今週の礼拝メッセージ
2002.6.9(SUN)
礼拝(Worship)
新城教会 滝元順牧師

新約聖書 ローマ人への手紙12章1節〜2節
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 ハレルヤ!今日皆さんと共に礼拝できることを感謝します。神は一週間を七日と定められ、一週間のうちの一日を「祝福の日」として定められました。これは神の創造の産物です。
 フランス革命の時に、一週間を七日ではなく、十日にしようとしました。しかし、人間はそれではうまく生きていくことはできませんでした。また日本海軍は戦争の時に、日曜日をなくして月月火水木金金と言って、毎日働きました。しかし結果は、大敗を期しました。
 神を礼拝するために集まるところに、神は祝福を注いでくださいます。アメリカにジャック・ヘイフォードという有名な牧師がいますが、彼は、「聖書は明白に、神の民が集まって礼拝しているとき、主は明らかに彼らとともにおられ、彼らとともに働きたいと願っておられる。」と語りました。私たちが一週間に一度、神を礼拝するために集まるところに、神が礼拝をお受けになると同時に、「祝福の日」として、私たちを祝福して下さいます。
 悪魔の手から取り戻されて、神の手に渡され、栄光が取り返された結果は、人が「神を礼拝し始める」ことです。かつて悪魔の領域に属していたとき、神を礼拝することはありませんでした。しかし、イエス・キリストを信じ、神の手に取り戻されたときに、「神を礼拝するため」に変えられました。今日、神を礼拝している姿は「神の栄光の回復」の証拠です。
 今日は神が特別に、あなたを祝福しようとして定められ日です。お互いに、「今日は神が、あなたを祝福しようとされています。」とご挨拶してください。祝福の言葉を掛け合うことは大切です。イザヤ書六十六章二十三節に、

『 毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と主は仰せられる。』

と書かれています。やがて、神はご自分の栄光を、完全に回復されるときが来ます。そして、すべての口が、「イエスは主です」と言って礼拝するときが来るのです。教会の礼拝はその預言的な姿です。地域に住んでいる者たちが、集まって礼拝する姿は、来るべき日に、すべての造られた者たちが主を礼拝するという預言的な姿です。
 私たちは混沌とした、暗闇の中に生きています。しかし主の前に出る日は、「癒しの日」でもあります。
 ある人がメキシコを旅していたら、ある町外れの鉱山の横を通りました。すると、そこにはおびただしいロバの群がつないであったそうです。何だろうかと思い、旅人は立ち止まって聞きました。「このおびただしいロバの群れは何ですか。」すると、「このロバたちは日頃、鉱山の坑内で使われているロバたちです。しかし週に一度は光の前に出して日光浴させないと、目が見えなくなってしまうのです。」と言ったそうです。
 私たちは、一週間の内、六日間は霊的戦いの中にあります。しかし一日、このようにして神の前に出て、聖霊の光によって霊的な目が強められ、癒しを受け取る日が「礼拝の日」でもあるのです。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。』

と書かれています。強制ではなく、これはパウロの願いです。

『あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』

 礼拝は、私たちのからだを生きた供え物として、神の前にささげることです。生活のすべてが、神への礼拝と変えられるように、今朝は学びたいと思います。
 旧約聖書から礼拝の歴史を学んでみると、礼拝とは、「神を拝む、ひれ伏す」という意味です。英語だと、worshipと言います。元の言葉は「ワース・シップ」「価値あること」という言葉から始まっています。私たちが礼拝をささげることは価値あることです。そして、礼拝の基本は、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシヤ、ハンナ、ダビデ、その他、すべて神の人に共通して言えることは、個人が礼拝をささげる「個人礼拝」者でした。それは、常に神との交わりと絶やしてはいけないということです。聖書に出てくる人物は、個人的に神を礼拝していました。日曜日に集まって、やっと神を意識するのではなく、常に個人で神を礼拝しなければいけないのです。
 次の段階は、「家族礼拝」です。ノアが四十日の洪水の後、家族とともに外に出て祭壇を築いて礼拝をしたと記されています。
 クリスチャン・ホームの方は、家族で礼拝すると良いと思います。家族礼拝が出来るのは、子どもたちが小さい時です。子どもたちはすぐに大きくなってしまうので、中学生になるまでが勝負だと思います。それまでに良い習慣を付けていれば、大きくなっても神様のことは忘れないと思います。
 私もこうしてイエス様を信じて、ここまで来れたのは子どもの頃から、少々、強制的ではありましたが、神の前に引き出されたことによって、主を礼拝する習慣となりました。特に、「家族礼拝」については、私の両親は厳しかったです。食前に、必ず聖書を一章読まされました。早く読まないと食事の時間が来ないので、聖書を読むのが早くなりました。その中で一番恐れていたことは、詩篇一一九篇に差し掛かったときです。どうなることかと思いましたが、分割してくれたので事なきを得ました。何れにしても、家族礼拝は、子どもたちの将来を左右する、大きなことです。
 また、この教会では「家庭集会」というものがあります。週に一度、半ばくらいに家庭集会に出る習慣をつけると、素晴らしい神との交わりになるのです。
 旧約聖書は「個人礼拝」、「家族礼拝」、そして、「国民的礼拝」につながっています。イスラエルは、国をあげて神を礼拝したことが書かれています。そして、国民的礼拝の中で形つくられたのが「神殿礼拝」です。それは、神の宮に人が集まって礼拝するということでした。これは、最終的には「教会」を表しています。今日、全世界に教会がありますが、これはある意味で「国民的礼拝」です。私たちが教会に集まるときは、一教会としてではなく、「国を代表して」礼拝し、賛美しなければなりません。また、国を代表して、祈らなければなりません。日本が主をほめたたえますように!
 国民的な礼拝、すなわち、神殿礼拝の特徴は、多くの楽器を使って賛美したところにあります。ダビデ、ソロモンといった王が行った国民的礼拝の姿を見ると、それは壮大なものです。そして、多くの楽器が使われました。第二サムエル記六章五節に、

『ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った。』

と記されています。多くの楽器を奏でて、主をほめたたえました。時々、新城教会に来て、「騒がしい教会ですね。たくさん楽器を使っていますね」と言われる人がいますが、これは聖書的な礼拝です。国民的神殿礼拝では、当時作られていた楽器を総動員して、神をほめたたえていました。
 ダビデは、たて琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして「主の前で力の限り喜び踊った」のです。今日も手をあげたり、大声で賛美しましたが、昔はそのようなものではなく、喜んで踊って賛美したのです。時には私たちも、喜び踊って賛美すると良いのです。愛知県民の森祈祷会に来てください。みんな聖霊によって踊り出して、すごい祈祷会です。
 先週は神学校で、七十名ほどの方とともに県民の森に行って祈りましたが、聖霊が注がれて、皆が踊り廻って賛美していました。主が喜んで、礼拝を受け取って下さっている姿を見ました。
 聖書中、一番高く、神をほめたたえるときに使われている言葉があります。それが、詩篇一四九篇、五節から九節の中にあります。ここに神への「称賛」という言葉がありますが、「この言葉は聖書中、ただ一回しか使われていない、最も高められた賛美であり、礼拝である」と、ある注解者は説明しています。

『聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

 賛美にはすごい力があります。賛美している中で「鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛る」、すなわち、敵のボスが縛り上げられるのです。しかし、この御言葉をよく読んでください。五節に、

『聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。』

と書かれています。今日、私たちは教会で賛美しています。ここに「おのれの教会で高らかに歌え。」と書かれていたら、教会で賛美したら、悪霊のボスが縛り上げられると理解しても良いのですが、「おのれの床の上で」ということは「あなたのベットの上」で歌え、「布団の上で歌え」ということになります。ベットの上で最高の礼拝ができるものか、と疑問に思います。
 「神様。これはどういうことですか?」と私は祈りました。先週は「職場祝福祈祷」が行われ、皆さんの職場に出向いて祈りましたが、今度は、「床の上賛美集会」をしたら良いかも知れません(そんなことしたら、きっと、おかしいと思われるでしょう)
 しかし、神様は私に、このように教えて下さいました。時々、朝起きたときに、賛美が自動的に頭の中を巡っていることがあります。耳に賛美が聞こえることがあると思います。
 先日、私の娘が、「昨日、ユニーに行って魚の歌が流れていたので、朝も魚の歌が響いていた」と言っていましたが、それでは困ります。魚の歌ではなく、賛美が響いていなければなりません。
 今朝起きたときに、どんな賛美が頭を巡っていましたか。注意して、朝起きてみてください。「床の上で高らかに歌え」とは、朝起きたときに神があなたに与える賛美を受け取り、賛美することであるように思います。それは何気ないことかも知れませんが、実は、それがあなたの一日を表す、「預言的な歌」かも知れません。そしてあなたが、床の上で受け取った賛美をもって主をほめたたえるときに、それは、だれも見ていないような礼拝かも知れませんが、その中で敵のボスを退けて下さるのです。
 今週、皆さんと一つの約束をしたいと思います。朝起きたときに、主がどんな賛美をあなたに与えて下さるかを、一週間に渡って記録してみて下さい。そして、一週間を終え、それを眺めてみると、「実に、神は一週間を賛美と礼拝の中で導いて下さった」と知ることが出来ると思います。そして、「敵の陣営が縛り上げられた」ことが実感できると思います。ぜひ、実行して下さい。きっと神様は素晴らしい賛美を、皆さんに与えて下さいます。そして神様の素晴らしい祝福を見い出すことができるでしょう。
 今日礼拝に来たくても、病気で来れない方がいます。私は、病気で苦しんでいる方々のために祈っています。「床の上で礼拝する」とは、ある意味で弱った中での礼拝かも知れませんが、そこにも神の祝福が注がれます。
 ダビデ王は、息子ソロモンが後を継ぐ、という預言をもらっていました。しかし政権交代の時は、どこの国でもゴタゴタします。そのとき、ダビデは病床の中にあって動くことができませんでした。しかしそんな中で彼が、神を礼拝した姿を見ることができます。第一列王記一章四十七節に、

『そのうえ、王の家来たちが来て、『神が、ソロモンの名をあなたの名よりも輝かせ、その王座をあなたの王座よりもすぐれたものとされますように。』と言って、私たちの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると王は寝台の上で礼拝をしました。』

 彼は動けない状況の中でも、神を礼拝しました。私たちの人生も、息を引き取る瞬間まで、神を礼拝したダビデのようでありたいと願います。
 さて、旧約聖書の礼拝スタイルには、大変な部分もありました。申命記十六章十六節に、

『あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。』

と書かれています。男には「年間三回」エルサレムに登って、礼拝しなければならないという義務がありました。今はどこにおいても、霊と真によって礼拝できますが、昔は特定の場所に行って、礼拝しなければなりませんでした。これを「巡礼」と言いました。
 神はモーセの時代に幕屋を作らせ、ソロモンの時代にはエルサレム神殿を建てさせ、そこを礼拝の場所として定められ、そこが正式な礼拝の場所として、地方にいる者たちは登って礼拝しなければならないという、「巡礼」を求められました。今はそのようなことはありません。
 しかし、このような聖書の中の礼拝スタイルを総合すると、「神への礼拝とは何か」について知ることができます。
 「礼拝とは何か」について学ぶと大変興味深いです。ある参考書には、「さて、聖書において礼拝とはどのように規定されているのでしょうか。礼拝を意味する聖書における用語は多様で、礼拝、拝むというような用語だけではなく、あがめる、感謝する、より頼む、恐れかしこむ、おののくというような意味もあり、同時に、ほめたたえる、仕える、仰ぐ、献げる、手を挙げる、ひれ伏す、ひざまずくといった動作をも含んでいます。」と説明されていました。
 私たちの礼拝が、「心から」と言うことはもちろんですが、同時に「動作」も大きな礼拝の要素を占めているのです。
 「巡礼」というのも、年に三度、エルサレムに向かう動作でした。これらの旧約聖書の概念と、ローマ人への手紙十二章の概念を照らし合わせ、重ね合わせてみるとどうなるでしょうか。ローマ書では、私たちのからだを、生きた供えものとしてささげなさいと勧めています。ということは、一週間の内で、皆さんが色々な動作をします。お母さんならば、子どもたちの世話をしたり、家事をしたり、お父さんならば会社に行って仕事をする動作や、学生だったら、学校に行くという、色々なアクションがありますが、それらはすべて祭壇の上にささげられるのですから、それが「礼拝」なのです。私たちの動作までも、霊的な礼拝行為に入るのです。私たちのすべての動作が神の前に、礼拝となりますように・・。
 そして、これらの行為の根底は「神との契約関係に入る」ことを意味し、礼拝に含まれる様々な用語や動作は、「神との契約関係の範囲は、個人の全生活領域に及ぶ」ということです。聖書の礼拝という言葉の多様さは、神との契約関係は、動作も含めて、生活の全領域に及ぶ事を意味しているのです。
 してみると私たちは日々、色々な歩みをします。しかし一秒たりとも、神の前には無駄になるものはないのです。ローマ書十二章の御言葉と合わせて考えるときに、私たちの「すべてが礼拝行為」なのです。辛い仕事を炎天下でされている方もおられると思いますが、それも神が礼拝として受け取ってくださいます。私たちのすべての行動、動作さえも神の前におささげし、神への礼拝となりますように・・。
 偶像礼拝は、結局「神礼拝の裏返し」です。ということは、偶像礼拝にも同じことが言えます。「偶像礼拝」とは、「動作」を含むのです。
 日本の偶像礼拝のほとんどが、キリスト教のように教理を強調しません。「一生懸命、教えを勉強しましょう」とは言いません。神社を拝む人で、祭神は何かなどと知って拝む人はほとんどいません。しかし、何かは知らないけれど、拝むのです。神社に行くと、たいてい拝み方が表示されています。まず、拝殿の前で一礼をして、続いて柏手を二回打ってください。そして、もう一度、礼をしてくださいなどと、動作の手引きが書かれています。表示されている動作を真似るように書かれています。人々はその通りに、表示された動作に従うのです。その事について、何も考えないかも知れませんが、その動作自体が「礼拝」なのです。何気なく動作しますが、その中で悪魔に生活全般に関する契約書を取られてしまうのです。
 先ほど、神の宮に年に三度、巡礼する規定について語りましたが、日本では悪しき巡礼が多いのです。四国では八十八ヶ所を多くの人々が巡礼しています。また多くの人が観音や不動を巡礼しています。かつて、皆さんも足を使って、色々な偶像を巡礼したかも知れません。しかしその結果、足を使った巡礼は、悪魔に足を奪われ、足と契約が結ばれます。
 ある人は、教会に行こうと思っても、寸前で教会に行けなくなったり、足が重くなる人もいるかも知れません。教会に行きたいけど、足がどうも向かない人は、もしかしたらかつての悪しき巡礼によって、足を捕まれているのかも知れません。これは日本において、大きなテーマです。人々が偶像巡礼において、足を捕まれているので、教会に出向くことが出来ないのです。
 私の知り合いが、なかなか教会に来れませんでした。私も祈っていましたが、土曜日に、「明日は絶対に教会に絶対行く」と決断して寝るのですが、朝になると布団から、出られなくなるのです。
 ある時、「今日こそ教会に行くぞ」と思っているときに、何か頭の上の方でざわざわと音が聞こえ始めたそうです。「何だろうか」と思いましたが、起き上がって服を着始めると、声が聞こえたそうです。「ボス、あいつは今日、教会に行くようですよ。」「何?教会に行くって・・・?早く、止めろ、止めて来い!」
 そういう声を聞いて、気がつくとその人は、また布団の中に入っていました。するとまた、ざわざわして「良かった!」という声が聞こえたそうです。それで、「あっ!これは悪霊だ・・。」と気づいて、「がんばって教会に来ました」と言いました。
 日本人は、かつて行った偶像礼拝の動作で、神への動作を制限されているところがあります。今朝、皆さんがかつて、悪霊の前に行った動作が無効であると宣言しましょう。皆さんのすべての行動が、神の前に受け入れられ、生きた供え物として受け取ってくださいますように。毎日の歩みの中には、楽しいことも、楽しくないこともありますが、神はあなたの行動のすべてを礼拝として、受け取ってくださるのです。ローマ人への手紙十二章一節から二節に

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 救いは努力なしに与えられるものです。完全に、神からの一方的な恵みによって与えられるものです。しかし、「礼拝」については、ある意味でパウロは「ちょっと努力しなさい」と勧めています。「あなたがたにお願いします。」と言っています。礼拝に関して、「聖い生きた供えもの」と語っています。これは「この世と調子を合わせてはいけない」という意味です。それは、「この世代と同化するな」ということです。「この世」というのは、社会ではなく「罪」のことを言っています。今、この世代は罪に満ち溢れています。罪と同化してはいけない、と語っています。「聖く歩む」ことが「礼拝」です。私たちは常に聖く歩む、努力を怠ってはいけません。そして、

『神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

と書かれています。これは「神の御心を求める」ことです。毎日の生活の中で考えるべきことは、「神の御心を求める」ことです。
 毎日の生活の中で、神はあなたに対する御心をもっておられます。その御心を求めて生きてください、というのです。それは、何が神に受け入れられ、神に喜ばれるかを考えて生活することです。私たちは毎日、瞬間、瞬間で判断すべきことが多くあります。「どうしたら良いだろうか。どう判断したら良いだろうか」と考えます。その判断基準は、「どちらが神の御心だろうか」という祈り心です。そして、聖さを求めていくことが、あなた自身を聖なる供えものとして、神の前にささげる「礼拝行為」です。
 そして「心の一新によって自分を変える」ことです。心の一新とは「決断」です。
 人間は肉体、魂、霊の三つの領域からできています。そして特に、「心の領域」は「人間全体のコントロール・センター」です。コントロール・センターでゴー・サインを出すと、全体の方向が変えられます。霊は神とつながる部分です。神は私たちに良い影響を与えてくださいます。しかし、心の一新とは、コントロール・センターから、正しいゴー・サインを出すことです。心の一新には、決断が伴うのです。
 例えば、イエス・キリストを信じることについて、「どうしようか、信じようか、信じまいか、クリスチャンになろうか、クリスチャンになるまいか」神からの影響は、「あなたに祝福を与えます」と語ってくださいます。しかし、最終的に、心の一新とは、「自分自身の決断」があるのです。心の一新、心のコントロール・センターから、良いゴー・サインを出すことを、常に心がける必要があります。

『神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 例えば、今まで罪の中にあっても、罪から離れるという「決断」がないと前進しないのです。私たちが、決断を持って神に仕えるようにお願いします、とパウロは人々に語っています。
 神はあなたに、「真の礼拝者となってください。そのために心の一新をもって、わたしに従ってください」と語られているのです。
 今週はぜひ、今朝語った「礼拝」を実行してみてください。礼拝こそ、神が喜ばれることです。
 すべてを通して、神の栄光を現すことができますように。朝起きたときに、神様がテーマの賛美を与えてくださいますように。床の上賛美を受け取って、一日のテーマとしましよう。動作のすべてが、神の前には礼拝となりますよう、お祈りしましょう。

ご一緒に祈りましょう。
「ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝致します。私たちは今日、礼拝するために、この場所に集まりました。私たちは、生ける供えものとして、すべてをあなたの前にささげたいと願っています。どうか、一人一人を祝福してください。支えてください。
 主よ、今まで私たちが、偶像の前に動作を持って犯した罪を赦してください。悪霊に対する、動作を全部取り消してください。そして主よ、今日は、私たちのすべての動作が、神との契約行為となりますように。すべての行動が、神との契約行為として、神への礼拝としてくださいますように。
 また主よ、あなたが今週、すべての兄弟姉妹に賛美を与えてください。敵のボスを縛り上げる、一日のテーマとなる賛美をお与えくださいますよう、お願いします。主が賛美してくださいますように。そして、あなたへの礼拝が、更に高められますように。
 今、私たちは礼拝します。日本を代表して礼拝しています。やがて、日本のすべての人たちが、主を礼拝し、主を賛美する日が来ますように。今日のこの時を感謝して、すべての栄光をお返しして、イエス様の名によって、祈りを御前におささげします。アーメン。

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