今週の礼拝メッセージ
2002.5.5(SUN)
あなたは選ばれています!!
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 エペソ人への手紙 1章3節〜4節
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 ハレルヤ!今日このように皆さんと共に、礼拝が守れることを感謝します。今日は五月五日、子どもの日です。子どもの日の起源を調べると、あまり良い意味ではありません。それは、中国の厄払いから来ています。日本の全ての記念日は、大体、偶像とのつながりがあり良いものではありません。しかし私たちクリスチャンは、それらを取り戻す必要があります。今日の午後は、子どもたちが主催する集会があります。ぜひ、この集会にご参加ください。子どもたちの内側に住まわれる聖霊様も、大人の内側に住まわれる聖霊様も同じです。聖霊様は、きよい所を好まれるお方です。大人と子どもと、どちらを好まれるでしょうか。きっと、薄汚れた大人の心よりも、きよく澄んだ子どもたちに神は働いて下さると思います。
 今日は「あなたは選ばれています」というタイトルで学びます。ここに来られている方々は皆、神によって選ばれた素晴らしい神の器ばかりです。教会では、偶然という言葉をあまり使わないようにしています。なぜならば、聖書には「偶然」と言葉がないからです。すべてが、神の計画の中で成されているのです。教会には、色々なきっかけで来られたと思います。ある方は、誰かに誘われたとか、ある方は嫌々ながら来たとか、家族がクリスチャンで仕方なしに来たとか、何か問題があって来た、など色々なきっかけがあると思いますが、それは偶然に来たのではなく、神の計画の中で来られたのです。今日、あなたは神に愛されています。そしてあなたに、素晴らしい神の計画があることを知ってください。お互いに、「あなたは偶然に、ここに来たのではありません!神の計画があります」と宣言して合って下さい。教会は、初めて来られても、神の家族の一員です。ぜひ、神の家族の一員として互いに受け入れ合って下さい。
 聖書を見ると、神は私たちを「名指し」で呼び出して下さったと書かれています。何週間か前に、「名前の法則」というタイトルでお話しをしました。一人一人に名前がついていることは、神ご自身が始められたことだと話しました。神は人を十羽一絡ようではなく、一人一人を、個人名で呼び出して下さっています。
 イスラエルにエリコという町があります。イエス様の時代にも、その町はありました。そこにザアカイという嫌われ者の男がいました。彼は取税人でした。彼はイスラエルのお金をローマに持っていく仕事だったので、人々から嫌われていました。ザアカイはユダヤ人でしたが、同胞のユダヤ人から税金を集めてローマに持っていきました。そんな人物だったので、皆はザアカイを嫌っていました。だから人々は、ザアカイと直接個人名を呼ばず、彼のことを「チビでデブで・・・」と呼んでいました。しかし、イエス様は、「ザアカイよ!」と個人名で呼ばれました。そして、「ザアカイよ。今日、私はあなたの家に泊まることにしているから。」と言われました。ザアカイは一番嫌われていた男で、人物的にもあまり評判の良い人ではありませんでした。しかしイエス様は、ザアカイを個人名で呼ばれ、彼の家に泊まり、「今日、この家に救いが来ました」と言われました。その日、ザアカイはイエス様をキリスト、救い主として信じ、変えられたというストーリーが聖書にあります。
 神はここにおられる、一人一人の名前を呼んで、引き出して下さるお方です。今日ここにいるのは偶然ではなく、個人名を呼んで招いてくださったことを知ってください。
 聖書は神がどのように、私たちを選んでおられるかについて教えています。イザヤ書四十六章三節に、

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。』

と記されています。私たち一人一人は「名指しで呼び出された」と学びましたが、ここでは、その概念が更に深められています。「イスラエルの家のすべての残りの者」とは、今日ここにおられる一人一人です。そして、ここには「胎内にいるときから担われており、生まれる前から運ばれた」と記されています。神があなたを、「生まれる前」から知っており、守っていたというのです。
 現在、新城教会では、六名のお母さんの胎内に赤ちゃんが宿っているようですが、この赤ちゃんらはすでに、「神に覚えられ担われている」のです。素晴らしいことです。更に聖書は、その概念を発展させています。エレミヤ書一章五節には、

『「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」』

 私たちは「名指し」で呼び出されました。そして、「お腹の中にいるときから」神はあなたを知っていた、さらに、「あなたを胎内に形作る前から」知っていたというのです。それも聖別して、エレミヤにおいては、国々の預言者として定めていたというのです。
 母の胎内に宿る前のことは誰にもわかりませんが、神は知っていたのです。そして、この地上に我々を遣わし、大きな計画があるのです。
 ある方は、「私の出生には悲しい物語がある」と言われます。私も、色々な方とお話ししますが、出生に関わる話で、「実の父も母も知らないのです。」「幼いときに両親が亡くなりました」などと言われる方がいます。皆さんの中にも「私の出生には悲話がある」と言われる方がおられるかも知れません。しかし、どんなに悲話が隠されていたとしても、心配しないで下さい。神様は、私たち一人一人を名指しで呼び出し、胎内に宿っていたときから知っており、また、胎内に形造られる前から計画を持っておられたからです。私たちがどのような環境に生まれたとしても、いのちを造るのは人間ではなく、神です。
 神とはどのようなお方でしょうか。神とは新しい創造ができる方です。無から有を生じさせることができる方です。人間には、新しい創造はできません。与えられたものを発展させたり、前進させ、形を変えることはできますが、無から有を生じさせることはできません。しかし、神は無から有を生じさせることができる唯一のお方です。
 イエス様はこの地上に来られて、無から有を生じさせるような奇跡をたくさん行われました。なぜならば、イエス様は神であったからです。イエス様が行われた代表的な奇跡の中に、「二匹の魚と五つのパン」を五千人に分け与えた奇跡があります。あなたは、その物語を読んで、どのように感じますか。「すごいなぁ、どんな感じだったのかな?」と考えるかもしれません。二匹の魚と五つのパンを増やして、五千人に分け与えたとはすごいことです。これは宇宙の法則に反することです。宇宙には、熱力学の法則があります。それは宇宙にあるすべてのエネルギーの総和は、形が変わっても一定だということです。
 例えば、魚が一匹から二匹になるためには、魚が卵を生まなくてはなりません。そして生まれた魚が大きくなるためには、他のものを食べなければ大きくはなれないのです。他を食べて、他からエネルギーを取って、形を変えて、やがて魚は二匹になります。人間も大きくなるとは、色々な食料を食べるからです。しかし一方では、自然界の動物が食べられたり、形が変えられていきます。無から有ではありません。しかしイエス様が行われた奇跡、二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったとは、宇宙の熱力学の法則に反することです。一つが二つになり、二つが三つになり・・・というのは、それにつれて、どこかが減ったのではありません。その時、宇宙のエネルギー量が増大したのだと私は考えます。そのように考えると、イエス様の奇跡はすごいです。
 神は無から有を生じさせる創造者です。ということは、私たちが生まれるのに、色々なきっかけがあっても、いのちを造られたのは神様なのです。
 例えば、自動販売機の中にはジュースがたくさん入っています。しかしジュースを引き出すためには、お金を入れてスイッチを押さなくては出てきません。それと同様に、神はいのちを造られますが、それを引き出すのには人間が関わるのです。人間がスイッチを押すので、いのちが出てくるのです。いのちが地上に出てくるのは、人間の関わりがあります。しかし、いのちを造っているのは神様です。普通の引き出され方ではなく、地上に引き出されることもあるかも知れませんが、神が創造されない魂・いのちは一つもないのです。神が一人一人に、いのちを与えられたのです。
 今日ここにおられるすべての方を、神は名指しで呼び出され、胎内にいるとき、胎内に宿る前から知っておられ、一人一人に対する計画書があるというのが聖書のメッセージです。「私は神によって選ばれている存在であり、神が大きな計画を持っておられる」と自信を持ってください。教会に来ているうちに、そのことが良くわかってきます。エペソ人への手紙二章十節には、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

と書かれています。私たちは神の作品です。どのような出生に関わる悲話があったとしても、神の作品です。そしてその作品には、一つ一つに添付書類がついています。それは、神様によって「良い行い」が「あらかじめ備えられている」というものです。エペソ一章三節に、

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』

と書かれています。人間はどのような人でも、神が造られた時には、「天にある全ての霊的祝福」の中に造られています。そして、「良い行ない」がついているのです。「良い行い」とは「幸せ」とも言い換えることができると思います。幸せが私たちに添付され、生まれています。エペソ二章十節を新共同訳聖書で見ると、

『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』

と書かれています。神が前もって良いわざを、準備して下さっているというのです。私たちはの人生は、天にある一切の霊的祝福を受け継いだものなのです。今日、教会に来られ、神のみ言葉を学んでいます。そこで、神がどのような計画を持っているのかを気づくことが重要です。案外、多くの人が「私の人生は何だったのだろうか」、「私の人生には、良いものはない」と考えています。しかし、基本的に私たちは、神によって造られ、良い行いをも用意されているのです。
 では、なぜ、こう言われているのにも関わらず、良いものを受け継いではいないのでしようか。ほとんどの方々が、良いものの代わりに、悲しみを受け継いでいたり、苦しみを受け継いでいたり、心の傷を受け継いだりしています。その理由について、聖書は教えています。
 神は初めの人間、アダムとエバを造られ、エデンの園という素晴らしい楽園に置かれました。「楽園」とは、すべてが整ったところです。神は人間を造って、荒野に置かれたのではありません。初めは楽園でした。しかし、創世記を見ると、楽園に置かれた人間が楽園から追い出されたところから、不幸が始まっています。創世記三章二十四節に、

『こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』

と記されています。この原因は、神が食べてはいけないと言われた「善悪を知る木の実」を取って食べたことです。人間が「罪を犯した」ことによって、楽園から追放された経緯があります。
 それと同時に、人間が罪を犯すように「誘った存在」がありました。それは「蛇」と表現されていますが「悪魔」のことです。悪魔がアダムとエバに、善悪を知る木の実を食べるよう誘わなかったら、アダムとエバはその実を食べることはなかったと思います。「食べてはいけない」と言われた、神の声を聞いて彼らは食べなかったはずです。しかし、蛇は「食べろ」と人を誘惑したために、つい手を出してしまったのです。
 皆さんも色々な罪を犯して、心傷ついたことがあるかも知れません。「あの時、なぜ私は罪を犯してしまったのだろうか。あの時、罪を犯さなかったら、私はもっと幸せなのに」と言われるかも知れません。罪を犯したことも悪いですが、それと同時に、後ろに罪を犯すように「誘っていた」ものがいました。「やって見ろ、この罪を犯したら面白いぞ。楽しいから・・・」と後押ししていた存在があったので、罪を犯してしまったのです。その結果、楽園から荒野に出てしまいました。だから人類は、今、荒野にいるのです。
 時々「神様がいるのに、なぜ人間は不幸なのか」と言われますが、これは人間が罪を犯した結果と同時に、悪魔によって誘われた結果です。
 しかし、イエス様がこの地上に来られたのは、コロサイ人への手紙二章十三節から十四節に次のように記されています。教会のシンボルは「十字架」ですが、イエス様の十字架に大きな意味があるために、教会に十字架が置かれています。

『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』

と書かれています。ここに、イエス様の十字架の意味が記されています。人間はエデンの園に造られましたが、罪を犯したために「荒野に追い出され」ました。また、もう一つは、「後押しした悪魔」がいたからです。しかし、イエス様の十字架によって「私たちの全ての罪が赦された」と書かれています。私たちが楽園から追い出される原因となった「罪が赦された」ことが第一です。第二に、「私たちを責め立てている債務証書が無効にされた」とあります。これは、「後押しの悪魔がやっつけられた」ということです。罪を犯すように、悪魔が後押ししていました。悪魔はいつも私たちを訴えます。しかし、訴える者の「債務証書は無効になった」とは、悪魔は人を訴えることができない、あなたを神の前に訴えるこはできないのです。十字架の意味は「罪が赦される」ことと、「罪の後押し、悪魔が打ち砕かれた」ことです。
 ということは、私たちがイエス・キリストを信じることにより、十字架において成された事実を通して、「失ったものを取り戻す権利が回復された」ということです。
 先週は、「神の栄光の回復」を学びましたが、一度失ったものを取り戻す権利が、イエス様の十字架によって整備されたのです。私たちは神ではないので、新しい創造はできません。イエス様のように、五つのパンと二匹の魚を五千人に分け与えるような、熱力学の法則に反するようなことはできません。しかし、元々、私たちにはすべての良いものが備えられていました。けれども、罪とその背後の悪魔によって、荒野に追い出され権利を失ってしまいました。しかしイエス様の十字架によって、その失われたものを「回復する」ことができるのです。ということは、私たちは選ばれているがゆえに、「失うものは何一つない」ということです。あなたに元々与えられていた、天にあるすべての霊的祝福を「取り戻す」ことができるはずです。悪魔が奪い去ってしまったものを、もう一度取り戻す権利が、あなたに回復しているのです。ですから、あなたが悪魔の手から奪われたものを取り返すのは、当然のことです。そのために、私たちは天地創造前から選ばれているのです。そして、その回復が、すなわち、「神の栄光の回復」です。
 天にあるすべての霊的祝福を持って、神が祝福してくださったと書かれていますが、「天」とは何でしょうか。天とは他の言い方をすれば「神の国」です。神の国にある、すべての霊的祝福を、私たちは受け取っているという事です。ルカの福音書十二章三十一節に、

『何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。』

と書かれています。神の国を求めるとは、私たちが失ったものを回復することです。あなたに与えられるべきものは、全部、神の国に含まれているのです。この箇所は、賛美にもなっています。

神の国と神の義を まず求めなさい
そうすれば みな与えられる
ハレル ハレルヤ

 「神の国をまず第一に求めなさい」とイエス様は語られました。ユダヤ人は、この言葉を聞いて「何だろうか?」と思いました。なぜなら、彼らの神の国の概念は、当時は、イスラエルの国がローマの圧政の下にあったので、イエス様が王になり、ローマの圧政から解放して下さるのが神の国の実現だと考えていました。ある人は、人間が死んでから行く場所が、神の国であると考えていました。彼らは、イエス様の真意を聞いて見ることにしました。イエス様は、マタイの福音書十三章三十一節から三十二節で、

『イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」』

と言われました。神の国は「からし種」のようなものだと言われました。また、他の箇所では、「神の国は、あなたがたのただ中にある。」とも言われました。
 イスラエルに行くと、からし種の木があります。種はパウダーのようなもので、吹けば飛んでしまうようなものです。しかし、それを蒔いておくと、やがて大きな木になります。私の父がよく、イスラエルからその種を持ってきます。父の悪い癖は、それが大きくなることを考えずに、屋敷に限りなく近いところに植える事です。よく、からし種の木が軒先に当たり、私はその木を切り倒します。初めは、目に見えないような種が、やがて大きくなります。「見えないような小さなものが、やがて大きくなる」、「これが神の国だ」と言われました。また、イエス様は、マタイの福音書十三章三十三節で、

『イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」』

と言われました。パン屋さんは良い職業です。少しの粉とイースト菌を入れると、大きなパンができます。目に見えないイースト菌が入ったことにより、少しの粉が大きく膨らみます。神の国は、そのようなものだと言われました。初めは目には見えませんが、入ると大きく成長するのが「神の国」です。
 今日初めて教会に来られた方も、あなたの中に神の国の種が入りますように。それが知らないうちに大きくなります。教会に来ると、神が一人一人の中に、「神の国の種」を投げ入れて下さいます。初めは気付きませんが、徐々に変化が現われてきます。なぜならば、神の国の法則が動くからです。それが段々大きくなり、人目に見えるくらいに大きくなります。
 教会に色々な問題を抱えて来られても、初めは変化が見えないかも知れません。しかし、神の国の種が入ることにより、徐々に問題が解決しはじめます。それは神の国の種が入ったからです。これは更に大きくなります。
 からし種の木には、やがて鳥が来て巣を作るほどになるというのです。からし種の木は、鳥たちの休み場になるのです。初めは、自分だけに精一杯であったのが、神の国の種が蒔かれて大きく成長すると、他の人があなたに助けを求め、あなたを休み場として求めて来るのです。今日ここにおられる方々が、神の国の成長の中で、一人一人が自分のためだけではなく、他の方々の休み場として用いられますように。
 それでも、ユダヤ人たちは、イエス様が語っていることが良く理解できませんでした。そんな中、イエス様が次々と奇蹟をなされました。そして、イエス様が一番多く成された奇蹟が、人々から悪霊を追い出すことでした。イエス様が来られたときに、人の背後に隠れていた悪霊が出ていくのを見て、人々は驚き、恐れました。イエス様は、マタイの福音書十二章二十八節で、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

と語られました。ここで、イエス様は、「神の国の種とは何か」について語られました。種とは、聖霊様です。聖霊様が私たちの所に来られると、その活動の範囲を広げられます。今まで悪魔が持っていた領域を奪い返し、聖霊様の支配が回復され始めます。私たちの働きは、初めは小さいかも知れません。しかし、聖霊の火が入るときに、今まで悪魔が持っていた領域を取り返し始めるのです。
 先週は、新城に李浩文先生が来て下さいました。今回、李浩文先生が新城に来てくださったことは大きな感謝でした。思い出せば、一九九二年二月の聖会の後で、私たちは聖霊を受けました。あのとき、李浩文先生が愛知県民の森に来てくださらなかったら、私たちは聖霊様に触れられなかったかも知れません。先生の聖会が、大きなきっかけとなったと思います。
 今回、李浩文先生が来られたのは、私たちが招いたのではなく、韓国側からの要請があったからです。今年は六月に、ワールドカップが韓国と日本で共同開催されます。目に見えるところで、日本と韓国が共同でサッカー大会を開催します。しかし目に見えない領域においても、韓国と日本が一致して何か働きをしなければならない年ではないか、ということを韓国教会が神から教えられたのです。それで、霊的にも、韓国の代表選手を日本に送るので、日本で聖会を開催しましょう、また、日本側からも韓国に霊的代表選手を送って、聖会を導いてください、ということでした。そこで、韓国側から、李浩文先生が新城に来て下さいました。李浩文先生は、仁川(インチョン)というところにある大教会の牧師です。先生の教会には、教会員が五万人います。新城の人口は、三万五千数百人です。しかし、先生の教会の教会員は、新城市民よりも多いのです。日曜日には、礼拝を八回しているそうです。一度に、五千人が入る教会堂で礼拝を持っている先生が、先週は新城教会で集会をしてくださいました。
 そして、今度は日本代表が韓国に乗り込まなければなりません。その代表選手がなんと私です。ぜひ、祈って下さい。今回、大きなポスターを持ってきてくれましたが、私の顔写真が入っていたので驚きました。ぜひ、私のために祈ってください。
 李浩文先生は新城教会に来られて、たいへん感動されていました。「賛美と祈りが燃えている」と言われました。そして先生が私に、「私の教会と、姉妹教会になりませんか」と言われました。とても光栄に思いました。私が韓国に行ったら、正式な手続きをする、と言われました。これは、霊的な意味合いがたいへん深いと思いました。
 李先生の教会は仁川(ジンセン)というところにあります。仁川は歴史的な意味合いが深い場所です。韓国のキリスト教が始まったのは、一八八四年にアレンという宣教師が仁川に上陸したことから始まりました。そして日本よりも宣教期間が短いのにもかかわらず、今、クリスチャン人口は二十五パーセントです。
 さらに、仁川という場所は歴史的な場所です。一九五〇年に、朝鮮半島に朝鮮動乱が起こりました。第二次世界大戦の傷が癒されない中、北朝鮮の共産軍が突然、韓国に攻め込み、ソウルが陥落し、韓国の国軍は南の釜山近くにまで、追いやられました。もう後がない、危機的な状況でした。その時に、マッカーサーが率いる国連軍が、敵の背後に奇襲攻撃を仕掛けたのです。その時、国連軍は仁川から上陸したのです。その結果、共産軍は大敗し、最終的には三十八度戦で線引されました。ということは、仁川から戦いの勝利が始まったのです。
 霊的な意味でも、同じ事が言えると思います。李浩文先生が新城に来たことにより、十年前に、神は霊的戦いの引き金を新城に引かれたと思います。そして今回、私が仁川の教会に行き、集会をすることには、霊的戦いにおいて大きな意味があると思います。
 一度、奪われたものが、取り返されるのが神の国の法則です。私たちが失う物は何一つありません。
 もしかしたら、ある人は、朝鮮動乱の時と同じように、敵に押しやられて後がないのかもしれません。そんな方のために、神の軍隊が敵の後ろに回り、打ち破り取り戻して下さいます。私たちは選ばれているがゆえに、天における一切の祝福を回復する権利があるのです。イエス様は、そのために十字架にかかり、よみがえってくださいました。今日、ここにおられる一人一人に、神様は語ってくださいます。「神の国の種があなたの中にある、あなたは失ったものを取り返すことができる」
 これが聖書の力強いメッセージです。イエス・キリストの勝利により、私たちにとって失うものは何一つありません。「神の国」、それは「霊的戦い」です。私たちの中に聖霊様が働き始めると、領域が回復し始めます。私たちは選ばれているがゆえに、失うものは何もありません。全てが回復されるように、祈りましょう。

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