今週の礼拝メッセージ
2002.3.3(SUN)
聖められることを追い求めよう!
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 ヘブル人への手紙 12章14節〜16節
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。

 ハレルヤ!今日、皆さんと共に御言葉が学べることを感謝します。先週は兵庫県の教会で奉仕をしました。またその前の週は、沖縄で奉仕させていただきました。どこにおいても皆さんのお祈りに支えられて立つことができることを感謝します。
 教会は毎週共に集まり、聖書の中から幸せに生きるための秘訣を拾い出して学ぶところです。今日、初めて教会に来られた方もおられますが、聖書は幾多の批判に耐え、二千年間変更されることなく、全世界の人々に親しまれ読まれている書物です。それだけに信憑性があります。聖書は古文書のようなものです。日本にも、古事記や日本書紀と言った古文書がありますが、夜寝る前にそれらを読んで寝る人はまずいないと思います。しかし、聖書は時代的背景から言えば、もっと古いかも知れません。しかし、世界中の人が、夜寝る前に聖書を開いて読んで寝るのです。それだけ私たちの人生を変える力があります。今朝も、聖書の中から幸せに生きる秘訣について学んでいただきたいと思います。
 ヘブル人への手紙から学びます。『すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。』と書かれています。
 一度神様を見てみたいと思われるかも知れません。神様がいたら、目の前に出して見せて欲しいと言われるかも知れません。しかし、この「見る」という言葉は、「認める、知る、分かる、出会う、味わう、体験する」という意味もあります。この「見る」とは、継続性を表しています。瞬間的に見て忘れてしまうものではなく、継続的に見続けるのです。そのために必要なこととして、「神は聖い方なので、私たちも聖くならなくては、神を見ることができない」というのです。
 「主を見る」とありますが、神を見続けて幸せになった人々について聖書は記しています。ですから聖書を読むことは大変重要です。聖書には、ダビデという人物について書かれています。ダビデは主を見続けた人物でした。使徒の働き、二章二十五節から二十六節に、

『ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。』

と書かれています。この箇所は、ダビデという人物と共にイエス様について語っています。しかし、ダビデもいつも主を見ていました。その結果、何が起こったのでしょうか。二十六節に、

『それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。』

 神を見続ける人生は、「心は楽しみ」と約束されています。日本において今日、多くの人は心を病んでいます。心の安らぎを探し求めています。しかし私たちがイエス様を見続けるときに、心に精神的な安定が与えられるのです。教会に毎週集っていることにより、心が安らぎます。教会で何か特殊なことをするわけではありません。しかし聖書の話を聞くこと自体が既に「主を見る」行為です。知らないうちに、心は楽しみ、精神的な祝福をいただくことができます。
 「舌は大いに喜んだ」と書かれています。ここには深い意味があります。「舌」とは聖霊様との関係付けがあります。これは「聖霊の満たし」です。主を見続けることによって、聖霊に満たされます。
 続いて「肉体も望みの中に安らおう」と書かれています。これは「健康」です。健康も祝福されるのです。
 このように、私たちが主を見続けるとき、精神的な領域においても、霊的な領域においても、肉体的な領域ににおいても祝福されるのです。だから私たちは主を見続けるべきだと聖書は教えています。
 さて、主を見続けるために、最も基本的なこととして、ヨハネの福音書三章三節に、

『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』

と書かれています。私たちがイエス・キリストを信じるなら、新しく生まれ変わるのです。イエス様を信じるときに、神の国を見ることができる、それは、「神を見ることができる」のです。しかしイエス・キリストを信じなければ、神に出会うことはできないのです。排他的に感じる人もいるかも知れませんが、神はおひとりだけです。その神に出会うのには、この世にただ一つの名前しかないのです。それがイエス様です。イエス様を通してのみ、私たちは神に出会うことができるのです。
 世界の三分の一はキリスト教圏だと言われます。この二千年の歴史の中で、イエス様のためにいのちを捨てた人は数え切れません。イエス様は本当の神か、ただの人か、その判断は私たちに任されています。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と言われました。このように言える人は、精神的に問題がある人か、神様かどちらだと思います。全世界に、「わたしが道」と語られたイエス様の道を覗かなければなりません。イエス様を信じるときに、神の国を見ることができます。
 神を見るときに心は楽しみ、舌は大いに喜び、肉体も望みの中に休らうと聖書は約束しています。今日心に楽しみがない、精神的な安定性を欠いている方は、イエス様に答えがあります。主を見上げて下さい。肉体的な病も、主を見続ける中に癒しがあります。
 私は先々週、沖縄で奉仕しましたが、素晴らしい集会でした。今回は、アメリカ人の宣教師の教会での集会でした。一番多い日は、二百人ほど集まる集会でした。一般の集会の中で一つの事件が起こりました。一人の中風のおじさんが集会に来られました。たくさん人が来ていたので、歩いてきたときに人に押されて倒れたようです。そして頭をぶつけて怪我をしたようでした。私はそのことを知りませんでした。集会が終わってから、その教会の牧師の奥様が私のところに来られました。
 牧師先生は長い間、空軍のパイロットをしており、奥さんは軍の看護婦をしておられました。彼らは結婚して牧師になり、再び沖縄に来て伝道されているのです。その奥さんが私にこう言いました。
 「今日は男性が倒れて頭から血がたくさん出た。しかし血を拭いている最中に、傷が治ってしまった」と言われました。彼女はよく霊的なことを言われる人なので、私は「霊の世界で神が傷を癒されるのを見た」と言っていると思いました。
 私は、「あなたはそれを霊的な目で見たんですね。良かったですね」と言うと、「違います!」と言われました。彼女は看護婦なので、直ぐに呼ばれてました。見に行くとお爺さんは三センチくらい頭を切って血が出ていたそうです。病院に連れて行かなくてはいけないと思いながら、祈って血をふいたそうです。
 傷を祈りつつ拭いたら、消しゴムで消すかのように、その傷がくっつき、一つの点になってしまったと言うのです。周りで見ていた人も興奮していました。神様は生きておられます。神は傷を瞬間的に治されたのです。次の日にも、そのお爺さんが来られたので傷を見せてもらいました。傷跡はほとんど分かりませんでした。
 神様は肉体を造られた方なので、時々、奇跡的なわざを現して下さいます。もちろん傷は病院に行けば治ります。しかし、神が生きておられることを私たちに証明するために、奇跡的なわざを起こされるのです。それは、主を見る時、主を見続けるときに起こされるのです。
 この、主を見るために必要な条件として、「聖くなければ誰も神を見ることができない」とあるのです。聖くなるために必要なこととして、十五節に、「そのために」と条件が記されています。

『そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように』

と書かれています。「苦い根が引き抜かれる」ことが「聖められること」なのです。
 「苦い根」とは何でしょうか。その意味は、申命記二十九章十八節に書かれています。

『万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。』

 聖められるとは、「一生懸命努力する」と思うかも知れません。しかし聖めとは、努力とは違うのです。聖くなるとは、「異邦の民の神々の所に行ってはならない」「仕えてはならない」と書かれています。
 日本は石や木で作ったものを神として拝んでいます。さて、私の息子が、川から石を拾ってきて「お父さん」と書いて部屋に置き、私がいるにも関わらず毎朝「お父さん!」と挨拶し始めたら、「大丈夫か?病院に行こう!」とすぐに彼を病院に連れていくと思います。
 けれども、日本人は川から石を拾ってきて、「神様。私を助けて下さい」と拝んでいます。本当は、「大丈夫ですか?」と言わなくてはならない状況です。しかし、小泉首相が石を持ってきて「日本を助けて下さい」と拝んでも、誰一人「小泉さん大丈夫ですか」という人はいません。なぜ言わないのでしょうか。
 日本人には、一つの暗黙の了解があります。それは、「それらはただの石や木ではない」ということです。
 あなたもクリスチャンになる前には、石や木の神々を拝んでいたと思います。安い仏壇などは大量生産しています。そして、そこに先祖の霊がいると信じて拝んでいます。これはただの木ではない、箱ではないと思っています。なぜならば、日本人は霊感が強く、その背後の存在を感じ取っているからです。人間よりも崇高な存在として手を出しているのです。日本人には見えない存在をキャッチする機能があります。しかし、聖書は、手で作った偶像を拝み霊感を通して霊をキャッチしているが、それは神ではなく「悪霊だ」と語っています。人間の霊感は不完全なもので、悪霊をキャッチしても、神をキャッチしても、同じような感覚としてか捕らえられないのです。
 しかし偶像礼拝に手を出した結果として残るのは「苦い根」です。だから人生に生じる実は苦い実ばかりです。結果が悪いのです。したがって、偶像礼拝から離れることが「聖められること」です。そして、「主を見るようになる」のです。
 沖縄で私は、去年九月に集会をしました。その時「偶像礼拝から離れましょう」と話しました。沖縄では先祖崇拝を熱心にします。しかし「それは先祖のふりをした悪霊だ」と語りました。すると多くの人がそれを理解し、悔い改めて祈りました。
 沖縄には、アル中の人が多いようです。「泡盛」という焼酎を飲んで、最後には苦しんでいる人が多いのです。そのような方々が癒されるように祈りました。
 一人の方は自分の家庭に四十年間、アル中で苦しんでいる兄がいるというのです。普段飲まない時には良い人ですが、飲むとひょう変してしまうというのです。何とかならないかということで妹さんが集会に来ました。私は、「偶像礼拝が悪しき苦い根だから、それを引き抜かなくてはならない」と話しました。彼女は「わかりました。イエス様を信じて偶像から離れます。」
 そこで偶像礼拝を悔い改め、悪霊から断ち切る祈りをしました。特に、酒は偶像礼拝と共にあります。醸造の初めに偶像礼拝があります。また、酒が出来上がったら、奉納して拝みます。沖縄には悪霊を呼ぶ御岳(うたき)という所があり、そこで祭りをして酒を造り、できたらまたそこに捧げて拝むのです。強い悪霊との関係があるので断ち切る祈りをしました。そこにはアル中のお兄さんは来ることができませんでしたが、妹さんが祈りました。
 次の日、お兄さんが家でいつものように泡盛を飲もうとすると、気持ちが悪くて飲めなくて、飲んだら吐いてしまったそうです。するとそれっきり、四十年間苦しんでいたアル中がピタリと治ったそうです。本人よりも家族が驚きました。なぜ、治ったのか?妹が、「私が教会で偶像礼を悔い改め、悪霊との契約を断ち切る祈りをしました。そうしたら、兄が治ったのです。」
 家族全員が教会に来るようになったそうです。今回もその関係者の方が来て下さいました。偶像礼拝から離れることが大切です。
 今日は三月三日です。世間では、雛祭りという日です。「雛祭り」は女性と関わるイベントのように感じますが、これは明らかな「偶像礼拝」です。雛祭りは「桃の節句」とも呼ばれますが、紀元は中国の風習で、身の汚れや厄を人形に移し川に流す厄払です。身代わりになってもらう雛に、白酒や菱餅を供えて拝みます。そもそも、人形が身代わりになるはずがありません。しかし何か霊感を感じていたとしたら、それは悪霊です。
 ということは、その悪霊は、「女性を弱めるために働く悪霊」です。日本の文化や習慣の中に、偶像礼拝が浸透しています。その背後に、悪霊が働いていることを見抜くべきです。そして偶像礼拝から離れることが「聖め」であると聖書は教えています。
 続いて、十二章十六節に、

『また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。』

と教えています。続く「聖められる」ことについて、それは「不品行から聖められる」ということです。これは性的な乱れからの解放です。今世界中が、朝から晩まで不品行を行い、淫らなことを話しています。しかし不品行な生活をしていたら、決して神を見ることはできません。そして、心も霊も体も健康になることはできません。だから、「そのような罪から離れて下さい」というのが聖書のメッセージです。
 性とはそもそも神が創造したものです。アダムとエバ以外はすべて性行為によって生まれました。聖書はこの領域に関して、「性は神が創造したものなので、良いもの」という立場にあります。決して悪いものではありません。また、もう一つは「責任の伴うもの」であり、「制御されるべきもの」と教えています。
 しかし世の中は、聖書の性の価値観とは全く違います。性は良いものだと聖書が教えていますが、これはこれだけ性が賛美されているにも関わらず、人々の持っている性に対するイメージは「汚れたもの」です。これは神が与えたものと逆になっているのは悪霊の働きです。
 なぜ汚れたものだと思うのでしょうか。性は夫婦間にだけ許可されているもので、それ以外、聖書は罪だと語っています。現代では、結婚する前に性的な関係を持つのは普通のこと、また結婚してから不倫や浮気をするのも普通のこととされていますが、それは罪です。世間で強調されている性は、夫婦間以外の部分です。そして、人々が持っている性に対するイメージは悪いのです。悪いイメージとは、それらが罪である証拠です。
 神はアダムとエバを呼び寄せ、夫婦になる契りをされました。二人が一心同体となると言われました。一人の男性と、一人の女性を結びつけて言われたのです。そうしたら幸せになると語られました。社会の最小単位は家庭です。二人が一心同体という構図ができたら、社会も人生も幸せになるように神様が決めたのです。しかし悪魔は二人が一心同体という領域を壊しています。二人ではなく三人、四人が一体になるのが性的乱れです。結局社会の最小単位が破られています。
 最近コンピューターを利用する人が増えています。ウィンドウズ98、2000、XPなどがあります。それは、OSと呼ばれるオペレーションシステムのことです。それはコンピューターの基本ソフトです。それが正常に動いていたら、その上にワープロやインターネット、ゲームなどのソフト・ウエアを入れても正常に機能します。しかし、オペレーションシステムが壊れていたら、全くコンピューターは役に立ちません。他のソフトを入れても動きません。同様に、人間のOSは家庭です。それが、二人の者が一心同体となるところから始まるのです。それがしっかりと位置付けられていなければ、人間の基本的オペレーションシステムが壊れているのと同じです。結局、他のものをつけ加えても、全く役に立たないのです。
 今、世の中を見ると、それが破られています。不品行で汚れてしまっています。そこから離れなければ神を見ることはできないのです。
 パウロがギリシアのコリントという町に行きました。そこで一つの言葉を語りました。そのことがコリント人への手紙第一、六章十六節から十八節に記されています。

『娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。(新共同訳)』

 コリントには、フェニキアという町からの移民が多く、フェニキア人がアシュタロテという偶像を持ち込んでいました。その町の真ん中には山があり、頂上には怪しげな神殿が建っていました。その神殿を愛の神殿と言いました。そこにはたくさんの神殿娼婦と言われる売春婦がいました。コリントの男達は、愛の神殿に上っていき女性と関係を持つことを日常茶飯事としていました。その娼婦たちは、一日にどれだけの男性と関わるかわかりません。一生涯には何千人と関わるかわからないような女たちばかりでした。ある人々はその行為が神徳だと思っていました。また、ある人は欲望の吐け口としていたかも知れません。それを見ながらパウロは言いました。
 「娼婦と交わるものは、その女と一つの体となることを知らないのですか。」
男たちは、一度限りだから大したことはない、感情が別に伴っているわけではないから大したことではない、と考えていましたがパウロは言いました。
 「二人の者が一体になる」・・・それは、結婚と同じ意味があるというのです。売春婦と一体になるとは、その女性は何百人、何千人の男性ともすでに一体となっているので、それらを全て共有化することになるのです。肉体も、心も、霊も、また相手が悪霊の束縛を持っていたら、それも全て共有化するのです。娼婦と一体になることは、娼婦が関わった男性全員とも、一体化することなのです。
 今世界はIT時代で、世界の国々の情報を瞬時に引き出すことができます。同様に、悪霊も霊的ITネットワークを築いています。悪魔のネットワークはどんなネットワークを使っているかというと、「グローバル淫乱ネットワーク」と言います。多くの男女を肉体関係でつなぎ合わせて共有化しています。インターネットのように高速回線です。いや、「高速」ではなく、「拘束」回線です。だから、どこからでも攻撃を仕掛けることができます。いわれのない問題が多くの人を襲っていますが、背後に不品行の罪があるのです。
 私たちが悪霊の力から解放されるためには、不品行の罪から離れる以外にはない、と聖書は教えています。
 そして見逃せないのが、コリントにおいては、神殿において偶像礼拝と共に不品行が行われいたという事実です。偶像礼拝と共に不品行が行われていました。日本においても不品行が偶像礼拝と共にあります。浅草観音などに行くと、下町に売春宿がありました。歴史を見てもそうです。神道の神話の根元には淫乱があります。それは誰かが考え出したことですが、偶像礼拝が始まった原点に不品行があったということです。日本の不品行は、突き詰めていくと「偶像礼拝と共にある」のです。
 聖書は偶像礼拝と不品行から離れることが、「幸せの道」だと語っていますが、さらに深い意味があります。エゼキエル書十六章三十六節から三十八節に、

『神である主はこう仰せられる。あなたは、愛人たちや、忌みきらうべき偶像と姦淫をして、自分の恥ずかしい所を見せ、自分の裸をあらわにし、それらに自分の子をささげて血を流したため、それゆえ、見よ、わたしは今、あなたが戯れたすべての愛人たちや、あなたが恋した者や、憎んだ者をすべて寄せ集め、彼らを四方から集めて、あなたの裸を彼らにさらけ出し、彼らにあなたの裸をすっかり見せよう。わたしは、姦通した女と殺人をした女に下す罰であなたをさばき、ねたみと憤りの血をあなたに注ぐ。』

 この箇所は、不品行と偶像礼拝が一体化した概念について教えています。その罪によってさばきを下すと神がエゼキエルを通して預言しています。ここで、「わたしは姦通した女と、殺人をした女に下す罰であなたをさばく」と語られています。
 旧約聖書には大へん厳しい面があります。罪を犯したら、罰則だらけです。旧約聖書を読むとついていけないと思います。しかし、聖書の素晴らしさは、新約の時代になって人間が守ることができなかった律法を、イエス・キリストの十字架と復活によって無効にされた事実です。新しい契約によって、古い契約を取り消すことができるようになったというのが結論です。イエス様の十字架と復活のポジションに立つときに、古い契約が砕かれ、罪が赦され、私たちを責め立てる古い契約書が無効とされるのです。
 しかし旧約聖書は大変重要です。悪魔は旧約の古い契約の専門家です。古い契約書によって、日々、神の前で人を訴えます。彼らは、新しい契約書を使うことができません。使うことができるのは、古い契約書だけです。そして、彼らはその専門家なのです。
 もしも偶像礼拝と不品行という罪が重なっていたら、今読んだ契約を神の前に持って訴えるのです。「神様。あの人は偶像礼拝と不品行を犯しました。旧約聖書にこのような契約がありますので、これを使ってさばいて下さい。」というのです。私たちがもしもそのような罪を犯したら、悪魔は古い契約書を提出します。それで、私たちがその古い契約書を知らなければ、それに関して「ノー!」と言うことができないし、具体的に訴えを取り消すこともできません。まず悪魔が、私たちをどのように訴えるかという事実について知り、今度は新しい契約書をその訴えに対して適応しなければならないのです。ということは、私たちが旧約聖書をよく知る必要があります。
 さて、「不品行と偶像礼拝が一つになる」ときに何が起こるのでしょうか。「姦通した女と、殺人を犯した女に下す罰」があなたの上に臨むというのです。レビ記二十章十節に、

『人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。』

と書かれています。昔はとっても厳しかったです。こんなことを今の時代に当てはめたら、人口の半数以上がいなくなってしまうかも知れません。もう一つ、殺人を犯した女に下る罰とは何でしょうか。レビ記二十四章十七節に、

『かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。』

ということは、不品行と偶像礼拝が一体となった罪がもたらす結果として、悪魔はレビ記の二十章と二十四章の契約書を持って神の前に出るのです。
 「神様。日本人が犯している罪は偶像礼拝と姦淫の罪ではありませんか。これはレビ記の古い契約書によると、姦淫を犯した者は死刑だ。また、殺人を犯した者は死刑だ。そして、それらが重なると、二倍の死の力の束縛とエゼキエル書に書かれているではないですか。どうですか。これを見て下さい。」と言って、悪魔は神に古い契約書を突きつけるのです。
 私たちが、それらの事柄に関して、何も知らなければ訴え通されます。日本の偶像礼拝と不品行は、「死の束縛二重パンチ」なのです。しかしこの事について知っているならば、新しい契約書を出します。「悪魔よ、よく聞け。お前はそう言うけれど、今はお前が言っている古い契約書はイエス・キリストの十字架の血潮によって無効であることを知らないのか。お前は、死の力ダブルパンチで私たちを苦しめることはできない。」と宣言できる素晴らしさがあります。
 聖書は「偶像礼拝、不品行を避けなさい」と語っています。そこから離れることが聖くなることであり、「主を見る」ことです。そして、心も、霊も、肉体も、健康である秘訣だと教えています。
 汚れた時代の中でも、聖さを追い求めていきたいと願います。過去に、偶像礼拝や不品行の罪があったら、もう一度、主の前に出て完全に新しい契約書で断ち切られ、二度と私たちが死の力ダブルパンチで苦しめられることがないよう、主を見る生活となるように祈りたいと思います。
 ご一緒にお祈りしましょう。

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