今週の礼拝メッセージ
2002.4.21(SUN)
名前の法則
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 使徒の働き 4章12節
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 ハレルヤ!三週間ぶりに新城教会でメッセージを取り次げることを感謝します。先週、先々週と、他教会に奉仕に出かけていましたが、どこにおいても皆さんのお祈りに支えられて素晴らしい集会が持てたことを感謝します。
 人間には全員、名前が付いています。名前が付いていなかったら大変なことになります。例えば、幼稚園に通っている我が子を、途中で呼び出さなくてはならないとしたら、どうするでしょうか。お母さんは、どのようにして子どもを呼び出すのでしょうか。名前が付いていなかったら、我が子の特徴を言わなくてはなりません。「私の子は大変可愛くて、目がパッチリしていて、首にほくろがあります。身長は八十数センチです」と言っても、皆同じ様な感じです。一人の子どもを特定するのにはたいへん時間がかかります。しかし、名前を呼べばすぐに呼び出すことができるという、便利な「名前の法則」があります。犬や猫にも名前が付いていて、呼べば振り向きます。それは神が世界に、名前の法則を与えた証拠だと思います。
 また、人間は神の前に祈る唯一の動物です。人間の特徴は祈り心があることです。進化論を唱えた、チャールズ・ダーウィンが、世界人類を研究した結果、「祈らない人はいない」という結論に行き着いたそうです。それは、彼も祈ったということです。進化論を唱えながら、人間を研究したら「人は祈る」と結論づけました。皆さんも教会に来られて、祈るようになったと思いますが、教会に来る前でも祈っていたと思います。生まれてから今まで、一度も祈ったことがありません、と言われる方はいないと思います。心から祈りがわき上がります。日本人は世界の中でも、特に祈り深い国民だと思います。イスラムの人たちはもっと祈っているのではないか、と言われるかも知れませんが、彼らの祈りはただひれ伏して、何十秒かアラーを唱えているだけです。しかし、日本人は違います。心から祈っていることが多くあります。正月は八千万人以上が一日費やして祈りに行きます。また、日本中では毎日、色々な宗教の人々が祈っています。
 話しは変わりますが、今年私は「祈りの年にしましょう」と話しました。祈りから離れたら人生はうまく行きません。だから、人間には本能的に祈りがあるのだと思います。私は、「一日に一時間は祈りましょう」とお勧めをさせていただきました。私自身も、時々忙しくてできない時もありますが、極力、一日一時間は神の前に出て祈るようにしています。祈りを生活の最初に置くならば、後から色々苦労をしなくても良いのです。先に祈っておくか、後から苦労するか、どちらが良いでしょうか。やはり先に祈った方が良いと思います。なぜならば、祈りによって神の手が動くからです。
 私は時々、近くの神社仏閣に調査・研究の為、訪れます。そこで祈り文句をたくさん発見します。神社には絵馬がかかっていて、色々な祈りの課題が掛けられています。「家族が健康であるように」「病気が治るように」「受験が受かるように」「良いお嫁さんが来るように」「子どもが健康であるように・・・」など色々と祈りがあります。下に、アーメンと付けたら、教会の祈りと同じだと思います。近くに簍繰神社という神社があります。そこは生まれる赤ちゃんに効力があると言われており、よだれかけに色々な祈りの文句が書かれ奉納されています。「我が子がすくすくと育ちますように」「安産できますように」「男の子が産まれますように」「女の子が産まれますように」・・・このような祈りは、国民が共有して持っている願いです。どこかに祈りを受取ってくれる神がいるという期待があると同時に、本能的なものです。どこかに、祈りの受手がいるのです。だから人は祈ります。
 聖書はある意味で、神と人との対話記録です。神はユダヤ人を選び、その対話の中から私たちに生きる術を教えています。ユダヤ人は、四百三十年間エジプトの奴隷となり、神に助けを叫び求めていました。神はその祈りを聞かれ、彼らをエジプトから脱出させました。そのリーダーがモーセでした。歩くことができる男だけでも、六十万人がエジプトを出ました。多分、百万人以上の人がエジプトから脱出し、シナイの荒野を移動したはずです。そして、シナイ山の近くに行ったときに、神がモーセに「山に登れ」と命令されました。そこで神はモーセに、祈りの答えを授けました。
 私もシナイ山に登ったことがあります。それは険しい山でした。そこでモーセは神と対話しました。神は祈りの答えをイスラエルに与えました。それは、幸せに生きる術を記した「十戒」でした。十戒を心に留めることは大切です。

1.あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
2.あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
3.あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
4.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
5.あなたの父と母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
10.隣人のものを欲しがってはならない

 このような戒めをモーセを通して、人類に与えたのです。厳しい戒律だとは思わないでください。神が人間に、幸せに生きる十ケ条を与えられました。これに心をとめて歩むならば、幸せになるのです。_から_までは人と神との関係、_〜_までは人と人との関係です。しかし、初めにこれを受け取ったユダヤ人たちは、_から_までの言葉で混乱したはずです。ユダヤ人は天地宇宙を造られた神は唯一であり、目に見えない神であることはよくわかっていました。しかし、人間は何もないところで神を拝むことに難しさを覚えるものです。何か、対象物があれば実感もわきますが、何もない空間に向かって、拝むのはむなしさを感じます。
 日本では、手で作った神々がたくさんあります。人々はまさか、石や木が神などとは考えていないと思います。皆、何らかの霊感を感じているから拝むのだと思います。背後に何か、神々しい存在があるのではないかと感じています。しかし、物があった方が拝みやすい、ということで石や木で象徴的な神を作って、その背後にある霊を拝んでいると思います。しかし唯一の神様は、「わたしのほかに、神々があってはならない」と語りました。また、「手で作った神々を拝むな。それを拝んだら三代、四代ののろう」と語られました。神を拝みたいというのは人間の本能ですが、物を置いて拝むならば、家庭に三代、四代に渡り悪いことが起こるというのです。神様を皆拝みたいと思っているのに、なぜだろうと考えると思います。
 そして第三番目に、「あなたの神。主の御名をみだりの唱えてはならない」と語られました。唯一の神を拝みなさい、物を作るな・・・そして、第三に、「でも、俺の名前をやたらに使うな。使ったら罰する!」矛盾を感じる発言です。
 聖書を読むと混乱する部分も多くあると思います。ある意味で、これはユダヤ人にとっては大混乱でした。聖書も一部分だけ読んでいると混乱します。
 聖書は、旧約聖書と新約聖書とが、イエス様の生涯と共にあります。聖書は旧約聖書から新約聖書に至って完成しているのです。旧約聖書の結論は、新約聖書にあり、イエス・キリストを通して与えられることに着目しなければなりません。
 現在のパレスチナ情勢は理解できません。なぜ、ユダヤ人は隣町を攻撃するのだろうと理解に苦しむかも知れません。「イスラエルは、キリスト教の母胎になったユダヤ教ではないか・・・」と混乱している方がおられると思います。ユダヤ教の教典は旧約聖書です。ユダヤ教は旧約聖書で完結しており、新約聖書を認めていません。イエス様をメシアとは認めていません。旧約聖書の世界だけで歩むと、偏ってしまうのです。旧約聖書の中で、「主の勇士」と言われた人々は、異邦人を一人でも多く殺した人です。彼らは選民だと思っています。そして異邦人とは、ユダヤ人以外のことです。それらを多く殺したのが主の勇士です。異邦人の町を攻め取るのが、ある意味においては神に仕える行為なのです。旧約聖書だけが、全てになってしまうと恐ろしいものです。旧約聖書に書かれていることが新約聖書において、どのように結論づけられているか知る必要があるのです。旧約聖書を見える世界だけではなく、見えない世界にも当てはめて読まなければ、ただ人の首を絞めるだけのところもあると思います。
 ユダヤ人たちは、第三戒の「わたしの名をみだりに唱えてはいけない」という戒めを、文字どおりにとらえました。神を現わすヘブル語の四つのアルファベット、「ヨード」「ヘイ」「ワ−ウ」「ヘイ」、それは「神聖四文字」と言われ、彼らは簡単には発音しませんでした。「ヤーウェ」と発音するのではないかと言われていますが、何しろ「ヤーウェと発音して罰せられたらいけないから、名前を変えよう」ということで、神の名を「アドナイ」に置き換えました。ユダヤ教では神にあまり祈ってはいけない、日に三回くらいにしないと神様が嫌がる、というような教えもありました。新約聖書で神は、「絶えず祈りなさい」と言われていますが、彼らの神は「恐ろしい神」という概念で、祈りたくても祈ることができない状況でした。
 しかし、新約聖書にその結論があります。なぜ、神は十戒の一戒から三戒で一見矛盾するような、厳しい教えをされたのだろうか。それは、新約聖書でわかるのです。
 新約聖書の中心人物はイエス・キリストです(旧約聖書の中心人物も実は、イエス・キリストですが)。
 イエス様がこの地上に来られたときに、祈りについて革命的な言葉を語られました。イエス様は色々と、革命的なことをなされましたが、その中での大きなことは「祈りの革命」でした。
 どのような革命を起こされたのでしょうか。ヨハネの福音書十四章十三節から十四節に、

『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』

と書かれています。十五章十六節から十七節に、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。』

と書かれています。
 今日、ここに来られた方々は、色々な状況下で教会に来られたと思いますが、一言で言えるのは、あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選ばれたのです。あなたの上には、「神の選びがある」のです。それは素晴らしいことです。ここにおられる方は、皆、神によって選ばれています。そして、神はあなたを個人名で呼ばれました。イスラエルにザアカイという人物がいましたが、彼は人々に嫌われていました。それまで、イエス様は、彼に一度も会っていませんでしたが、彼を見て「ザアカイよ」と個人名を呼ばれました。私たちも同様に、個人名を呼んで選び出してくださったのです。そして、同時に、イエス様のお名前で祈れば、旧約聖書では恐れるべきヤーウェの神に祈りを届け、祈りを答えてあげるというのです。
 ユダヤ人たちは祈りたいけれど、どのように祈って良いかがわからなかった、しかし、イエス様は、「わたしの名によって気やすく求めてみなさい。そうしたらわたしが、父なる神のところに祈りを運んでいき、あなたの祈りが答えられます。」と、「祈りの革命」を起こされたのです。
 「イエス様」の名前を使うならば、祈りが父なる神の前に出るという法則があるのです。旧約聖書の中で、なぜあれほど祈りが厳しく制限されたのでしょうか。それには訳がありました。
 私たちの周りには、見える世界だけではなく、見えない世界も広がっています。私たちが見える可視光線は、光の波長の中のほんの数パーセントです。ほとんどの世界は見えていません。聖書は、神の世界もあり、霊の生物もいることを教えています。第二コリント十二章二節に、

『私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。』

と書かれています。パウロは、イエス・キリストを伝えて石打の刑にあいました。その時、彼の魂が抜けたのか、肉体のままであったのかわかりませんでしたが、パウロは第三の天にまで行ったというのです。第三の天とは、天国・神の国のことです。
 やがて私たちは、この地上から出て行かなくてはなりません。しかし、私たちは第三の天に行くことができるのです。
 三月三十一日はイースターで、天に召された方々の記念会が行われました。新城教会から何十人もの方がすでに天に帰って行かれました。私たちもいずれ、イエス様を信じていたら、パウロと同じ体験をし、気が付いたら肉体のままか肉体を離れてかわからないけれど、天にいたという体験をするはずです。天国には連続性を持って移動していくのです。仏教のように、死んでから三途の川を渡らなくてはならないとか、拝んでもらわないと極楽に進めないと言うのとは違います。私たちは瞬間的に、第三の天・神の国に入ることができます。そこは、苦しみも、悲しみもない、悪いものが何もないところです。
 そして今、私たちの住んでいるところは第一の天です。そして、神が住まわれているところが「第三の天」であれば、「第二の天」があるはずです。これは天使と悪魔の領域です。私たちが気づく気づかないに関わらず、三つの領域があります。そして、人間よりも悪魔は高い次元に住んでいるのです。
 例えば、私たちは立体の中に住んでいますが、平面に住んでいる人がいたとすれば、立体の中に住んでいる人々は、平面をすべてを見通すことができます。しかし平面上に住んでいる人には、立体の中に住んでいる人がわかりません。平面が回転すると立体になり、立体が動き出したら時間・空間を越えます。ある意味で、神は次元を越えたところにおられるのです。悪魔や天使がそのような所にいたら、私たちは見えなくても向こうからは全部見えるのです。
 しかし「祈り」は霊の世界への通信手段です。人間は三次元の固定された肉体の中に住んで不自由ですが、神は人に一つの機能を与えました。それが、霊の世界にまで電話をかける事の出来る「高度な霊的通信機能」です。
 今は皆、携帯電話を持っています。携帯電話なしに生活できないような気がします。電話をかけると、離れたところにいる人とも話せます。携帯電話を知らない昔の人に、電話を貸して話をさせたらどうでしょうか。もしかしたら、電話の中に、人が住んでいるのではないかと考えるかもしれません。
 ある意味で、日本人は仏像の中に神が住んでいると考えます。しかし本当は外です。中に住んでいると考えるのがアニミズムです。
 人間は高度に発達した、霊的通信機能を持ち合わせています。だから、私たちは限られた肉体の中にいますが、霊の世界にまで入り込むことができるのです。その通信機能を使うと、神の所にも、悪魔の所にも電話をかけることができるのです。第三の天の神に電話がかけれたら良いのですが、誤って第二の天の悪魔に電話をかけたら、悪魔は人を苦しめる専門家なので、大変なことになります。
 私の声は滝元家では似たような声なので、私と弟と間違えて話す人がいます。その時は私はイタズラをします。「上條先生ですか?」と言われ、少し低めの声で「はい。上條です。」と答えます。途中で、おかしいとばれてしまいますが、そんなことをしたことがあります。人間の世界でもそのようなことがあるのと同じように、第三の天の神に電話をかけたつもりが、第二の天の悪魔が「神です!」と答えたらどうしますか。祝福どころか、大変なことになります。そして、人生は破壊されます。だから神はそれを防止したかったのです。
 旧約聖書の十戒の_から_には、「わたしが以外に神はいない、物を作るな。そうしたら三代、四代のろわれる。そして、わたしの名前をやたらに使うな!」と語られました。「ひどい神様だ!」と思うかも知れませんが、そこで終わっていてはいけません。制限の理由は、「イエス様の名前だけ使ったら、第三の天の神の所に電話がかかる」ので、「わたしの名前だけを使ってください」というのが結論でした。
 あなたは今まで、多くの祈りをしたと思います。しかし、名前の法則が違っていたので「祈り心」は尊いものですが、受け取る相手が悪かったのです。
 「神の形を現す物は作ってはいけない。三代、四代ののろいがある」というのは、そこで感じる霊感は、「第二の天の悪魔だから、そこには電話をしないように」ということが結論でした。イエス様以外の名前を使った祈りは、全部、第二の天の悪魔の所に祈りが入り込むのです。
 しかし、イエス・キリストの名前を通して祈るならば、父なる神様の所にその祈りが届くのです。
 教会に来て、一つのことだけでも心に留めて下さい。それは祈りの方法です。それは、「イエス様の名前によって祈る」ことです。イエス様の名前を通して祈ったら、父なる神様が祈りを受け取ってくださるのです。そこには、三位一体という神の性質があります。父なる神、子なるイエス様、聖霊なる神が一つという位置づけの中で、イエス様の名前を通すのです。
 海外旅行に行って、自宅に電話したかったらどうしますか。電話番号をそのままかけても自宅にはかかりません。はじめに、国際認識番号がいります。日本は八一です。それを付けなくてはかかりません。同じように、神の国認識番号、「イエス様の名前を通す」ことが大切です。イエス様の名前で祈ることが大切です。「マイ・ラインはイエス様」です。イエス様が最終目的ではありません。イエス様は、「私は道です。真理であり、いのちです。わたしを通してではなくては、だれひとり父の元に来ることはできません。」と言われました。また、ヨハネ十章九節では、

『わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。』

と語られました。イエス様は私たちに、神の国に通じる「道と門」を開いてくださいました。ですから、これからイエス様のお名前で神の御前に祈ってみて下さい。人生に変化が訪れます。
 神社などにも祈りが溢れています。皆、イエス様を通して祈ってくれたら良いのにと思います。そうしたら、皆、本物の神に会うことができます。他の名前を使うならば、第二の天の悪魔に行ってしまいます。「神様。どうかこの人たちの祈りを、イエス様の名前に置き換えてください」と私はいつも祈ります。私たちは神の国に通じるイエス様の名前を持っているとは素晴らしいです。
 今日初めて教会に来られた方も、イエス様の名前で祈ってみて下さい。あなたの人生に素晴らしいことが起こされます。
 さらに、イエス様の名前を通したら、あなたは父なる神の前に自由に出入りすることができると教えています。ローマ書八章十五節に、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。』

と書かれています。私たちがイエス・キリストの名前で祈るときに、神の霊に触れられ、聖霊によって父なる神を「アバ、父。」と呼ぶと書かれています。この父は、旧約聖書の「ヤーウェ」すなわち、神聖四文字なるお方です。それを「アバ、父」と呼ぶのです。
 私はイスラエルに行き、カイザリヤを見学していました。その時、ユダヤ人の子どもたちが遊んでいました。一人の子どもが突然「アバ、アバ・・・」と泣き出しました。すると、背の高いお父さんが気付いて、子どもを抱きあげました。ガイドさんに、「子どもがアバ、アバと言っていたのは何ですか」と聞くと、「アバはお父ちゃん!」という呼び名だと教えてくれました。
 今私たちは、「俺の名前をやたらに使うな」と言われる神様の前に出て「アバ、父よ。お父ちゃん!」と言うことができます。それは、イエス様のお名前を通して祈るときに可能になります。今日、イエス様の名を通して聖霊様とともに、「アバ、父よ」と祈りたいと思います。私たちと神様とは親しい間柄です。なぜならば、私たちは神の子どもになったからです。今日、あなたがイエス・キリストを信じたら、神の子どもとされると聖書に書かれています。私たちは神様の前に、自由に出入りすることができるのです。
 アメリカの大統領の子どもは、大統領の前に自由に出入りできるのと同じように、神の子どもは、神聖四文字の神の御前に自由に「アバ!」と叫んで出ることができるのです。
 祈りの法則を覚えてください。今日からイエス様の名前で祈って下さい。イエス・キリストの名前を通して祈れば、良い結果がきます。幸せな人生を歩むことができます。最後にイエス様の名前を通して父なる神様にお祈りします。

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