を与えるのではなく、御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、すなわち、神の国の支配があなたの人生を覆うようになり、圧倒的な勝利者になることができるのです。だから御霊によって歩むことが大切です。
 この二月は私にとって忘れることができない月です。一九九二年二月十三日、愛知県民の森で祈っていた時に、聖霊様が激しく臨んで下さいました。その時から私自身も変えられました。御霊によって歩むということがわかってきました。御霊によって歩むならば、肉の行いが小さくなる、私も経験したことです。私たちが聖霊に満たされ、御霊に導かれて歩むことができるように、毎日の祈りの中で求めていかなけばなりません。「私を御霊によって導いて下さい、御霊に満たして下さい」と祈るべきです。
 しかしそれでも、理論的には分かっても、実際には難しいというかも知れません。実際、どのようにしたら神の国の勝利を現していただけるのか、圧倒的な勝利者になることができるのかという実際的な方法について、イエス様のゲッセマネの祈りの中に秘訣があります。マタイの福音書二十六章三十六節からに、

『それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」』

 「心は燃えていても、肉体は弱いのです」これは正に私たちの姿です。私たちの心はいつも神に仕えていきたい、神の言葉を実行していきたい燃えています。しかし、肉体が弱いのです。行動がついていきません。「心が燃えていても、肉体は弱い」というこの言葉が弟子たちに当てはまっていました。多くのクリスチャンも、心は燃えていても肉体は弱いという葛藤の中で苦しんでいると思います。この言葉が当てはまっていたら圧倒的な勝利者になることはできません。皆が圧倒的な勝利者になるためには、心と肉体が燃えていなければなりません。「肉体は弱い」とありますから、これはある意味で「健康」という意味も含まれていると思います。心は燃えていても、いつも誘惑に負けてしまうという人もいるかと思います。心は燃えていても、いつも失望と落胆の中にいる、名前はヤベツであったり、イ・カボテであったりする、そのような方もおられるかも知れません。
 しかし、イエス様はここで、祈りがいかに重要であるかについて教えられたのです。「眠っていないで祈っていなさい」とは、「絶えず祈る」というポジションです。私たちが日々の生活の中で、「絶えず祈る」ことを実行したら、心は燃えていても、肉体は弱いということが変えられていきます。
 「絶えず祈る」とは、いつも祈り心で生活をするということです。すべての事柄に、祈りをおくことが大切です。私たちが祈り心とともに生活するならば、勝利を得ることが出来ます。
 私は絶えず祈ることを実行したいといつも願っています。御言葉を語りながらも、「何を語ったら良いですか」といつも祈りながらメッセージしています。また色々な方と話す機会も多いですので、「聖霊様の導きが与えられるように」と祈りつつお話しします。色々な決断をするときにも、神の知恵によって決断することを願っています。眠っていないで常に祈っていることは、祈り心で生活することです。
 同時に、御霊によって歩む為の実際的方法として、肉の力に負けないで神の国が私たちのただ中に現されるために必要なこととして、イエス様が教えられたのは、「あなたがたは一時間でもわたしと一緒に祈っていることができなかったのですか」
 これは、「二十四時間の内、一時間を神にささげて祈って見ませんか」ということです。「一時間」とは、ギリシア語においても、昼の長さの十二分の一、夜の長さの十二分の一です。平均すると一時間です。あなたが二十四時間の中で、一時間神の前に祈るならば、心が燃えていても体は弱い、というところから解放されるのです。ある意味で、「圧倒的勝利者になるためには、一時間は祈って下さい」とイエス様が十字架にかかられる前に、教えられたと思います。
 皆さんも今週、毎日、一時間神の前に祈ることを決断して下さい。そうしたら心は燃えているが体は弱い、というところから解放されると思います。知らないうちに、肉の思いではなく、御霊の思いによって生きることができるようになり、圧倒的勝利が私たちのただ中に現されていくことでしょう。また、健康に歩みたかったら、毎日主の前出て一時間祈って下さい。肉体も強くなると思います。心も強められると思います。これは神が人間を造られるときに定められた方程式だと思います。
 神が人間を造られたのは、神との交わりのためでした。ご自分と交わりをするために人を造られたので、神と交わりがないならば祝福されないと思います。第三の天の勝利が、この地上に葛藤なく現されるためには、一時間祈ることです。これが圧倒的勝利の鍵だと思います。これを宗教のお勤めや、努力ととらないで下さい。あなたの人生は既に祝福されていますが、更に圧倒的な勝利者となるために、神が教える奥義として、受け取る必要があります。毎日、一時間祈るとは、秘密の法則かも知れません。一時間、神の前に出て祈りをささげたら、圧倒的な勝利者になるのです。「心は燃えていても肉体は弱い」という葛藤から解放されるメッセージだと思います。私も出来る限り、一時間は神の前に出て叫んで祈るようにしています。今朝も、礼拝の前に祈りました。今日の御言葉が皆の心に届くように、また皆が祈り始めるように、そして圧倒的勝利を受け取るようにと、祈りました。
 今年私は、「獅子の口を塞ぐ」というヘブル書十一章三十三節、三十四節の御言葉を受け取っています。それを現実のものとして受け取るためには、祈る必要があります。今日も午後から祈りの時間があります。皆で一時間、自由に叫んで祈る時を持ちたいと思います。私たちの祈りの言葉は貧弱かも知れませんが、そのようにして神の前に出て祈るときに、内側の聖霊様が祈って下さいます。そのテーマは絶大だと思います。
 私はいつも祈るとき、「私は今から祈ります。祈りの言葉は貧弱かも知れませんが、内側の聖霊様。私に必要なことを全部祈って下さい」と祈ります。御霊によって祈ることは、父なる神様の前に出て祈るときに、内側におられる御霊様がその一時間内に、あなたのことをとりなして祈って下さるのです。私たちが神の前に出て、そのような時間をとるときに、御霊によるとりなしの祈りが現されると思います。ぜひ、今週は祈りましょう。一時間祈り、心も燃えて、肉体も燃え全ての面で圧倒的な勝利者となるますように。祈りの人となりますように。素晴らしい神様の栄光を見るようにと願っています。
 今年になってすでに、神様が働いて下さっています。神の働き以外にはない、という事柄が起こっています。皆さんが祈り始めてから、色々な変化が起こっています。もっと祈ったら、もっとすごい変化が訪れると思います。更に今週は一時間祈りましょう。お互いに「一時間は祈り合いましょう」と励まし合いましょう。一言祈ります。
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