今週の礼拝メッセージ
2002.2.10(SUN)
「何をしてあげようか?」
新城教会 滝元順牧師

旧約聖書 第二列王記 4章1節〜7節
預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

新約聖書 マタイの福音書 20章32節
すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」

 ハレルヤ!今日も皆さんと共に礼拝できることを感謝します。今週は本日の夜から、「リバイバル拡大聖会」があります。思えば、一九九二年の拡大聖会の最中に、県民の森で聖霊様が激しく訪れて下さり、私たちは変えられました。ある意味で記念すべき聖会だと思いますので、ぜひ、御参加くださり神の祝福を受けていただきたいと願っています。
 今日は聖書の中から「何をしてあげようか?」というテーマで御言葉を学びます。今日皆さんのところにイエス様が来られ、「あなたに何をしてあげようか?」と語られたら何と答えられますか。このタイトルをぜひ、自分のものとして、受け取ってください。あなたにイエス様は、「何をしてあげよか?」と語りかけられています。今、何をしていただきたいかを考えてみて下さい。色々と、していただきたいことがあることでしょう。私たちの神様は素晴らしい方です。私たちのところにご用聞きに来て、「何をしてあげようか」と語ってくださるお方です。
 旧約聖書は、イエス様が生まれる前に書かれた書物ですが、その中にはあらかじめイエス様を預言的に現していた人物が登場します。預言者エリシャの生涯は、ある意味でイエス様ご自身を現していたと思います。エリシャは預言者エリヤの弟子でしたが、エリヤの二倍の力を受け、人生に関わる多くの奇蹟を行いました。イエス様もこの地上に来られ、人に関わる奇蹟を多くなさいました。
 「エリシャ」という名前は「神は救いです」という意味があります。イエス様の名前は「主は救い」という意味です。私たちを救って下さる神がイエス様です。本当の神様を信じることができ、その方と共に歩めるとは、幸いなことです。
 この世の神々とイエス様との違いは何でしょうか。この世の神々は、ときには何かしてくれるかも知れませんが、必ず見返りを要求してきます。「これだけのことをお前にしてやったのだから、お前はこれだけのことをやれ!」と要求を突きつけてきます。しかし、イエス様はそのようなことは言われません。「何をしてあげようか?」と聞いてくだいますが、見返りを要求されるような方ではありません。
 見えない世界は二重構造になっています。現実の世界と合わせると三重構造です。見える世界と神の世界の間に、悪魔と天使たちが支配している「第二の天」があります。悪魔や天使たちの領域は、人間よりも高い次元に属する領域です。ですから人間がそのような領域に手を出しても、神々しい神に触れている感じがします。日本人の多くは手で作った神々を拝んでいます。それらは石や木ですが、何やら神々しい存在を背後に感じとっているのです。日本人は霊感が強い国民だと思います。しかし、多くの場合は本物の神に手を出さずに、悪魔の世界に手を出しています。悪魔の世界に手を出しても霊感を感じるのです。しかし、その後の結果が違ってきます。本物の神、イエス様に手を触れる時、「これだけしてあげたのだから言うことを聞け」とは言われません。しかし、悪魔の領域に手を出したら、必ず見返りが要求されます。そもそも、石仏は、何かやってあげますという手と共に、「何かくれ」と手を出しています。一方では何かをくれますが、一方では大事な物をごっそりと持って行かれます。しかし、私たちが信じるイエス様は、「あなたに何をしてあげようか」と今日も語りかけて下さっています。
 第二列王記四章では、夫が死んで困り果てていた未亡人とその家族が、預言者エリシャの所に来て、「私のところに貸し主が来て、私の二人の子どもさえも奴隷にしようとしています。何とかなりませんか」と泣きついてきました。その時、エリシャは「人の借金など知ったことか。どうにもならない!」と言って逃げたのではなく、「何をしてあげようか」と聞きました。そして、「あなたの家にはどんなものがあるのか言いなさい。」と尋ねました。
 神は奇蹟をどこから始めて下さるかというと、決して外側に対して、これだけのことをしなさいとは言われません。私たちの内側から業を始めて下さる方です。
 イエス様の所に二人の盲人が来て、「ダビデの子、イエス様、私たちをあわれんでください。」と懇願しました。イエス様がエリコの町に来られたときのことでした。周りの人々は彼らがうるさくて仕方がないので、「お前たちは黙っていろ」と言いました。しかし、イエス様は、『すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」』と盲人に声をかけられました。彼らはすかさず「主よ。この目を開けて下さい。」すると、イエス様は何をされたのでしょうか。三十四節に、

『イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。』

と書かれています。
 イエス様は私たちにどのような感情をお持ちでしょうか。苦しみ、悲しんでいる者たちに対して、「お前たちが罪を犯した結果だから仕方がない。」とは言われません。イエス様は苦しんでいる人々に対して、「可愛そうに思う」あわれみの心をお持ちなのです。神は天の高いところに座し、私たちの苦しみに対しては、何ら関心がないというのではありません。イエス様は私たちのことを親身になって、あわれみの心を持って「何とかしてあげたい」と願っています。
 ここに色々な問題を持っておられる方がいたとしても、イエス様はあなたのことを「あわれみの心」で「何とかしてあげたい」のです。
 どうしたら神の奇蹟を体験できるのでしょうか。未亡人の一家はどの様にして奇跡を体験したのでしょうか。私たちが奇蹟を体験するためには「条件」があります。しかし条件と言っても誤解しないでください。悪魔の出すような見返り付き条件ではなく、「必要な事柄」と呼んだ方がよいでしょう。第二列王記四章を見ると、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。』
 マタイの二十章を見ると、
『すると、道ばたに座っていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。』

と書かれています。この両者に共通するのは、『叫んで』という言葉です。ある意味で私たちが神の奇跡を体験するための条件は、「叫ぶ」ことかも知れません。なぜなら、神は人間に自由を与えて下さいました。自由意志で何でも選択でるのです。人が神と出会う条件は、心から神を「求める」という自由意志が尊重されるのです。この未亡人も盲人も共に、主を叫んで求めました。
 今年は、「叫んで祈りましょう」というテーマで祈っています。これはある意味で大切なことです。イエス様は神ご自身であったので、祈る必要はなかったのではないかと思いますが、そうではありませでした。イエス様はこの地上に来られたとき、「完全な人間」として来られました。そして私たちに手本を見せて下さいました。そして、祈る必要もありました。ヘブル書の五章七節には、

『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』

と記されています。私たちが心から主を叫び求めるときに、祈りを通して神が願いを聞いて下さるのです。しかし、「叫ぶ」とは、声が大きければ良いのかというとそうではありません。「私の声は弱々しいので、岡本信弘先生の囁く声と、私の全力の叫び声とは同じです」と言う方もおられるかも知れません。声の大きさならば、声の大きい人が神の恵みをもらうことになります。「叫ぶ」とは、「ひたむきに主を求める」と言う意味です。あなたの人生の中心にイエス様を置き、ひたむきに主を求めて祈るとき、主はあなたに「何をしてあげようか」と声をかけて下さるのです。それはあくまでも神が人を尊重されている証拠です。神は私たちに自由意志を与えておられるので、人が神を必要として叫び始めるときに、神の業を現して下さるのです。
 あなたが教会に来られたのも、何らかの問題や挫折を感じて、ある日、神を求め始めたことがきっかけであったと思います。それが神に対する叫び声でした。神は人の叫び声を必ずキャッチして下さるのです。
 先週は『一時間でも祈っていることができなかったのですか』という御言葉を学びました。『心は燃えていても、肉体は弱いのです。』心が燃えているだけではなく、現実も肉体も強くなくてはいけない、そのために「毎日一時間は主の前に叫びましょう」と提案をさせていただきました。先週あなたはどうでしたか。主の前に叫び続けることができましたか。叫び続ける祈りに、主が答えて下さらないはずがありません。
 私も先週は忙しかったのですが、毎日一時間は主の前に出て祈りました。更にひたむきに主を求めていきましょう。ヨハネの十五章七節に、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

と約束されています。私たちがイエス様にとどまっているならば、すなわち、「とどまる」とは、滞在する、居続ける、住み着く、続く、存続する、長らえる・・・というような意味がありますが、何しろイエス様にしがみついているならば、求めるものは何でもかなえられるのです。この御言葉を自分の御言葉としてつかみ、主を求めたいと願います。
 さて、聖書を読むときに、文脈を見捉えることが必要です。最終的にそのストーリーは何を語っているのか、という結論を見落としてはいけません。ヨハネの福音書十五章に、「求めるならば何でも与えられる」と書かれていますが、その文脈をつかむと「求める」とは、何であるか分かってきます。十五章二十六節から二十七節に、

『わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。』

と書かれています。
 求めるとは、物質や現実的なものもありますが、真に求める必要は、「真理の御霊が来るとき」と書かれています。求める中心は「聖霊様」であることがわかります。
 またルカの福音書十一章には、「あくまで頼み続ける」ことについて書かれています。ある人のところに、夜中に友人が来て、出してあげるものがないので隣の友だちの所に来て「パンを三つ貸してくれ」と真剣に求めるストーリーがあります。ルカの福音書十一章八節から九節に、

『あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』

と書かれています。ここでも、私たちが真剣に求めたら、必ず与えられるということが聖書の約束であり、原則です。しかし、その文脈で行きついているところは、ルカの十一章十三節に、

『してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

となっています。物質的な必要も与えられます。しかし究極的に求めて与えられるものは、「聖霊様」です。この視点をしっかりと持つ必要があります。「求める人たちにどうして聖霊を下さらないことがありましょう」と約束されています。
 しかし、ルカ十一章は、聖霊様が私たちのところに来られるときについて、更に踏み込んで書かれています。十一章二十節に、

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』

「神の指」とは、マタイの福音書十二章二十八節では、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

それは、「神の御霊」です。すなわち、「聖霊」によって悪霊が追い出されるという奇蹟が現されるのです。
 悪霊が追いだされるとき、「神の国」があなたに到来する、と記されています。「神の国」とは全く不足のないところです。すべてが満たされているところです。
 まとめると、私たちが「求める」とき、聖霊様が来られ、霊的戦いが起こり、神の指によって悪霊が追い出され、「神の国が来る」、そして、「そこには何の不足のない世界」が訪れるというのが、聖書の奥義であると信じます。
 神の国は死んでからのものでなく、人生のただ中に訪れるのです。
 「何をしてあげようか」・・ただ、現実的なものを求めるだけでなく、「神の国」を求めることが重要な視点です。
 では、神の国をどうやって求めるのでしょうか。第二列王記四章で、エリシャは油を増やすという現実的な奇蹟を行いました。しかし聖書は、最初に出てきた事柄が最終的に何を意味するかによって、最初のストーリーの理解を最後の理解に合わせることが可能だと思います。
 ここでエリシャが行った奇跡は、現実的に未亡人の家族を助けるために、ほとんど切れ掛かった油壷から超自然的に油を増やす奇蹟を行いました。
 しかし「油」をテーマにすると、「油」は最終的には「聖霊様」を意味しています。そうすると、油が増えた奇跡のストーリーは、聖霊様の支配、聖霊の支配権の拡大、聖霊に満たされることを現していると思います。ということは、第二列王記四章は、聖霊様の支配をどのように受け取るかについて教えている、一つの箇所だと思います。
 奇蹟が起こる前提として、エリシャが未亡人の家族に一つの条件を出しました。その条件とは、先に述べたように、悪魔が出す条件ではなく、その人の内側を照らすものでした。神様は私たちに光を照らしてくださり、私たちになすべきことを指し示して下さるのです。
 「あなたの家に何がありますか」と聞かれました。すると「ほとんど油が入っていませんが、油壷があります」と答えました。「では、それを持って来て下さい」奇蹟はその家の中から現されました。
 また、「空の壷を借りてきなさい」と言われました。周りに空の壷がある環境であったのです。そして四章四節に、

『家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」』

 エリシャの指示は、「家に入ったら後ろの戸をしっかりと閉めなさい」でした。細かい指示かも知れませんが、しかしここには霊的な意味がありました。現実的には四章一節に、

『ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。』

と書かれています。自分の家族の周りには、いつも借金取り立て人がウロウロして脅しをかけたり、金目のものがあったら持っていこうと狙っていた思います。家の戸が開いていたら、貸し主が来て油を持ち去られる現実があったと思われます。そのような意味において、エリシャは戸を閉めるように指示したのでしょう。家族は家の中には入り、戸を締め、エリシャの言ったとおり、ほとんど切れ掛かった油壷から油を注ぎ始めました。すると、壷から油が注がれて、増えていきました。一つの壷、次の壷も・・・と油が増えていきました。家の中から奇蹟が起こりました。エリシャが家に来て、何かをしたのではありません。ただこの一家が戸を閉めて、神の言葉のとおりに行ったとき、神がわざが起こされたのです。
 これはエリシャの指示ではなく、神様の指示でした。エリシャは神の指示を伝えただけでした。家族がただ神の言葉を実行したのです。その時、奇蹟が家の中に起こりました。この原則は私たちにも適応されます。神様は問題のただ中で、奇跡を行われます。それも特別な預言者や特殊な能力のある人が来て何かをするのではなく、神の言葉に忠実に従っていくときに、この原則が当てはまり神のわざが現されるのです。
 このことを学ぶだけではなく、私たちの人生の中にも適応していきたいと思います。
 エリシャが「後ろの扉を閉めよ」と言いましたが、霊的にはどのような意味があるでしょうか。
 一家は主人が生きていた頃は幸せだったと思います。しかし主人が亡くなり、奥さんと二人の子どもが残され、その後借金取りに毎日苦しめられるようになりました。おそらくこの借金は、主人が作ったと思われます。主人が健康で働くことができた時期には毎月、滞ることなく借金を返済していたと思います。しかし家族は働き手を失い、窮地に立たされました。そして、主人が作った借金の請求が、奥さんのところに来ました。その上、借金の形として狙われていたのが「二人の子どもたち」でした。借金については父親と子どもは関係ないと思います。しかし、霊的な世界においてこのような事もあるのです。出エジプト記の二十章四節から六節に、

『あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(新共同訳)』

 偶像礼拝の罪の影響は三代、四代にまで及ぶのです。お父さんの借金の形として、子どもに来ましたが、霊的世界では偶像礼拝による家系の束縛です。今私は本を書いていますが、悪魔の隠れ家はどこかということを中心に書いています。それはある意味で家系の中にあると思います。家系の中で行われた偶像礼拝ほど、恐ろしいものはないのです。それらによって、新しい世代が攻撃されるのです。
 家庭に悪いことが起こって占い師に聞くと、「先祖崇拝が足りない」と言われます。そうすると偶像礼拝に回帰して、結果として三代、四代の契約が更新され、新しい世代、次の三、四代にまで影響がもたらされるのです。そのように、家系の偶像礼拝が新しい世代を攻撃する材料に使われるのです。
 エリシャのストーリーにおいて、「油を注ぐ前に後ろの扉を閉めなさい」ということは、まず家系に流れている偶像礼拝の束縛の扉を閉める必要性について教えています。それが閉まっていないと、油注ぎをいただいても全部油を持って行かれてしまうのです。
 今回、本を書きながら自分の家系についてもう一度調べて祈りました。父、滝元明がここにいますが、祖父は徳次郎といいました。実家に行くと、裏山に大きな石碑が建っています。そこには何やら変な神々の名前が書かれています。そして石碑の後ろに回り、コケを取り除いてみると、滝元徳次郎建立と書かれていました。これは私の四代前です。この呪いの扉が閉められるように祈りました。
 また私の母親は、東京の八王子の生まれです。そもそも、八王子は昔は八王寺と書きました。偶像の多いところです。母方は斎藤家と言いますが、母の妹が亡くなった時、おばあさんは八王子中の地蔵百体に自分の娘の戒名を貼って回ったそうです。母方に対しても他にも色々、「私の母方の家系の扉を閉めます」と祈りました。
 また、結婚すると二人の者は一心同体です。すべてが共有されます。自分の妻と一心同体になるということは、妻の家系も共有化されるということです。私の家内は旧姓、今泉と言います。私は何も気になっていませんでしたが、近頃、色々なことがわかって来ました。新城市の中でも私の家内の実家は千郷というところにあります。そしてその歴史を記した「千郷村史」という本が出版されています。そこに「今泉一族」が出てきます。それが何か調べると、何と、それが家内の家系でした。私の家内は八百年前からの家系が分かっていて、今泉一族はこの辺りの武士で庄屋をしており、三百年近くこの辺りを治めたのです。また、今泉一族は、新城市に偶像を持ち込んだ張本人だということもわかりました。私は新城市のゲラサの女と結婚したのではないかと思うほど、驚きました。
 私が彼女を好きになった時点で既に主が働いておられたと思います。「新城市で暗闇が最も深い、今泉家の娘をめとり、その家系の扉を閉めなさい。」という使命が与えられたと思います。家内はそれに気づき、何日間もかけて悔い改めの祈りをしました。素晴らしいことだと思っています。
 後ろの扉を閉めることが大切です。エリシャは、「まず後ろの扉を閉めなさい」と語りました。それから、主に求めると油が注がれるのです。そして気づいたときには油壷は全部、油で一杯になっていました。四章六節から七節に、

『器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

と書かれています。油がいっぱいになったときに言われたことが、「油を売ってあなたの負債を払いなさい。」
 私たちの家系の債務証書は全部帳消しになるのです。同時にここでは、「その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます」ということです。これは、現実的な必要も満たされるということです。
 「あなたは何がほしいですか」という問いの中で、究極的には聖霊様ご自身を求めることを教えられます。この二月は記念すべき月です。なぜならば、一九九二年の拡大聖会の最中に、愛知県民の森で叫んで祈っていたときに聖霊様が訪れて下さったからです。その日は力尽きて、叫びたかったけれど気力もありませんでした。しかし私たちは変えられました。主のわざが私たちの教会のただ中に始まりました。更に聖霊様を求めていきたいと思います。
 今日主が「あなたに何をしてあげようか」と語られています。現実的な必要にも神は答えて下さいますが、聖霊の油注ぎを求めて祈りましょう。
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