今週の礼拝メッセージ
2002.4.28(SUN)
神の栄光を取り戻すために
新城教会 滝元順牧師

旧約聖書 サムエル記第二 23章13節〜17節
三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

 ハレルヤ!皆さんと共に礼拝できることを感謝します。ゴールデン・ウィークにさしかかりましたが、神のゴールデン・ウィークになることを願います。今週は韓国から、李浩文先生が来てくださいます。素晴らしい集会になると思いますので、ぜひ、お時間作ってご参加ください。
 一九九二年に愛知県民の森にて、李浩文先生が来られて聖会を持ちました。その時の集会はとても素晴らしい集会でした。その聖会の最中に、私たちは夜、県民の森で祈っていました。そのときに聖霊様が訪れてくださり、新城教会は変えられました。あれから十年経ちますが、今週、李浩文先生が来てくださるのは、神の大きな計画であると信じます。新しい扉が開かれ、新しいことが始まる気がしています。ぜひ、この一週間が神に用いられる週になるよう、祈りましょう。
 今朝は「神の栄光を取り戻すために」というタイトルで話します。このメッセージは、三月二十四日の「奥義」というメッセージの続編になります。新城教会には、ホームページがありますので、その日のメッセージを忘れてしまった方は、また読み返されると良いかと思います。全世界、どこからでもメッセージを読むことができます。まずは復習として、そのときに語ったことを少し話します。
 神はなぜ、人間を造られたかについて、創造の奥義について学びました。神はなぜ、人間を造ったのだろうかと思います。「神様はお一人で寂しかったから」というかも知れませんが、良く考えてみると神様がお一人で寂しいようでは困ります。
 聖書を読むと、天地創造以前に、神はご自分の栄光を傷つけられていました。なぜならば、ご自分の周りで仕えていた天使が反乱を起こし、悪魔、悪霊と化して、地に落とされていたからです。そこで神様はご自分で栄光を回復されようとされました。そして、暗闇のただ中で、天地創造を開始されました。聖書は、「暗闇のただ中に光が照った」と記しています。初めに男アダムを造りました。そして、男をもとにして女エバが造られました。
 エバが造られたときに、即、動きを開始ししたのが蛇でした。それは霊的な存在、神の前から堕落し、神の栄光を奪った悪魔でした。それがアダムというよりも、女エバに関わってきました。そして聖書を見ると、創世記から黙示録まで、悪魔が女にターゲットを当てているのがわかります。黙示録十二章十七節に、

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

と書かれています。創世記では、初め「蛇」だったのが「竜」になって大きくなっているように感じます。竜が真剣に戦おうとしていたのが「女の子孫の残りの者」でした。そして女の真の意味は「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者」すなわち「クリスチャン」です。
 聖書は旧約聖書と新約聖書で一冊です。全体で一つの主張があります。旧約聖書と新約聖書までの全体で、何を語っているのかについて耳を傾けなければなりません。初め、男と女が造られましたが、男と女が象徴している実体について、目を向けなければなりません。女とは、最終的に女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている「者たち」と複数になっています。この「女たちの集団」とは、主の花嫁なる「教会」を表しているのです。教会に対してサタン・竜は激しく怒ったのです。
 神が地上に人類を造られ、男と女を一体とした家族を造りました。家族とは、最終的に教会を表しています。この教会を通して、神が一度失った栄光を、サタンの手から取り戻そうと計画されたのです。そして、それがある意味での、隠されていた奥義であると話しました。エペソ人への手紙三章九節から十一節に、

『また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』

と書かれています。
 万物の創造の中に隠されていた一つの奥義とは、「地に教会を造り」、「天にある支配と権威、すなわち、悪魔」が持ち去った神の栄光を「教会を通して取り戻す」というものでした。
 「男、アダム」は「イエス様」を現していました。神は教会にイエス様を送られました。その教会は聖霊に満たされます。女性とは、聖霊様の性格にも重なっています。「教会は聖霊に満たされ」、教会の頭としてイエス様が接ぎ木され、天にある支配と権威に挑戦するために教会が造られたのです。だからサタンも真剣になって、人類だけに関わってくるのです。すべての動物の中で、人類ほど不幸な動物はいないと思います。犬や猫に生まれた方が、幸せだったかも知れないと時々思います。明日の食事が保証されていなくても、精神的に苦しんでいる犬や猫は見たことがありません。人間はいつも、精神的に重い物をぶら下げて歩いています。それは背後に、サタンの働きがあるからです。今、世界は滝壷の中に吸い込まれる小舟のように悪くなっています。何も言わなくても、全世界に暗闇の力が働いていると誰もが感じている今日この頃です。
 聖書を読むと神が人類に持っている計画を知ることができます。聖書とは、旧約聖書三十九巻、新約聖書は二十七巻、計六十六巻で一冊になっています。旧約聖書から始まり、新約聖書において完結しています。この一冊で一つの主張があるのです。聖書を一部だけで解釈すると色々な問題が起こってきます。
 現在、イエス様が生まれられたイスラエルが、世界で最も危険な場所になっています。パレスチナ情勢を見ると、「これから世界はどうなってしまうのだろうか」と不安に感じます。イスラエルの行動いかんでは、世界戦争に発展しかねない重大な事態です。イスラムの世界が騒ぎだしたら大変なことです。また、ユダヤ人に対する反発も色々とあります。ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺しましたが、そんな雰囲気に似ていると言われます。報道を見ると、「ユダヤ人は、もう少しおとなしくしてくれないものか」と考えると思います。「なぜ、イエス様が生まれた国で、そんなに大きな問題が起きるのか」と言われるかも知れません。
 イスラエルはユダヤ教です。キリスト教はユダヤ教をベースにしていることも確かですが、ユダヤ教はイエス様を神の子と認めていません。ユダヤ教は新約聖書の二十七巻は全く認めていません。彼らが認めているのは、ただ旧約聖書だけです。ユダヤ教は旧約聖書で完結しています。旧約聖書の世界観だけで物事を判断するならば、危険なところもあります。今のパレスチナ領土問題の根元となっている主張は、創世記十五章十八節から二十一節にあります。これはユダヤ人の祖先アブラム(後にアブラハム)に対して神様が約束された言葉です。

『その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」』

と書かれています。「エジプトの川からユーフラテス川までをあなたがたに与える」と神がアブラハムと契約を結んだのです。これは今から四〜五千年前のことです。そこに住む人々もあなたのものと語られたのです。ユダヤ人はこれを信じています。だから領土権を主張するのは正常なことだ、というのです。しかし、そこに元から住んでいる人々にとってはたまりません。
 イスラエルは歴史上、何度も民族が散らされました。特に近代に至っては、二千年近くにわたって国を失った民でもありました。紀元70年にローマがエルサレムに攻め込んだことにより、ユダヤ人は散らされました。一九四八年にイスラエルが独立するまでの約二千年の間、ユダヤ人は自分たちの国を失っていました。しかしユダヤ人はある意味で神の選民です。神の回復の預言が実現して、誰も信じることができなかった国が再建されました。皆、信じられませんでした。なぜならば、第二次世界大戦の時にナチス・ドイツによって国民の三分の二にあたる、六百万人が虐殺されたからです。ユダヤ人には国を作るような力はない、と誰もが思いました。しかし聖書の預言通りに、国ができてしまいました。それで世界中の人が、世の終わりのスイッチが入った、と聖書の権威に驚きました。以来、世界中に離散していたユダヤ人たちがイスラエルに帰ってきました。
 しかし今までパレスチナに住んでいた、アラブ系の人、聖書でいうカナン人にとってはたまりませんでした。
 例えば、皆さんが平和に暮らしているときに、誰かが来て「すみません。私は二千年前に、この地をもらう約束をしたのです。だからあなたが住んでいるこの地は、私のものです。家から出て行ってください」と言われたらどうでしょうか。
 「何を言っているのですか。冗談じゃあないですよ。ここは私の家です。あなたこそ出て行ってください。」と言うと思います。これがパレスチナ問題のややこしさです。また、ユダヤ教とイスラム教は元を正すと同じアブラハムの神です。ユダヤ教の神はアブラハム、イサク、ヤコブの神です。しかし、イスラム教はアブラハムに二人子どもがあり、イシュマエルの子孫だと考えています。ということは、アブラハムが結んだ約束は、ユダヤ教だけではない、イスラムの私たちにも権利があるという事になります。だからなかなか問題は解決しません。ある意味でそれらは、旧約聖書にとどまっている所に大きな問題があります。
 今日のテキストは、特に「ダビデ」というイスラエルの王について書かれています。イスラエルに行くと、人々は今でもダビデを慕っています。三千年前の人物をなぜ慕うのだろうかと思いますが、ダビデは今でも英雄です。
 ここではダビデが戦いの最中にあったことが書かれています。そしてダビデの三人の勇士について記されています。三週間前に、上條先生を通して「主の勇士になろう」とメッセージが語られました。旧約聖書の主の勇士とは何でしょう。サムエル記第二の二十三章八節に、

『ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。』

と書かれています。三勇士の一人のヤショブアムは、槍で一度に八百人を刺し殺したというのです。勇士とは、そもそも、一人でも多くの敵を殺した人が勇士だというのです。ユダヤ人は選民であり、イスラエルに敵対する者を一人でも多く殺した者が勇士だといっています。
 またエルアザルは、自分の手が剣にくっついてしまうくらい人を殺したというのです。またシャマは皆が逃げても、畑の真ん中に踏みとどまってペリシテ人と戦ったと書かれています。これが主の勇士です。
 「主の勇士となりましょう」と言って、旧約聖書だけの概念にとどまっていたら恐ろしいことです。一人でも多く、神の選民に敵対する人々を殺したら「勇士」なれるのですから。
 パレスチナ問題の根底に、一人でも多く敵対する者たちを殺したら勇士だという概念があるのだと思います。また、それらの人たちが住む町を攻め取るのが神に仕えるという、概念がパレスチナとイスラエルの両者にあるのだと思います。
 したがって、勇士についても、旧約だけではなく、新約において聖書は、最終的に何を語っているかについて学ぶべきです。聖書はユダヤ人を選び、ユダヤ人の生き様、歴史を通して最終的には目に見えない「霊的世界」において結論付けています。
 新約聖書では、多くの人を殺すのが勇士だとは教えていません。ヘブル書十一章を見ると、勇士とは、「信仰の勇士」であるとしています。私たちが毎日、神と共に信仰の道を歩んでいますが、信仰の戦いを雄々しく戦うのが「主の勇士」なのです。
 本は初めから終わりまで読んで、その中で伝えたいことを受け取らなくてはいけません。私は何冊か本を書かせていただいています。まもなく二冊の本を出しますが、ぜひ、お買い求めになってください。今度は特に、伝道という視点で書きました。きっと良い物ができるのではないかと思います。最終段階に入っておりますので、ぜひ祈っていただきたいと思います。
 本を書くと時々、批判をされます。案外それは、全体からではなく、一節をとって批判されるのです。それで、もっと注意深く表現すれば良かったと反省することもあります。
 聖書も全体で何を語っているのかを捕らえなくてはなりません。今日お読みした、サムエル記第二、二十三章も霊的世界で理解する必要があります。十三節から十七節に、

『三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。』

 ダビデはペリシテの軍隊と戦っていました。ペリシテはイスラエルの宿敵でした。両軍は血で血を洗うような戦いをしていました。そのとき、ダビデは洞穴に作戦本部を設けて指揮をとっていました。そこに三人の将校クラスの兵士たちが来て、作戦の打ち合わせをしていました。
 「ダビデ王様、これからどのように戦ったら良いですか。ペリシテの軍隊はベツレヘムに先陣を置いています。本隊はレファイムの谷に陣を張っていますが、どうやって攻めましょうか」と打ち合わせに来ました。その時にダビデは何と言ったでしょうか。

『ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」』

 ダビデの出身地はベツレヘムという町でした。イエス様もベツレヘムの出身地ですが、ダビデも同じ出身地でした。アドラムの要害は荒野にあり、ダビデの生まれ故郷から何十キロも離れたところにありました。ダビデは懐かしく思ったのでしょうか、「生まれ故郷のベツレヘムの井戸の水は美味しかったなぁ。だれか持ってきて私に飲ませてくれないか」と話しました。
 ダビデは戦争の真っ最中に、このような事を言いました。普通なら、「ダビデさん、何を言っているのですか。時を考えて下さい。戦争のただ中ですよ。」とたしなめるのが普通です。しかし、王様が王様なら、子分も子分です。「王様、あの水が飲みたいのですか。では、私たちが取りに行ってきましょう。」と言って、彼らは水を汲みに出かけて行きました。それも敵の精鋭たちを突っ切って、水を汲んできたのです。
 私は正直、これを読んだとき、「ダビデのわがまま物語」のように思いました。私がこの中の三人の一人であったら、必ず、「ダビデ王様。何を言っているのですか。馬鹿なことを言ってはいけませんよ。ベツレヘムには敵の精鋭部隊がいるのです。そんなところに水を汲みに行くのは自殺行為ですよ。」と言うと思います。しかし、この三人は勇気があったのか、馬鹿だったのか分かりませんが、わざわざそこまで水を汲みに行きました。私なら、「行ってきます!」と言ったとしても、近くの水を汲んで来て、王を騙すと思います。これをただ、旧約聖書の世界観だけで判断したら、おかしなストーリーです。
 しかし聖書全体の概念をここに重ね合わせると、不思議な事実が浮かび上がるのです。このストーリーはただの「わがまま物語」ではない事が分かってきます。
 ダビデは一人の人物を預言的に表していました。それは、イエス様です。イエス様は「ダビデの子」と呼ばれました。また、イエス様もダビデもベツレヘムで生まれました。もちろん、イエス様は神の子でしたので失敗がありませんでしたが、ダビデは人間でしたので失敗がありました。しかし、ダビデが神に仕える姿勢は、イエス様が父なる神に仕える姿勢と重なります。
 ある意味でダビデの生涯を通して、イエス・キリストについて語っています。三人の勇士はダビデのリクエストを聞きました。「私の故郷の水を汲んできて飲ませてくれないか。」その時の、三人の勇士が水を汲んできた姿の中に、何が当てはまるでしょうか。それはイエス様と一つになる、「教会の姿」です。三人の勇士は、ある意味において教会の姿を現していると思います。
 敵は、ペリシテでした。ペリシテも一つの勢力を表しています。ペリシテ人は偶像を熱心に拝んでいた民族でした。彼らはありとあらゆる偶像を拝み、それらに仕えていました。ペリシテ人は「悪魔とその勢力、悪霊の陣営」を表します。そして、ダビデと三勇士は、イエス様と一つになった教会の姿です。私たち教会は、イエス様の命令を聞いて、敵陣を突破して水を汲んでくるという役割がある、ということを現しているのだと思います。
 ダビデが「水を汲んできて欲しい、水を飲ませて欲しい」と語ったのは、ただ、わがままを言ったのではありません。何を言ったのかというと、「誰がペリシテの先陣を打ち破ってくれるのか」という戦いに関するリクエストでした。最も強力な軍隊がダビデの生まれ故郷の門前に構えていました。戦いに勝利するためには、誰かが先陣を打ち破らなければなりませんでした。だから、ダビデは、「誰か水を飲ませてくれないか」と語ったのです。水を持ってくるとは、「先陣隊を打ち破る」ということに他なりませんでした。三勇士が水を汲んできた時に、ダビデは大へん感動しています。

『ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。』

と書かれています。
ダビデが「水が飲みたい」というので、水をわざわざ汲んできたのです、しかし、水を汲んでくると、その水を地に注いだのです。
 「ダビデさん、何をするのですか。いのちを懸けて私たちが汲んで来たのに・・。飲みたいと言ったので汲んできたのに・・。飲まないで注ぎ出してしまうとは何事ですか。」と言いたくもなります。しかしダビデが一番言おうとしていたことは、「先陣を誰が打ち破ってくれるのか」ということでした。ダビデの言いたかったことを、三勇士はしっかりくんでいました。
 教会とイエス様との関係、皆さんとイエス様との関係も同じです。イエス様は、あなたにどうしてもやって欲しいことがあるのです。「先陣を突き抜け、奪われている栄光を取り戻してください」と言われます。
 三勇士は水を渡しました。ベツレヘムからの水を受け取ったダビデは、感動して飲むことができませんでした。ダビデはそれを主にささげました。
 私たちは「神に栄光」という表現をよく使います。しかしその意味があまりはっきりしていません。今朝も、「主よ、栄光を現してください」と賛美しました。もちろん、私たちは主の栄光を見たいのです。それは、天が開けて「神が何かを与えてくださる」という概念で、主の栄光を捕らえているのではないかと思います。しかし、決してそうではありません。私たち人間の役割は、サタンに奪われた栄光を、敵陣を突破して取り返し、それをイエス様の手にお渡しするのです。そして、イエス様はそれを、父なる神様に返してくださる役目であると思います。
 教会には、「一度奪われた栄光を回復する」という大きな役割があるのです。皆さんの人生の究極的な目的も、「神の栄光を取り戻すため」にあるのです。毎日の働きは、悪魔に取られた神の栄光を取り戻すためです。水を取り戻すとは、いのちを取り戻したことです。今日ここにおられる方は、イエス・キリストを信じています。イエス・キリストを信じるとは、「暗闇から光に、サタンの支配から神の支配に回復された」ということです。私たちは、サタンの支配から神の支配に移されました。悪魔の手からイエス様の支配に取り戻されたのです。この会衆は、神の栄光の回復の証拠です。ペリシテの先陣を打ち破られた証拠として、水を持ってきたのと同じように、神の栄光が回復した証拠です。
 私たちは「病を癒してください。」「問題を解決してください」と祈ると思います。もちろん自分が癒されて回復する事は嬉しいことです。しかし「回復」にはどのような意味があるのでしょうか。
 元々人間は、楽園に住んでいました。しかし、そこから追い出されてしまいました。元々神が人間に用意した場所は、荒野ではありませんでした。楽園でした。そこから追いだされた原因に、人間の罪と共に、蛇・悪魔が関わっていました。病や問題とは、神の栄光が奪われている状態に他なりません。人間は元もと、楽園に住み、健康で幸せに生きるように神が造られました。しかし蛇によって持ち去られたのです。それを取り戻すことが癒しであり、回復の意味です。皆さんの家庭の祝福は、サタンによって取り去られていた祝福が取り戻されることです。私たちが自分中心ではなく、神の栄光の回復のために、奇蹟や癒しのわざを取り戻していただけるよう祈りたいと思います。
 また私たちが福音を宣べ伝え、魂を勝ち取っていくことは、神の栄光の回復です。日本を見ると、神の栄光が現れているどころか、ほとんどが悪魔の手に陥っています。しかし私たちが伝道し、福音を宣べ伝えていくことは、神が失った栄光の回復です。そのために神は、勇士たちの集団「教会」を使おうと願っておられます。私たちがイエス様の思いと一つになり、出て行ってペリシテの陣営を打ち破り神の栄光を回復するのです。イエス様は喜んで、栄光を父なる神様に返してくださいます。
 私も毎日の働きの中で、「神の栄光回復のために人生はある」と気付かされてから、価値観が変えられました。何をするのにも、悪魔の手から奪われた神の栄光を取り返して、神に返すという思いで過ごしています。
 一日が終わり寝る前に、「神様、今日は少しでも、あなたの栄光を取り戻してきました。どうかサタンの手から取り返した栄光を、受け取ってください。」と祈ります。
 皆さんの毎日の仕事も、神様の栄光の回復の為です。サタンに奪い取られた栄光を皆さんの人生を通して回復するのです。これがある意味で、神が人類を造り、教会を造られた大きな目的です。
 日本に、大きなリバイバルのわざを進めていただきたいと願っています。私たちも今日ダビデの三勇士のように、信仰の勇士となって神の栄光を取り戻すために働いていきたいと願います。これからお祈りしますが、皆さんの中に色々な問題があったら、「問題を解決したい」と思うことは勿論のことですが、その視点よりも、「問題解決とは、神様の栄光の回復である」としてください。元々人間は、神様によって楽園に造られたのですから、楽園から追い出されること自体、神ご自身が栄光を失っている姿です。それを取り戻さなくてはなりません。苦しんでいる人々、悲しんでいる人々がちまたに溢れていますが、その方々が癒されているのを見るのが神の栄光の回復です。そのために教会が用いられますように祈りましょう。

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