今週の礼拝メッセージ
2002.3.31(SUN)
イースターメッセージ
新城教会 滝元順牧師

 今日は教会にようこそお越し下さいました。初めて来られた方も多くおられると思います。教会は大変楽しいところです。教会に来られる方の八割以上が、何らかの人生に問題を抱えて来られます。今日演奏して下さったロン・ブラウンさんも、四年間、麻薬中毒で苦しんでいました。しかし、イエス様によって回復したのです。ある意味で教会は社会で問題を持った人たちの集まりのような場所かも知れません。しかし、教会に来られた方々が口々に、「教会は明るいところですね」と言われます。今日も教会に初めて来られた方は、「この教会は明るい!」と思われたかも知れません。社会の中で問題を持った人たちが集まったら、社会の中で最も暗いところになってもよさそうです。しかし、それがなぜ、明るいところと化しているのでしょうか。なぜ、そのようなことが起こっているのでしょうか。イエス様は死んだ神様ではなく、よみがえって生きておられる神だからです。人間は神によって創られました。神様がおられたら、「私が神です」と自己主張しても良いと思います。世界の歴史の中で、ただひとりだけ神が人となって現れて下さいました。それがイエス・キリストです。イエス様は十字架にかけられて死なれましたが、三日目によみがえって下さいました。
 人間はいつか死にます。死というのは悲しいものです。今日もこの集まりの前に、「召天者記念会」が行われました。この教会でかつて共に礼拝を守っていた仲間で、先に天に帰って行った方々を記念する集まりでした。私たちはなくなった人を拝むことはありません。しかし、その方々を記念し、彼らが残した愛をもう一度思い出し、またやがて我々も同じ道を歩むので、永遠を思いながら召天者記念会を行います。ちょっぴり悲しい思いがしました。人間は誰でも死んでしまいます。しかし、人生は死で終わりではなく、主を信じる者にはよみがえりのいのちが溢れていることを証明するために、イエス様は一度死なれましたが、よみがえって下さいました。
 プロテスタント教会では、十字架にイエス様は張り付けになっていません。一般的なイメージでは、十字架にかかって惨たらしいイエス様を想像することが多いようです。なぜプロテスタント教会の十字架には、イエス様がかかっていないのでしょうか。それには理由があるのです。イエス様は死なれたけれど、よみがえられたからです。だから十字架にはかかっておられません。「よみがえられました」という証拠が、この十字架に表れています。私たちにもよみがえりがあり、また永遠があるということをイエス様が私たちに示して下さいました。ですから、私たちがイエス様に身を任せると、人生に新しいことが起こってきます。そして、私たちの人生の中に回復が起こってきます。神がご自分を現すために、この地上にイエス様を送って下さいました。しかし、それだけでは不十分なので、私たちに神の言葉である聖書を用意して下さいました。聖書を読むと、その中に神の言葉が詰まっています。聖書は今から二千年前に書き終わった書物です。書き始めから書き終わりまで、千五百年かかりました。聖書は一冊の本のように見えますが、六十六巻の書物が一冊になっています。書き始めは三千五百年以上も前のことです。今世界中の人々が聖書を読んでいます。聖書は不思議な書物です。この聖書は現代でいうと、古文書と呼ばれるような本です。古文書で人々に読まれているのは聖書くらいだと思います。日本の古文書は、古事記や日本書紀です。毎日、古事記や日本書紀を読んで毎晩眠りにつく人はいないと思います。古事記や日本書紀に手を置いて宣誓をすることはありません。しかし、聖書は、アメリカの大統領が就任する時には必ず、手を置いて「四年間政治をしっかりと行います」と誓います。聖書は神の言葉です。皆さんが教会に来られて、聖書を読むようになると、人生に素晴らしい光が灯ってきます。ぜひ、教会に来られるだけではなく、聖書を読んでいただきたいと思います。
 聖書には三つの柱があります。最初の柱は、人間がどのように造られたか、天地宇宙がどのように造られたか、ということが記されている創世記の中に柱があります。
 人間は初め、永遠に生きることができるように造られました。エデンの園で神と交わりができる存在として造られました。しかし初めの人間アダムとエバは罪を犯し、楽園から追放されました。残念ながら、そのことによって人類に死が入ってしまいました。神様は人類の為に、「いのちの木」を造られました。いのちの木から実をとった食べると、人間は永遠に生きるように設定されていました。
 今の時代に、こんな実があったら食べたいです。「最近、老けてきたのではない?」と言われたら、いのちの木の実をとって食べたら若返ります。「食べ過ぎたら駄目だょ。食べ過ぎると、赤ちゃんになっちゃうから」とか、いのちの木の実の正しい食べ方マニュアル本などがあるかも知れません。
 しかし初めの人間が罪を犯してしまったので、楽園から追い出されてしまったのです。聖書はそのことを次のように語っています。創世記三章二十四節に、

『こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』

と書かれています。これが聖書の書き始めの一本目の太い柱です。しかし聖書の最後の書は黙示録ですが、これは創世記が書かれてから千五百年近く経った後に書かれた書物ですが、黙示録の二十二章十三節に、

『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。』

と書かれています。聖書には一貫性があります。初めはいのちの木の実を食べようとしましたが、それを食べることができないようにストップされてしまいました。しかし、最後の書は、「もう一度、いのちの木の実を食べる権利が与えられる」と結ばれています。これが右と左の柱です。聖書には一定の流れがあります。普通は何千年にも渡って、多くの人の手に渡って書かれたら、このようなバランスはとれませんが、神が与えた書物なので、最後にはそのように結ばれています。そして、聖書の真ん中に、ヨハネの福音書があります。五章三十九節に、

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』

と書かれています。これが聖書全体をど真ん中で支えている太い柱です。「聖書が語っていることはわたしについてです」とイエス様は言われました。初めの人間がいのちの木の実を食べる道を塞がれてしまいましたが、最後にはもう一度食べる権利が与えられたのです。それは、「イエス・キリストによって与えられる」というのです。聖書は、失楽園から始まり、もう一度いのちの木の実を食べる権利の回復に行き着きます。その中心が、「イエス・キリスト」によって成されるのです。
 イエス様は現実にこの地上を歩まれた方です。先週の日曜日に「知ってるつもり」というテレビ番組で、イエス・キリストについてやっていました。私もそれを見ました。そこで言っていたのは、イエス・キリストは架空の人物ではない、イスラエルに実在した方だと言うことでした。
 イエス・キリストは実在された方です。聖書の中にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四福音書があります。そこにはイエス・キリストの生涯について書かれています。またイエス様がどのような発言をされたか、「イエス・キリスト語録」を見ることができます。ヨハネ十四章六節に、

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

と書かれています。「知ってるつもり」でも言っていたように、イエス様は実在された方です。『「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはありません。』・・・こんなことは普通では言えません。試しにイエス様と同じ言葉をどこかで言ってみて下さい。豊橋の駅前近辺で叫んでみて下さい。そうしたら「可愛そうに」と言って、救急車でも呼んでくれるかも知れません。次に、イエス様はマタイの福音書十一章二十八節で、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

と語られました。この言葉も、どこかでだれかに言って下さい。病院の待合い室にでも行って、「皆さん、聞いて下さい。すべて疲れている人・・・私の所に来てください。休ませてあげます。」と言ったら、「あんたが一番疲れてるよ!」と言われると思います。また、イエス様はこのように言いました。ヨハネの福音書十一章二十五節で、

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』

 ここまで来るともう付いていけない、と思います。イエス・キリストの存在は歴史的事実です。ということは、イエス・キリストという人物は、二人に一人です。精神に重大な異常を来している男か、神が人となられた方のどちらかです。本当にイエス・キリストが神であれば、そこには、いのちがあって道があるはずです。キリスト教徒が全世界にどれだけいるかについて、テレビで報道されていました。それは、二十億人です。地球の人口六十億の三分の一がクリスチャンです。ある人は、「キリスト教は少数派だ。日本は仏教国だ」と言っているかも知れません。しかし仏教の方が少数派です。イエス様はたった三年間しか人の前で話をしませんでしたが、今や二十億人が「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と言われたイエス様について行ってるのです。イエス様に興味を持つべきです。本当に彼が神ならば、そこに真理があっていのちがあり、道があるはずです。そして今まで、イエス・キリストのためにいのちを捨てた人は数えることができません。この日本においても、多くのキリスタンと呼ばれる人々が殉教していきました。これはイエス・キリストの中にいのちがある、そして人生はこの地上だけで終わりではなく、永遠の世界があるということを知っていたからです。私たちクリスチャンは、死というものに対して、しっかりした理解を持っています。死んでからどうなるか、という死後の世界観がはっきりとしています。しかし日本人は死後どうなるかの統一がとれていません。そもそも、仏教は死後の世界については何一つ語っていません。死後の世界観は、後からつけ加えられたものであり、釈迦は死後の世界は扱っていません。だから日本人は仏教徒だと言いながら、死後の世界がはっきりとわかっていないのです。先祖を拝んで、先祖を助けてあげるのか、先祖から助けてもらうのか、わけが分かりません。そして拝まないと行くところにいけないとか、供養してあげないといけないとか言っています。そもそも「供養」という言葉は、死者に食べ物をささげるという意味です。なぜ、供養することと、先祖が極楽に行くことと関係があるのでしょうか。また仏教の葬式などは、引導が渡されます。引導は極楽に入るという意味がありますが、その後で行われる法要を見ると、易々とは極楽には入ることが出来ないみたいです。盆になると地獄の蓋が開いて死者が出てきて、また戻る、というように行ったり来たりしています。はっきり言って統一見解がありません。なぜならば、先にも話したように、仏教は死後の世界については教えていないからです。
 しかし聖書は、はっきりと死後の世界について教えています。私たちは死んだら即、神の元に引きあげられ、神とともに永遠に生きることができる、永遠のいのちが与えられるのです。
 やがて私たちは、この地上から出て行かなくてはなりません。しかし、恐れないで良いのです。私たちは永遠のいのちとともに、神とともに永遠に天国で生きることができると聖書は教えています。
 「キリスト教の救いは何ですか」と聞かれたら、「永遠のいのちです」と答えます。しかし、永遠のいのちは救いですが、救いと言うよりも「救いの結果」です。救いというのは、「救われなくてはならない環境」がそこにあるのです。
 何度も話していますが、私は小学二年生の時に、桜淵に泳ぎに行って溺れたことがあります。その時のことは、今でもはっきりと覚えています。自分は泳げると思って行きましたが、泳げませんでした。そして、背が立つかと思い、足をつこうとしたら自分の背よりも深いところにはまってしまいました。そして水をたくさん飲みバランスを失って、いくらもがいても、出ることができなくなってしまいました。そして今でも忘れることができません。淵に沈んでいきました。水面がギラギラしていたのを覚えています。私は「もう駄目だこれで死ぬ」と思いがしました。死ぬ寸前まで人間は意識が残っています。覚悟をしました。しかしその時に、私は奇蹟を体験しました。背中が熱くなり、私の体が浮かび上がって水面に出て、息ができるようになりました。「奇蹟だ」と思ったら、私とともに泳ぎに行った、みよちゃんという大きな子が、「あんた何やっとる!」と言って私を抱き上げてくれました。みよちゃんはいのちの恩人です。一度会ってお礼を言わなければならないと思います。死ぬ寸前、みよちゃんの力強い腕で、私は生き返りました。私はぐったりしていましたが、私を母親のところに連れて行ってくれました。そして、みよちゃんは「今日、順はアプアプこいとった(三河弁でおぼれていた)。私が助けた」と言って自慢げに私を引き渡してくれました。母親は、「ありがというございました。」と言ってお駄賃をみよちゃんに渡していました。私はそこでまた傷つきました。なぜならば、母親がみよちゃんに五十円を渡していたからです。「何だ、私のいのちは五十円か」と思いました。
 私はあの時に助けられたので、皆さんの前で話ができます。私が息を吹き返して救われましたが、これが救われた結果です。救われなければならない環境がありました。それは溺れていたからです。クリスチャンの救いとは、永遠のいのちですが溺れている環境があるのです。それは何でしょうか。聖書はそのことに対して、使徒の働き二十六章十七節から十八節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

と書かれています。これは短い言葉ですが、キリスト教の救いの全貌を一言で語っています。そして、この中心は、救いとは、そして、救い出されなければならない環境について教えています。それは、彼らの目を開いて、暗闇から光に、「サタンの支配から、神に立ち返らせ」と語られています。
 アダムとエバが罪を犯し、楽園から追い出された背景には、一つの存在が関わっていました。それがサタンでした。アダムとエバが楽園を失った背後に、サタンの力があったからです。楽園を失ったのは、人類がサタン支配下に陥ったという意味です。
 世界は毎年悪くなっています。今から十年前、二十年前と現代とどちらが良いですかと聞くと、科学技術や便利さで比べると、今の方がずっと便利です。しかし社会はどちらが良いかと比べると、「昔の方が良かった」というでしょう。昔はあまり離婚した人など聞いたことがありませんでした。しかし、今は一年に二十四万組くらい離婚します。一年に六十数万組結婚し、その三分の一が離婚するのです。それだけ家庭が揺れているということです。また昔、学校にはあまり問題はありませんでした。私が小学校の時は、子どもたちに問題があるとは、あまり聞きませんでした。しかし、今はたくさんの問題があります。人類は発展していますが、内容はどんどん悪くなっています。
 今から約六十年前、太平洋戦争がありました。人間は、戦争をやっても良いことはないと学んでも良い気がしますが、どうでしょうか。戦争の数は昔よりも今の方がもっと増えています。人間は学ぶことができないのです。個人的に、「あなたは戦争が好きですか。嫌いですか」と聞くと、絶対に「好きだ」という人はいないと思います。しかし、それが民族や国単位になると変わります。互いに死ぬまで戦います。なぜか知りませんが、とどまることを知らない、人類は滝壷の中に落ちていく小舟に乗っているようなものです。または、ブレーキの利かない車に乗って坂道を転がっているかのようです。どうやってもブレーキを利かせることができないのです。誰もが、この世界が長く続かないだろうと感じています。これから千年、二千年と世界は続くはずはない。きっと破滅が来る、世界戦争が起こって核爆弾により、大変な世界になるのではないかと心配しています。背後に、巨大な力が人類を押しているような気がしませんか?
 聖書は初めから語っています。人間はサタンの力に支配されているがゆえに、いくら自で努力しても、幸せになりたいと願っても難しいのです。ロンさんも麻薬をやめたいと思っても、やめることができなかったと言われました。それは背後に、サタンの力が介入していたからです。ということは、サタンの支配から救い出されなくては、人間は幸せになることができないのです。そして、救い出されなければならない環境は、「サタンの支配下」です。
 教会に来て救いを得るとは、「サタンの支配から救い出される」と言うことです。あなたは今日、どちらの支配だと思われますか。本物の神の支配にあるでしょうか。それとも悪魔の支配下にありますか。救い出されなければならないのは、悪魔の支配下から救い出されなければなりません。イエス・キリストを信じるときに、暗闇から光に、サタンの支配下から神の支配に変えられるのです。
 しかし、ある方は言われます。「私は宗教を信じています。神を信じています。だから私は神の支配下にあるはずです。」しかし聖書はこのように語っています。「あなたの信じている神様をチェックして下さい。」それが、本当の神様なのか、または、神のふりをしている悪魔なのか、チェックした方が良いのです。
 日本人の神仏に対して祈りをささげる気持ちは、決して悪い心ではありません。「何とか助けて欲しい、頼っていきたい」と願うからです。私も、神社の境内に調査研究のために行くことがあります。そこに絵馬がかかっています。そこに祈りの課題がかかっています。その願い事を見ると、教会の祈りのカードと同じだと思います。
「健康でありますように、受験に受かりますように。今年こそは結婚が決まりますように・・・」と書かれています。皆、心から神に頼りたいと願っています。しかし、頼っている相手が、本当に助けてくれる相手なら良いですが、もしも敵だったら大変なことです。敵だったら、助けてくれるふりをしても最後には苦しめられます。大体、日本において人生に問題が起こったら、先祖を呼び出してくれるとか、見えない世界の声を聞かせてくれるという霊能者のところに出かけます。そこで拝んでもらうと、大体言われることは決まっています。それは、「先祖供養が足りない」と言われます。十代前の先祖が怒っているなどと言われます。また、「あなたのおじいさん、おばあさんの代までは一生懸命やっていたけど、あなたのお父さんとお母さんは先祖供養をしなくなりました。だからあなたのところに祟りがあります」と言われたりします。心当たりもあるので、「どうしたら良いですか」と聞くと、「もう一度供養しなさい、そうしたら先祖さんの怒りが収まります。」と言われて、先祖供養を始めます。
 しかしそこで考えて欲しいです。もしも自分が、先祖になったら、この地上で汗水流して真剣に働いている人に何をするかという事です。自分の息子娘、孫たちが一生懸命リストラに遭いながら、あえいで苦しんでいる、しかし、先祖供養をしていないからちょっと祟ってやるか。最近、拝むのを怠っているから病気にしてやれ、事故にしてやれ、とは私なら絶対にやらないです。もしも仮に、死後の世界からこの地上に、通信を送ったり何らかの影響を与えるチャンスがあったとしたら、いくら拝んでくれなくても、そのチャンネルのすべてを使って、何とか「守るために、支えるため」に働くと思います。絶対に祟るはずがないと思います。しかし、一般的には、神仏を拝んでいながら、それを呼び出して聞く意見は、祟りが来ているというのです。これはよく考えてみると、本当に神様なのか疑っても良いと思います。
 先日教会にひとりの方が来られました。その方は、「私は本当に恐ろしい体験をしたのです。」と言われました。「これを聞いたら、おかしいと思われるかも知れない。」と言いながら話されました。その方の愛しているおばあちゃんが亡くなったそうです。もうおばあちゃんと会えない、と悲しんでいたら夜中に目を開けると、死んだはずのおばあちゃんがいたそうです。どんな顔をしていたというと、真っ白い白粉を顔に塗り出てきました。その人はパニックしたそうです。おばあちゃんだと抱きつくことができなかったそうです。しかし顔はおばあちゃんでした。けれども、その印象は恐怖しか感じなかったのです。病院に行き医者に話すと、「だいぶお疲れですね。薬を飲んでゆっくりお休み下さい。」と言われたそうです。しかし薬を飲んでも、どうにも治まらずにいたそうです。どこかでこの話を聞いてくれるところがないか、ということで新城教会に来られました。
 「これは絶対におばあちゃんではない。おばあちゃんのふりをした化け物に違いない」と思ったそうです。それで「こんな悪霊に仕えていたら大変なことになる」と思いました。そして「本当の神を求めなければならない。」と思ったそうです。そうこうしたらまた、次の事件が起こりました。廊下を誰かが通っていく感じがしたそうです。人の気配だと思ったら、誰もいないはずなのに六人現れて、じっと見つめられたそうです。身も心も凍り付くような体験だったそうです。家の側には六地蔵がありました。これは先祖が現れたのではなく、先祖のふりをした悪霊が現れたのです。
 神は人を脅かすような方ではありません。人間を祝福するお方です。ほとんどの日本人が仕えている神は、恐れを背景としたものばかりです。ということは、拝んであげないと鎮まってくれないような存在は悪魔です。そこから抜け出さなければなりません。イエス・キリストは良い方です。この地上に来られたときに、苦しんでいる者や悲しんでいる人をいやし、病をいやし、本当に良いことをされたお方です。神様はどんなお方かと言うと、決して私たちに罰を与えたり、脅かすような方ではありません。私たちを包み、祝福し、あなたを幸せにするお方です。もしも今まで、自分が一生懸命拝んできたけど、自分を幸せにしてくれるのではなく、苦しめ脅し、「もっと拝んでくれ、拝まなかったら祟るぞっ」と言われていたら、考えものです。それは暗闇、サタンの支配下です。しかし、イエス様はそこから抜け出させて下さるのです。
 イエス様がこの地上に来られたのは、サタンの力から私たちを救い出すためでした。イエス・キリストを信じると、そのような呪いから解放されるのです。あなたは「良い方」とともに歩むことができるようになります。恐れもなくなります。イエス様は「拝むのが足りない、お前を苦しめてやる」とは言われません。私たちを励まし、支えて下さるお方です。教会に色々な問題を持ってきても、明るくなる理由がそこにあります。私たちのできないところを変えて下さる方が神様です。「自分の努力でできるところは自分やりなさい、しかし、出来ないところは支えてあげます」と言われるのが、本物の神様です。その良い方を信じ、その方とともに生きていく人生は祝福です。
 「キリスト教」と言いますが、これは宗教ではありません。なぜなら、本物の神様がおられるのを信じるのは宗教ではありません。自分の父母を認めることは宗教ではありません。それは当然のことです。本当の神がおられるのを、神として認めるのは決して宗教ではありません。これは人間としての本分です。自分の父母を父母として認めたら祝福があるのと同じように、本物の神を神として認めたら、どれだけの祝福があるかわかりません。
 子どもは両親の資産を受け継ぐことができます。私たちも、イエス・キリストを信じたら神の子になれるのです。あなたは神の子どもとなるのです。子どもは親のところに自由に出入りします。大統領の息子・娘は、大統領のところにはばからずに自由に出入りします。同様に、神の子どもは天地宇宙を造った神の前に、はばからず自由に出入りすることができます。あなたがイエス・キリストを信じたら、あなたを神の子どもにしてあげるというのです。そして、死からいのち、暗闇から光り、サタンの支配下から神の支配下にあなたを変えてあげるというのです。
 そのためにイエス様がこの地上に来られました。死を打ち破る力があることを証明するために、イエス様は一度死なれましたが、よみがえって下さいました。そのよみがえりを記念する日、これがイースターです。今日はイエス様のよみがえりを記念し、死を打ち破る神がおられることをイエス様を通して、今もなお語りつげてる日です。
 死を打ち破るほどの力ある神は何でもできます。今日、イエス様に期待して下さい。今まで自分が仕えていた神が、敵だと気づいたら即刻、離れることです。今までの習慣、文化、また、先祖から受け継いだものでも敵であったら即、離れなければなりません。案外、ほとんどの人が、敵に手を出しています。しかし、イエス様のところに来たら、イエス様はあなたの味方です。そうしたら、あなたの人生が変えられ、色々な問題や苦しみから解放され、恐れではなく、解放を体験できます。
 私たちが教会を建てた目的は、すべての方が暗闇から光に、サタンの支配から神の支配に戻っていただきたいからです。一度しかない人生なので、悪魔の支配下で苦しんで欲しくはありません。神の支配の中で、永遠の世界に続く救いを受け取っていただきたいのです。
 今日初めて教会に来られた方も、ぜひ、暗闇から光に、サタンの支配から神の支配に移っていただきたいと願います。そのために必要なことはただ一つです。イエス様を自分の救い主として、「受け入れる」ことです。どのようにして受け入れたら良いのですか。それはまず、口による宣言です。「だれでも心で信じて義と認められ、口で告白して救われる。」と聖書に記されています。今日、「イエス様が救い主で、神ならば私も信じてみようか」と少しでも思えば、口で告白するべきです。「イエス様。私はあなたを信じます。」とはっきりと口で言うことです。そして「私を暗闇から光りに、サタンの支配から神の支配に移して下さい」と口で言うことです。その時、あなたの人生が変えられ、新しいことが皆さんの人生に起こってきます。皆さんと一緒にお祈りしたいと思います。口の告白は大切です。告白するときに、神が私たちとともに、見えない世界で同じように声を出し、悪魔に対して勝利を宣言して下さいます。そしてあなたを暗闇から光に、サタンの支配から神の支配に移されるのです。お祈りします。


バックナンバー

戻る
戻る