今週の礼拝メッセージ
2002.6.16(SUN)
弁解するな
新城教会 上條実牧師

旧約聖書 創世記 44章16節
ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」

 ハレルヤ!みなさんの中にはワールドカップサッカーのテレビ中継を毎日見ておられる方もいらっしゃると思います。日本が決勝トーナメントまで勝ち進み、頑張っているのを見て私たちも励まされています。先週の日曜日の夜、私も対ロシア戦を見ました。サッカー中継が終わり、チャンネルを変えた時「十戒」という映画が放映されていました。なんかもったいない気持ちがしました。よりによって日本対ロシア戦の時に放映されて、日本の八十%の方がサッカーを見ていたそうですので、少し残念でした。その十戒とはモーセの出エジプトの時を再現した映画です。今日読んでいただきましたみことばは、それよりももっと前のヤコブの時代、あの有名なヤコブの子ヨセフの記事です。ヨセフは不思議な計画でエジプトの第二の地位にまで権威ある人物となりました。
ヨセフは父ヤコブに特別愛されており、聖書にはなんと彼だけが袖付きの長服を着せられていたと書かれています。父ヤコブに特別に愛されていました。他の兄弟たちは父がヨセフ一人だけを愛するという事に妬みを覚えていました。またヨセフは夢を見ました。なんと畑で束を束ねていたらところ、自分の束が真っ直ぐに立ち、周りをお兄さんたちが刈った束が取り囲んで真っ直ぐに立ち、お兄さんたちの束がヨセフの束に頭を下げたというのです。お兄さんたちが弟ヨセフに頭を下げたというのです。またその後もう一度夢を見ました。今度は太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝んだという夢を見たと兄たちに言ったのです。父母と兄たちがヨセフを拝むのかと反感を持たれました。兄たちはヨセフをいつか痛めつけてやろうと考え、ヨセフを穴に落とし、イシュマエル人に銀二十枚で売ってしまいました。そして父ヤコブにはヨセフはけものに殺されたと偽ったのです。ヨセフはエジプトに売られ、様々な苦労をし、ついには牢に入れられてしまいました。しかし神様はヨセフをエジプトの第二の地位を与えました。彼は牢の中で王に仕える者の夢を解き明かし、更にパロ王の夢までも解き明かし、パロ王はヨセフをエジプトの第二の地位に就任させたのです。そんな中イスラエルでは飢饉があり、ヤコブは末の息子のベニヤミンを残し、あとの子どもたちにエジプトへ食料を買いに行かせました。兄たちはヨセフがどうなっているかも知らず、エジプトに行きました。ヨセフはお兄さんを見てすぐにわかりました。しかし彼は兄たちに末息子であるベニヤミンを連れてくるように命令し、父ヤコブを説得してベニヤミンをエジプトに連れて行きました。ヨセフは兄たちを接待し、食料を持たせて帰らせました。その時末のベニヤミンの袋の中に銀の杯をわざと入れ、帰る途中彼らを取り調べたのです。そして袋を開けさせ、ベニヤミンを捕まえようとしました。その時ヨセフの前でユダが言った言葉が今日の御言葉です。

『ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」』

ヨセフの前に引きずられて出てきたときにユダは「何と申せましょう。」「何と言って弁解することができましょう。」と言っています。そして父ヤコブを悲しめる事はできない。ベニヤミンまでもが捕虜となってしまったら、父ヤコブは死んでしまうと言ったのです。四十四章三十三節から三十四節に、

『ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」』

とあります。ユダはベニヤミンの身代わりに自分が捕虜となりますからベニヤミンを赦してくださいと願っています。そして四十五章を読んでいくとヨセフは耐え切れず、自分がヨセフであることを打ち明けました。とっても有名であり感動的な聖書箇所です。しかし今回もう一度読み直した時、強烈に私の心に引っかかる御言葉がありました。それは「弁解」という言葉でした。十六節「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。」というところです。この所を読んだ時、神様が私に「お前は弁解ばかりしている」と強く語られました。ある人から自分の罪を指摘された時、私は素直に「ごめんなさい」「申し訳ございません」ということ言葉がでない。指摘されたら、自分は違うと弁解してしまう。また自分が悪いとわかっていながらも自分を正当化し、何か理由づけて弁解している。ユダはベニヤミンの身代わりとして下さい。父ヤコブのわざわいを見たくないと願っている。しかし私は違う、自分が犯した罪を指摘されたにも関わらず、自分は嘘をついてでも自分を正当化している時がないだろうか?自分は正しいと「弁解」ばっかりしている自分があると思いました。
 新約聖書のヨハネによる福音書、四章五節から二十四節にはこれも有名なサマリヤの女のことが書かれています。長い箇所ですが読んでみましょう。

『それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」・・ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。・・イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』

サマリヤの女が水を汲むところでイエス様で出会ったという記事です。サマリヤの女はこの所を見ると罪深い女性でした。夫が五人いたが、今一緒にいるのはあなたの夫ではないというほど罪深い女性でした。ある注解書では皆が水をくみに来る時間を裂け、隠れるようにして六時頃、それはユダヤの時間で一番暑くて誰もくみに来ない時間帯に水を汲みに来ました。そこで女はイエス・キリストと出会いました。この頃ユダヤとサマリヤは絶対に交わることをしませんでした。ユダヤ人はサマリヤ人が他民族との雑婚により混血民族となってしまい、偶像礼拝をするようになったと言う事で、サマリヤ人に対立し、交わる事がなかったのです。しかし、イエス・キリストはそのサマリヤの女に「わたしに水を汲んでくれ」と頼まれたのです。そして彼女に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」と言いました。彼女は「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言ったのです。しかしイエス様は全く違う話を持ち出しました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えて「私には夫はありません。」と答えました。夫が五人いたが、今一緒にいるのはあなたの夫ではないと彼女の事を言い当てたので「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」と答えました。私はここを読んでサマリヤの女がもっともらしく答えているようですが、自分は弁解していると読みとる事ができました。彼女は他の女性たちと一緒に水を汲みに来る事ができない、罪を持っているからこそ人を避けて水を汲みに来ていました。そんな中で「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」とイエス様が言われました。彼女は「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と都合のよい事を頼んだのです。彼女の求めは、ここに来なくても良いようその水を下さいと言う事でした。しかしイエス様は彼女に求めていた事、教えてあげたい事は違っていました。一番痛い私生活にイエス様はターゲットを当て「あなたの夫を呼んできなさい」と言いました。その時に自分のことを全部言い当てたのであなたは預言者だと思いますと言いましたが、決してここで女はユダヤ人とサマリヤ人の問題を話したかったのではないと思います。弁解したのです。言われた事をはぐらかしてします。一番痛いところをつかれた事に、罪をズバリ言われた時に、もっともらしい言い訳け、弁解をしています。あなたはユダヤ人なのに・・・なぜ?と。ズバッと自分の事を言われ、弁解しているのです。私もおなじでした。神様から、また人から自分の悪い所を指摘されて、必死に弁解して、「こうですよ、神様・・」また、人には「こんなことがあったので仕方がなかったではないですか。」と言ってしまいます。またある時は罪を指摘されて、逆に弁解して、向こうが悪いと言いくるめてしまうようなこともあります。今日私に神様が語って下さっているのは「弁解するな」と言う事です。弁解するだけではなく、図星で痛くてたまらないと弁解だけではなく、逆に怒ってしまいます。自分が悪いにもかかわらず、怒って相手の悪いところを攻め、自分を正当化しようとする時が多々あります。今日神様から「あなたはここが悪い」と言われた時、ぜひ覚えてください。弁解しないで神様の声を聞いてください。私たちはいつも神様から「祈りなさい」と言れます。そう言われながら私たちは弁解します。仕事が忙しくて、勉強があるから、など色々なことを私たちは弁解して祈らなくてはいけないとわかっていながら弁解しているところがあります。また、私たちに与えられている永遠の書物。聖書を読みなさいと神様が言われているにも関わらず、同じように弁解し、時間がない、忙しいなど言って弁解していませんか。また兄姉が神様にたいして熱心な所を見ると、自分も神様にもっと熱心にならなくてはと思います。しかし時間がない、能力がないと弁解してしまいます。また、今晩もゴスペルサパーがあり、厨房や会場での色々な奉仕がありますが、そこでも弁解してしまいます。疲れているとか、自分の好きな事をやっていたいとか弁解してしまいます。またもっと色々な集会に出ることを神様から語られているかも知れません。しかし、忙しい、友だちがいないからなどと色々弁解して出席をやめてしまう人がいます。また今日は特別に新しい方の伝道礼拝となっていますが、まだバプテスマを受けていない方も覚えて下さい。バプテスマを受けた方が良いと思いながらも、弁解している方はいませんでしょうか。自分が住んでいるところは田舎なので、バプテスマを受けてクリスチャンと言ったら親族や周りの人とのつき合いができなくなってしまう。など弁解してバプテスマを躊躇している人がいるかも知れません。罪が示されていながら、悔い改める事をせずに弁解している人はいませんか?また罪の清算をしなさいと言われていながら弁解して、言っていない人もいるかも知れません。盗んだものは神と人に悔い改める必要があります。人からとった物は神様は人に返しなさいと言われています。しかし恥ずかしくてできないと言って弁解してしまうかも知れません。またある人は悪魔に対して立ち向かって行きなさい。立ち向かいなさいと神様が言われているかも知れません。しかし、弁解します。そんな霊的戦いは自分にはできないとか、周りの人を見てしまい、組費とか戦って自分が立っていったら、近所付き合いができなくなるのではないかと弁解し、戦いもストップしてしまうことがあります。あの人に福音を語りなさいと言われながら、今忙しいから、今日は時間がない、疲れているからと弁解してその人に福音を伝えなかったことがあります。今日福音を伝えなくてはならない、あの人に福音を伝えなさいといつも神様から教えられながら伝道できずに自分を正当化してしまうことがあります。また、隣人を愛しなさいと言われるにも関わらず色々なことで弁解しています。自分の夫、妻を愛さなくてはならない、しかし、「お父さんが変わらないと駄目だ。」「あの人がこうだから」などと神様から教えられていながら弁解してしまうときがあると思います。また、職場で働いている人を愛さなくてはいけないとわかっていても「あの人がこうだ」とか、「あの人が変わらないと駄目だ」とか弁解してしまうことがあると思います。
ローマ人への手紙二章一節から三節に、

『ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。』

と書かれています。人のことはよく見えます。私たちはあの人が変わらなくては駄目だと人をさばきます。しかし自分のことを言われたときには素直に認める事ができずに、弁解してしまいます。ローマ二章六節には、

『神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。』

とあります。また二章十一節には、

『神にはえこひいきなどはないからです。』

と書かれています。神はあなたが行った行いに従って、報いてくださいます。自分の罪を認めずに、弁解ばかりしている時、どんな報いがあるのでしょうか?私たちはこの御言葉を厳粛に受け取るべきです。いつも弁解し、自分を正当化し続けていませんか。今日覚えてください。神にはえこひいきはありません。弁解していて、自分の罪を素直に受け取れない時、神様はあなたに祝福を下さるはずがありません。今日私たちはもう一度十字架を見上げましょう。すぐに弁解を始めてしまう私たちですから、今日神様にすべてを委ねましょう。自分にはできないからこそ、十字架に目を留めるべきです。私のために、皆さんのためにイエス様は十字架にかかってくださいました。そして葬られ、三日目によみがえってくださいました。私たちの罪のためにいのちを捨てて下さり、身代わりになって下さいました。創世記四十四章三十三節から三十四節に、

『ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」』

と書かれています。ユダはベニヤミンの身代わりを願ったのです。弁解しませんでした。私たちはへりくだって悔い改めて、弁解しないようにしようではありませんか。神の前に悔い改めて、私たちは素直に「ごめんなさい」と謝ることができるようにしたいと思います。神は真実で正しい方ですから、自分の罪を言い表したならばその罪を赦してくださると第一ヨハネの一章に書かれています。今日あなたが神の前に罪を言い表すなら、神はその罪を赦してくださいます。素直に「ごめんなさい」と弁解しないで神の言葉を聞きましょう。私たちとともに聖霊様がおられます。聖霊様は助け主です。聖霊様を歓迎し働いていただきましょう。聖霊に満たされて、弁解しないクリスチャンになりましょう。素直に神の言ったことを、そのまま受け取ることができるクリスチャンになりましょう。創世記四十四章のユダはイエス様の雛形だと言われています。今日イエスキリストを信じてください。素直に神様の前に出ましょう。弁解しないクリスチャンとなりましょう。また日本の罪を自分の罪として十字架あおいでリバイバルを求めて行きましょう。失われていく魂のために一生懸命祈り、救われるように祈っていきましょう。日本はイエス・キリストにたいして無関心かも知れません。しかし、ワールドカップを見ると希望があると思います。普段何もサッカーに興味のない人までもが日本のために応援し、テレビの視聴率八十パーセント以上、十人中八人がテレビを見ているのです。皆が一つになります。私たちが日本の救いのために祈りましょう。イエス・キリストにみんなが燃えるように、祈りましょう。イエス・キリストに変わったらなんと素晴らしいでしょうか?特に今の若い人は何を考えているのかわかりませんが、今若者たちが燃えています。それがイエス様のところに来たら素晴らしいと思います。弁解していたならば、悔い改めて祈りましょう。皆が神の声を素直に聞き始めたら、必ず祝福を下さいます。お祈りしましょう。

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