今週の礼拝メッセージ
2002.4.14(SUN)
あなたは主の勇士です
新城教会 上條実牧師

旧約聖書 サムエル記第一 16章1節〜13節
主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前にすすませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

 ハレルヤ!今日は「あなたは主の勇士です」というタイトルで学びます。この箇所はイスラエルの王ダビデの誕生について記されています。ダビデというとゴリアテことを思い出します。三メートルもある鎧だけでも六十キロを身にまとっている大男でゴリアテがイスラエルに挑戦してきたときにダビデは鎧も剣も持たずにいつも使っている石投げで簡単にゴリアテを倒ました。ダビデはそんな勇敢な少年です。そしてダビデは王になり、イスラエルの国旗の真ん中の星がありますが、ダビデの星と言われる程彼が勇士になり英雄的な存在の勇士とされました。今回ここを読んでいて、ダビデは良いけれど自分は駄目だと思いました。人間は人と比較してしまうのです。あの人と自分、自分はここが劣っていると思います。特に私は劣等感の固まりで昔は人のことを気にしては一生懸命背伸びして自分がいかにも立派なように見せていました。そのような中でいつも挫折し、苦しんでこれが駄目だ、あれが駄目だと劣等感を数えていたような者です。高校時代も少しでも格好良く見せようと思い色々なことをしたことを覚えています。いつもドジで悲しい事件がありました。自分は勉強が駄目だったので運動で頑張ろうと思い陸上部に入っていました。体育大会でここだけは私が見せれるところだと思い、二百メートルを走る時に、格好付けてみんなは赤や青や緑色の学校のジャージでしたが自分だけ陸上部のジャージを着て、二〇〇メートルの決勝の時にさっそうと上着を脱ぎ、下を脱ごうとた時にトランクスにまで手が掛かってしまったことがありました。その後は皆さんのご想像にお任せします。みんなが見て、格好良く決まっていると思うのですが、駄目でした。格好付けようとしても駄目な私で長続きしない劣等感の固まりで全部が駄目だというカイロがありました。信仰面でもそうです。色々な兄弟姉妹と交わっていてもあの方は短期間のうちに家族全員が救われたというと、自分は駄目だと思います。まだ家族が救われていないと思うと霊的な劣等感を持ちます。さっと皆と交わることができる人もいれば、自分はなかなか交わりに入り込むことができない所があり、自分は駄目だと思います。私たちは人と比べて駄目だと思います。ダビデから見ると、ダビデは主の勇士かも知れませんが、リバイバルのために勇士になろうと語られていますが、勇士に程遠く、勇士になど加えられることができない存在だとよく思うことがあります。しかし、今日あなたは主の勇士だということを思い返し、信じていただきたいと思います。ダビデは王様になりましたが、その前にサウルという王様が出ました。それはイスラエルの国で初代の王サウルという王様を神が選びました。サウルはどのような人物だったでしょうか。第一サムエル記九章二節に、

『キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。』

と書かれています。彼より美しいものはいなかったと書かれています。これは王様になる人という容姿であり、また、皆の肩よりも上だけ高かったというのでパッと見ても目立つ存在だったと思います。ある意味で王様になるために生まれてきたようなものでした。また、第一サムエル十章二十四節に、

『サムエルは民のすべてに言った。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな、喜び叫んで、「王さま。ばんざい。」と言った。』

と書かれています。イスラエル人に並ぶ者はいない、それだけサウルは立派で頭の良い、判断力があるリーダーシップのある人でした。その後神がサウルをどのように見ているかについて書かれています。十五章一節から三節に、

『サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」』

と書かれています。すごいことを神様が言われました。これは、イスラエルが出エジプト生活をし、出エジプトをしてカナンの地に戻ってきたときにアマレクの所を通りたかったので斥候を遣わしてそこを通らせて欲しいと頼みました。しかし、アマレク人はイスラエル人を妨害しました。道を通らせないようにしました。その時にサウル王様を立てられたときに「アマレク人を聖絶しなさい。男も女も、子どもも乳飲み子も、家畜までも全部殺せ」と神様から命令を受けました。その時にサウロは神の言うことを聞いたのでしょうか。第一サムエル十五章九節に、

『しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。』

と書かれています。神の命令は皆殺しにせよという命令でしたが、彼は値打ちのないものだけを殺しました。なぜ、お前は聖絶しなかったのかと言われた時に、最もらしく彼は言っています。これはアマレクの中で行ってみたときに丸々と太った羊がおり、これを全焼のいけにえとして神にささげたらどんなに素晴らしいかと思いとっておいたと言いました。結局神様の言うことを聞かなかったということでサウルは王位から退けられてしまいます。そして、第一サムエル記十六章はまだサウルが王であったにも関わらず次の王を探すということで「ベツレヘムに行きなさい。エッサイという人の所から王が出るのでその人に油を注ぎなさい。」神様が語られ、出かけていく記述です。ここを読んでいて神様はなぜこのようなことをするのだろうかと思いました。ある意味でサウルが駄目であったらエッサイのこの末っ子ダビデがいるから彼を招いて油を注ぐようにと言えば良いと思います。しかし、神様は七人の子どもの所に行かせて駄目だったので最後にダビデが連れて来られ、八人とエッサイがいけにえをささげるところに呼ばれて一人一人に神様がこれではない、これではないと最終的にダビデを選んだことが書かれています。私はここを読み、エッサイというダビデの父親の配慮があり特別に招かれて預言者サムエルがベツレヘムに行くことは、この御言葉にあるように何か恐ろしいことですかとベツレヘムの人が聞いているようにある意味で預言者たちがベツレヘムにわざわざ出向いていき、いけにえをささげるようなことは重大な問題がある時だけのようでした。そのような中で特別にベツレヘムの長老たちと一緒にエッサイの家族が呼ばれ、エッサイは色々考えたと思います。彼には八人子どもがいる中で家族で来るようにと言われ、なぜ、ダビデは一緒に行かなかったのだろうかと思いました。私はある意味で親のエッサイから見たらダビデは羊を飼うという仕事であり、彼はまだ子どもであるし、神に礼拝することなど好ましくない人物だと判断したと思います。ですから、八人の打ちの七人を連れて彼らは神の前に出ていけにえをささげました。そのような中で勇士エアリブが出てきて、サムエルはこの人が王になると思いましたが十六章七節に、

『しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」』

と書かれています。エアリブは勇士で人から見たらこの人は立派だと思いましたが、神は違うと言われ、「人はうわべを見るが、神は心を見る」と言われました。その次にシャマが来て次の四人を呼びましたが、結局違いました。そしてもういないのですかとサムエルが言ったときに、十六章十一節から十二節に、

『サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」』

書かれています。エッサイは息子ダビデは「あいつは羊の番をしており、こんな所に出てくることができるような人物ではない。」とダビデを差別しているような所があります。エッサイの目から見たら連れて行かなくても良いと判断していると思います。ある意味で親に認められていないような人物だったかも知れません。これは私の想像ですが、また神の前に出ていくような年ではなかったのかも知れません。また成人として見られていなかったこともあるかも知れません。ダビデは人から見て重要視されるような者ではなかったです。羊飼いはある意味で当時は子どものする仕事でもありました。聖書の中で子どもたちが羊を飼っている場面があります。自分の家畜の面倒を見るようにというのが仕事で戦いに行くとか、頭が良いと重要視されず、普通の子どもでした。特別に長男エアリブなどと比べても目劣りするような人物であったかも知れません。しかし、ある意味で期待されていない、親から見てもこいつは期待されていないと思われていたような人物に神はダビデに油を注いでサウルの次の王として油を注いで彼は素晴らしいイスラエルに名の残るような人物になりました。自分もある面でそのような所があるかも知れません。人と比べて自分は駄目だと思い、自分は何もできないものだと思いがちです。そのような中であなたは素晴らしい勇士だ、またあなたを愛している、あなたを用いると勇気づけるような言葉を聞きます。また読みます。そして私は愛されている、神様によって強められていくのだと思いますが、実際、長続きしません。頑張ろうと思って一生懸命やりますが、結局挫折してしまい私たちの心の中ではやっぱり駄目だったのかとあきらめで信仰生活落ち着いてしまっているところがたくさんあると思います。私たちは人から見られたら何もか地がないように見下されているようなときがあるかも知れませんが今日もう一度主が言われていることに心を留めて下さい。あなたを用いて、日本のリバイバルのために、また素晴らしい祝福を与え、素晴らしい祝福を受ける自分物になって欲しいと神様はあなたを注目していることを覚えて下さい。私はこのように考えて読んでいたときに御言葉が心に留まりました。エペソの六章十一節に、

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』

今日皆さんとともに学びたいことは策略にはまらないでいただきたいと思います。私もこの御言葉を読みながら、こんな策略にはまっていたのだと思いました。悪魔はクリスチャンを何とかして駄目にし、自信を持たせないようにして、主の勇士にならないように剣を置いてしまうように、信仰を交代させるために懸命に働くのです。そのために色々な角度で悪魔は策略を私たちにもたらしているということを覚えて下さい。私たちは策略にはまり、自分は駄目だというように訴えられ、剣を置いてしまい、私たちが御言葉に従うべき所を従えず、とどまってしまうどころか信仰後退し、自分は駄目だという所に固まってしまいます。そして礼拝に来て頑張ろうと言われてそうだと思いもう一度立ち上がろうとするのですが、持続できずに、自分の力で一生懸命しようと思うがゆえに自分は何もできない、駄目だと思ってしまいます。そして更に傷ついたところに、頑張れと言われ、自分は弱かったと思い立ち上がりますが、結局は駄目でもっと傷口が広くなり、もっと落ち込みまたやってしまった、こんなになってしまったと思い、自分が惨めになってしまう現実です。理想はいつも平安で喜び輝いて神様のことを証しして皆を教会に導くことができ、家族が救われ、聖書の理想がたくさんあります。自分の仕事が祝福されてこんなに祝福されたと神様に礼拝の時に報告できれば良いのですが、自分は惨めで傷ついて礼拝に来るかも知れません。ある人は悪魔の策略に引っかかり今でも自分は駄目だ、できないという所に信仰が固まってしまい、御言葉がそこをたたき、できる、勇士だと言われても割れないでがちっと変な信仰を持っているかも知れません。またある方は自分はまだ信仰が薄いから勇士になることなどできないと思っているかも知れません。また、色々なところから新城教会に集って下さっていますが、新城教会の特徴は戦っていきましょう。主の勇士ですと言われるけれど自分はまだこの教会に来て間もないし、信仰を持って間もないし、勇士だと言われて自分が戦うなんてできないと思われるかも知れません、また自分はまだ幼い。子どもだからと思うとき、また自分は年寄りで、どんどん枯れていくような状況で年寄りに何ができるのだと言われるかも知れません。またある方は病気で自分のことで精一杯だ、主の勇士と言われても戦うことはできないと言われるかも知れません。また、伝道しなさいと言われても人と交わることがなかなかできない、機械について黙って仕事をすることはできるけれど対人関係、友人関係で傷ついて人と話すなどなかなかできない。私はそういう性格ですと神様に訴えているかも知れません。また人が上手に祈っているのを聞いて自分はあんなにうまく祈れない、自信がないと言われるかも知れません。また、聖書を読んでも聞いても全部通過してしまい聖書のことがあまり分からないので伝道したときに聞かれて答えられなかったらどうしようと思うかも知れません。また過去偶像礼拝をしてきたからまだ霊的な束縛があるのではないか、自分は偶像礼拝に凝り固まったところから救われてきたので勇士などほど遠いですと言われるかも知れません。毎日の生活の中で、罪を犯してしまうので罪深いから私は主の勇士として立つことができないと思うかも知れません。スタッフや牧師が大胆にやっているけれど自分は関係ない。スタッフや牧師がすることだ。自分は自分の生活が精一杯で自分のことをしていれば良いのだと思うかも知れません。自分には知恵がないのでスタッフや牧師たちがしているような戦いは自分にはできないと言われる人がいるかも知れません。また、私の祈りは拙くて聖書の中で求めなさいと書かれているので一生懸命祈ってきたけれど、何ら祈りは答えられない、自分の祈りは答えられないから駄目だとあきらめている人もいるかも知れません。また人には言えないけれど自分の家庭の問題、色々な問題が私の中にたくさんあり、自分の問題が解決できないのに勇士になって戦っていくことはできないと言われるかも知れません。またいつも色々な問題で教会ではニコニコしているかも知れませんが、家庭や会社の中で泣いて悲しんでいる自分、そんな自分がなぜ勇士になることができるのだろうと言われるかも知れません。また、自分が心配ばかりして、一つのことでも色々なことを心配して取り越し苦労がたくさんあり、そんな心配ばかりしている自分が主の勇士になることは絶対にできないと言われる人もいるかも知れません。色々なことを考えるときに自分は駄目だと凝り固まってしまい、自分はできないと不信仰で固まってしまっている時があると思います。また日曜日は神様を礼拝するときですがウィークデーはある面仕事で精一杯で神様のことを考える暇もないくらい忙しい。忙しいことは祝福されている証拠かも知れませんが、神様のためにもっと働け、戦っていけと言われても私にはそんな時間はありませんと言われてそんな囲いを作ってしまうことがあるかも知れません。今日悪魔の策略に立ち向かっていきたいと思います。目を覚ましていただきたいと思います。神様は私たちをどのように見て下さっているでしょうか。当たり前のように私たちを罪人だと見ています。私たちは人間で何もできない器だとわかっているように神様も私たちを見たときにそのようにわかっています。だからこそ、あなたが天国に行くように、あなたができないからこの地上にイエス・キリストが下りてきてくださり、あなたが罪を犯し当然地獄の苦しみを受けなければならなかったから、イエス様はあなたを愛して代わりに身代わりになって十字架にかかって死なれ、三日目によみがえって下さり、救い主となって下さっています。ですから、今日覚えて下さい。あなたはあなたのままで良いのです。人と比べてすぐに私たちはできないと考えてしまいます。自分は駄目だ。人の前に立つこと、神様のためにということは到底考えることはできないと思うかも知れません。しかしそうではありません。それが悪魔の策略だということを覚えて下さい。神の赦しをしっかりと覚えて下さい。あなたがそういう人間だったからこそわざわざ神様がこの地上に王の王である主が下りてきてくださり。、あなたのために死んでくださり、三日目によみがえって下さいました。そして今あなたがイエス・キリストを主と告白しているならばあなたの手に神の権威があるということをぜひとも覚えて下さい。神の子どもとなる特権をお与えになったと御言葉にありますがあなたが神様の道具・権威を何でも使うことができる力があるということを覚えて下さい。このことをもう一度今日は握り直して下さい。そして自分なんか駄目だと思っても結構ですので、あなたが神様に示されていること、あなたがここに行って祈りなさい。この人のために祈りなさい、語りなさいと言われている時に自分は何もできない器かも知れませんが、その策略にはまらないで一歩踏み出したときに、一歩前に前進し始めたときにその策略が打ち砕かれてあなたが勇士になっていくことをぜひ覚えて下さい。第一コリント十二章二十二節に、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

と書かれています。自分は駄目だと思っているところを奮い立たせて自分には神様がおられる、共にいてくださる、頑張ろうと思われると悪魔は「やばい!」と考えると思います。これは自分たちのネットワークをして押さえてきたものが崩されると思って悪魔は策略を設けてお前は駄目だと策略を仕掛けて、「お前は駄目だ・・・」と凝り固まらせて私たちは策略に固められてきてしまいました。しかし、今日覚えて下さい。あなたが神の権威をいただき、自分はできない、また失敗する、それでも良いので一歩前に出てみて下さい。今週あなたが神様にしなさいと教えられていること、今までずっと祈りに行かなくてはいけない、あの人のためにこうしなくてはいけない・・・と色々なことを神様が私たちに教えて下さっていることがたくさんあると思います。しかし、それを打ち消し、自分にはそんなことができない、まんまと策略にはまってしまい動けない、止まってしまっている悪魔の言いなりになっている私たちがあります。しかし、そのままで良いのです。弱いからこそ神様があなたに期待しているのです。弱いままであなたが今日一歩前に出ていくときにその策略から解き放たれていきます。そして私たちが弱い時、私たちが進んでいくときに自分は絶対にできないからイエス・キリストがこの地上に来て下さり、十字架にかかられ、勝利を治められて私たちは天国にいけるのです。ですから自分はできないからこそ、私たちが一歩出たときに、そこに主の霊が注がれて私たちは素晴らしい力を与えて下さることを覚えて下さい。イザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

と書かれています。神様があなたに「あなたが高価で尊い」と言われています。今までそれを見てきました。愛されていると分かっています。しかし、現状に私たちはぶつかってきました。しかし、今日覚えて下さい。英語の聖書では、

『very important in God eye.』

と書かれています。これはよく私たちがvipと聞きますが、「very important person」の頭文字です。スーパーミッションでよく東京に行きました。首都高速で早く事務所に行かなくては思いながら微動と動かない中でヤキモキしたことがたくさんありました。ある時、後ろからパトカーがサイレンを鳴らして一人の警察が窓から身を乗り出して渋滞している車を避けさせて、その中を黒塗りの車を従えながらら行きました。それは当時の森総理は世田谷に住んでいたので首都高速から乗り、全く動かないところを通っていきました。事務所に着いた後でラジオで国会中継をしていてこのためだったのかと思いました。私たちは、今日神の目から見たらvipということを覚えて下さい。最重要人物と見られており、どんな問題があっても私たちが一歩進んだときにその渋滞が全部開かれ、前に進むことができるのです。出エジプトの時にモーセが紅海を渡るときに目の前は紅海、後ろはエジプトの兵隊で二進も三進も行かないという時に一歩は紅海に入ったときに水が割れて乾いた地を通っていきました。ですから、駄目でも良い、自分はできないのは当たり前です。だからこそ、主があなたを愛され、主があなたと共にいて下さり、策略に陥られずに一歩進んでいくこと、それを神が臨んでいることを覚えて下さい。第一サムエル記十六章十三節に、

『サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。』

と書かれています。その時に激しく主の霊が注がれたと書かれています。あなたが策略にがんじがらめになっている時に一歩主に従い、主を信じて前に出てください。その時に自分の力ではできませんが、聖霊の油を注いで下さいます。力を下さいます。その問題を打破することができます。自分は何もしていない。私たちは今と々生活をしいつもと同じように祈り生活をしますが、しかし、私たちの聖霊なる神様は私たちの今までの告白、祈りと変わります。権威で私たちは大胆に宣言していくとその通りになっていくというのがこの御言葉です。今日あなたの神は死んでいませんか。策略にはまっていたら、今日ぜひ、その策略を打ち砕いていただき、私はできる、私は主の勇士だと宣言して一歩をはじめていただきたいと思います。お祈りしましょう。皆さんで祈りたいと思います。

「私は主の勇士。私は神のvip。
最重要人物です。私を悪魔の策略から守って下さい。
悪魔を打ち砕く勇士にさせて下さい。
神の武具をしっかり身につけて下さい。
聖霊に満たして下さい。
私は主の勇士であることを宣言します。
アーメン。」

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