今週の礼拝メッセージ
2002.6.2(SUN)
神の霊の動くところ
新城教会 滝元順牧師

旧約聖書 創世記1章1節〜3節
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

 ハレルヤ!今日このように、皆さんとともに礼拝が守れることを感謝します。先週は皆さんのお祈りに支えられ、ゴスペル・クワイヤーとともにアメリカに行きました。先週の日曜日は、黒人教会の礼拝に出ることができました。黒人教会の礼拝は独特で、雰囲気が随分違います。私は三週間前、韓国の集会に出ました。神様はそれぞれの文化の中でそれぞれのスタイルを与え、人類を多様性の中で一致させ、神をほめたたえさせて下さっています。両国で、素晴らしい礼拝の姿を見ることができました。賛美のスタイルも随分違います。今日の賛美も元気良かったですが、韓国の教会は、一致乱れずに直線的に賛美するスタイルです。しかし、黒人の教会はコール・アンド・レスポンスという、一方が呼びかければ一方が答える賛美が多く、礼拝全体が歌という感じでした。二時間半くらい礼拝が続きますが、誰が聖歌隊で、誰が会衆かわからないくらい、全員が力一杯歌っていました。
 今回、こちらから行ったゴスペル・クワイヤーが、黒人の聖歌隊と一緒に歌いました。それがとても評判が良くて、喜んでくださいました。来年の名古屋ミッションでは、その方々が賛美に来てくださるそうです。
 日曜日には、全世界で主の御名がほめたたえられています。一週間が七日であるのは、聖書から出ています。クリスチャンは日曜日を安息日として守っています。今日はその事が記されている、創世記一章から学んでいきたいと思います。先週、黒人教会の礼拝でもこの箇所から、若い牧師が「混乱から秩序へ」というテーマでメッセージしていました。
 さて、創世記の一章は、天地創造の経緯を簡単に説明しています。神が天地を創造した瞬間についてです。『はじめに、神が天と地を創造した。』と書かれています。私たちの神は、天地宇宙の創造主です。私たちが礼拝している神は、万物を創造された方です。

『地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。』

と書かれています。天と地は神の霊によって創造され、神の霊が動き始めたときに、無から有を生じたのです。神は六日間で天地を創造しました。
 この章の理解には諸説があります。この時点にいた人は誰もいないので、誰も正確なことは語れません。私は、この一章の理解を、地球の中から外を見る視点で読むとわかりやすいと思っています。ここは、神様が天地宇宙を造られた後に、地球をどのように人の住処として形造ったのかについて、一日から六日で現していると思います。
 初め「光りよ。あれ。」と神が語った時に光がありました。この意味は、地球がぶ厚い雲で覆われていたのが、雲が割れて光が差し込んだと理解できます。二日目は、「天の水と地の水が区別された」と記されています。光が差し込むと熱が加わり、対流が起こって来ます。今まで雲が海面まで接していたのが対流により、下の水と上の水が区別された状況だと想像できます。
 三日目には乾いた地が現れ、海ができ、植物ができたと記されています。これは造山運動です。火山が爆発したときなどに起こる運動です。まだまだ地球が冷え切っておらず、巨大な植物が茂ったいたような状況だと思います。
 また四日目には「日と月と星ができた」と記されています。その時点で、日や月や星が創られたと理解するのには無理があります。なぜなら、宇宙には相互に引力の法則が作用していますし、太陽を中心として地球は回っているのですから、それでは理に合いません。最初に、神が宇宙の一定の状況を創られて後、地球を人間のために整えたように感じます。ここで、「日や月や星ができた」というのも、今まで厚く覆われていた雲が晴れて、地球に光が降り注ぐようになり、昼と夜が区別され、夜は地上から月や星がきれいに見えるほどに、雲が澄んできた状況だと思います。
 五日目には、水生動物、海の魚、巨獣、鳥ができたと記されています。土地はまだ乾ききっておらず、造山運動も続いて行われていたので、神は先に、海や空に生物を造り、動物や人間を創造する準備段階であったと思います。
 そして最後、六日目に動物と人間が造られたのだと思います。このように考えると、この順序は、ある意味で、地球物理学の主張と変わりません。聖書は何千年も前に書かれたにも関わらず、科学と矛盾しないのはすごいことです。なぜなら聖書は神が与えた書物だからです。
 何しろ、天地宇宙は神によって造られ、人類も神によって造られました。決して人間はアメーバーのようなものから進化したのではありません。日本では進化論を真理のように教えていますが、進化論は偶然の組み合わせであり、進化論を唱えている限りは人生に目的を見い出すことは無理です。なぜならば、進化とは計画に基づいて起きた事ではなく、偶然の組み合わせであるからです。計画がないところに、計画を見い出すことは無理なことです。しかし神は天地宇宙を、計画に基づいて造って下さいました。ですから、私たちの人生には、ハッキリとした神の計画があるのです。あなたの人生にも神の計画があることを知って下さい。
 あなたに神様の計画があります!計画が実現しますように。また二章一節から三節には、

『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。』

と書かれています。
 神は六日間働かれて、七日目に休まれました。神が創造のわざを完成して、休まれたのと同じように、私たちも一週間の業を終えて、神を礼拝するために集まっています。なぜ、一週間に一日、このような日を神は造られたのでしょうか。三節に、

『神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。』

と書かれています。一週間の中で「一日」は「神が祝福された日」です。したがって、七日目も、ある意味で、神の創造の産物です。神は人類のために「祝福された日」を、「一週間の中に一日」造られたのです。ですから、その日を逃してはいけません。今日、来られていることは、神が創造された祝福された日を、「楽しみ喜ぶため」に集まっています。この日は、神が祝福された日です。
 クリスチャンになり教会に来ると、新しい習慣が始まります。それは日曜日に礼拝に来ることです。良い習慣は一生涯続けてください。日曜日に礼拝に来るのを、「神が特別に祝福されている日」と位置づけて神の前に出たら、祝福を受け取ることができるのです。クリスチャンになる前は、日曜日も月曜日もあまり区別がなかったかも知れませんが、日曜日は、「神が祝福された日」という集まります。そして、集まるところに、素晴らしい祝福があります。ですから、日曜日の礼拝にお越しください。日曜日が駄目なら、水曜日にも礼拝がありますので、ぜひお越しください。一週間に一日は、神が祝福して下さる日があることを覚えて下さい。七日目の創造のわざを受け取って歩むとき、人生は豊かになります。何気なく集まっているようですが、神の祝福を受け取っているのです。
 今、ワールドカップが開催されていますが、一九二四年にパリでオリンピックがありました。その時に、イギリスの百メートルの選手に、エリック・リデルという男がいました。彼は優勝候補選手でしたが、百メートルの予選が日曜日にあたりました。彼は熱心なクリスチャンでした。この予選の時間は、礼拝の時間と重なりました。彼は予選に出ることを拒否して、礼拝に出ると言いました。それが大事件になり、「彼は頭が狂ってしまった」とイギリスの新聞は書き立てました。イギリスの皇太子までが、エリックを説得しようとしました。しかし彼は、断固として日曜日は礼拝に出ると押し通しました。
 そんな中で、四百メートルの選手であった友だちが、種目を変わってくれました。四百メートル走は、彼にとって得意な種目ではありませんでしたが、「神のために走る」と言って出場しました。
 しかしその結果リデルは、世界新記録で優勝したのです。このストーリーは、「炎のランナー」という映画になっています。これは日曜日の礼拝のために、命をかけるという姿です。そこまで私たちが、命をかけられるかはわかりません。しかし、日曜日を「祝福された日」として受け取ることは素晴らしい祝福をもたらすのです。
 さて、聖書は見える世界も、見えない世界も、神によって造られたと記されています。ですから、見える世界を造られたときに、神は同時に見えない世界も創造されていました。そして、今日は、見えない領域の創造、すなわち、神の霊がどこで働かれるかについて学びたいと思います。一節から二節に、

『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。』

と書かれています。神が霊を遣わし、天地創造を始められたときに地の状況は、「形がなかった」、「何もなかった」、「闇が大いなる地の上を覆っていた」という混沌とした状況下でした。そんな中で神はご自分の霊を働かせて、天地創造を開始されたのです。これは天地創造と共に、神が私たちの人生の中で、どのような状況の中で働いて下さるかについて教えていると思います。それは、ある意味で混沌とした、何の希望もないようなところに、神の霊が動き始めて下さるというの事です。
 今回私は、ゴスペルクワイヤーを引率してロスにいきましたが、大へん歓迎して下さいました。その中で、ブラック・ゴスペルのスピリットについて彼らが語っていました。それを聞いて、私は納得しました。皆さんも時々、「ゴスペル」を聞くと思いますが、歌が掛け合いになっています。「ハレルヤ」と一方が叫ぶと「ハレルヤ」と答えるようなスタイルです。あのようなスタイルの音楽ができた背景について、語っていました。
 アメリカでは十七世紀から十九世紀にかけて、奴隷制度がありました。奴隷制度とは恐ろしいものです。人間が人間を売り買いするのですから。もし、私たちが奴隷として売られたら、買い取られた主人の持ち物・個人所有の財産とされ、一生自由がありません。そして、奴隷の家族に産まれた子どもも奴隷です。丁度、牛や羊と同じようなものです。牛や羊が子どもを産んだら、その主人のものになってしまうように、奴隷の子どもも、人間ではなくなってしまうのです。
 彼らはすべての自由を奪われていました。それがアフリカから連れてこられた黒人たちでした。奴隷たちは、何の希望もない中で、毎日、朝早くから遅くまで重労働を強いられました。私たちなら、少しくらい大変なことがあっても、「今度の休みは何をしようとか、どこに行こうとか、何を食べよう」とか計画ができますが、奴隷たちには全く自由になる時間や計画がありません。全て、主人の計画以外はないという、八方塞がりのなかでした。
 そんな彼らの楽しみは、ただ、歌うことだけでした。炎天下の中で、一人が「つらいなあ。」というと、隣の奴隷が「神様はこの状況を知っているよ」と励ましました。そのような会話が、段々メロディー化していったのです。彼らは八方塞がりでしたが、天地宇宙を造られた神がおられ、その神が救い主であるということを信じていました。彼らは八方塞がりでしたが、天だけは開いていて神が必ず慰めて下さると、互いに励まし合いました。ゴスペルの根底にあるのは、神への叫びでした。
 その結果、アメリカ十六代大統領、アブラハム・リンカーンが立ち上がりました。南北戦争が起こり、北軍は奴隷解放の主張、南軍は奴隷制度は続けるという主張で、数年間に渡って戦いが続きました。最終的に、リンカーンが率いる北軍が勝ちました。そして一八六三年一月一日に奴隷解放宣言がなされ、奴隷は解放されたのです。
 今日本において、ゴスペルが人気です。歌うとストレスがなくなり、楽しみが与えられますが、その根底に神だけを見上げて叫んだ祈りがあったのです。また、「神がすでに、祈りを受け取って答えられた」という事実があるのです。祈りの答えの事実がついているがゆえに、それを歌う者、聞く者に解放を与えるのです。また、神が霊を注いで働かれる現場は、混沌とした八方塞がりのような出口がない中であり、神は心の叫びを聞いてくださるのです。
 今日もし、皆さんの中で八方塞がりで出口がない、と言われる方がおられたら、決して希望を失わないでください。神様が、あなたの叫びを必ず聞いてくださいます。奴隷制度の中で苦しんで人々の叫び声を聞いてくださったのと同じように、悪魔の力の中に捕らえられ、色々な問題の中に捕らえられ、苦しんで神に叫ぶ人々の中に、神は霊を動かして新しい創造を始めてくださるというのが、創世記一章一節、二節のメッセージだと思います。
 そして、神の回復のプロセスを、一日から六日に見ることができます。神様は創造者です。天地宇宙を、瞬間的に完璧に造ることができた方です。しかし、あえて一発で完成させないで六日間、七日間をかけてすべてを準備された中に、私たちの中に訪れる「回復プロセス」について教えています。
 私は色々な問題を持っている方々のために、お祈りをさせていただきますが、時々「神様、一発ですべての問題がクリアできますように。」と祈ります。しかし多くの場合、解放のためには、一定の時間やプロセスがあることを感じます。まず、イエス様の名によって祈り始めるときに、丁度、被われていた黒雲が裂けて、光が差し込むような瞬間があります。それと共に、徐々に「地のもの」と「天のもの」が別れ始めます。天と地がはっきりと区別されてきます。神を信じない場合、天も地もはっきりとしていません。何が神の支配される天なのか、悪魔が支配している天なのか、地とはなにかについてはっきりとしていないのです。しかし聖霊様が働かれて、光が差し込むときに、その区別がはっきりしてきます。第一の天、第二の天、第三の天について理解が加わってきます。そのうち徐々に、いままで見えなかった土地が現れてきます。そして植物が覆い、水生動物、動物、最後に人間が生まれて、鼻から息が吹き込まれて生き物になったように、立ち上がるのです。一つの過程を経て、天地創造が成されたのと同じように、私たちの人生においても、神が解放を前進させてくださるのです。
 「私はまだ、完全な問題解決をいただいていない」という方がおられるかも知れませんが、神は一つ一つの手順を踏みながら、黒雲を押しやってくださり、わざを進めてくださる方であることを知ってください。光が差し込んだならば、必ず完成するときがあるはずです。聖書は、「御霊によって始まったことは、必ず御霊によって完成する」と語っています。皆さんの働きは、決して肉の働きではなく、御霊の働きです。信仰生活は霊の世界のことなので、すでに御霊によって始まっています。ということは、御霊によって私たちは歩まなければなりません。
 神様は六日間かけて天地を創造され、七日目を祝福された日とされました。そして、

『それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。』

と書かれています。これはある意味で、「完成」を表している言葉ですが、同時に、あまり良い言葉ではないと思います。なぜならば、この日は「神は何の業もしない」からです。今日私たちは、「祝福の日」として集まりましたが、旧約聖書の概念だけで考えると、神がすべてのわざを休まれた日ですから、今日はこの礼拝の中で神は、「何の癒しも、解放も、業も起きない日」になってしまいます。「神が休んでもらっては困る」というのが、私の実感です。
 信仰生活の始まりは、多くの場合、混沌としています。色々な問題があって、その時は真剣に祈り始めます。しかし、神が働き始めると、徐々に解放に向かっていきます。そしてやがて、一つのものが完成します。完成すると、ある意味で私たちは安息に入り、一つの型にはまります。すると、神が業を休まれてしまうという危険性があります。私たちは常に、神の霊の働きの中にありたいのです。信仰生活においては、七日目の安息には入りたくないです。七日目は、神のわざがなくなってしまうからです。
 私も世界の国々を廻らせていただき、日本の教会がある意味で、過渡期であることを感じています。クリスチャン人口も少ないので、真剣に神様を求めています。しかし、韓国に行くと、三十パーセント近くがクリスチャンです。だから、日本で語るメッセージがなかなか語れません。日本だと、まだ家族が救われていないので、「家族の救いのために祈りましょう」というと、皆「アーメン」と答えてくれます。しかし、韓国で家族の救いを祈りましょう、というとあまり通じません。「この地域の救いのために祈りましょう」と日本で言うと、「そうだ、祈ろう」と答えますが、韓国では「地域の人々は、みんな救われている。」と言います。ある意味で、完成しているような所があります。
 しかし、完成してしまうと、神の業が止まってしまうという現実があります。信仰生活では、常に飢え渇きを持っていなければならないのです。私たちが神の霊に満たされて、神の霊の動く場所を好んでいるのならば、神の前に常にニュートラルな部分を持つことが大切であると、創世記は語っています。
 水はどんな容器に入れても、容器の形に変わりますが、一度氷になってしまったら、形は変わりません。神の計画通りに形造られ、常に、神の新鮮な働きのただ中にあるためには、いつも飢え乾いていて、信仰が一つの型にはまらず、ただの習慣にならないようにする必要があります。
 イエス様が安息日に神の宮に来られました。そこに片手のなえた人がいました。マタイの福音書十二章九節からに、

『イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。』

と書かれています。ユダヤ人たちは律法の「型」にはまっていました。安息日は、「何もしてはいけない、働いてはいけない」と、宗教的な型にはまっていました。イエス様がそこに来られたとき、人々はイエス様が、片手のなえた人を直すか直さないかを見て、もしも直したら、「訴えてやろう」と思っていました。しかし、イエス様は「人の子は安息の主。安息日にいやすことは良いことだ」と言われました。そして、手がなえて苦しんでいる人を癒されました。癒しの業・新しい創造の業を安息日にされました。
 イエス様は、安息日にも働いて下さるお方なのです。創世記では、「神はすべての業を休まれた」と書かれていますが、イエス様は安息日にも業を行ってくださる方です。私たちも、信仰的にユダヤ人のように型にはまってしまうと、神の業を体験することができなくなってしまいます。安息日は、神を礼拝する日ですが、神のわざは決してとどまらない日なのです。今日も、この中で、神のわざがあります。皆さんの中に、神のわざが始まっています。その為には常に、地は形なく、何もなかったように、神の前では柔軟な者でありたいと思います。そして常に、神の霊の働きが、私たちのただ中に継続することを祈っていきたいと願います。
 新城教会も五十数年の働きがありますが、決して型にはまらず、神の新鮮な働きが繰り広げられるように期待しています。日本では、偶像礼拝がたくさんあります。そもそも、偶像は鋳型に流し込み作ります。型にはめてしまうのです。この日本の悪魔の働きは「型にはめる」ことです。日曜日に教会に行かにゃ〜ぁいかん(いかなくてはならない)、聖書を読まにゃ〜ぁいかん(読まなくてはならない)、祈らにゃ〜ぁいかん(祈らなくてはならない)・・・と猫信者になっていたら、それを悔い改めて、新鮮な神の働きを歓迎するために型を外し、私たちの中に、いつも主が働いてくださることを願っていきましょう。今日も神が働いて下さる安息日になることを祈ります。

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