今週の礼拝メッセージ
2002.3.10(SUN)
幸いな日々を過ごしたいとは思いませんか?
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 ペテロの手紙第一 3章10節〜12節
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

 ハレルヤ!今日このように皆さんと共に礼拝できることを感謝します。先週はリバイバル聖書神学校の卒業式が行われました。今年は四十三名の方々を送り出すことができて感謝しました。多くの方がリバイバル聖書神学校で学ばれていますが、皆さんの協力とお祈りを感謝します。
 私たちは毎週、教会に来て聖書の中から幸せに生きる秘訣を受け取って一週間歩んでいきます。今日も、新しい幸せを得る秘訣を受け取っていただきたいと願います。「幸いな日々を過ごしたいとは思いませんか?」と聞いたら、必ず、「もちろんですよ」と答えると思います。一度しかない人生なので幸いな日々を過ごしたいと誰でも考えます。
 日本は世界一の長寿国となりました。多くの人々が長生きの祝福に預かっています。一九四七年の統計では、男性の平均寿命が五〇.〇六才でした。そうすると、私は今年、丁度寿命です。しかし女性は男性よりも強く、五三.九六才という統計が出されていました。
 しかし二〇〇〇年の統計によると、男性の平均寿命は七四.六四才です。これで私もあと二十数年寿命があります。そして女性は更に延びて、八四.六二才です。男性よりも七年も余分に生きるのです。この数十年の間でここまで寿命が延びています。なぜ、女性はこんなに強いのでしょうか。いずれにしても長生きになりました。私は時々、養老院などを訪問しますが、おじいさんやおばあさんに「長生きで良いですね」と言うと、「何が良いものか。ただ生きてきただけだ」と言われることがあります。長生きでも幸せではなかったという方が多くおられます。長生きで幸せだは神の祝福です。今日のテキストである御言葉ペテロの手紙第一の三章は、詩篇三十四篇十二節から十四節からの引用です。

『いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。』

ここで、「幸いな日々を過ごすための秘訣」について教えています。日本は不況で、幸せと言える人は少ないです。多くの男性がリストラにあえいでいます。しかし教会はリストラのないところです。イエス様はリストラされません。イエス様はあなたを愛しています。あなたを捨てません、用います、と語ってくださいます。この社会の流れとは逆に、私たちを幸せにして下さるお方です。
 『幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず』と書かれています。詩篇では、『あなたの舌に悪口を言わせず』となっています。
 私たちはやがて天国に行きます。天国に行くと、素晴らしい永遠の世界が待っています。私が天国に入ると、「あなたはよく地上で働いたから、素晴らしいマンションが用意されていますよ。」と言って、私のマンションに天使が案内してくれるでしよう。多分、天国ガイドマップをもらい、初日にはそれを見ながら私は天国を探検して歩くと思います。まず、自分の住んでいるマンション付近を探検し、ある曲がり角に近づくと何人かの人々がひそひそ話をしています。何かと思い、道でも聞こうかと近づくと、その人たちがすっと散っていきました。また、他のところに行くと、同じように人々がひそひそ話をしているのです。おかしいと思っているとある人が来て、「滝元さん。みんなはあなたのことを噂していますよ。」「えっ。どんなことを噂しているのですか。」と聞くと、「よくぞあんな人が天国に入れたものだ。」「えっ!私のことがそんなに噂になっているのですか。」「そうですよ。それで、あなたはこのマンションに住むでしょう。所で、○○さんには気を付けて下さいね。結構うるさいですから。あの人とうまくやらないと、天国生活も楽しくないですよ。」と言われたらどうでしょうか。天国に入ったけれど、「地上と変わらないではないか」となります。
 でも、安心してください。天国は悪口も噂話もないところです。そこには、全く悪しきものは存在しません。それが天国です。
 私たちが天国をこの地上で体験したかったならば、地上で幸せに暮らしたかったら、「あなたは人の悪口を言ってはいけない」と言われるのです。
 私は今朝、ここに来て祈りました。「私は礼拝で悪口を言ってはいけないという御言葉を語ります。しかし私は、悪口を言ったことがありますから、赦して下さい。唇をきよめて下さい」と祈りました。案外、簡単に悪口や噂話しをしますが、それは聖書の基準から言うと「あなたを幸せにするものではない」のです。
 今週はぜひ、お互いに、悪口を言わないように注意したいと思います。噂話に加わらないように注意しましょう。聖書は、あなたが悪口を言わなければ、幸せになると語っています。
 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたい者は悪口を言うな」とありますが、「いのち」という言葉は、ただ長い命という意味だけではありません。ヘブル語で調べてみると、「健康、回復」という意味もあります。この箇所の別訳を見ると、私たちが悪口を言わずに歩むときに、病気から回復する、また、落ち込みから、弱さから、死から命へと回復されるとも訳されます。ただ私たちが、口の言葉に気を付けるだけで回復されるのです。死からいのちに移るという意味合いも含まれているのです。私たちは簡単に噂話などに引き込まれてしまうことがありますが、気を付けなければなりません。
 しかし、気を付けるだけではなかなか難しいです。内側にあるものを押さえるほど辛いことはありません。マグマのように、沸き上がって来るものを止めることほど難しいことはありません。
 さて、悪口を言ったり陰口を言ってしまう根底に「怒り」があります。赦せない怒りや憎しみが根底にあるので、なかなか悪口を止めることが出来ないのです。怒りは、ある意味で大きな問題です。今日、世界において一番大きな問題は、ある意味で「怒り」だと思います。人の心から、怒りが消えるならば、かなり幸せに生きることができるのではないかと思います。怒りのメカニズムを知り、そこから解放されるならば、無理をしなくても悪口を止めることができると思います。続いて、怒りのメカニズムについて学んでみましょう。黙示録十二章十七節に、

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

と書かれています。「竜」とは「サタン」です。「女」とは女性よりも「いのち」を現します。なぜなら、女性からいのちが生み出されるからです。「竜」は「いのちに対して」激しく怒っているというのです。これは、最終的には「永遠のいのち」に対する、サタンの挑戦です。激しい怒りをもっていのちに挑戦している存在は、「サタン」です。悪魔は色々な領域に働きかけます。まずは、人と人の間に働きかけます。人と人との間に怒りと共に竜が働きかけると、結果は、人対人の争いになります。そして、人は人に対して怒るようになります。
 また、国対国、民族対民族にも同じように竜は働きかけます。すると問題が起こり、国は国に対して、また、民族は民族に対して怒ります。ということは、怒りの根源に、サタンがいるのです。たとえば、人対人の領域に怒りが生じるならば、お互いに怒りを相手にぶつけていきますが、その怒りがどこから派生したかをよく知らなければなりません。勿論、きっかけとなるような罪がありますが、「怒り」はサタンが持ち込んでいるのです。
 人間は、もともと神が造られた作品です。神の作品にサタンが関わったら人の霊は怒るのです。丁度、猫にイタズラをすると猫が怒るようなものです。同じように、私たちの霊に霊的存在サタンが関わったら、人は抵抗します。神の作品だからです。しかし、サタンはそこで生じた怒りを、人、地域、民族、国に向けてしまうのです。その結果、人対人、国対国という対立の構造が作り上げられるのです。
 ということは、怒りの根元にサタンの力があることを認識しなければならないのです。もしも、内側に何らかの怒りがあったら、それをどこに向けていかなければならないのでしょうか。それは人ではなく、民族ではなく、国にではなく、怒りの根元である「竜に向け」なくては解決がないのです。
 私たちの根元に怒りがあるならば、サタンがあなたの霊の領域に関わっている一つの証拠なのです。怒りを悪魔に向けなくてはなりません。人や民族や地域、国に向けるのではありません。サタンの怒りが私たちに投影されているのですから、それをそっくり悪魔に返してやるのです。その時、怒りという領域に関して勝利が与えられます。私たちがただ、陰口や悪口を我慢するのでは、真の勝利にはなりません。勝利をするためには、怒りの根底に座している竜が打ち破られ、怒りが竜に向けられなくては勝利がありません。今日、もし、内側に怒りがある方は、それを全部悪魔に向けましょう。そして、人と人の間には平和、喜び、愛をいただくことが幸せに生きる秘訣です。
 続いて、幸せに生きる秘訣として教えられているのが、「偽りを言わない」ということです。日本人には、嘘も方便と言う考え方があり簡単に偽る体質があります。しかし、偽りは、私たちから幸せ奪うものであると聖書は教えています。
 偽りでも人を助けるような偽りも中にはあるかも知れません。しかし普通の偽りは、私たちを幸せにすることはできません。
 奈良では昔、鹿が神の使いだと言われていました。それで、どのような理由があっても鹿を殺したら死刑だと決められていました。ある豆腐屋に鹿が頻繁に出没し、おからを食べるので困っていました。あるとき、豆腐屋は間違って鹿を殺してしまいました。鹿を殺したら死刑です。すぐに見つかり豆腐屋は奉行に連れて行かれました。しかしその豆腐屋は良い人でした。だから周りの人が嘆願書を奉行に持っていきました。
 裁判の日が来ました。死んだ鹿が証拠として豆腐屋の前に置かれ、奉行が定めを読み上げました。「どのような理由があっても、鹿を殺した者は死刑だ。しかし、これは犬だ。鹿ではない。だから咎めはなし」
 それで豆腐屋は、殺されずにすんだのです。そういう偽りだったら良いのかも知れませんが、普通の偽りは人をおとしめるものです。特に今、神が日本の偽り体質を暴いておられると思います。毎日テレビや新聞で報道されるニュースは、偽りものばかりです。牛肉、鳥肉、豚肉、鈴木宗男も、政治も経済も外務省も、何もかもが偽りだらけです。そこら中で偽りが暴かれています。これはある意味で神が日本に働かれている証拠だと思います。「日本には偽りが満ちている、これでは幸せになれないから偽りから離れなさい」という、神様からのメッセージです。
 しかし、社会で偽りが暴かれていますが、日本人はどのような気持ちで偽りを暴いているのでしょうか。それは、「偽りが悪い」という視点ではありません。それは、「偽りが悪い」というよりも、三河弁で言うならば、「コスイ(ずるい)」ということです。「あいつらは、ド・ゴスイということです。」不正な富を作って、うまいことをして儲けたということで怒っています。本来は、偽りについて糾弾するべきですが、偽りということには余り視点が置かれずに、「うまいことやった」というところに対する怒りです。しかし本来、解放されるべき所は「偽り体質」です。
 だれにでも偽りの体質があります。ちょっとしたことで嘘をいう体質が私たちの中にあります。結局、それがある以上、幸せに生きることはできないと聖書は告げています。偽りを案外簡単に語ってしまいますが、これも悪口と同じように、根底に座しているものを知らなければ解放されないのです。
 なぜ簡単にうそを言ってしまうのでしょうか。ヨハネの福音書八章四十四節に、

『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』

と記されています。これはユダヤ人に対してイエス様が語られた言葉です。ここでうそつきの根元に座している存在について述べています。私たちが簡単に偽ってしまう根元に、怒りと同様にサタンが座しており、彼こそ、偽りの父だというのです。サタンは嘘つきの専門家です。ということは、偽り体質の根元に座しているのは「偽りの父」です。このことをしっかりと知る必要があるのです。そして、偽りの最たるものが「偽りの神々」です。イザヤ書十九章一節に、

『エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。』

ここに、「偽りの神々」という表現がありますが、これはただの像ではなく、「わななく」とあるように、人格を持っているのです。それはサタンのことです。日本は手で造った神々が満ちています。それは偽りの神々です。それはただの像ではなく、背後にはサタンの働きがあり、その働きは「偽り」です。それが、見える形で現されているのが「偽りの神々」であり、「偽り体質の根元」がサタンです。そこから解放されなけらば、幸せになることはできません。
 要するに、怒りや偽りを感じたら、その背後のサタンを見抜かなければならないのです。日常茶飯事に怒りや悪口、そして、偽りが転がっています。そんなちょっとしたところに偽りの父が居るわけはないと思うかも知れませんが、そうではありません。ちょっとしたところに偽りの父が介入しているのです。
 言葉は重要です。聖書は、神は言葉の中に現されると教えています。私たちは簡単に言葉を使いますが、言葉は神の領域に属するものです。私たちが正しいと定めるのも、罪に定められるのも、言葉によるのです。マタイの福音書十二章三十七節に

『あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。』

 私たちがいつも使う言葉は、人生の重要な鍵です。私たちが救われたのも言葉によって救われました。「イエス様を信じます」という告白によって、私たちは救われました。また、「信じません」と告白したら、罪に定められます。また律法に反するような言葉を口にするだけでも罪に定められ、そこから解かれるのにも言葉が必要です。
 聖書は、言葉ほどコントロールの難しいものはないと告げています。ヤコブの三章二節には、

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。』

と書かれています。完全な人は言葉をコントロールできる人です。しかし八節には、

『しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。』

と書かれています。神は舌を使って私たちを救いに導かれますが、悪魔も私たちの舌に働くのです。すなわち、舌を使ってあなたを罪に定めるのです。悪魔の働きは、私たちの唇にあるというのです。したがって、口の言葉には気をつけなくてはなりません。しかしそれは普通では制御できない、と聖書は言い切っています。
 ペテロの手紙第一の三章の言葉は、ペテロが書いた手紙です。彼はなぜ、『いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず』という言葉を引用したのでしょうか。それには理由があります。
実は、彼は大嘘つきであったからです。イエス様が十字架につく前に、ペテロは三年半もイエス様と共に過ごしました。にも関わらず、十字架の前には、イエス様のことを「知らない」と三度も嘘をついてしまいました。マルコの福音書十四章六十七節から七十一節にそのことがレポートされています。

『ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。』

 彼はイエス様と毎日のように行動を共にしていたにも関わらず、このようにイエス様を裏切りました。ペテロの嘘については、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書のすべてが取り上げています。
 福音書の中ですべて出てくる事柄は、かなり重要な事柄です。クリスマスは、かなり重要に感じますが、マタイとルカにしか記録されていません。イエス様の十字架は重要なことです。四福音書がすべて取り上げています。また、聖霊と火でバプテスマを授けるためにイエス様が来られたことも四福音書に出てきます。そして、「ペテロが嘘をついた」ことも四福音書が取り上げているのです。余程、「偽り」は悪い意味で重要なのです。なぜなら、偽りの根元に偽りの父サタンが関わっているからです。
 そのように、ペテロの人生の大失敗は大嘘をついたことです。その後、彼は幸せを失い痛い目に合ったのです。それで彼は決断しました。「もう嘘をつくものか・・・」
 しかし、人間は弱いもので、すぐに偽ってしまいます。けれども、ペテロはある時を期して変わりました。その出来事の後から、彼の発言が変わりました。
 イエス様の復活後、ペテロが福音を宣べ伝えたときに、「一切イエスの名によって語ったり教えてはいけない」と言われました。しかしペテロはこのように語りました。使徒の働き四章十九節に、

『ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」』

 彼は、イエス・キリストについて語ってはいけないと言われると、「私が見たこと聞いたことを話さないわけにはいけない」と大胆に語りました。しばらく前のペテロならば、「イエス様は知らない」と否んだに違いありません。
 また、使徒の働き五章では、アナニヤとサッピラという人が出てきます。その時、ペテロはこの二人の偽りを激しく糾弾しています。使徒の働き五章三節に、

『そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。』

 私はここを読む度に、「ペテロさん、あんたよくもそんなこと言えるね」と文句を言いたくなります。昔のことをまったく、忘れてしまったかのような発言です。なぜ彼がここまで変えられたのでしょうか。四福音書で「大嘘つき」と烙印を押されたような男が、こんなにも「嘘は駄目だ」と激しく語るようになった背景には一つのことがありました。それは、五旬節の日に、聖霊を受けたからです。使徒の働き二章一節から四節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 先ほど、ヤコブ三章には、「舌を制御することは誰にもできない」と言われていました。しかし、ペンテコステの時、炎のような分かれた舌が現れて、一人一人にとどまり自分の意志とは反して、聖霊によって御霊が話させてくださる通りに他国の言葉で話し出した、と記されています。
 聖霊の注ぎは、力や宣教など色々な意味がありますが、根底にあるのが「舌のコントロール」です。誰も舌をコントロールすることができません。舌は害毒の根源のようですが、聖霊の火が来るときに、あなたのどうにも止まらない舌がコントロールされるのです。聖霊の満たしは、私たちの舌をコントロールし、悪口や偽りを簡単に語れないようにして下さるのです。
 聖霊が来られるとき、神の指によって根底に座している悪霊が打ち破られるのです。聖霊によって、悪口や陰口、偽りの根元に座している存在が打ち砕かれ、唇がコントロールされ、幸いな日々を過ごさせていただきたいと願います。
 案外、足元に転がっている領域が、私たちの幸せを止める錨となっているのです。この領域に勝利できるならば、祝福がやってきます。最後に、ペテロの手紙第一の三章八節、九節の御言葉を宣言して読みたいと思います。

『最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』

 今日この御言葉を覚えて下さい。お一人お一人は祝福を受け継ぐ者として、神が救い出され、召し出してくださいました。ですから、お互いに祝福し合いたいと思います。お互いを祝福し合うときに、幸いな日々、いのちがわき上がり、長いいのちと平和な喜びに満ちた日々が与えられるのです。最後にお祈りしましょう。
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