今週の礼拝メッセージ
2002.5.12(SUN)
主は癒される方
新城教会 滝元順牧師

旧約聖書 出エジプト記15章26節
そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 ハレルヤ!お祈りに支えられ、主のために働くことができて感謝します。今週は木曜日から土曜日まで、韓国で集会がありますのでぜひ、お祈り下さい。また、来週はロサンゼルスに、ゴスペルクワイヤーが行きますが、三十数名になったので引率して欲しいと言われ、そちらへ行くことになりましたのでぜひ、お祈り下さい。
 今の時代、世界の人がイエス・キリストによって一つにされることは素晴らしいです。イエス様が二千年前にお生まれにならなければ、私も生まれていなかったと思います。なぜならば、両親は教会で出会って結婚したからです。何しろ、イエス様は偉大です。イエス・キリストについて知ることは、人生において最も大切なことです。聖書を読むと、イエス様は頭がおかしいか人物か、神のどちらかだと思います。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と語られました。このように語れるのは神以外にはありません。
 さて、お読みした御言葉は、旧約聖書の一節です。

『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」』

 イスラエルは四百三十年間、エジプトの奴隷となっていましたが、モーセによって引き出され、目前にはばかる紅海が真っ二つに分かれ、そこをくぐってカナンの地に向かいました。そしてその後、荒野においてモーセに語られた言葉が今日のテキストです。旧約聖書の概念は、新約聖書で結論づけられている事が多いです。この箇所は、ユダヤ人に対して語られた言葉ですが、新約聖書の中では、私たち一般に適応されています。マルコの福音書十六章十五節から十八節に、

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』

と記されています。この箇所は、今日のテキストである、出エジプト記の御言葉に重なっているのではないかと思います。
 「わたしは主。あなたを癒すものである。」と書かれていますが、神は「癒し主」というご性格を持っておられます。神が天地宇宙を造られ、人間を造られたときに、人間に「癒しの機能」を与えられました。人間には、自分で自分を直す、自然治癒力が備わっています。手を切っても、かさぶたになり徐々に治ってきます。心が少し傷ついても、初めは痛んでも、時間と共に癒されてきます。これは「自然治癒力」という、神が人に与えた機能によります。また、それでも癒しが追い付かない場合は、病院を与え、医者を与え、薬を与えています。これも癒しの機能です。聖書がいう「癒し」とは、全般的なものです。自然治癒力も、医者も、薬も、神が与えた癒しの機能です。そもそも、神が癒される方でなければ、このような機能を人に与えられていないと思います。神が癒し主でなければ、一度指が切れたら、血が流れ出て死んでいくのかも知れません。また、病院なども与えなかったかも知れませんし、医学の知識も人に与えられなかったと思います。この社会の中に、「癒しの機能」が備わっていること自体、神が私たちを癒そうとされている証拠です。
 さらに、人類が持っている癒しの機能では追い付かない病に関しては、「神による癒し」があるのです。教会に来ると、神の癒しを体験できます。これは神が、私たちに直接与えて下さる癒しです。私たちは「自然治癒力」「病院の癒し」、そして、同時に「神の超自然的な癒し」にも触れることができるのです。それはただ、体の病だけではなく、精神的なもの、霊的なものを含む、「全人的な癒し」です。これを今日、受け取りたいと願います。
 今日の箇所は、イスラエルが紅海を渡った後に語られた言葉です。そしてマルコの福音書十六章の言葉は、イエス様がよみがえられてから、語られた言葉です。そこで、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」と語られました。教会に来ると「バプテスマ式」があります。バプテスマは、大切なものです。エジプトから出たイスラエルが、紅海を渡ったことはバプテスマになぞらえられています。私たちはイエス様を信じただけでは不十分な面があります(救いには関係ないのですが)。信じたら、続いて「バプテスマを受ける」と、全人的な癒しが始まるのです。ぜひ教会に来られたら、決心をしてバプテスマを受けてください。そうしたら、素晴らしい神の業が現されます。
 聖書は私たちに生きる手順を示す、マニュアルのようです。どうしたら、癒しを受けることができるかについての、手順を示しています。
 まず第一に、聖書は救いについて定義しています。使徒の働き二十六章十七節から十八節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

と書かれています。「キリスト教の救いとは何ですか」と聞かれたら、「イエス・キリストを信じたら、永遠のいのちが与えられます」と答えると思います。教会に来られたら、皆、永遠のいのちを共有します。今日、ここに集められた方々は、永遠に過ごす仲間なのです。教会は素晴らしいところです。イエス・キリストによって一つにされ、永遠に共に過ごすのです。しかしこれは「救いの結果」です。どこから、救われなければならないのでしょうか。それは暗闇から光に、「サタンの支配」から救い出され、神の支配に移されるのです。私たちが真の神を信じる前の生活は、サタンの支配下にあったというのです。また、同時に、「この世はサタンの支配下にある」と聖書は教えています。
 今世界を見ると、一生懸命に平和を求め、幸せを求めていますが、どうにもブレーキがききません。地球が年をとればとる程、どんどん環境は悪くなって、滝壷の中に吸い込まれていくようです。人間の力では、どうすることもできない力が働いています。日本にも人間の力ではどうにも制御できない力が働いていることを、日々、感じると思います。聖書は神もおられますが、暗闇の力・悪魔も存在すると教えています。それが人を悪に引きずり込んでいるのです。救われなければならないのは、そのような環境から救い出される必要があるのです。今日、イエス・キリストを信じている方々は、悪魔の支配下ではなく、神の支配下にあります。しかし、もしも、まだイエス・キリストを信じていない方がおられたら、言いにくいのですが言わなければなりません。「あなたはサタンの支配下にある」ということです。
 このように言ったら、少し抵抗を感じるかも知れません。「私がサタンの支配下ですか。冗談ではありません。」と言われるかも知れません。しかし支配とは、気付かないのが支配なのです。
 今日ここには、色々な国々から来られています。たとえば日本人は、こうしている間にも、日本国政府の支配を受けているのです。お気づきでしょうか。「今朝起きたら、日本国政府の支配が強くて、頭が痛くて仕方がなかった」と言う人はいなかったと思います。しかし、自分が日本国政府の支配を受けていることに気付くのは、海外旅行の時です。海外旅行に行くときは、必ずパスポートが必要です。それはその人が、どの国に属するかについての証明です。それを提出しなければ、いくらチケットがあっても国から出ることはできません。パスポートを持って、海外旅行をするときに、「私は日本人だ」と実感します。
 私たちが悪魔の支配下にあるか、神の支配下がはっきりと認識できるのが、地上から出国する時です。私は牧師として、葬式を司式することがあります。棺を前にして、時々、複雑な思いになります。棺を見ながら、「いつか私も、ここに入るのだろう」と思います。地上から、出て行かなければならない日が来るのです。たぶん私たちがこの地上を出るときに、手には何らかの書類を持たされていると思います。そして出国の列に並ばなければなりません。出国の列に並び、神の係官に自分に持たされている書類を提出するのだろうと思います。
 それをあなたが、神の係官に見せると、「あっ、あなたは神の国のパスポートですね。良かったですね。あなたは天国ですよ」と言われます。その時に初めて、「教会に行っていて良かった」と思うでしよう。「このゲートを入れば、金色の矢印が出ていますから右の方に進んでください。」などと言われるのかもしれません。私がそこに入っていくと、多分、「順牧師歓迎」という垂れ幕があって、天使たちが喜んで迎えてくれると思います。そして、イエス様も出て来て、握手して下さると思います。
 しかしある人の場合、表紙が黒い書類を持たされていました。それを神の係官に渡します。神の係官はそれを見て、「あなたのパスポートは悪魔の支配ですね。」「えっ!私はこれから、どうなるのですか。」「悪魔の支配ならば、悪魔の国に行かなければならないのですよ。地獄って聞いたことがないですか。」「あります。」「あなたは今からその、地獄に行くのです。」「えっ!そうなの?私は今までそんなことに気付かなかったですよ。今から何とかなりませんか。」「いや、このパスポートを書き換えるには、地上にしか天国の出先機関がないのですよ。この場所ではどうすることもできないですよ。あなたは生きているうちに、パスポートを書き換えて来ないから。」「それでは、私はこれからどうなるのですか。」「あなたはこのゲートを通ると、左側に黒い矢印が出ていますから、そこに行くとわかります・・・」その後は、ご想像にお任せします。
 救いはそもそも、悪魔の支配下から神の支配下に移されるのが「救い」です。今日、イエス様を信じて、神の国のパスポートを受けてください。もうすでにイエス様を信じておられる方は、神の国のパスポートであり、もう悪魔の支配下で滅びることはありません。天国に入るという、素晴らしい支配権の転換が起こっています。救いについて述べられて後、

『すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

とあり、「癒し」につながっています。しかし癒しに至る前に、いくつかのことが書かれています。これはある意味で、癒しに至るまでの「プロセス」です。今日この礼拝の後に癒しを祈ります。病人とは、肉体だけではなく、心、霊の全人的なものです。病が癒されるためには、どのような手順を踏んだら良いのかについて、ここに書かれていると思います。
 まず第一に「悪霊を追い出し」とあります。これは、「悪霊よ。出て行け!」という、祈りをすることもそうですが、それ以上のことが隠されていると思います。
 イエス様がゲラサという地に行かれた時に、悪霊にとりつかれた男を癒されました。そんな時、イエス様が何をされたかというと、ゲラサを支配していた「レギオン」という、悪霊の軍団を打ち破られました。ゲラサという地域を支配している、悪魔を打ち砕かれ男を解放されました。すると、男は正気に戻り、癒されたことが記録されています。現代では、このような場合は精神病ということで病院に入れられてしまいます。しかし、精神的な病が、すべて悪霊から来ているとは思わないでください。悪魔がどのような存在かというと、私たちの心が弱ってくると、神は支えてくださる方ですが、悪魔という存在は、逆にもっと悪くなるように人を追い込む存在なのです。それは、組織的に地域を覆っている、黒い雲のようです。まず、癒されるためには、地域を支配しているレギオンを打ち砕かなければなりません。
 新城教会では毎週のように、地域のとりなしの祈りがなされています。最近、メールで祈りのポイントを送ってくれるので、ぜひ、その情報を受け取って地域のために祈ってください。この日本は、地域が暗闇で覆われています。それが打ち砕かれるように、「教会は祈りなさい」ということです。その時に、心傷ついた人が癒されてくるという聖書からの情報提供です。
 日本を支配する黒雲が一掃されることが「悪霊を追い出す」ということです。そしてそれから、「新しい言葉を語る」のです。第二コリント四章一節から四節に、

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

 あなたが家族で、ただ一人のクリスチャンであり、「私はクリスチャンです」と告げると、「私もクリスチャンになって永遠のいのちをもらいたい」とは、なかなか言いません。家族が教会に来ない原因はどこにあるのでしょうか。それは、あなたの語り方が悪いとか、伝道していないからという以上に、覆いがあるのです。それは、「この世の神・悪霊が信じない人の思いをくらませて、神の形であるキリストの栄光に関わる福音の光を輝かせないようにしている」のです。まず癒しのためには、地域の悪霊を打ち破り、そのベールが剥がされた後に「神の言葉を語る」と、覆いがないので、イエス様が神であることがわかるのです。
 私は牧師をしていますが、イエス様が神の子であり、救い主だということが人に理解されるのは、瞬間的なことだと思います。ずっとわからなかったのが、ある時、瞬間的にベールが取られ理解できるようになるのです。皆さんも、ある時、ベールが剥がされました。だからベールが剥がされたところに語られる言葉は、語る者にとっても、聞く者にとっても「新しい言葉」です。だから、ベールを取ってから福音を語らなければなりません。
 次には、「蛇をつかみ出す」という言葉です。聖書で「蛇」とは、悪魔のことです。人に巻き付く蛇がいるのです。それをつかみ出さなければ、全人的な癒しにつながらないのです。蛇の束縛から、解放されなければなりません。第一テサロニケ五章二十三節に、

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

と書かれています。これは私たちの健康についても語っています。そして人間の構造についても教えています。「あなたがたの霊・魂・体が完全に守られますように・・」
 人間は肉体だけのように思いますが、聖書は肉体だけではない、霊、魂、肉体の三つからなっていると教えています。健康は、霊が健康で、魂が健康で、肉体が健康という、三つの領域のバランスが必要です。「霊」とは何か?それは、なかなか説明がつきません。幽霊、聖霊、そして、なんか変な存在か、と思うかも知れません。
 さて、人間の霊は何かというと、人間の体には限りがありますが、霊とは限られた体を越えて、神と会話する「機能」です。霊とは、神の世界にアクセスする通信機能です。人間は、限られた殻の中に閉じ込められていますが、通信機能は高度に発達しています。私たちは、小さな殻の中に入りながら、神の世界にまで電話してしまうほど、高度な通信機能が備わっているのです。
 最近は通信機能が高度に発達しました。皆が、携帯電話を持っており、どこにでも通信することができる時代になっています。阪神大震災や、ニューヨークのテロでは、瓦礫の下でも携帯電話を持っていて助かった人がいました。被害にあった人に、通信機能が備わっていた為に助けられました。
 人間には、困ったときに神に叫び求める機能が備わっています。しかし、その機能が傷ついていたらどうでしょうか。バッテリーがなくなっていたり、電波が弱かったら、神の世界には届きません。だから、私たちの霊の領域の癒しは重要です。霊の世界から蛇を除きなさいという意味は、霊の通信機能に支障をきたすものをつかみ出しなさい、という意味です。そしてそれが、偶像礼拝です。偶像から離れることが蛇を除くことです。
 日本にはたくさんの偶像があります。聖書は、手で造った神々を捨てるように語っています。そうでなければ、霊が癒されないのです。日本人は仏壇に先祖が住んでいると信じて、先祖の声を聞こうとします。神社に行き、社に神が住んでいるかのように拝みます。しかし形のある神は、本物ではなく、「悪霊の通信機能」なのです。
 携帯電話を江戸時代や、古代の人に渡したならば、携帯電話一台で一つの部落を支配できるかもしれません。例えば、江戸時代の人に、携帯電話を渡します。私は他の所からそこに話しかけます。だれかが江戸時代の人に、「話しかけて見て下さい」と言い、「こんにちは」と話しかけると、小さな物体の中から言葉が返ってきます。「お名前は?」と聞くと、「俺は神だ。」と言います。そして「体が小さいと思って見くびるなよ。俺を拝め。拝まなかったら祟るぞっ!」と言います。そうしたらその人は村人をすべて集めて、携帯電話を真剣に拝み出す事でしよう。多分、江戸時代の人々は、携帯電話の中に、神が宿っていると考えるでしょう。まさか他から、電波で操作されているなんて、全く思わないのです。私は続けて江戸時代の人に電話をかけます。「拝み方が足りない。もっと高いところに祭れ」と言ったら、携帯電話が高いところに祭られ、しめ縄が張られて、鎮座するかも知れません。地域の人々が電話を拝みます。「金を持ってこい。あの大きな木の下に置け」と言ったら、村人は金を持ってきます。皆はその中に神がいると思って拝みます。
 偶像礼拝とは、ちょうどそんなものです。人々は物の中に霊が宿っていると思って拝んでいます。しかし偶像礼拝は、知らないうちに悪霊によって操作されているのです。だから聖書は「偶像を捨ててしまいなさい」と言うのです。
 今日もしも、偶像を持っている方がおられたら、悪霊の携帯電話を持っているのと同じです。それを持っていて、良いことはありません。財布の中にお守りなど入れておくと、悪霊から電話がかかってきます。そして深い意識の中に操作され、滅びの道に向かってしまうのです。だから、まずはそのような物を除いて下さい。そうしたら、霊の世界の通信機能が正常化します。そして今度は、イエス・キリストの名前で祈り出すとき、神の国に通じます。困ったときは、いつでもイエスさまの助けを受けることができます。これが霊の癒しです。
 「魂の癒し」とは何でしょうか。魂は私たち自身です。魂はある意味で、自分自身ですので、色々な決断をする指令塔のような所です。色々な決断をするとき、霊の通信機能が壊れていると、魂にも影響を及ぼし、正しい判断ができないのです。そして、魂の世界に傷を与え、魂を不健康にする蛇について聖書はこう語っています。「怒っても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤っていてはいけません。サタンに機会を与えないようにしなさい」
 これは「憎しみ」です。私たちの人生の中に、「あの人は嫌い」とか、「あの人は憎らしい」などと思うことがあるかも知れません。憎しみを持つのは自由ですが、結局、憎しみを持つと損をします。悪魔が機会を捕らえ、あなたの人生を捕らえてしまうからです。憎しみを持たないようにして下さい。「日が暮れるまで、憤っていてはいけない」と言うのです。毎日、毎日、頭に来ることがあるかも知れませんが、「日が暮れたら全部忘れなさい」と言うのです。それが皆さんの心の健康につながるのです。それが魂に蛇が侵入しないための、重要なポイントです。
 教会に来ると、毎週のように自分の心にたまっている憎しみや、感情的な悪い物も、全部神の前に吐き出して、まっさらにしていただいて一週間を始める事が出来ます。それは、悪魔の力が打ち破られていることです。
 そして最後に、肉体についてです。肉体の中に蛇が束縛を与える一番大きな原因は「不品行、姦淫」、すなわち、「性的な罪」です。今やそれらがちまたに満ち溢れていますが、性的な罪は恐ろしいです。人と人を結び、共有化してしまうのです。
 神は一人の男と一人の女を作り、結婚させました。二人の男と一人の女ではありません。十人の女と一人の男でもありません。一人の男と一人の女です。夫婦がしっかりと結ばれるときには、素晴らしい祝福があります。神の祝福が満ち溢れます。しかしそれが崩れると、蛇の侵入が始まるのです。肉体を通して、人々を縛り上げる蛇が侵入してきます。そこから離れるようにと聖書は語っています。今は性的に乱れた時代です。教会は「不品行の罪から離れなさい。そうしたらあなたは健康になる」と語るのです。きよい生活を送ることは重要なことです。偶像礼拝、憎しみ、淫乱の三つは、私たちの健康を損なう、「蛇の侵入路」であり、悪しき力となるのです。ここから離れるならば、私たちは癒されはじめるのです。
 そして、「毒を飲んでも決して害を受けない」というのは、継続性を持ってあなたが健康であるための「守り」です。
 この世の中は毒だらけです。会社に行っても、学校に行っても、人々が話している事柄は汚いことばかり、社会には憎しみが、偶像が満ち溢れています。油断するとつい毒を飲まされてしまいます。「毒を飲んでも害を受けず」とは、血清のようなものです。
 そして最後に、「病人に手を置けば病人は癒される」と書かれています。これは神の超自然的な力です。「手を置く」とは「祈り」を表します。
 これらが、神の癒しの法則です。今日一人一人が、サタンの支配下から神の支配下に移され、バプテスマを受ける決断をし、蛇の束縛から解放され、癒しを受け取り健康になっていただきたいです。私たちの神は「癒しの神」です。教会は神の癒しを受けるところです。神は、全人的な癒し、すなわち、「霊的な癒し、魂の癒し、肉体の癒し」を下さるお方です。主は癒されるお方です。

『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」』

 もし偶像があったら、偶像礼拝から離れ、「悪魔の携帯電話を捨てます」と祈りましょう。憎しみを持っていたら「赦します」と宣言しましょう。また過去に性的な罪を犯したことがあったら、「赦して下さい」と神の前に出るときに癒しが始まります。今日は「癒しの時」になりますよう、お祈りします。


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