今週の礼拝メッセージ
2002.3.17(SUN)
天に宝を積め
新城教会 滝元明牧師

新約聖書 マタイの福音書 6章19節〜21節
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

 ハレルヤ!今日は「宝を天に積め」というテーマで学びます。黙示録二十二章十二節に、

『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。』

 私は、間もなくイエス様が再臨されると信じています。その時、神が、私たちにどのような報いをして下さるかと楽しみにしています。私たちの宝がどのくらい天にあるのでしょうか。私たちは地上にいるので、地上のことを考えています。しかしイエス様は私たちに、天に目を向けるように教えています。そして、まだ見えませんが、天の御国を待ち望むことを教えています。マタイの五章から七章には山上の垂訓が書かれています。その第一にあげられたことは、

『「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』

ということです。当時のイスラエルはずいぶん貧しかったのです。ある意味で、彼らは天の御国を神が与えて下さるという希望を持っていたと思います。また、

『義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』
 また、
『わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。』

と言われました。時々イエス様を信じたことで迫害されたり、ありもしないことで悪口を言われたりののしられたら、「その時は喜びなさい」「天で大きな喜びがある」というのです。ですから、私たちが天に宝を積むことは素晴らしいことで、やがてイエス様が来られた時には、正しい判断をされ素晴らしい報いを与えて下さるのです。
 今新聞などで銀行が倒産した時のために「ペイオフ」という制度がとられると報道されています。今まで銀行が倒産したら、預金が全て本人に戻されました。しかし政府は、これからは一千万円だけ返ってきて、あとは返ってこないという制度を作ったそうです。私は貯金があまりないので心配していませんが、金持ちは心配すると思います。銀行や企業が倒産したりと色々な問題がある中で、これからどのような時代になるのか分かりませんが、イエス様が私たちに宝を天に積みなさいと語られているので、私たちは天に目を向けて進んでいきたいと思います。賛美歌の中に、

天に宝積めるものは げにも幸なるかな
主に任せしその喜び いかにしてかはのべん

「げにも」ということは「まことに」「いかにも」ということです。天に宝を積むことは何と幸いなことでしょうか、ということですから天に宝を積みましょう。天に宝を積めと言われても、現実的に天に宝が積まれているかわかりません。しかし聖書を見ると、神様の前に実際に宝が積まれていると教えています。使徒の働き十章一節から六節に、

『さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、』

と書かれています。兵隊の隊長をしているコルネリオは家族中でイエス様を信じていました。ある時に彼に天使が現れたことが書かれています。彼はいつも多くの施しをし、いつも祈っていました。三節には、

『ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。』

と書かれています。私の孫たちは天使を見たと言います。「おじいちゃんがメッセージしていた時に天使がいた」というのです。また甲子園ミッションの時にも、多くの天の軍勢が会場を覆っていたと言っていました。私は見ませんでしたが、「見ずして信じるものは幸い」と聖書に書かれているので、私は天使がいることを信じています。四節に、

『彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。』

と書かれています。私たちの祈りや施し、献金は覚えられています。いつか必ず報いて下さると信じましょう。ヘブル人への手紙十三章十五節から十六節に、

『ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。』

と書かれています。神様が喜ばれる宝は「賛美のいけにえ」です。新城教会では、賛美をたくさんします。賛美は神の前に立ち上り、喜んで受け取って下さいます。ですから教会に来るときに、ある人は賛美が終わってメッセージの時に来られる方もいますが、賛美は祝福なのです。メッセージは恵まれるときも、恵まれないときもあるかと思います。しかし、賛美で傷つく人はいません。私は賛美するとき、神の前に力一杯することにしています。ある意味でこれが健康の秘訣だと思います。これは宝として天に記念されます。また十六節に、

『善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。』

と書かれています。良いことをすることです。また、持ち物を人々に分け与えることが天で大きな宝になると聖書は教えています。テモテ第一の手紙六章十七節から十九節に、

『この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

と書かれています。ある方は、この世の富を蓄えることに重点を置きます。富を蓄えることは悪いことではありませんが、この地上だけを考えると失望します。
 アメリカでは牧師に特権が与えられています。危篤状態の時に、牧師だけは面会謝絶の部屋でも入ることができます。先週、中村一夫先生の病院を訪問しましたが、集中治療室に入っていたので家族と一緒でないと入ることができませんでした。行くと、どのような関係ですかと聞かれました。「私は牧師で友だちだ」と言うと、「家族以外には会えません」と言われました。「もし家族と一緒ならば、入ることができます」と言われました。ですから、その病院に、息子さんが働いているので彼と一緒に会いに行きました。アメリカでは、牧師ならば入ることができます。アメリカでは病室に牧師が入って、必ず罪の赦しを祈り、天国に行けるように祈ってあげるのです。
 ある牧師が、ある大金持ちが危篤状態の時に手をつなぎ祈ろうとしました。すると金持ちは手を握ったままで、手をつなごうとしませんでした。そしてそのまま死んでいきました。後から彼の手を開いてみると、手の中には金庫の鍵がありました。しかし、死んでしまったらおしまいです。聖書を見ると、

『私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

と書かれています。ですから、これからの人生、思い切ってささげていきましょう。イエス様が来られるときに、大きな報いを得ることができるように宝物を託して天にささげましょう。献金もしましょう。献金することは素晴らしい喜びです。私はイエス様を信じる前は献金を知りませんでした。私が教会に行ったときは終戦直後でしたので、献金についてあまり語られませんでした。貧乏だったので、もらう方が多かったのです。私は三年間津具で働き、自分を養って伝道しました。私は人の世話にならないという考え方を持っていました。新城に来て、ダンスホールを買って教会を作り、麻工場にも務めていました。
 ある礼拝にスウェーデンの先生が来られ、説教して下さいました。彼は私を愛して、よく導いて下さいました。頌栄を賛美し、礼拝を終わりました。当時新城教会では献金をしませんでした。すると先生が、「この教会ではどうして献金しないのですか」と聞かれました。
 ある人が私に、「新城の人はケチだから、献金があると教会に来なくなる」と言われました。それで献金をしていませんでした。私は自分で働いて養っていたので、献金は取らなくても良いと考えていました。そう話しました。すると、先生が私に、「献金を取らないと言いますが、取るのは先生が取るのですか。献金は神様にささげるものです。聖書に献金をしなくても良いという教えがありますか。」というのです。私は、「献金は私が取るのではなく、神にささげるとわかっていますが・・・。しかし、聖書には献金をしなくても良いとは書いてありませんが・・・」と言葉に詰まりました。すると先生が、「十分の一をささげることは、天を開いて祝福を与えて下さるという約束があります。献金をしないのは、人々から祝福を取っているのですよ。取ると言っても先生が金を取るのではないでしょう。」と言われました。私はその時、目が開かれました。「本当にそうだ、悔い改めます」と祈りました。その次の日曜日から、私の教会は献金をするようになりました。それから、教会が祝福され、素晴らしい喜びが与えられました。そこで私は教会を新城に建てることを決意しました。前には新城小学校の近くの四軒長屋の片隅に教会があったので、賛美を歌い恵まれていると外からの苦情がありました。それから祈り始めました。「やかましくない、どれだけ祈っても影響がないところに教会を与えて下さい」と祈りました。その時から教会を建てることを思い、予約献金をすることにしました。全部で一万八百円の予約献金がありました。その献金を元として、五年間を費やして百人入る教会堂が建ちました。教会はささげるようになってから祝福されました。お子さんもおられますが、祝福の基はささげることです。受けるよりも与える方が幸いだと聖書に書かれていますのでささげることが大切です。
 十分の一はなぜ大切でしょうか。地球を与えられたのは神様です。私たちが住んでいる所は神が与えられている土地を借りているのです。私が働いてと言いますが、働かせて下さっていることは神様の恵みです。その恵みの中から感謝して神に返すことが大切です。神が私を働かせて下さった、これは神のものですとささげることが大切です。十分の一をささげたら、天の窓を開き溢れるばかり与えるという聖書の約束があります。ですから「喜んで」ささげて下さい。ささげることは恵みです。
 私は献金については、色々な思い出があります。私は昔、東京の教会で証をしました。「私は貧乏なところを通りました。貧乏の子沢山で八人の子どもが与えられました。」と話し、「本当に貧しくて、乏しくて、貧乏で・・・イエス様に祈って与えられました。」と同じ意味の言葉を並べて証をしました。ある人は同情してくれました。しかし、私を救いに導いて下さった穐近先生が、「貧乏だ、乏しい、貧しい・・・」と話していたら、突然、講壇に出て来て「何を言っている!牧師が貧乏にしていたとは聖書に書いてはないぞ!大体、ケチケチしているから貧乏だ!」とみんなの前で怒鳴られました。私の息子たちもいる前で、真っ赤な顔をして親が怒られているのは惨めなものです。その時内心、「このジジイ・・・」と思いましたが、心の中で考えてみると、私はやはり貧しかったのでケチでした。それで悔い改めました。丁度その時に、ブラジルに宣教師を送り出すために予約献金の勧めがありました。そこで、あまりにしゃくにさわったので、思い切って献金をしようと思い、二、三ヶ月食べていくことができないくらいの予約献金をしました。
 すると、それからある意味で、経済的な余裕が与えられました。今私は、ささげることが喜びです。
 先日二月に、県民の森でリバイバル拡大聖会がありました。「今年は大阪で集会があります。ささげましょう」と言われ、私は「一万円」と書きました。そこで有賀先生が、「献金はあるものではなく、信仰でささげなければいけません」と言われました。それを聞いているうちに、私が言い出しで集会をするのに、それではいけないと思いもう一つ○を書き加えました。冬は私にとってお金がいる時です。それで困っていました。「神様与えて下さい」と祈りました。今年の四月には、ハワイで奉仕があり、五月には韓国で奉仕があります。それで私は家内と一緒に、少しずつ貯金をしています。ある朝、私は祈りました。「イエス様。私は十万円予約献金しましたが、どうかその献金を与えて下さい。」と祈りました。するとイエス様が、「あなたは今貯めているのがあるではないか」と言われました。そこでそれをささげました。すると不思議なことがありました。先週、私の知らない人が来られ、私に献金を下さいました。「ミッションのためにささげてください」と言うと、「いや、ミッションは個人的に献金していますから、滝元先生個人のためにささげたいのです」と言われました。私はそれを受け取り、感謝してまたささげました。心から神様にささげたら、神様は百倍にしてくださると書かれています。私が十万円献げる約束をしましたので、大阪ミッションには一千万円与えて下さると信じています。喜んで宝を天に蓄えたら、祝福されると書かれていますので、喜んで主にささげましょう。
 これから貧しい時代になるかも知れませんが、貧しくても神のものは神に返し、ささげていきましょう。イエス様が羊と山羊を分けて、右にいる羊に向かって、「さあ、世の始めからあなたのために準備した御国を継ぎなさい。あなたは私が飢えているときに食べさせてくれ、病んでいるときに見舞ってくれ、そしてあなたがわたしを助けれくれた。あなたに報いがあるように」と言われると、「神様、あなたが貧乏の時がありましたか。あなたが貧乏の時に助けたことがありましたか。病んでいるときに見舞ったことがありましたか。」と聞くと、イエス様が「ひとりの貧しいもののためにしたことは、わたしにしたことだ」と言われています。私たちがこれから恵まれる秘訣は、世界には貧しい人がたくさんいます。死んでいく人がたくさんいます。しかしその人たちのために、福音を伝えることが大切なのです。
 私が天国に行って大きな宝となることは、誰かをイエス様のところに導いたということです。ダニエル書十二章二節から三節に、

『地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。』

と書かれています。一番大きな報いは、誰かを救いに導くことです。皆さんの伝道で誰かが救われたことは素晴らしい宝となり、星のようになると書かれています。申賢均師が話しました。「僕が天国に行ったら、二十万人くらいを導いたので冠にそれくらいの星が付いているのではないだろうか」と言いました。この地上のものは去りますが、神様の御前にささげたのものは、必ず永遠に残りますので善を行い、祈り、献げ、伝道していきたいと思います。お祈りします。
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