今週の礼拝メッセージ
2002.5.19(SUN)
聖霊を受けましたか?
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 使徒の働き19章1節〜7節
アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。

 ハレルヤ!今日、皆さんと共に礼拝が守れることを感謝します。先週は皆さんのお祈りに支えられ、韓国での集会が祝福されて感謝します。十六日に日本を出て行きましたが、一つアクシデントがありました。夜七時半からの集会の為に、午後一時頃の飛行機で出かけて行きましたが、寸前になって飛行機が飛ばなくなり、どうしようかと思いましたが次の便が丁度空いていたので、急いで駆けつけました。七時半からの集会なのに、七時半に仁川空港に着き、集会には賛美が行われている中、一時間遅れで到着しましたが、すべてを主が守って下さり、メッセージを語ることができて感謝します。集会の規模は多いときで約千五百人、朝の集会は五百名ほどが集まっていましたが、すばらしく燃えた集会を持つことができました。
 今日は「聖霊を受けましたか?」というタイトルで学びます。今日はペンテコステ記念日で、教会の誕生日です。弟子たちが祈っていたときに聖霊が降り、そこから世界宣教が広がっていきました。その記念すべき日が、約二千年近く前の今日です。今日は全日本の教会で、聖霊について語られていると思います。この日、皆さんに豊かに聖霊様が働いて下さるように祈りつつ学びたいと思います。
 今日の聖書箇所は、パウロがエペソに来た時のことです。パウロは人々に挨拶をしました。それが、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』という挨拶でした。私たちも色々な挨拶をします。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんわ」・・・など色々あります。クリスチャンは「ハレルヤ!」と挨拶します。「神様をほめたたえます」という意味で大へん良い挨拶です。「ハレルヤ」は万国共通語です。しかしパウロの最初の挨拶は、一般的な挨拶ではなく、「信じたとき、聖霊を受けましたか」でした。もしもあなたに、このように挨拶されたら「アーメン」と答えることができますか。ある人は、「私は聖霊を受けているのだろうか」と迷うかも知れません。しかし、今日はすべての人が聖霊を受けることができるように祈ります。
 エペソの町のクリスチャンたちは、聖霊を受けるなど聞いたこともありませんでした。しかしその後、パウロが人々のために祈ったときに、聖霊が降りました。その結果、エペソの町に大きなリバイバルが起こりました。エペソの町はアルテミス神殿があり、偶像礼拝が盛んな所でした。しかし、初め十二人が聖霊を受けたときに、町を揺るがすような大リバイバルにつながりました。聖霊様の働きとリバイバルは切り離すことはできません。「神の霊による支配」という視点で聖書を見ていくと、色々な場面が見えてきます。旧約聖書時代にも、神の霊が注がれたことが何度かありました。しかし、それは特定の人にしか注がれませんでした。神が特別に選ばれた預言者や王でした。一般庶民には神の霊は注がれませんでした。
 出エジプトの時、イスラエルは神の奇蹟を見ました。紅海が真二つに割れたり、毎日のように荒野にマナが降ってきたりと、彼らは神の栄光を間近に見ました。しかし、そんな奇蹟を見ながらも、彼らは神から離れ、偶像を作ってしまいました。なぜ、彼らはそんな奇蹟を見ながらも、偶像礼拝に戻ってしまったのだろうかと不思議に思います。なぜなら、旧約聖書の時代は、聖霊様が一人ひとりにとどまることがなかったからです。しかし、ペンテコステから続く今の時代には、一人ひとりに神の霊がとどまって下さるという、素晴らしい時代なのです。なぜならば、神の霊がすべての人に注がれるという約束が成就したからです。聖霊の油注ぎをいただくならば、皆さんの人生が変えられます。
 聖書を読むと神の霊が人に直接介入するときに、新しいことが起こっている事が分かります。天地創造の時、

『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』

と書かれています。暗闇の上に「神の霊」が動き始めたときに、光ができました。ということは、天地創造から神の霊の介入がありました。また人の創造時にも神の霊の動きがあったことが記録されています。創世記二章七節に、

『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』

 人間は土地の塵で造られたと書かれています。だから人間は死んだら土に返ってしまいます。しかし、生き物になったのは、神の霊が吹き込まれたからだとあります。
 また、新約聖書ルカの福音書には、イエス様の誕生について書かれています。イエス様が本当に処女から生まれたのならば、人類には大きな希望があります。イエス様が男女から普通に生まれたのならば、普通の人間とは変わらず、罪の性質を受け継いでいるはずです。しかし処女から生まれたということは、神の力によって生まれたのです。ルカの一章三十五節、

『御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』

 また、三十七節には、『神にとって不可能なことは一つもありません。』と記されています。マリヤに聖霊が注がれ、処女マリヤからイエス様はお生まれになりました。
 イエス様の誕生の知らせも、神の霊の注ぎと共に始まりました。ルカの二章八節から十節に、

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』

と書かれています。これは羊飼いにイエス様がお生まれになった知らせが届いた場面です。御使いが現れたときに、聖霊が働いておられました。これは突然起こったことです。羊飼いが、羊の群れを見張っているのは通常のことでした。そんな中、神が直接介入され、神の子が生まれたことを羊飼いたちに知らせました。ここにも聖霊の働きがありました。
 教会の誕生も聖霊の働きでした。使徒の働き二章一節からは四節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 これが教会誕生の瞬間をレポートした記事です。神の霊が集まった人たちに注がれたのです。イエス様は十字架にかかられ、よみがえられ、天に帰られました。そしてその後、聖霊様が来て下さいました。そこには大きな意味がありました。イエス様ご自身だけであったら、全世界に福音を伝える働きは難しいです。しかし聖霊様が来てくださり、どこでも神を信じる者には聖霊がとどまられ、イエス様と同じ、いや、それ以上の働きをすることができるのです。イエス様が姿を消してしまったのに、教会が幾多の迫害に耐えて今日まで二千年間前進してきたのは、聖霊様が働かれている証拠です。教会には「ご神体」と言われるものは何一つありません。目に見えない神に祈りをささげるのは、対象物がなくて祈りにくいと言われる方がおられます。しかし聖霊を受けるならば、対象物などはいりません。どこにおいても、聖霊様は私たちを強め、励まし、力づけて下さいます。神の霊が人に訪れるときに、大きな業が起こされます。神の霊に激しく触れるときに、私たちの間にも素晴らしい神の業が始るのです。今日も聖霊様が働いておられる、という実感と共にこの礼拝を終えて帰っていただきたいと思います。
 エペソでパウロが、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と聞きました。彼らは、「今までそんなことは、聞いたこともありませんでした」と答えました。
 聖霊に満たされ、聖霊によって新しくされながら生きていく秘訣とは何でしょうか。
 エペソの教会の人たちは、イエス・キリストを信じ、教会が形成されていました。しかし、彼らに聞いたら、「聖霊のことは聞きもしませんでした」と答えました。信仰生活で重要なことは「知る」ことです。知るか、知らないかは大きな差です。昔、あなたがイエス・キリストを知らないときはどうであったでしょうか。暗闇の中に閉じ込められていました。知ったときに、人生に救いが訪れました。「知る」とは、何れにしても大きなことです。「聞きもしませんでした」と語っていたエペソのクリスチャンが、聖霊について聞き、また、「知った」ときに聖霊様が訪れてくださいました。今日、私たちは聖霊様とは、私たちを助ける神であることを知る必要があります。
 知らなかったエペソの人たちに対して、パウロは、「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」とバプテスマについて聞いています。
 最近、新城教会で多くの人がバプテスマを受けるのを見て、嬉しく思います。バプテスマを受けることは重要です。聖霊については知らない、と答えたエペソの人たちにパウロは「どんなバプテスマを受けましたか」と聞きました。
 バプテスマには深い意味があり、バプテスマの意味について知ることは聖霊様の働きが始まるか、始まらないかの大きな鍵のように思います。彼らは、「どんなバプテスマか」と聞かれると、「ヨハネのバプテスマ」と答えました。ヨハネのバプテスマとは、神はおひとりであり、神に対する悔い改めをあらわしました。そんな時にパウロが語ったことは、ヨハネのバプテスマだけでは不十分で「イエス様の御名によってバプテスマを受けなさい」と語りました。そしてその後、彼らに手を置いたら、聖霊のバプテスマを受けたのです。
 イエス様は、よみがえられた後に一つのことを命令されて天に帰られました。それは、マタイの福音書二十八章十八節から二十節に書かれています。

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 イエス様は宣教と共に、「バプテスマを授ける」よう語られました。それは、「父、子、聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」と命令されました。エペソのクリスチャンは、ヨハネのバプテスマ、それはある意味において、「父なる神のバプテスマ」だけを知っていましたが、イエスと聖霊のバプテスマを知りませんでした。そこで、パウロはイエス様の名によるバプテスマを授け、次に手を置いたら聖霊が降ったのです。という事は、「父、子、聖霊によるバプテスマ」を受けたのです。
 私たちも、時に、聖霊のバプテスマを単体で扱いますが、水のバプテスマを授けるときに、「父なる神、子なる神イエス様、聖霊様の御名によって」バプテスマを行います。そうしたら、そこで聖霊のバプテスマを受けているのです。水のバプテスマは、父なる神の中、子なる神様の中に、聖霊様の中にどっぷりと浸かることを意味します。ということは、今の御言葉をしっかりと信じたら、バプテスマを受けたときにすでに、聖霊のバプテスマを受けているのです。しかし、案外、皆はそれを知りません。バプテスマの意味が、父なる神様か、子なる神様か、聖霊なる神様か、なんだか良くわからないので、その後、何らかの聖霊体験が必要となるのです。しかし基本的には、「父、子、聖霊によってバプテスマを受ける」ので、その通りにしたら聖霊のバプテスマも受けていてしかりです。これからのリバイバルの時代にはこれが必要です。
 私たちはいままでに、聖霊のバプテスマを求めて祈ったという歴史もありますが、聖霊のバプテスマについて、今まではっきり知らなければ、祈って求め受けるべきです。しかし、そこまで到達するのにやはり時間がかかります。本当は、イエス様を信じて、バプテスマを受けたときに、「父と子と聖霊」なので聖霊を受けるのです。リバイバル時代は、滑走路を滑走して、やがて離陸する飛行機のようではなく、ロケットのように神の前に垂直に上がっていきたいものです。瞬間的に、聖霊を受けることができたら素晴らしいです。今日、バプテスマを受けた者は、このことを知らなければなりません。バプテスマは「父、子、聖霊によるバプテスマ」であり、確かに、私たちはその時に聖霊のバプテスマを受けている、聖霊様は私たちのただ中に働かれていることを、「知る」のが満たされる基本だと思います。
 今回、韓国で李浩文先生とお交わりをしましたが、先生がお忙しかったので奥様と食事に行きました。その時に色々と聞いてみました。ご主人の李浩文先生は、結婚する前どのようであったかを聞きました。すると、李先生は昔、ほっそりしていて、何のとりえもない人であったと言わました。教会もお父さんの教会を受け継ぎ、四十五坪の場所に七十名しか集まっていなかったそうです。しかしある時に、奥さんが力無さに気付いて祈り始めたそうです。そして聖書の中に、聖霊のバプテスマがある事に気づいて祈りはじめたそうです。すると、はじめ奥さんに聖霊が注がれて変えられました。そして、その六ヶ月後、李先生が聖霊のバプテスマを受けて変えられたようです。今は教会員の登録が五万人あるそうです。日曜日に集まっている人数は数えたことがないのでわからないそうですが、一万人位の人が礼拝を守っておられます。今回、感動したことは、李先生の教会から、百二十名の宣教師を世界の国々に送っている事です。それをサポートする事務局も教会の中にあり、毎日のように連絡を取りながら宣教師達をサポートしている姿を見て、すごいと思いました。聖霊が注がれたら世界に出ていきます。素晴らしいことだと思いました。李先生が聖霊の注ぎを受けて、そんなふうに変わったことを聞き、驚きました。聖霊について「知る」ことは重要なことです。聖霊様が私たちの所に遣わされるときに、人は変えられるのです。そもそも、イエス・キリストを信じたということは、聖霊の働きであると聖書は語っています。一コリント十二章三節に、

『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』

 あなたが、「イエスは主です」と心から告白できれば、聖霊があなたと共におられます。「イエスは主です!」と告白しましょう。聖霊様があなたと共におられます。祝福されるのに、難しいことはありません。大きな声で「イエスは主です」と告白するだけで、内側の聖霊様が喜んでくださいます。
 ペンテコステの時の記事を見ると、次のように書かれています。使徒一章四節から五節に、

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』

と書かれています。この記事は、聖霊がこの地上に降る直前の出来事なので、聖霊がすでに来られた今日とは違うところもありますが、原則においては同じ部分があります。イエス様は彼らに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と語られました。私たちは聖霊に満たされ続ける必要がありますが、そのためには、いつも「待ち続ける」ことが大切です。すでに聖霊様が来てくださっていますが、更に新しい聖霊様の働きを期待して「待ち続け、祈り続ける」態度が必要です。いつも、「聖霊様が何をしてくださるのだろうか」と、待ち望む心があると聖霊様は働いてくださいます。やはり「飢え渇き」がなくなってしまうと、信仰の火が消えます。常に、神の新しい働きに対して、飢え乾いていただきたいのです。求め続け、祈り続けていただきたいと思います。時間差があるかも知れませんが、聖霊の働きが一人ひとりに始まります。しかし飢え乾きがなければ、働きは消えてしまいます。
 私が体験した一番強烈な聖霊体験は、一九九二年二月十三日のことでした。丁度、その日、李浩文先生が県民の森で聖会を導いておられました。集会後、私たちは県民の森で徹夜祈祷会をしました。その時に聖霊が注がれました。あのとき、李浩文先生が来なければ聖霊を受けなかったかも知れません。しかし私たちはその前から、聖霊様に飢え乾いていました。求めていました。私たちの中に、新しい働きが必要だ、もうこれ以上このままではやっていくことができない、という飢え渇きがありました。だからもう、何週間も、何週間も祈り続けていました。いや、何年も祈り続けていました。
 県民の森祈祷会が始まったのは、一九八〇年代です。私が著した「主が立ち上がられた日」という本をぜひお読み下さい。新城教会に、神の新しい働きが始まった記録です。あれはすごい出来事でした。しかし、その前に私たちには飢え乾きがありました。なぜ、飢え乾いていたかというと、私の家内が病気になったからです。その上、色々な問題が教会に起こり、どうすることもできない状況に追い込まれていたからです。それらは祈って解決するしか方法はありませんでした。
 時々、人生の中に問題が起こってきます。苦しい問題が起こってきて、どうしたら抜け出すことができるだろうかと悩み苦しむことがあります。そんな時、問題だけに目を留めないでください。クリスチャンの中に起こってくる問題は、何らかの原因があることも確かです。しかしそれと同時に、神はそれらの問題さえも使って、新しいことを始めようとされます。だからその時には祈らなくてはなりません。真剣に、神様に取り組んで祈るときに新しい扉が開かれます。だからある意味で、逆境は大きなチャンスの時です。神様の前に出て、主を待ち望んで、聖霊の新しい働きを待ち望み祈り続けるときに、突如として聖霊の働きが始まります。ですから、皆さんもぜひ、祈り続け、待ち望んで、いつも飢え乾いていてください。霊的に飢え乾いている人が、神の力強い働きを体験できる人だと私は信じています。
 続いての秘訣として、コリント人への第一の手紙に強調されている事柄があります。コリント第一の手紙六章十六節から二十節に、

『遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』

 ここで聖霊に満たされることと対比されているのが、「一つになる」ということで、夫婦関係です。そしてこの十六節で語られているのが、「不品行を避ける」ということであり、性的な罪に対抗する強調点です。性的な罪は「自分の体に対して罪を犯すこと」です。世の中を見ると、性的な罪が蔓延しています。性的な罪は、自分の体に対して罪を犯すことです。
 今回、韓国に行き、そのことについて話しました。韓国教会では、性的な罪のことはあまり語らないそうです。儒教の国は恥ずかしいことはあまり表面に出さない、という性格があり、なかなか語りにくい部分だそうです。しかし私は、日本人としてはっきり語りました。するとみんなが、落ちつきを失い大変でした。思い当たる所もあったのかも知れません。やはり、聖霊様の働きが更に広がっていくためには、性的な罪と戦っていくことです。性的な罪から離れ、聖く保たれることが大切です。
 なぜなら、聖霊様のご性格として、私たちと一体となって働いてくださるというご性質があります。「主と交われば一つ霊となるのです」とありますが、人間は霊、肉、魂ですが、現実の世界に関して聖霊様は強く働らかれるご性質があります。そして、聖霊様は私たちの霊と一つとなって、働かれるのです。そんな中、体に対する罪とは「不品行」なので、罪があると働くことができないのです。ですから、私たちが聖霊様に満たされ続け、聖霊様の働きを体験するために必要なことは、不品行の罪から一線を画して、体とは「聖霊の宮」というはっきりとした認識を持って歩むのが、常に満たされ続ける大きなポイントです。だから、この地上がどんなに性的に乱れていても、クリスチャンは絶対に、その罪に負けてはいけません。戦っていかなくてはなりません。なぜならば、私たちはすでに、代価を払って買い戻されたものだからです。体を通して神の栄光を現すことが大切です。聖霊様は、私たちの霊と一つになって働きを進めていこうとされる方であることを知っていただきたいと思います。
 第一コリントの五、六、七章をよくお読みください。テーマが聖霊様の働きと、不品行を避ける、偶像礼拝というところに重なります。
 更に、聖書はエペソのクリスチャン達が聖霊を受けた秘訣について教えています。使徒の働き十九章六節から七節に、

『これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。』

と書かれています。神の霊が人に注がれることは、そもそも神秘です。なぜ、そのようなことが起こるのかわかりませんが、聖書に書かれていることを実行するときに起こってきます。そして神の霊を受け取るために必要なのが祈りです。ここでパウロが何をしたかというと、「彼らの上に手を置いた」ときに聖霊が注がれたというのです。毎週のように私たちは、手を置いて祈りますが、それは聖霊のバプテスマの意味をしています。第二テモテ一章六節に、

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』

と書かれています。なぜ、パウロはテモテに手を置いて祈ってあげたいと思ったのでしょうか。なぜならば、テモテは初めは熱心でしたが、ある時に力を失っていたからです。火を失っていました。「だから、もう一度あなたに火を注ぐ祈りをしたい、もう一度聖霊の火を燃え上がらせたい」と願ったのです。私たちは日曜日毎にここに来て祈ります。それは、ある意味で聖霊の油注ぎをいただき、聖霊様の働きが再び始まるという意味を含んでいます。そして、一度消えかかった聖霊の火が、もう一度燃え上がるという意味があります。マルコの福音書十六章十八節に、

『蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

と書かれています。なぜ手を置いただけで癒されるのでしょうか。聖霊様が働かれるから癒しが起こるのです。神様の癒しを多く見たいと願います。私たちの教会にも主があわれみを与えてくださり、神の業が現されるのを見ますが、手を置くと癒しが起こるのは、祈りと共に聖霊様が働いてくださるという、見えない世界の法則です。ですから手を置いて祈ることは大切です。
 今回も韓国で聖霊様が強く働いてくださいました。文化が違うので難しいところもありましたが、少しずつわかってきて恵まれた聖会になりました。最後に按手して祈ったとき、聖霊様が働かれ、そこが火のるつぼのようになり、祈りが止まらなくなり素晴らしい集会になりました。按手して祈るときに、神の霊が注がれます。
 聖霊に満たされる秘訣を聖書から学ぶときに、聖霊様の働きの素晴らしさを学ぶことができます。第一ヨハネ二章二十七節に、

『あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。』

と書かれています。現代では教会があり、牧師がいて、皆さんに御言葉を解き明かす環境が整っていますが、教会が始まった当初は、聖書を教えるような人もあまりいませんでした。しかし、今、私たちが学んでいるキリスト教の基礎が、初代教会時に据えられています。情報のない時代に、すべてが整ったのです。そこには、誰も教えなくても、聖霊様が教えたという事実があるからです。電話も、インターネットも、郵便局もないような時代に、信仰の基礎が全部整えられたのは、聖霊の働きでした。彼らは特別に誰からも教えを受けてはいませんでしたが、聖霊が直接人々を導きました。
 今でも聖霊様の働きは同じです。色々な情報が整っていますが、基本的には同じです。一人ひとりに聖霊様が導きを与えてくださいます。あなたの人生にとって、一番必要なポイントについて、必要な祈りについて、また一番知らなければならない御言葉についても、聖霊様が支配してくださるから心配しなくても良い、ということです。私たちの内側に、聖霊様が働かれ、一人ひとりの人生を導かれますよう、祈りたいと思います。聖霊様の働きが、私たちに更に活発化されますように。
 最後に、エペソがリバイバルされたように、私たちの町にもリバイバルを与えてください、私を聖霊に満たしてくださいとお祈りしたいと思います。お祈りしましょう。

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